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2017年10月

2017年10月25日 (水)

2017年11月例会開催

 11月15日(水)開催は、山本紀久雄が「鉄舟から学んだ円朝」について発表
いたします。

   開催日   2017年11月15日(水)
   発表者   山本紀久雄
   テーマ   「鉄舟から学んだ円朝」
   時間    18時30分~20時
   会費    1500円
   会場    東京文化会館・中会議室1

鉄舟は当初、大変な円朝嫌いであった。『圓朝遺聞』(鈴木古鶴著)に≪山岡鉄舟は、初め円朝と聞いても胸が悪くなると云ふ程な円朝嫌ひであった≫という。ところが≪一度円朝を見るに及んで、これ凡物に非ずと嗟嘆(さたん)し≫とある。
『おれの師匠』(小倉鉄樹著)によると≪鉄舟は門下人に「座禅しろ」とは勧めなかったという。剣も同様で、決して無理やりに出なく、本人任せであった≫ともいう。だが、気根のある人物と見込むと手厳しく指導したが、その最適例が「桃太郎」で鍛えた円朝であって、これが円朝を「大師匠(おおししょう)」と称される名人に迫り上げた一大要因である。

では、鉄舟は円朝に何を見たのであろうか。また、円朝は鉄舟の教えをどのように落語家としての生き方に反映させたのであろうか。

ところで、NHK朝ドラ「わろてんか」は、吉本興業の創設者・吉本せいさんをモデルに描かれて展開していくが、この中で女義太夫リリコを広瀬アリスが演じ、まだ筋書きが先になるが、リリコは東京に出て、娘義太夫で一躍人気を博しスターとなるストーリーらしい。 

これは当時の状況をとてもよく表現している。この時代のメデイアは、浄瑠璃・歌舞伎・落語であり、民衆にとって最もポピュラーな娯楽であって、これに時代に応じた新たな趣向や新機軸を取り入れ、観客にうける作品を提供していくのが人気者になったわけで、その代表的人物が円朝である。

現在、テレビなどマス・メディアや、インターネットのWEBサイトに、現在のわたしたちの社会が投影されているように、これらのメディアには当時に生きた人びとの集合心性が表象されている。
鉄舟と円朝の関係を語ることで当時の時代も分析してみたい。

Ⅲ.2017年12月例会
12月20日(水)は、東洋大学・岩下哲典教授から、12月発刊予定著書の
『江戸無血開城の真実』についてご講演いただきます。

2017年10月例会開催結果

10月例会は、松島茂氏から「山岡鉄舟の生誕地について」、蓮沼裕二氏から「英霊七士の遺骨と墓地」をご発表いただきました。

● 松島茂氏「山岡鉄舟の生誕地について」

1. 『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』に、「師匠の生まれたのは天保七年六月十日、本所大川端四軒屋敷の官邸である。」と書かれているが、これを各史料に基づき検討してみる。

2. 鉄舟の父は小野朝右衛門高福、600石取りの旗本である。

3. 朝右衛門高福は、初代小野朝右衛門高光から七代目。初代高光は『新訂寛政重修諸家譜』(第10巻P114)によると≪慶長7年(1602)召されて秀忠に奉仕し大番をつとむ。16歳の時西城下馬地で人を討つ者があり、追って刃を交えて討留め、その際疵をおった。大阪の陣(冬)では伏見城の守護にあたり、元和元年の役では柵に入り首一級を得る。これにより、甲斐国に釆地300石を賜う。後、武蔵国榛澤男衾両郡の内において300石を賜う。御弓頭を務め、寛文3年には同人を加えられ30人を支配、御槍奉行となり、86歳で没。墓は赤坂松泉寺≫とある。

4. 朝右衛門高福は、寛政2年(1790)4月2日17歳で遺跡を継ぐ。600石。

5. 鉄舟(小野鉄太郎)が生れた天保7年の武鑑を『江戸幕府役職武鑑編年集成』(東洋書林1998年)によって本所御蔵奉行を見ると、大成武鑑(出雲寺版)では「両国向御蔵屋敷」、天保武鑑(須原屋版)では「表二番丁」とある。『武鑑』とは民間で作成された、大名・幕臣の役職・屋敷・石高を一覧するための参考資料であり、大成武鑑(出雲寺版)は毎月改と巻末にあるから、先に『武鑑』に反映できたと推察する。

6. 因みに、天保武鑑(須原屋版)に記載された「表二番丁」を『江戸城下変遷絵図集(御府内沿革図書)』(4巻 原書房P139)の、文化5年(1808)絵図を見ると、裏六番町と表二番町、麹町七丁目横丁通と善国寺通に挟まれた地区に小野長右衛門と表示されている。これを朝右衛門の記述ミスと推定し、天保9年(1838)の絵図を見ると、大熊善太郎の名になっており、朝右衛門が「本所御蔵屋敷」へ移転後に、大熊善太郎へ屋敷替えがあったと推察する。

7. 大成武鑑(出雲寺版)では、天保7年の「両国向御蔵屋敷」が、天保10年から14年までは「本所御蔵屋敷」と書かれているが、天保15年には「両国向御蔵屋敷」となっており、両国向とは両国の向うという意味で本所を指すので、同じ屋敷と推定する。

8. 本所御蔵を『本所御米蔵絵図』(東北大学付属図書館蔵)と、絵図『府内場末沿革図書:十五上乾』(天保4年(1833)の形 東京都公文書館蔵)で見てみると、隅田川(大川)からの入堀に御蔵橋が架かり、門は大川に面した表門の他、東に1つ、南に2つ(後1つ)、御蔵奉行屋敷は表門を過ぎて御蔵橋を渡って右に入る道沿いの角と向かい側に示されている。

