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2017年10月25日 (水)

2017年10月例会開催結果

10月例会は、松島茂氏から「山岡鉄舟の生誕地について」、蓮沼裕二氏から「英霊七士の遺骨と墓地」をご発表いただきました。

● 松島茂氏「山岡鉄舟の生誕地について」

1. 『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』に、「師匠の生まれたのは天保七年六月十日、本所大川端四軒屋敷の官邸である。」と書かれているが、これを各史料に基づき検討してみる。

2. 鉄舟の父は小野朝右衛門高福、600石取りの旗本である。

3. 朝右衛門高福は、初代小野朝右衛門高光から七代目。初代高光は『新訂寛政重修諸家譜』(第10巻P114)によると≪慶長7年(1602)召されて秀忠に奉仕し大番をつとむ。16歳の時西城下馬地で人を討つ者があり、追って刃を交えて討留め、その際疵をおった。大阪の陣(冬)では伏見城の守護にあたり、元和元年の役では柵に入り首一級を得る。これにより、甲斐国に釆地300石を賜う。後、武蔵国榛澤男衾両郡の内において300石を賜う。御弓頭を務め、寛文3年には同人を加えられ30人を支配、御槍奉行となり、86歳で没。墓は赤坂松泉寺≫とある。

4. 朝右衛門高福は、寛政2年(1790)4月2日17歳で遺跡を継ぐ。600石。

5. 鉄舟(小野鉄太郎)が生れた天保7年の武鑑を『江戸幕府役職武鑑編年集成』(東洋書林1998年)によって本所御蔵奉行を見ると、大成武鑑(出雲寺版)では「両国向御蔵屋敷」、天保武鑑(須原屋版)では「表二番丁」とある。『武鑑』とは民間で作成された、大名・幕臣の役職・屋敷・石高を一覧するための参考資料であり、大成武鑑(出雲寺版)は毎月改と巻末にあるから、先に『武鑑』に反映できたと推察する。

6. 因みに、天保武鑑(須原屋版)に記載された「表二番丁」を『江戸城下変遷絵図集(御府内沿革図書)』(4巻 原書房P139)の、文化5年(1808)絵図を見ると、裏六番町と表二番町、麹町七丁目横丁通と善国寺通に挟まれた地区に小野長右衛門と表示されている。これを朝右衛門の記述ミスと推定し、天保9年(1838)の絵図を見ると、大熊善太郎の名になっており、朝右衛門が「本所御蔵屋敷」へ移転後に、大熊善太郎へ屋敷替えがあったと推察する。

7. 大成武鑑(出雲寺版)では、天保7年の「両国向御蔵屋敷」が、天保10年から14年までは「本所御蔵屋敷」と書かれているが、天保15年には「両国向御蔵屋敷」となっており、両国向とは両国の向うという意味で本所を指すので、同じ屋敷と推定する。

8. 本所御蔵を『本所御米蔵絵図』(東北大学付属図書館蔵)と、絵図『府内場末沿革図書:十五上乾』(天保4年(1833)の形 東京都公文書館蔵)で見てみると、隅田川(大川)からの入堀に御蔵橋が架かり、門は大川に面した表門の他、東に1つ、南に2つ(後1つ)、御蔵奉行屋敷は表門を過ぎて御蔵橋を渡って右に入る道沿いの角と向かい側に示されている。

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9. では、「本所御蔵屋敷」に奉行は何名いたのであろうか。年代によって異なる。御蔵奉行役屋敷は当初から浅草御蔵に2カ所、本所御蔵に5カ所あった。
 (参考:『東京都墨田区本所御蔵跡・陸軍被服廠跡』墨田区横網一丁目埋蔵文化財調査会・2002年)
寛保2年(1742)武鑑に5名「中根・久保田・亀井・竹内・玉井」が記されていて、『隅田川以東図』寛延2年(1749)〜宝暦元年(1751)頃:幕撰に、松平伯耆守屋敷と隣接して中根の御蔵奉行御役屋敷がある。
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この中根については、『寛政譜以降旗本家百科事典』(東洋書林)に中根九郎兵衛(大番)牛込御門外御掘端514坪とあり、『新訂寛政重修諸家譜』(9巻P255)を見ると、二代目正輝の時550石を知行。中根正孝(九郎兵衛)享保10年(1725)に大番に列し、寛保2年より御蔵奉行を勤めたとある。
本所御蔵創設期の『武鑑』享保19年(1734)に4名「山本源兵衛・伴・大久保・鈴木」の記載があるが、『江戸大割絵図:御船蔵ヨリ小梅村辺』天明2(1782)〜5年頃の絵図(江戸東京博物館所蔵)にはもうひとり右野太郎兵衛が記載されており5名になる。また、同絵図に松平伯耆守屋敷と隣接して山本の御蔵奉行御役屋敷がある。山本源兵衛は御蔵奉行組頭(この役職名は元文年間までで寛保からは御藏奉行のみとなる)であった。

