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2017年10月25日 (水)

鉄舟から影響を受けた円朝 その一 

山岡鉄舟を尊敬し、鉄舟に感化された人物は数多くいる。そのことを鉄舟邸の内弟子であった小倉鐡樹が『おれの師匠』(島津書房)で以下のように述べている。
「おれは谷中の全生庵にいって師匠の墓を参詣をする度に、言ふに言われぬ感懐にうたれる。偉大な師匠の温容を象徴するかのやうな落着いた大墓碑をとりまいて、安らかに眠ってゐる石坂・松岡・村上・千葉・圓朝・中村・棚橋・荒尾・粟津・松原・東條・依田・鈴木・桑原・三神・宮本・内田・はては車夫忠兵衛等同門の人達のさゝやかな墓碑にぬかずくと、死んでまで師匠の側を離れたがらなかった是等の人達の純情が思い出されて思わず涙にくれて仕舞ふのだ。」

「兎に角師匠の感化は偉大なもので、其の葬儀には殉死のおそれある者が幾人も出来て、四谷警察に保護を頼んだ程であると云ふから門下生としての情も決して通り一邊のものではなかった」

「鐡門より出でて国家有用の材になった者には、四天王(注、村上政忠・松岡萬・中野信成・石坂周造)をはじめ、中條金之助・北垣筆次・籠手田安定・河村善益・古荘嘉門、等がある。天田鐡眼・平沼専蔵・千葉立蔵・三遊亭圓朝、等も鐡舟によって一廉の人物たるを得た人々である」

小倉鐡樹が述べる「一廉の人物」三遊亭円朝は、天保10年(1839)生まれであるから、天保7年(1836)生まれの鉄舟より3歳年下である。

鉄舟が円朝にどのような影響を与え、それが円朝の芸と生き方にいかに投影されたか。それらを検討することで、鉄舟人間力を再確認してみたいと思う。

ところで、円朝が亡くなったのは、明治33年(1900)8月11日で享年62歳。この円朝祥月命日は、今年から「山の日」として祝日になった。

祝日制定運動の中心となって推進してきた成川隆顕さんが、祝日化までの経緯を次のように語っている(日本経済新聞2016/8/6)
「20年前の1996年に海の日ができて、むしろ遅かったのではという方もいらっしゃいます。実は61年に山の日を制定しようという機運が盛り上がったのですが、掛け声だけで反応がなく消えてしまいました」
「2009年1月号の日本山岳会会報に宮下秀樹会長(当時)が『山の日をつくろう』という原稿を書いたんです。それは日本山岳会が登山するだけの団体ではなく、広く山を考え、自然環境の保護、健康づくり、青少年教育というものを視野に入れたより幅の広い意味で山を捉えようというものです」
「我々は、山のみどりが最も美しい6月の第1日曜日(上高地で行われるウェストン祭=ウェストンは英宣教師で日本近代登山の父といわれる)がふさわしい日だとアピールしたのですが、超党派の山の日制定議員連盟は8月11日を選びました。
当初はお盆の13日につなげるために12日の案が出たのですが、御巣鷹山の日航機事故の日で、慰霊の日に当たると反対があり、前日になったわけです」

この「山の日」となった円朝祥月命日には、円朝の墓がある谷中の全生庵で、以前から圓朝座が開催されており、今年は、鈴々舎馬桜師匠が名作「牡丹燈籠」を演じられ、多くの円朝ファンを魅了した。

また、円朝が怪談噺の参考として収集し、全生庵に寄付した幽霊画コレクションも展示されている。

円朝は、歴代の落語名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされ、また、多くの落語演目を創作して、それは滑稽噺(「お笑い」の分野)より、人情噺や怪談噺など、笑いのない真面目な、いわば、講談に近い分野で独自の世界を築いている。