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9. では、「本所御蔵屋敷」に奉行は何名いたのであろうか。年代によって異なる。御蔵奉行役屋敷は当初から浅草御蔵に2カ所、本所御蔵に5カ所あった。
 (参考:『東京都墨田区本所御蔵跡・陸軍被服廠跡』墨田区横網一丁目埋蔵文化財調査会・2002年)
寛保2年(1742)武鑑に5名「中根・久保田・亀井・竹内・玉井」が記されていて、『隅田川以東図』寛延2年(1749)〜宝暦元年(1751)頃:幕撰に、松平伯耆守屋敷と隣接して中根の御蔵奉行御役屋敷がある。
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この中根については、『寛政譜以降旗本家百科事典』(東洋書林)に中根九郎兵衛(大番)牛込御門外御掘端514坪とあり、『新訂寛政重修諸家譜』(9巻P255)を見ると、二代目正輝の時550石を知行。中根正孝(九郎兵衛)享保10年(1725)に大番に列し、寛保2年より御蔵奉行を勤めたとある。
本所御蔵創設期の『武鑑』享保19年(1734)に4名「山本源兵衛・伴・大久保・鈴木」の記載があるが、『江戸大割絵図:御船蔵ヨリ小梅村辺』天明2(1782)〜5年頃の絵図(江戸東京博物館所蔵)にはもうひとり右野太郎兵衛が記載されており5名になる。また、同絵図に松平伯耆守屋敷と隣接して山本の御蔵奉行御役屋敷がある。山本源兵衛は御蔵奉行組頭(この役職名は元文年間までで寛保からは御藏奉行のみとなる)であった。

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10.  なお、『天保改正御江戸大絵図』天保14年(1843)再版に、「クボタ・カメイ・竹内・玉井」と4御蔵奉行名があり(これは幕撰といわれる古い『隅田川以東図』を改めずにそのまま御蔵奉行名を写したためと思われる)、『分間江戸大絵図完』安政6年(1859)版に「御蔵奉行 四ケンヤシキト云」と表記されているので、4名と考えられるが、前述したように5名であるから、本所御蔵屋敷は5箇所あり、一カ所だけ別で、他の4軒は並んであったので、俗に四軒屋敷と俗にいわれた由縁ではないかと推定する。

11. 結論
鉄舟が誕生した屋敷は御蔵橋を渡って御蔵の入堀に沿って右に入る道の曲がり角、松平伯耆守屋敷と隣接する御蔵奉行御役屋敷(現:墨田区横網1—12の東南の角の辺り)が御蔵奉行であった小野朝右衛門の役宅であったと考える。よって、鉄舟誕生の地をこの本所御蔵の役宅とする。

「武鑑」記載の表二番町の拝領屋敷は鉄舟誕生の年まであったであろうことを示すものの、天保3年(1834)には御蔵奉行として御蔵奉行御役屋敷にあったとみてよい。小野朝右衛門が御蔵奉行に名を連ねる前年に、本所御蔵屋敷と名のあるのは5名であるが、御蔵奉行に名の出る天保3年には、本所御蔵屋敷が4名になっており、御蔵奉行拝命と同時に御蔵屋敷に入ったと考える。

以下、伯耆守下屋敷側の役宅とする理由

(1) 「武鑑」で本所御蔵屋敷と記述されるのが通例であるが、小野朝右衛門に限って、他の御藏奉行にはない両国向御蔵屋敷が用いられている。

(2) 他の本所蔵屋敷の役宅の御蔵奉行は200俵以下の軽輩であるが、小野朝右衛門は600石の大番筋であり、中根九郎兵衛(大番筋で550石)の役宅と同じ場所に役宅を持ち、責任も重かったと考える。

(3)中根と同じ役宅に名のあるもう1人は、創建期の御蔵奉行山本源兵衛は200 石であるが、御蔵奉行組頭であることから、別の一軒になったと考える。
 
以上のように、松島氏によって、多くの史料・資料・絵図に基づく分析と検討
がなされた結果、鉄舟生家が確認されたこと、鉄舟研究分野で重要な業績であり、深く感謝いたし、厚くお礼申し上げます。

● 蓮沼裕二氏「英霊七士の遺骨と墓地」

英霊七士とは、いわゆる「A級戦犯」として極東国際軍事裁判(東京裁判)にて、1948年(昭和23年)12月23日に、巣鴨プリズンで絞首刑になった次の7名の方である。

土肥原 賢 二 (軍人 奉天特務機関長)
松 井 石 根 (軍人 中支那方面軍司令官)
東 条 英 機 (首相 第40代 内閣総理大臣 陸軍航空総監)
武 藤  章  (軍人 陸軍省軍務局長)
板 垣 征四郎 (軍人 関東軍参謀長 陸軍大臣)
広 田 弘 毅 (首相 第32代 内閣総理大臣)
木 村 兵太郎 (軍人 ビルマ方面軍司令官)

 絞首刑後、横浜市の久保山火葬場にて、米軍が監視する中で火葬され、7名の遺骨は、東京湾に投棄したとされている。
しかし、この遺骨を回収しようと考えていた小磯国昭の弁護人三文字正平は、面識のあった興禅寺住職の市川伊雄氏に相談し、火葬場長の飛田善美氏に依頼。飛田氏が、7名の遺骨の一部を確保したが、香を焚いた為、米軍に見つかり、粉々に砕かれ、火葬場内の残骨灰捨場に投棄された、翌日の深夜、三文字氏と市川住職は、火葬場に忍び込み、飛田火葬場長と、密かに骨壺一杯分を集め、戦死した三文字氏の甥の遺骨とし、興善寺に一時預けた。

