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2017年10月19日 (木)

名刀「武蔵正宗」拝観と『正宗鍛刀記』の原本発見

鉄舟が江戸無血開城の功績として、徳川宗家16代の徳川家(いえ)達(さと)から賜った太刀「武蔵正宗」が、「刀剣博物館」における「開館50年にわたる寄贈名品展」(平成29年1月5日~3月31日)にて展示された。

「刀剣博物館」は、今回の名品展の趣旨を以下のように述べる。

「日本刀は古来武器という性質以外に信仰の対象や権威の象徴としての側面をもち、また美術品として鑑賞の的にもなっていました。廃刀令後本来の日本刀の役割を終え、更に第二次世界大戦後、日本刀は武器と見なされ駐留軍による没収の対象となり壊滅の危機に瀕しました。しかしながら本間順治、佐藤貫一氏等の活動により戦後の混乱を脱し、両氏を中心として昭和23年に美術工芸品としての日本刀の保存・鑑賞・研究・伝統継承のため日本美術刀剣保存協会が設立され、昭和43年には付属施設として刀剣博物館が設置されました。

この度、刀剣博物館は墨田区に移転することとなりました。ここ代々木の地に開館して約50年、この地で最後に開催する展覧会として、当館が所蔵する国宝や重要文化財等の名品を一挙に公開いたします。これらは当協会や刀剣界を支えてくださった多くの方々の恩寵により当館に寄贈され、当館の活動の基盤となって日本刀の保存・継承・普及に大きく寄与した作品群です。この展覧会ではご寄贈者とともに名品を振り返り、その懇志に厚く感謝申し上げるとともに、刀剣博物館の更なる飛躍を祈念して開催いたします」と。
2月18日、刀剣博物館を訪問、展示場の中央辺りに置かれた「武蔵正宗」を拝観した。贔屓目なのかもしれないが、展示23刀の中でも、一段と光彩を放っていた。
Photo
  「武蔵正宗」刀剣博物館(公益財団法人日本美術刀剣保存協会)提供

「武蔵正宗」の寄贈者は藤澤乙安氏で、重要美術品「無銘 伝正宗(名物 武蔵正宗)鎌倉時代末期、70.6cm」とあり、(附)鶴(つる)足(あし)革(かわ)包(づつみ)三葉(さんよう)葵(あおい)紋散(もんちらし)鞘殿中鐺(さやでんちゅうこじり)打刀拵(うちがたなこしらえ)も展示されている。

ところで、展示会場に入って外国人が多いことに驚く。来場者の約半数は外国人という実態に、世界的な日本刀ブームであると再認識する。
さて、折角の拝観であるから「武蔵正宗」について詳しく伺おうとしたが、訪問した2月18日は土曜日で事務所は休み。そこで20日(月)に再度訪ね、学芸部調査課の石井彰課長から説明をいただいた。

石井課長が持参されたのは『刀剣美術』(財団法人日本美術刀剣保存協会 平成23年10月号)である。ここに同館の檜山正則氏が「武蔵正宗」について解説されている。

表紙をめくって一ページ目、その一カ所に目が釘付けとなった。何と『正宗鍛刀記』(一巻)とあるではないか!!

長らく行方不明で、山岡鉄舟研究者が探し求めていた『正宗鍛刀記』原本が、この刀剣博物館に存在するのか!!

Img_20170425_0001

期待をふくらませて、檜山正則氏の解説を以下引用する。

≪本作は「享保名物帳」に所載されている「武蔵正宗」である。作風は地刃の出来口や沸・匂の織り成すさまざまな働きなどは、相州正宗の気分を呈しているが、幅広でこれほど鋒の延びた体配のものは稀有であるため、同工極めの妥当性について、さらに向後に検討の余地を残している。
名称の由来については、宮本武蔵の所蔵刀であった故とも、また紀州徳川家(本阿弥光瑳名物記に「紀伊中納言殿御道具之内に有」などの記載がある)の家中にあったものを将軍家が江戸(武蔵国)にて召上げた故名づけたなど、他にも諸説がある。その後の経緯について、新資料から修正が必要なためここに掲載することになった。

『正宗鍛刀記』であるが、国立国会図書館憲政資料室・宮内庁書陵部・国立公文書館内閣文庫などに写本が残っていたが、「山岡鉄舟関係学術論文集」(筆者注Anshinアンシン  Anatoliyアナトーリー 著)等によれば、原本は今まで行方不明であった。しかし、このたび調査した結果、まさしくこれが原本であることがわかり大発見となった。さらに当時の二通の書簡から、本刀にまつわる事情が垣間見られる。

まず書簡の内容を簡略すれば、正宗を進呈された岩倉具視が香川敬三(水戸藩出身で岩倉具視と親密となり、後に宮内官僚として要職を歴任した人物)に依頼して本阿弥長職に調査鑑定させた審定書(明治十六年一月三日付)と、同日その内容を香川が岩倉公へ報告した手紙が付帯している。
その手紙によると、岩倉公は贈られた刀剣に対して慎重な取り扱いをしていたことがわかるものである。公は山岡鉄舟がいかに心操高潔な鉄舟に感じ入り、会談の内容を口述し、漢学者の川田剛が漢文で記して、明治の三筆(日下部鳴鶴、長三州、後に中林梧竹)の一人である巌谷修が六朝楷書でしたためた。