第103回(平成2年上半期)の芥川賞を受賞した辻原登氏が、『円朝芝居噺 夫婦幽霊』(2007年講談社)で次のように円朝を評しているので紹介したい。
Photo

「鏑木清方の傑作『三遊亭円朝像』をみるたびに、一身を百二、三十年の昔にさかのぼらせ、東京のどこか場末の寄席で、円朝の口演をきくことができるなら、この命を引きかえにしてもよいと思うほどである。
鏑木自身が、
『画く時には写真も参考にしてみたが、仕上げるに従ってそれは捨てゝ、目に残る俤(おもかげ)ばかり追求した。その俤は五十歳から五十八歳までのものである。湯呑を支える両腕が露に過ぎたのが手ぬかりだった』
と語っているが、猫背でちぢれ毛、やや上目づかいのギョロ目で、湯呑を両手で持ち上げると、両袖がスーッと落ちて、まさにこれから口演にうつろうとする一瞬をとらえている。はじまるのは『怪談牡丹燈籠』だろうか。

そのうち上野の夜の八ツの鐘がボーンと忍ヶ岡の池に響き、向ヶ岡の清水の流れる音がそよそよと聞こえ、山に当る秋風の音ばかりで、陰々寂寞(せきばく)、世間がしんとすると、いつもに変らず根津の清水の下(もと)から駒下駄の音高くカランコロンカランコロンとするから、新三郎は心のうちで、ソラ来たと小さくかたまり、額からあごへかけて膏(あぶら)汗(あせ)を流し(・・・)、そっと戸の節穴から覗いて見ると、・・・

『円朝は贅沢だ、幽霊に下駄を履かせるんだから』という講釈師伯円の感嘆の言葉が残っている。
しんとする静寂を破って、縮緬細工の牡丹の花のついた燈籠を提げた女の、カランコロン、駒下駄の冴えた音が名人の口からひびき出る。

・・・後には髪を文金の高髷(たかまげ)に結ひ上げ、秋草色染の振袖に燃えるやうな緋縮緬の長襦袢、その綺麗なこと云ふばかりもなく、綺麗なほどなお怖く、これが幽霊かと思えば、萩原はこの世からなる焦熱地獄に墜ちたる苦しみです。

あるいは『塩原多助一代記』、または『真景(しんけい)累(かさね)ヶ淵(ふち)』、それとも『怪談乳房(ちぶさ)榎(えのき)』。

今夜こそはと枕元に置きました脇差を一本差しまして、そつと蚊帳を這い出しまして、おきせの寝てゐる蚊帳のうちを覗いて見ますと、有明の行燈(あんどう)の灯(あかり)が薄くさして、真(ま)与太郎(よたろう)を抱きまして添え乳をしながら眠りましたと見えて、まつ白な、かう乳のところが見えまして(・・・)

『あらまァ、びっくりいたしましたよ、呆れかへった、あなた、なんでここへ。』
『あゝこれ、大きな声だ、静かになさい。』
(男は師匠の御新造に同衾を迫る。脇差で脅す)
『さァお斬んなさい。』
『よろしうござるか、只今まつ二つに。』
『さァ早く殺して下さい』
『よろしいか』
と刀を抜きかけても、悪びれませんから困った。」

辻原登氏が「円朝の口演をきくことができるなら、この命を引きかえにしてもよいと思うほどである」と述べているが、今では誰も円朝の声は聞けない。

円朝が逝去したのは明治33年だから、今から116年前、その翌年にイギリス・グラモフォン会社の技師が来日し、東京で宮内省の雅楽、梅若万三郎の謡曲、芳村伊十郎の長唄、常磐津などを蓄音機用として、日本ではじめての録音をした。円朝が存命であったならば、多分、その知名度から鑑み録音されたのではないかと推測する。

いずれにしても、日本で声・音が録音として記録化されたのは、今から115年前であるから、1年というわずかな差で、円朝の声や口演が今日に遺されていないのである。とても残念である。