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翌年の1949年(昭和24年)5月3日、熱海市にある、松井石根大将ゆかりの「興亜観音」に持ち込んだ。興亜観音は、1937年(昭和12年)7月に勃発した支那事変における上海派遣軍司令官だった、松井石根陸軍大将が、退役後の1940年(昭和15年)、日支両軍の戦没将兵を「怨親平等」に祀るため、私財を投じてこの地に聖観音を建立した。観音像は松井大将が転戦した戦場の土と、日本の土を、材料として作られている。

幾星霜を重ねた後、遺族の同意のもとに財界その他 各方面の有志の賛同を得て、1960年(昭和35年)8月16日、松井大将の興亜観音より、英霊七士の遺骨を、香盒一つを分骨し、日本の中心地 三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立された墓碑に安置された。当日、静かに関係者と遺族が列席し墓前祭が行われた。
以来、毎年4月29日の天皇誕生日(現在は、昭和の日)の良き日に、例大祭を行っている。

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 蓮沼氏の現地訪問に基づく調査、新鮮なご発表に感謝申し上げます。

鉄舟から影響を受けた円朝 その一 

山岡鉄舟を尊敬し、鉄舟に感化された人物は数多くいる。そのことを鉄舟邸の内弟子であった小倉鐡樹が『おれの師匠』(島津書房)で以下のように述べている。
「おれは谷中の全生庵にいって師匠の墓を参詣をする度に、言ふに言われぬ感懐にうたれる。偉大な師匠の温容を象徴するかのやうな落着いた大墓碑をとりまいて、安らかに眠ってゐる石坂・松岡・村上・千葉・圓朝・中村・棚橋・荒尾・粟津・松原・東條・依田・鈴木・桑原・三神・宮本・内田・はては車夫忠兵衛等同門の人達のさゝやかな墓碑にぬかずくと、死んでまで師匠の側を離れたがらなかった是等の人達の純情が思い出されて思わず涙にくれて仕舞ふのだ。」

「兎に角師匠の感化は偉大なもので、其の葬儀には殉死のおそれある者が幾人も出来て、四谷警察に保護を頼んだ程であると云ふから門下生としての情も決して通り一邊のものではなかった」

「鐡門より出でて国家有用の材になった者には、四天王(注、村上政忠・松岡萬・中野信成・石坂周造)をはじめ、中條金之助・北垣筆次・籠手田安定・河村善益・古荘嘉門、等がある。天田鐡眼・平沼専蔵・千葉立蔵・三遊亭圓朝、等も鐡舟によって一廉の人物たるを得た人々である」

小倉鐡樹が述べる「一廉の人物」三遊亭円朝は、天保10年(1839)生まれであるから、天保7年(1836)生まれの鉄舟より3歳年下である。

鉄舟が円朝にどのような影響を与え、それが円朝の芸と生き方にいかに投影されたか。それらを検討することで、鉄舟人間力を再確認してみたいと思う。

ところで、円朝が亡くなったのは、明治33年(1900)8月11日で享年62歳。この円朝祥月命日は、今年から「山の日」として祝日になった。

祝日制定運動の中心となって推進してきた成川隆顕さんが、祝日化までの経緯を次のように語っている(日本経済新聞2016/8/6)
「20年前の1996年に海の日ができて、むしろ遅かったのではという方もいらっしゃいます。実は61年に山の日を制定しようという機運が盛り上がったのですが、掛け声だけで反応がなく消えてしまいました」
「2009年1月号の日本山岳会会報に宮下秀樹会長(当時)が『山の日をつくろう』という原稿を書いたんです。それは日本山岳会が登山するだけの団体ではなく、広く山を考え、自然環境の保護、健康づくり、青少年教育というものを視野に入れたより幅の広い意味で山を捉えようというものです」
「我々は、山のみどりが最も美しい6月の第1日曜日(上高地で行われるウェストン祭=ウェストンは英宣教師で日本近代登山の父といわれる)がふさわしい日だとアピールしたのですが、超党派の山の日制定議員連盟は8月11日を選びました。
当初はお盆の13日につなげるために12日の案が出たのですが、御巣鷹山の日航機事故の日で、慰霊の日に当たると反対があり、前日になったわけです」

この「山の日」となった円朝祥月命日には、円朝の墓がある谷中の全生庵で、以前から圓朝座が開催されており、今年は、鈴々舎馬桜師匠が名作「牡丹燈籠」を演じられ、多くの円朝ファンを魅了した。

また、円朝が怪談噺の参考として収集し、全生庵に寄付した幽霊画コレクションも展示されている。

円朝は、歴代の落語名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされ、また、多くの落語演目を創作して、それは滑稽噺(「お笑い」の分野)より、人情噺や怪談噺など、笑いのない真面目な、いわば、講談に近い分野で独自の世界を築いている。

第103回(平成2年上半期)の芥川賞を受賞した辻原登氏が、『円朝芝居噺 夫婦幽霊』(2007年講談社)で次のように円朝を評しているので紹介したい。
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「鏑木清方の傑作『三遊亭円朝像』をみるたびに、一身を百二、三十年の昔にさかのぼらせ、東京のどこか場末の寄席で、円朝の口演をきくことができるなら、この命を引きかえにしてもよいと思うほどである。
鏑木自身が、
『画く時には写真も参考にしてみたが、仕上げるに従ってそれは捨てゝ、目に残る俤(おもかげ)ばかり追求した。その俤は五十歳から五十八歳までのものである。湯呑を支える両腕が露に過ぎたのが手ぬかりだった』
と語っているが、猫背でちぢれ毛、やや上目づかいのギョロ目で、湯呑を両手で持ち上げると、両袖がスーッと落ちて、まさにこれから口演にうつろうとする一瞬をとらえている。はじまるのは『怪談牡丹燈籠』だろうか。