以前、この正宗は徳川慶喜から山岡鉄舟に贈られたとされているがこれは間違いで、史実は徳川家達が明治十年から十五年にイギリス留学をし、その帰国後(江戸無血開城14年後)に、鉄舟が行った功績(駿府に於いて西郷隆盛との会談時に慶喜の恭順の実情や江戸城の平和的明け渡しを可能にした役割)に対して贈るのであるが、山岡は「かかる銘付を保持するのは勿体ないことである。自分のしたことは君家に対する家臣としての当然の務めで、少しも感謝されるほどのものではない。これは誰か廟堂の元勲に差し上げるのが至当である」(小倉鉄樹記「山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠」)と速やかに岩倉具視に贈呈し以後同家に伝来したものであり、これは日本の近代史に隠された歴史資料でもある≫

 このように檜山正則氏が『刀剣美術』に書かれ、同館に保存されている『正宗鍛刀記』原本の一部を掲載されている。
 

Photo_2   
以上の通り、檜山正則氏は『正宗鍛刀記』原本発見を、平成23年10月号の『刀剣美術』誌上で明確に述べられたが、残念ながら山岡鉄舟研究関連者に、この発見事実が伝わっていない。
推察するに『刀剣美術』の読者は、刀剣の歴史的由来よりも工芸品・美術品としての側面により大きな関心を持っているが、鉄舟に関してはあまり興味を持たない層と推測でき、折角の檜山氏発見が世に広く伝わらなかったのだと思う。
そこで、改めて3月30日に『正宗鍛刀記』原本を確認したく、刀剣博物館を訪問、以下の写真の通り原本を確認したので、この事実を山岡鉄舟研究会ホームページで伝えるものである。
10_2
なお、鉄舟は自己PRを一切しなかった人物で、自らの功績を遺す史料は鉄舟直筆の『慶應戊辰三月駿府大總督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記』と、この『正宗鍛刀記』の二つしかなく、今回、確認でき大変喜んでいるところであるが、ここでもう少し『正宗鍛刀記』の誕生経緯について補足したい。(参照『おれの師匠』小倉鉄樹著 島津書房)

≪明治14年(1881)、明治政府は維新の功績調査を行って、関係者を召還または口述や筆記を徴(ちょう)した。
鉄舟は「別に取り立ていう程はない」と賞勲局の呼び出しに応じなかったが、何度も呼び出しがあるので出頭すると「先刻、勝さんが来て斯様なものを出されましたが・・・」と鉄舟に見せた。
それを見ると「勝が西郷との談判を行ったと書いてあり、鉄舟の名はない」ので「変だと思ったが、嘘だと言うと勝の顔を潰すことになる。勝に花を持たせてやれ」と「この通りだ」と海舟の功績を肯定した。

賞勲局員も無血開城の経緯を知っているので鉄舟に反問した。
「それであなたの功績はどうしたのですか」
「おれか。君主に臣民が為すべきことを為したまでで手柄顔は出来ないさ」
賞勲局員は困って、賞勲局総裁の三条実美公に報告したところ、三条は岩倉具視公に連絡、岩倉公も「それは変だ」と鉄舟を呼び出し尋ねた。

鉄舟も岩倉公の前では嘘も言えず「実は、勝からあのような書類が出ていたので、勝の面目のため自分は手を退いた」と答えた。
岩倉公は鉄舟の人格高潔さに感服しつつも、正しい史実を遺すべく、鉄舟から当時の談判事実を詳しく聞き取って、漢学者の川田剛に漢文で書かせ、明治の三筆の一人である巌谷修が六朝楷書でしたためた≫

実は、この『おれの師匠』記述の背景には、今日まで「江戸無血開城」に関する誤った通説が存在しているので、そのことを説明したい。
それは「江戸無血開城」が、西郷隆盛と勝海舟の薩摩屋敷における「江戸会談」で成立したという説である。

確かに慶應4年3月13日と14日に西郷と勝との「江戸会談」は開かれた。だが、この会談前の3月9日、鉄舟は徳川慶喜から直接命を受け、駿府の西郷のところに赴き談判し、慶喜の命と徳川家の安泰を西郷に約束させ、実質的に江戸無血開城を決めている。その証明史料が鉄舟直筆の『慶應戊辰三月駿府大總督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記』である。

『談判筆記』には、西郷からは以下の五箇条の条件が出されたと記されている。
1. 城を明け渡すこと
2. 城中の人数を向島へ移すこと
3. 兵器を渡すこと
4. 軍艦を渡すこと
5. 徳川慶喜を備前に預けること