しかし、円朝の作品は遺っている。代表的な31作品と落語・俳句を紹介する。

1. 芝居噺 菊模様皿山奇談 緑林(みどりのはやし)門松(かどのまつ)竹(たけ) 雨夜の引窓 双(ふたつ)蝶々雪の子別れ 
2. 怪談噺 真景(しんけい)累ヶ淵(かさねがふち) 怪談牡丹燈(どう)籠(ろう) 鏡ヶ池操(みさおの)松影(まつかげ) 怪談乳房(ちぶさの)榎(えのき)
3. 伝記物 後(おくれ)開(ざき)榛(はる)名(なの)梅(うめ)ヶ(が)香(か) 塩原多助一代記 月(つきに)謡(うたう)荻(おぎ)江(えの)一節(ひとふし)
4. 人情噺 文七(ぶんしち)元結(もつとい) 粟田口霑(あわたぐちしめす)笛(ふえ)竹(たけ) 業平文治漂流奇談 敵討札所の霊験(れいげん)
    霧隠(きりがくれ)伊香保(いかほの)湯煙(ゆけむり) 熱海(あたみ)土産(みやげ)温泉(いでゆの)利書(ききがき) 政談月の鏡 闇夜の梅
    松と藤芸者の替紋 操(みさお)競(くらべ)女学校(おんながっこう) 梅若七兵衛
5. 翻案物 名人くらべ 英国孝子ジョーンズスミス之伝 松(まつの)操(みさお)美人(びじん)の生埋(いきうめ) 黄薔薇(こしょうび) 名人長二 英国女王イリザベス伝
6. 北海道取材作 蝦夷(えぞ)錦(にしき)古郷家(こきょうのいえ)土産(づと) 椿説(ちんせつ)蝦夷(えぞ)なまり 福禄寿
7. 落語  鰍沢(かじかざわ) 大仏餅 黄金餅 死神(しにがみ) 心眼(しんがん) 士族の商法 にゅう 世辞屋 笑い茸(たけ)
 このように多彩である。

ところで、多くの円朝研究文献をあたったが、辻原登氏はさすがに作家だけに、円朝の作品作りの背景に特に造詣が深い。しばらく辻原氏の『円朝芝居噺 夫婦幽霊』を参照に展開したい。

円朝には、上記リスト以外に作品は存在した。だが、藤原三周が円朝から作品を預かっていたところ、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で焼失してしまった。
 藤原三周とは、円朝の長い贔屓客であり、円朝の葬儀責任者で、大根(だいこ)河岸の青物問屋三河屋主人であった。
 大根河岸とは、京橋から紺屋橋にかけての京橋川河岸は、江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ市場で、江戸住民に新鮮な野菜を提供していた。当時は川や堀があって、水運の便が良かったわけで、なぜか大根の荷揚げが多くて、いつしか「大根河岸」と呼ばれるようなり、 いなせな江戸っ子は、「ダイコン」なんて言わずに「ダイコ」河岸って言っており、河岸の近辺には青果を扱う問屋が増えてゆき、今でいう青果市場の原型となったが、昭和10(1935)年、日本橋室町あたりが発祥という「魚河岸」とともに、この年に完成した築地中央卸売市場へ移転している。
 

さて、円朝作品で焼失したのは「名人競(くらべ)の内狩野探幽伝」「名人競の内谷文晁伝」「唐沢の山桜」「妙の浦波」「英国女王イリザベス伝」であった。ただ「英国女王イリザベス伝」だけは、藤原三周の子富太郎が震災直前に雑誌「鈴の音」に挿絵入りで発表してあったため、のちの全集(春陽堂版全十三巻 昭和三年完結)に加えることができた。
 
 岡鬼太郎が「圓朝雑感」で次のように書いている。
「彼圓朝の一作を新たに案ずるや、續き話としては先づ、一興業十五日間分の筋を立て、而(そ)して毎夜の切り所を考え、興味の中心點即ち話の山を工夫し、それを練りに練って後、初めて高座に掛けるのである。作中所用の地理人情言語風俗等に就いての穿鑿(せんさく)は、彼自身の趣味としても、十分丹念に行き届かせられたのである。實地調べは旅行の道の記には、句あり歌あり、彼圓朝の文藝の嗜(たしな)みも、奥床しく窺われる。(・・・)處(ところ)で、此處(こゝ)に言ひ落せぬは、圓朝物の速記(そつき)の事である。本人の話術の味は寫し得ずとも、其の新作と云ふ興味は、文字の上にも現れるので、此の新作の速記物が、何(ど)のくらゐ彼圓朝の名を高く弘めたか分からぬ(…)日刊やまと新聞發行の初、圓朝の續き話は、速記となって、珍しくも日毎(ひごと)々々の紙上に載せられた」

 やまと新聞を創刊し、主宰したのが条野採菊。鏑木清方の父である。最初の連載が「松操美人生埋」で、これより「月謡荻江一節」「後開榛名梅ヶ香」「文七元結」とつづく。この連載によって、円朝は芸人からかぎりなく小説家へと近づいていく。