そのうち上野の夜の八ツの鐘がボーンと忍ヶ岡の池に響き、向ヶ岡の清水の流れる音がそよそよと聞こえ、山に当る秋風の音ばかりで、陰々寂寞(せきばく)、世間がしんとすると、いつもに変らず根津の清水の下(もと)から駒下駄の音高くカランコロンカランコロンとするから、新三郎は心のうちで、ソラ来たと小さくかたまり、額からあごへかけて膏(あぶら)汗(あせ)を流し(・・・)、そっと戸の節穴から覗いて見ると、・・・

『円朝は贅沢だ、幽霊に下駄を履かせるんだから』という講釈師伯円の感嘆の言葉が残っている。
しんとする静寂を破って、縮緬細工の牡丹の花のついた燈籠を提げた女の、カランコロン、駒下駄の冴えた音が名人の口からひびき出る。

・・・後には髪を文金の高髷(たかまげ)に結ひ上げ、秋草色染の振袖に燃えるやうな緋縮緬の長襦袢、その綺麗なこと云ふばかりもなく、綺麗なほどなお怖く、これが幽霊かと思えば、萩原はこの世からなる焦熱地獄に墜ちたる苦しみです。

あるいは『塩原多助一代記』、または『真景(しんけい)累(かさね)ヶ淵(ふち)』、それとも『怪談乳房(ちぶさ)榎(えのき)』。

今夜こそはと枕元に置きました脇差を一本差しまして、そつと蚊帳を這い出しまして、おきせの寝てゐる蚊帳のうちを覗いて見ますと、有明の行燈(あんどう)の灯(あかり)が薄くさして、真(ま)与太郎(よたろう)を抱きまして添え乳をしながら眠りましたと見えて、まつ白な、かう乳のところが見えまして(・・・)

『あらまァ、びっくりいたしましたよ、呆れかへった、あなた、なんでここへ。』
『あゝこれ、大きな声だ、静かになさい。』
(男は師匠の御新造に同衾を迫る。脇差で脅す)
『さァお斬んなさい。』
『よろしうござるか、只今まつ二つに。』
『さァ早く殺して下さい』
『よろしいか』
と刀を抜きかけても、悪びれませんから困った。」

辻原登氏が「円朝の口演をきくことができるなら、この命を引きかえにしてもよいと思うほどである」と述べているが、今では誰も円朝の声は聞けない。

円朝が逝去したのは明治33年だから、今から116年前、その翌年にイギリス・グラモフォン会社の技師が来日し、東京で宮内省の雅楽、梅若万三郎の謡曲、芳村伊十郎の長唄、常磐津などを蓄音機用として、日本ではじめての録音をした。円朝が存命であったならば、多分、その知名度から鑑み録音されたのではないかと推測する。

いずれにしても、日本で声・音が録音として記録化されたのは、今から115年前であるから、1年というわずかな差で、円朝の声や口演が今日に遺されていないのである。とても残念である。

しかし、円朝の作品は遺っている。代表的な31作品と落語・俳句を紹介する。

1. 芝居噺 菊模様皿山奇談 緑林(みどりのはやし)門松(かどのまつ)竹(たけ) 雨夜の引窓 双(ふたつ)蝶々雪の子別れ 
2. 怪談噺 真景(しんけい)累ヶ淵(かさねがふち) 怪談牡丹燈(どう)籠(ろう) 鏡ヶ池操(みさおの)松影(まつかげ) 怪談乳房(ちぶさの)榎(えのき)
3. 伝記物 後(おくれ)開(ざき)榛(はる)名(なの)梅(うめ)ヶ(が)香(か) 塩原多助一代記 月(つきに)謡(うたう)荻(おぎ)江(えの)一節(ひとふし)
4. 人情噺 文七(ぶんしち)元結(もつとい) 粟田口霑(あわたぐちしめす)笛(ふえ)竹(たけ) 業平文治漂流奇談 敵討札所の霊験(れいげん)
    霧隠(きりがくれ)伊香保(いかほの)湯煙(ゆけむり) 熱海(あたみ)土産(みやげ)温泉(いでゆの)利書(ききがき) 政談月の鏡 闇夜の梅
    松と藤芸者の替紋 操(みさお)競(くらべ)女学校(おんながっこう) 梅若七兵衛
5. 翻案物 名人くらべ 英国孝子ジョーンズスミス之伝 松(まつの)操(みさお)美人(びじん)の生埋(いきうめ) 黄薔薇(こしょうび) 名人長二 英国女王イリザベス伝
6. 北海道取材作 蝦夷(えぞ)錦(にしき)古郷家(こきょうのいえ)土産(づと) 椿説(ちんせつ)蝦夷(えぞ)なまり 福禄寿
7. 落語  鰍沢(かじかざわ) 大仏餅 黄金餅 死神(しにがみ) 心眼(しんがん) 士族の商法 にゅう 世辞屋 笑い茸(たけ)
 このように多彩である。

ところで、多くの円朝研究文献をあたったが、辻原登氏はさすがに作家だけに、円朝の作品作りの背景に特に造詣が深い。しばらく辻原氏の『円朝芝居噺 夫婦幽霊』を参照に展開したい。