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10.  なお、『天保改正御江戸大絵図』天保14年(1843)再版に、「クボタ・カメイ・竹内・玉井」と4御蔵奉行名があり(これは幕撰といわれる古い『隅田川以東図』を改めずにそのまま御蔵奉行名を写したためと思われる)、『分間江戸大絵図完』安政6年(1859)版に「御蔵奉行 四ケンヤシキト云」と表記されているので、4名と考えられるが、前述したように5名であるから、本所御蔵屋敷は5箇所あり、一カ所だけ別で、他の4軒は並んであったので、俗に四軒屋敷と俗にいわれた由縁ではないかと推定する。

11. 結論
鉄舟が誕生した屋敷は御蔵橋を渡って御蔵の入堀に沿って右に入る道の曲がり角、松平伯耆守屋敷と隣接する御蔵奉行御役屋敷(現:墨田区横網1—12の東南の角の辺り)が御蔵奉行であった小野朝右衛門の役宅であったと考える。よって、鉄舟誕生の地をこの本所御蔵の役宅とする。

「武鑑」記載の表二番町の拝領屋敷は鉄舟誕生の年まであったであろうことを示すものの、天保3年(1834)には御蔵奉行として御蔵奉行御役屋敷にあったとみてよい。小野朝右衛門が御蔵奉行に名を連ねる前年に、本所御蔵屋敷と名のあるのは5名であるが、御蔵奉行に名の出る天保3年には、本所御蔵屋敷が4名になっており、御蔵奉行拝命と同時に御蔵屋敷に入ったと考える。

以下、伯耆守下屋敷側の役宅とする理由

(1) 「武鑑」で本所御蔵屋敷と記述されるのが通例であるが、小野朝右衛門に限って、他の御藏奉行にはない両国向御蔵屋敷が用いられている。

(2) 他の本所蔵屋敷の役宅の御蔵奉行は200俵以下の軽輩であるが、小野朝右衛門は600石の大番筋であり、中根九郎兵衛(大番筋で550石)の役宅と同じ場所に役宅を持ち、責任も重かったと考える。

(3)中根と同じ役宅に名のあるもう1人は、創建期の御蔵奉行山本源兵衛は200 石であるが、御蔵奉行組頭であることから、別の一軒になったと考える。
 
以上のように、松島氏によって、多くの史料・資料・絵図に基づく分析と検討
がなされた結果、鉄舟生家が確認されたこと、鉄舟研究分野で重要な業績であり、深く感謝いたし、厚くお礼申し上げます。

● 蓮沼裕二氏「英霊七士の遺骨と墓地」

英霊七士とは、いわゆる「A級戦犯」として極東国際軍事裁判(東京裁判)にて、1948年(昭和23年)12月23日に、巣鴨プリズンで絞首刑になった次の7名の方である。

土肥原 賢 二 (軍人 奉天特務機関長)
松 井 石 根 (軍人 中支那方面軍司令官)
東 条 英 機 (首相 第40代 内閣総理大臣 陸軍航空総監)
武 藤  章  (軍人 陸軍省軍務局長)
板 垣 征四郎 (軍人 関東軍参謀長 陸軍大臣)
広 田 弘 毅 (首相 第32代 内閣総理大臣)
木 村 兵太郎 (軍人 ビルマ方面軍司令官)

 絞首刑後、横浜市の久保山火葬場にて、米軍が監視する中で火葬され、7名の遺骨は、東京湾に投棄したとされている。
しかし、この遺骨を回収しようと考えていた小磯国昭の弁護人三文字正平は、面識のあった興禅寺住職の市川伊雄氏に相談し、火葬場長の飛田善美氏に依頼。飛田氏が、7名の遺骨の一部を確保したが、香を焚いた為、米軍に見つかり、粉々に砕かれ、火葬場内の残骨灰捨場に投棄された、翌日の深夜、三文字氏と市川住職は、火葬場に忍び込み、飛田火葬場長と、密かに骨壺一杯分を集め、戦死した三文字氏の甥の遺骨とし、興善寺に一時預けた。

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翌年の1949年(昭和24年)5月3日、熱海市にある、松井石根大将ゆかりの「興亜観音」に持ち込んだ。興亜観音は、1937年(昭和12年)7月に勃発した支那事変における上海派遣軍司令官だった、松井石根陸軍大将が、退役後の1940年(昭和15年)、日支両軍の戦没将兵を「怨親平等」に祀るため、私財を投じてこの地に聖観音を建立した。観音像は松井大将が転戦した戦場の土と、日本の土を、材料として作られている。

幾星霜を重ねた後、遺族の同意のもとに財界その他 各方面の有志の賛同を得て、1960年(昭和35年)8月16日、松井大将の興亜観音より、英霊七士の遺骨を、香盒一つを分骨し、日本の中心地 三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立された墓碑に安置された。当日、静かに関係者と遺族が列席し墓前祭が行われた。
以来、毎年4月29日の天皇誕生日(現在は、昭和の日)の良き日に、例大祭を行っている。

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 蓮沼氏の現地訪問に基づく調査、新鮮なご発表に感謝申し上げます。

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