鉄舟は1条から4条は受け入れるが、断じて5条の「徳川慶喜を備前に預けること」については受け入れなかった。以下のように強く反論した。
「主人慶喜を独り備前へ預る事、決して相成らざる事なり。如何となれば、此場に至り徳川恩顧の家士決して承伏不致なり。詰る所兵端を開き、空く数万の生命を絶つ。是、王師のなす所にあらず。果して然らば先生は只の人殺しなる可し。故に拙者、此条に於ては決して不肯なり。
西郷氏曰く、朝命なり、と。
たとひ朝命なりと雖も拙者に於て承伏せざるなり、と断言す。
西郷氏又強いて、朝命なり、と云ふ。

然らば先生と余と其位置を易へて暫く之を論ぜん。先生の主人島津公、若し誤りて朝敵の汚名を受け官軍征討の日に当り、其君恭順謹慎の時に及んで、先生余が任に居り、主家の為尽力するに当り、主人慶喜の如き御処置の朝命あらば、先生其命を奉戴し、速に其君を差出し、安閑として傍観する事、君臣の情、先生の義に於て如何ぞや。此義に於ては鉄太郎決して忍ぶ事能はざる所なり、と激論せり。
西郷氏黙然、暫ありて云く、先生の説、最然り。然らば徳川慶喜殿の事に於ては吉之助屹と引受取計ふ可し、先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」

この談判における鉄舟の決死の気合と論説の鋭さ、それは、後年、真の武士道体現者と謳われた鉄舟ならではの働きであり、ここに江戸無血開城が事実上決まり、これによって明治維新大業への一歩が示されたのであり、鉄舟の個としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

同じく『正宗鍛刀記』も、鉄舟の駿府における西郷との談判功績を岩倉具視が認めているからこそ、その証明として川田剛に漢文とさせ、巌谷修が書にしたためたのである。

次に、『正宗鍛刀記』が岩倉家から藤澤乙安氏蔵となった事情を説明する。それを記した資料として以下の二つがある。

≪大正三年岩倉家の売立に出たが、千百九十の札しか入らなかったので、競売を見合わせた。あとで親族が三千五百円で引き受けた。しかし、昭和十二年八月二十八日付で、重要美術品に認定された時も、名義は岩倉具栄公爵となっていた。戦後、岩倉家を出て藤澤乙安氏蔵となっている≫(参照『皇室・将軍家・大名家刀剣目録』雄山閣)

二つ目の資料は、藤澤乙安氏の子である藤澤玄雄氏が『日本の美術4 NO431 日本刀藤澤乙安コレクション』で語っている。要点のみ記してみる。

≪父、藤澤乙安は明治43年元旦に信州・藤澤村で9人兄弟(姉妹)の末子として生まれた。藤澤村は合併されて長野県の高遠町となった。生家は破産し故郷を出奔し、松本市に出て事業を営み、東京に出るまでに拡大し、財力を蓄えた。
刀剣の収集のきっかけが何であったか私は知る由もないが、父の兄、姉たちもそれぞれ美術品、特に絵画には並々ならぬ関心を持っていたから、父もその血を引いているのだと思う。
それらの過程で知り合った本阿彌光遜(ほんあみこうそん)氏の勧めで日本刀の収集が始まったようである。本阿彌氏は父の言によれば当時、日本一の鑑定家であったそうであるが、父の荻窪の屋敷(明治天皇荻窪御小休所)へ住み込ませた同氏に鑑定をさせながら気に入ったものはどんどん買い入れるという状態であったようだ。
「手放すなよ」と言われた収集品ではあるが、父が亡くなってみると苛酷としか言いようのない日本の相続税制のもとではこれらを藤澤乙安コレクションとして手許に残すことは全く不可能と判断し、財団法人日本美術保存協会(刀剣博物館)へ寄贈するということになった≫

最後に、宮本武蔵と言えば吉川英治で、同氏著書『随筆 宮本武蔵』(講談社)の「佩刀考『武蔵正宗』と彼の佩刀」を紹介したい。

≪大分以前に開かれた文部省の重要美術審査会で、新たに重要美術品に指定された物のうちに、岩倉具栄氏所蔵の「武蔵正宗」という名刀が挙げられている。
宮本武蔵が愛用した刀だというので、古来から武蔵正宗と呼ばれて来たものだそうである。勿論、相州物で、刀身二尺四寸、幅九分一厘、肉二分というから、実物は見ないが、なかなか業物らしい。
この刀の伝来の説に依ると、享保年間、徳川吉宗が将軍家の勢力をもって、諸国から銘刀を蒐めさせたことがあるが、その時、鑑刀家の本阿弥に命じて選ばせた逸品の中、第一に位する絶品が、この「武蔵正宗」であったという。
享保銘物帳にも記載されているということであるから、さだめしこの名刀は、吉宗の手にも愛されて、幕府の御刀蔵に伝わって来たものであろうが、それが岩倉家に移ったのは、維新の頃か明治になってかに後か、新聞の記事で知ってふとそんなことを考えてみたりした≫

これを読むと吉川英治は『正宗鍛刀記』の経緯を知らなかったことがわかる。もし吉川英治が関心を持ったとすれば、鉄舟についても一筆著したのではないかと想像しているところである。

いずれにしても、『正宗鍛刀記』を発見され『刀剣美術』に書かれた檜山正則氏に感謝申し上げたい。
            
                              以上

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