円朝には、上記リスト以外に作品は存在した。だが、藤原三周が円朝から作品を預かっていたところ、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で焼失してしまった。
 藤原三周とは、円朝の長い贔屓客であり、円朝の葬儀責任者で、大根(だいこ)河岸の青物問屋三河屋主人であった。
 大根河岸とは、京橋から紺屋橋にかけての京橋川河岸は、江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ市場で、江戸住民に新鮮な野菜を提供していた。当時は川や堀があって、水運の便が良かったわけで、なぜか大根の荷揚げが多くて、いつしか「大根河岸」と呼ばれるようなり、 いなせな江戸っ子は、「ダイコン」なんて言わずに「ダイコ」河岸って言っており、河岸の近辺には青果を扱う問屋が増えてゆき、今でいう青果市場の原型となったが、昭和10(1935)年、日本橋室町あたりが発祥という「魚河岸」とともに、この年に完成した築地中央卸売市場へ移転している。
 

さて、円朝作品で焼失したのは「名人競(くらべ)の内狩野探幽伝」「名人競の内谷文晁伝」「唐沢の山桜」「妙の浦波」「英国女王イリザベス伝」であった。ただ「英国女王イリザベス伝」だけは、藤原三周の子富太郎が震災直前に雑誌「鈴の音」に挿絵入りで発表してあったため、のちの全集(春陽堂版全十三巻 昭和三年完結)に加えることができた。
 
 岡鬼太郎が「圓朝雑感」で次のように書いている。
「彼圓朝の一作を新たに案ずるや、續き話としては先づ、一興業十五日間分の筋を立て、而(そ)して毎夜の切り所を考え、興味の中心點即ち話の山を工夫し、それを練りに練って後、初めて高座に掛けるのである。作中所用の地理人情言語風俗等に就いての穿鑿(せんさく)は、彼自身の趣味としても、十分丹念に行き届かせられたのである。實地調べは旅行の道の記には、句あり歌あり、彼圓朝の文藝の嗜(たしな)みも、奥床しく窺われる。(・・・)處(ところ)で、此處(こゝ)に言ひ落せぬは、圓朝物の速記(そつき)の事である。本人の話術の味は寫し得ずとも、其の新作と云ふ興味は、文字の上にも現れるので、此の新作の速記物が、何(ど)のくらゐ彼圓朝の名を高く弘めたか分からぬ(…)日刊やまと新聞發行の初、圓朝の續き話は、速記となって、珍しくも日毎(ひごと)々々の紙上に載せられた」

 やまと新聞を創刊し、主宰したのが条野採菊。鏑木清方の父である。最初の連載が「松操美人生埋」で、これより「月謡荻江一節」「後開榛名梅ヶ香」「文七元結」とつづく。この連載によって、円朝は芸人からかぎりなく小説家へと近づいていく。

 まだ「春のやおぼろ」と称していた坪内逍遥は、『怪談牡丹燈籠』の序を書いた。
 「およそありの儘に思ふ情(こゝろ)を言(いひ)顕(あら)はし得(う)る者は知らず々いと巧妙なる文をものして自然に美辭の法(のり)に稱(かな)ふと土班釵(すぺんさあ)の翁(おきな)はいひけり眞(まこと)なるかな此(この)言葉(ことば)や此(この)ごろ詼談師(くわいだんし)三遊亭の叟(おじ)が口演(くえん)せる牡丹燈籠となん呼做(よびな)したる假作譚(つくりものがたり)を速記(そつき)といふ法(はふ)を用ひてそのまゝに謄寫(うつ)しとりて草紙(さうし)となしたるを見(み)侍(はべる)るに通篇(つうへん)俚言(りげん)俗語の話(ことば)のみを用ひてさまで華(はな)あるとも覺えぬものから句ごとに文(ぶん)ごとにうたゝ活動する趣(おもむき)ありて宛(さな)然(がら)まのあたり萩原(はぎわら)某(それ)に面合(おもてあ)はするが如く阿(お)露(つゆ)の乙女に逢(あひ)見(み)る心地す(・・・)考ふれば單(ひとへ)に叟(おじ)の述(のぶ)る所の深く人情の髄(ずゐ)を穿(うが)ちてよく情合(じょうあひ)を寫(うつ)せばなるべくただゝ人情の皮相を寫して死したるが如き文をものして婦女童幼に媚(こび)むとする世の淺劣(せんれつ)なる操觚者流(そうこしゃりゅう)は此燈籠の文を讀(よみ)て圓朝叟(おじ)に耻(はぢ)ざらめやは(・・・)」

 逍遥は、二葉亭四迷が『浮雲』の文章で行きづまっているとき、円朝を読めとアドバイスしているし、その二葉亭と雁行した山田美妙は円朝本の文体を模倣して、近代の物語文章を創設し、紅葉に先行した。

 明治の作家、夏目漱石は『明暗』を書き、鴎外は『澀江抽齋』を、二葉亭四迷は『浮雲』を、尾崎紅葉は『金色夜叉』を書き、本になり、読まれた、というのは正しい。

しかし、円朝はこれらの作家とは異なる作品作りをする。
 円朝はまず物語の構想をたて、筋を考え、必要とあれば取材旅行に出かける。明治28年(1895)の秋には、まだ18歳だった鏑木清方が誘われて野州へ同行している。鏑木清方が円朝像を画くのはそれから30数年後である。