 まだ「春のやおぼろ」と称していた坪内逍遥は、『怪談牡丹燈籠』の序を書いた。
 「およそありの儘に思ふ情(こゝろ)を言(いひ)顕(あら)はし得(う)る者は知らず々いと巧妙なる文をものして自然に美辭の法(のり)に稱(かな)ふと土班釵(すぺんさあ)の翁(おきな)はいひけり眞(まこと)なるかな此(この)言葉(ことば)や此(この)ごろ詼談師(くわいだんし)三遊亭の叟(おじ)が口演(くえん)せる牡丹燈籠となん呼做(よびな)したる假作譚(つくりものがたり)を速記(そつき)といふ法(はふ)を用ひてそのまゝに謄寫(うつ)しとりて草紙(さうし)となしたるを見(み)侍(はべる)るに通篇(つうへん)俚言(りげん)俗語の話(ことば)のみを用ひてさまで華(はな)あるとも覺えぬものから句ごとに文(ぶん)ごとにうたゝ活動する趣(おもむき)ありて宛(さな)然(がら)まのあたり萩原(はぎわら)某(それ)に面合(おもてあ)はするが如く阿(お)露(つゆ)の乙女に逢(あひ)見(み)る心地す(・・・)考ふれば單(ひとへ)に叟(おじ)の述(のぶ)る所の深く人情の髄(ずゐ)を穿(うが)ちてよく情合(じょうあひ)を寫(うつ)せばなるべくただゝ人情の皮相を寫して死したるが如き文をものして婦女童幼に媚(こび)むとする世の淺劣(せんれつ)なる操觚者流(そうこしゃりゅう)は此燈籠の文を讀(よみ)て圓朝叟(おじ)に耻(はぢ)ざらめやは(・・・)」

 逍遥は、二葉亭四迷が『浮雲』の文章で行きづまっているとき、円朝を読めとアドバイスしているし、その二葉亭と雁行した山田美妙は円朝本の文体を模倣して、近代の物語文章を創設し、紅葉に先行した。

 明治の作家、夏目漱石は『明暗』を書き、鴎外は『澀江抽齋』を、二葉亭四迷は『浮雲』を、尾崎紅葉は『金色夜叉』を書き、本になり、読まれた、というのは正しい。

しかし、円朝はこれらの作家とは異なる作品作りをする。
 円朝はまず物語の構想をたて、筋を考え、必要とあれば取材旅行に出かける。明治28年(1895)の秋には、まだ18歳だった鏑木清方が誘われて野州へ同行している。鏑木清方が円朝像を画くのはそれから30数年後である。

 『牡丹燈籠』の自筆の覚書が残っている。円朝はまずある場面を、ある筋立を、季節や人物の性格などを頭の中でつくる。それからメモを取る。メモを取りながらつくることもある。考案とメモを繰り返しつつ、語りの中の説明と描写、会話などが頭と紙の上で形を取っていく。覚書が完成する。それを読み、暗記し、声に出しながら増殖させてゆく。しおどきとみると、高座に掛ける。客の反応をたしかめながら修正を加えてゆく。こうしてまず声で練りあげられ、完成していった噺・物語を、ある日と決めて、速記者が楽屋に控えて速記符号に写し取る。

 最初の速記本『怪談牡丹燈籠』はこうして明治17年(1884)の夏に出版された。
 「怪談牡丹燈籠 〇同書は有名なる落語家三遊亭円朝が演述せし怪談を若林玵蔵(かんぞう)氏が例の傍(かん)聴筆記法にて書取り、円朝の口気を其侭(そのまま)に写出したるものにて、其第一編(一編の定価七銭五厘)を京橋区南伝馬町三丁目東京稗史出版社より発売し、尚引続き、土曜日毎に一編を発売し、十三編に至て局を結ぶと云ふ」(時事新報 明治十七年七月二十九日付)

円朝の口演を聞けない人達は、これを読むことになった。

この円朝について、「幕末から明治時代に活躍した落語家」と認識している人が多いが、それは事実であるが、円朝の実態を正確につかんでいないとも言える。

次号以降、円朝の実相を解き明かしていきたい。

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