 『牡丹燈籠』の自筆の覚書が残っている。円朝はまずある場面を、ある筋立を、季節や人物の性格などを頭の中でつくる。それからメモを取る。メモを取りながらつくることもある。考案とメモを繰り返しつつ、語りの中の説明と描写、会話などが頭と紙の上で形を取っていく。覚書が完成する。それを読み、暗記し、声に出しながら増殖させてゆく。しおどきとみると、高座に掛ける。客の反応をたしかめながら修正を加えてゆく。こうしてまず声で練りあげられ、完成していった噺・物語を、ある日と決めて、速記者が楽屋に控えて速記符号に写し取る。

 最初の速記本『怪談牡丹燈籠』はこうして明治17年(1884)の夏に出版された。
 「怪談牡丹燈籠 〇同書は有名なる落語家三遊亭円朝が演述せし怪談を若林玵蔵(かんぞう)氏が例の傍(かん)聴筆記法にて書取り、円朝の口気を其侭(そのまま)に写出したるものにて、其第一編(一編の定価七銭五厘)を京橋区南伝馬町三丁目東京稗史出版社より発売し、尚引続き、土曜日毎に一編を発売し、十三編に至て局を結ぶと云ふ」(時事新報 明治十七年七月二十九日付)

円朝の口演を聞けない人達は、これを読むことになった。

この円朝について、「幕末から明治時代に活躍した落語家」と認識している人が多いが、それは事実であるが、円朝の実態を正確につかんでいないとも言える。

次号以降、円朝の実相を解き明かしていきたい。

2017年10月19日 (木)

名刀「武蔵正宗」拝観と『正宗鍛刀記』の原本発見

鉄舟が江戸無血開城の功績として、徳川宗家16代の徳川家(いえ)達(さと)から賜った太刀「武蔵正宗」が、「刀剣博物館」における「開館50年にわたる寄贈名品展」(平成29年1月5日~3月31日)にて展示された。

「刀剣博物館」は、今回の名品展の趣旨を以下のように述べる。

「日本刀は古来武器という性質以外に信仰の対象や権威の象徴としての側面をもち、また美術品として鑑賞の的にもなっていました。廃刀令後本来の日本刀の役割を終え、更に第二次世界大戦後、日本刀は武器と見なされ駐留軍による没収の対象となり壊滅の危機に瀕しました。しかしながら本間順治、佐藤貫一氏等の活動により戦後の混乱を脱し、両氏を中心として昭和23年に美術工芸品としての日本刀の保存・鑑賞・研究・伝統継承のため日本美術刀剣保存協会が設立され、昭和43年には付属施設として刀剣博物館が設置されました。

この度、刀剣博物館は墨田区に移転することとなりました。ここ代々木の地に開館して約50年、この地で最後に開催する展覧会として、当館が所蔵する国宝や重要文化財等の名品を一挙に公開いたします。これらは当協会や刀剣界を支えてくださった多くの方々の恩寵により当館に寄贈され、当館の活動の基盤となって日本刀の保存・継承・普及に大きく寄与した作品群です。この展覧会ではご寄贈者とともに名品を振り返り、その懇志に厚く感謝申し上げるとともに、刀剣博物館の更なる飛躍を祈念して開催いたします」と。
2月18日、刀剣博物館を訪問、展示場の中央辺りに置かれた「武蔵正宗」を拝観した。贔屓目なのかもしれないが、展示23刀の中でも、一段と光彩を放っていた。
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  「武蔵正宗」刀剣博物館(公益財団法人日本美術刀剣保存協会)提供

「武蔵正宗」の寄贈者は藤澤乙安氏で、重要美術品「無銘 伝正宗(名物 武蔵正宗)鎌倉時代末期、70.6cm」とあり、(附)鶴(つる)足(あし)革(かわ)包(づつみ)三葉(さんよう)葵(あおい)紋散(もんちらし)鞘殿中鐺(さやでんちゅうこじり)打刀拵(うちがたなこしらえ)も展示されている。

ところで、展示会場に入って外国人が多いことに驚く。来場者の約半数は外国人という実態に、世界的な日本刀ブームであると再認識する。
さて、折角の拝観であるから「武蔵正宗」について詳しく伺おうとしたが、訪問した2月18日は土曜日で事務所は休み。そこで20日(月)に再度訪ね、学芸部調査課の石井彰課長から説明をいただいた。

石井課長が持参されたのは『刀剣美術』(財団法人日本美術刀剣保存協会 平成23年10月号)である。ここに同館の檜山正則氏が「武蔵正宗」について解説されている。

表紙をめくって一ページ目、その一カ所に目が釘付けとなった。何と『正宗鍛刀記』(一巻)とあるではないか!!

長らく行方不明で、山岡鉄舟研究者が探し求めていた『正宗鍛刀記』原本が、この刀剣博物館に存在するのか!!

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期待をふくらませて、檜山正則氏の解説を以下引用する。

≪本作は「享保名物帳」に所載されている「武蔵正宗」である。作風は地刃の出来口や沸・匂の織り成すさまざまな働きなどは、相州正宗の気分を呈しているが、幅広でこれほど鋒の延びた体配のものは稀有であるため、同工極めの妥当性について、さらに向後に検討の余地を残している。
名称の由来については、宮本武蔵の所蔵刀であった故とも、また紀州徳川家(本阿弥光瑳名物記に「紀伊中納言殿御道具之内に有」などの記載がある)の家中にあったものを将軍家が江戸(武蔵国)にて召上げた故名づけたなど、他にも諸説がある。その後の経緯について、新資料から修正が必要なためここに掲載することになった。

『正宗鍛刀記』であるが、国立国会図書館憲政資料室・宮内庁書陵部・国立公文書館内閣文庫などに写本が残っていたが、「山岡鉄舟関係学術論文集」(筆者注Anshinアンシン  Anatoliyアナトーリー 著)等によれば、原本は今まで行方不明であった。しかし、このたび調査した結果、まさしくこれが原本であることがわかり大発見となった。さらに当時の二通の書簡から、本刀にまつわる事情が垣間見られる。

まず書簡の内容を簡略すれば、正宗を進呈された岩倉具視が香川敬三(水戸藩出身で岩倉具視と親密となり、後に宮内官僚として要職を歴任した人物)に依頼して本阿弥長職に調査鑑定させた審定書(明治十六年一月三日付)と、同日その内容を香川が岩倉公へ報告した手紙が付帯している。
その手紙によると、岩倉公は贈られた刀剣に対して慎重な取り扱いをしていたことがわかるものである。公は山岡鉄舟がいかに心操高潔な鉄舟に感じ入り、会談の内容を口述し、漢学者の川田剛が漢文で記して、明治の三筆(日下部鳴鶴、長三州、後に中林梧竹)の一人である巌谷修が六朝楷書でしたためた。

以前、この正宗は徳川慶喜から山岡鉄舟に贈られたとされているがこれは間違いで、史実は徳川家達が明治十年から十五年にイギリス留学をし、その帰国後(江戸無血開城14年後)に、鉄舟が行った功績(駿府に於いて西郷隆盛との会談時に慶喜の恭順の実情や江戸城の平和的明け渡しを可能にした役割)に対して贈るのであるが、山岡は「かかる銘付を保持するのは勿体ないことである。自分のしたことは君家に対する家臣としての当然の務めで、少しも感謝されるほどのものではない。これは誰か廟堂の元勲に差し上げるのが至当である」(小倉鉄樹記「山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠」)と速やかに岩倉具視に贈呈し以後同家に伝来したものであり、これは日本の近代史に隠された歴史資料でもある≫

 このように檜山正則氏が『刀剣美術』に書かれ、同館に保存されている『正宗鍛刀記』原本の一部を掲載されている。
 

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以上の通り、檜山正則氏は『正宗鍛刀記』原本発見を、平成23年10月号の『刀剣美術』誌上で明確に述べられたが、残念ながら山岡鉄舟研究関連者に、この発見事実が伝わっていない。
推察するに『刀剣美術』の読者は、刀剣の歴史的由来よりも工芸品・美術品としての側面により大きな関心を持っているが、鉄舟に関してはあまり興味を持たない層と推測でき、折角の檜山氏発見が世に広く伝わらなかったのだと思う。
そこで、改めて3月30日に『正宗鍛刀記』原本を確認したく、刀剣博物館を訪問、以下の写真の通り原本を確認したので、この事実を山岡鉄舟研究会ホームページで伝えるものである。
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なお、鉄舟は自己PRを一切しなかった人物で、自らの功績を遺す史料は鉄舟直筆の『慶應戊辰三月駿府大總督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記』と、この『正宗鍛刀記』の二つしかなく、今回、確認でき大変喜んでいるところであるが、ここでもう少し『正宗鍛刀記』の誕生経緯について補足したい。(参照『おれの師匠』小倉鉄樹著 島津書房)

≪明治14年(1881)、明治政府は維新の功績調査を行って、関係者を召還または口述や筆記を徴(ちょう)した。
鉄舟は「別に取り立ていう程はない」と賞勲局の呼び出しに応じなかったが、何度も呼び出しがあるので出頭すると「先刻、勝さんが来て斯様なものを出されましたが・・・」と鉄舟に見せた。
それを見ると「勝が西郷との談判を行ったと書いてあり、鉄舟の名はない」ので「変だと思ったが、嘘だと言うと勝の顔を潰すことになる。勝に花を持たせてやれ」と「この通りだ」と海舟の功績を肯定した。

賞勲局員も無血開城の経緯を知っているので鉄舟に反問した。
「それであなたの功績はどうしたのですか」
「おれか。君主に臣民が為すべきことを為したまでで手柄顔は出来ないさ」
賞勲局員は困って、賞勲局総裁の三条実美公に報告したところ、三条は岩倉具視公に連絡、岩倉公も「それは変だ」と鉄舟を呼び出し尋ねた。

鉄舟も岩倉公の前では嘘も言えず「実は、勝からあのような書類が出ていたので、勝の面目のため自分は手を退いた」と答えた。
岩倉公は鉄舟の人格高潔さに感服しつつも、正しい史実を遺すべく、鉄舟から当時の談判事実を詳しく聞き取って、漢学者の川田剛に漢文で書かせ、明治の三筆の一人である巌谷修が六朝楷書でしたためた≫

実は、この『おれの師匠』記述の背景には、今日まで「江戸無血開城」に関する誤った通説が存在しているので、そのことを説明したい。
それは「江戸無血開城」が、西郷隆盛と勝海舟の薩摩屋敷における「江戸会談」で成立したという説である。

確かに慶應4年3月13日と14日に西郷と勝との「江戸会談」は開かれた。だが、この会談前の3月9日、鉄舟は徳川慶喜から直接命を受け、駿府の西郷のところに赴き談判し、慶喜の命と徳川家の安泰を西郷に約束させ、実質的に江戸無血開城を決めている。その証明史料が鉄舟直筆の『慶應戊辰三月駿府大總督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記』である。

『談判筆記』には、西郷からは以下の五箇条の条件が出されたと記されている。
1. 城を明け渡すこと
2. 城中の人数を向島へ移すこと
3. 兵器を渡すこと
4. 軍艦を渡すこと
5. 徳川慶喜を備前に預けること

鉄舟は1条から4条は受け入れるが、断じて5条の「徳川慶喜を備前に預けること」については受け入れなかった。以下のように強く反論した。
「主人慶喜を独り備前へ預る事、決して相成らざる事なり。如何となれば、此場に至り徳川恩顧の家士決して承伏不致なり。詰る所兵端を開き、空く数万の生命を絶つ。是、王師のなす所にあらず。果して然らば先生は只の人殺しなる可し。故に拙者、此条に於ては決して不肯なり。
西郷氏曰く、朝命なり、と。
たとひ朝命なりと雖も拙者に於て承伏せざるなり、と断言す。
西郷氏又強いて、朝命なり、と云ふ。

然らば先生と余と其位置を易へて暫く之を論ぜん。先生の主人島津公、若し誤りて朝敵の汚名を受け官軍征討の日に当り、其君恭順謹慎の時に及んで、先生余が任に居り、主家の為尽力するに当り、主人慶喜の如き御処置の朝命あらば、先生其命を奉戴し、速に其君を差出し、安閑として傍観する事、君臣の情、先生の義に於て如何ぞや。此義に於ては鉄太郎決して忍ぶ事能はざる所なり、と激論せり。
西郷氏黙然、暫ありて云く、先生の説、最然り。然らば徳川慶喜殿の事に於ては吉之助屹と引受取計ふ可し、先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」

この談判における鉄舟の決死の気合と論説の鋭さ、それは、後年、真の武士道体現者と謳われた鉄舟ならではの働きであり、ここに江戸無血開城が事実上決まり、これによって明治維新大業への一歩が示されたのであり、鉄舟の個としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

同じく『正宗鍛刀記』も、鉄舟の駿府における西郷との談判功績を岩倉具視が認めているからこそ、その証明として川田剛に漢文とさせ、巌谷修が書にしたためたのである。

次に、『正宗鍛刀記』が岩倉家から藤澤乙安氏蔵となった事情を説明する。それを記した資料として以下の二つがある。

≪大正三年岩倉家の売立に出たが、千百九十の札しか入らなかったので、競売を見合わせた。あとで親族が三千五百円で引き受けた。しかし、昭和十二年八月二十八日付で、重要美術品に認定された時も、名義は岩倉具栄公爵となっていた。戦後、岩倉家を出て藤澤乙安氏蔵となっている≫(参照『皇室・将軍家・大名家刀剣目録』雄山閣)

二つ目の資料は、藤澤乙安氏の子である藤澤玄雄氏が『日本の美術4 NO431 日本刀藤澤乙安コレクション』で語っている。要点のみ記してみる。

≪父、藤澤乙安は明治43年元旦に信州・藤澤村で9人兄弟(姉妹)の末子として生まれた。藤澤村は合併されて長野県の高遠町となった。生家は破産し故郷を出奔し、松本市に出て事業を営み、東京に出るまでに拡大し、財力を蓄えた。
刀剣の収集のきっかけが何であったか私は知る由もないが、父の兄、姉たちもそれぞれ美術品、特に絵画には並々ならぬ関心を持っていたから、父もその血を引いているのだと思う。
それらの過程で知り合った本阿彌光遜(ほんあみこうそん)氏の勧めで日本刀の収集が始まったようである。本阿彌氏は父の言によれば当時、日本一の鑑定家であったそうであるが、父の荻窪の屋敷(明治天皇荻窪御小休所)へ住み込ませた同氏に鑑定をさせながら気に入ったものはどんどん買い入れるという状態であったようだ。
「手放すなよ」と言われた収集品ではあるが、父が亡くなってみると苛酷としか言いようのない日本の相続税制のもとではこれらを藤澤乙安コレクションとして手許に残すことは全く不可能と判断し、財団法人日本美術保存協会(刀剣博物館)へ寄贈するということになった≫

最後に、宮本武蔵と言えば吉川英治で、同氏著書『随筆 宮本武蔵』(講談社)の「佩刀考『武蔵正宗』と彼の佩刀」を紹介したい。

≪大分以前に開かれた文部省の重要美術審査会で、新たに重要美術品に指定された物のうちに、岩倉具栄氏所蔵の「武蔵正宗」という名刀が挙げられている。
宮本武蔵が愛用した刀だというので、古来から武蔵正宗と呼ばれて来たものだそうである。勿論、相州物で、刀身二尺四寸、幅九分一厘、肉二分というから、実物は見ないが、なかなか業物らしい。
この刀の伝来の説に依ると、享保年間、徳川吉宗が将軍家の勢力をもって、諸国から銘刀を蒐めさせたことがあるが、その時、鑑刀家の本阿弥に命じて選ばせた逸品の中、第一に位する絶品が、この「武蔵正宗」であったという。
享保銘物帳にも記載されているということであるから、さだめしこの名刀は、吉宗の手にも愛されて、幕府の御刀蔵に伝わって来たものであろうが、それが岩倉家に移ったのは、維新の頃か明治になってかに後か、新聞の記事で知ってふとそんなことを考えてみたりした≫

これを読むと吉川英治は『正宗鍛刀記』の経緯を知らなかったことがわかる。もし吉川英治が関心を持ったとすれば、鉄舟についても一筆著したのではないかと想像しているところである。

いずれにしても、『正宗鍛刀記』を発見され『刀剣美術』に書かれた檜山正則氏に感謝申し上げたい。
            
                              以上

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