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2017年9月26日 (火)

2017年9月例会開催結果

20179月例会開催結果

 永冨明郎氏から7月の「西郷隆盛の生涯」<幕末篇>に続いて<明治篇>についてご発表頂きました。<幕末篇>についてはHPにてご覧ください。

 

【明治編】

1.明治初年から廃藩置県まで

1)反新政府の動き

慶応4年4月の江戸無血開城以後、上野戦争(同年5月15日)、奥羽越列藩同盟との戦い(9月の会津、庄内降伏で終結)、函館戦争(明治2年5月降伏)と続いたが、この間、西郷は郷里鹿児島に再三身を引く。

2)維新功労者への表彰

 明治2年6月、明治政府は功労者に賞典禄を発表。トップは薩摩、長州の両藩主親子で各10万石、一般人では西郷の2千石がトップで大久保利通と木戸孝允は1,800石、桐野利明は200石。西郷は一旦拒否するが、後にこれを資金として鹿児島に賞典学校を設立する。私学校の前進となる。

3)廃藩置県

 廃藩置県を実行するためには西郷が必要不可欠と、明治4年初め、西郷は5千名の藩兵を引き連れて上京(併せて長州3千、土佐2千)、これで御親兵を組織し、これは翌年、近衛軍に改組、西郷は唯一の陸軍大将になる。

明治4年7月、廃藩置県を発令。久光がこの措置に激怒する。以後、大久保と西郷を強く憎むことになる。大久保は新生国家の基礎固めがなにより優先すると、久光の怒りを無視する。一方、他人の気持ちを尊重する西郷は久光の怒りを気にし、同時に、新政府役人となった連中の華美な生活に幻滅して、次第に新政府のありように疑問を抱くことになる。

2.征韓論政争

1)廃藩置県を断行して最も神経を使うべき時、岩倉以下政府役人45名が一挙に欧米視察に出て行くことになる。残された政府は西郷が事実上の首班となり、太陽暦への移行(明治5年12月)、徴兵令(明治6年1月)などを打ち出す。岩倉以下は残留政府に対して、自分らが帰国するまで大きな政治変革はしないことを約束させていたが、廃藩置県に伴う改革は必至で、それらを西郷以下が行ったことになる。欧米視察組と残留組との反感の伏線となる。

2)征韓論

 そのような折、朝鮮(李朝)との間で軋轢が生じる。日本は明治天皇を中心にした新生国家に変わった、という通達文に対して「天皇(皇帝)と名乗れるのは唯一宗主国の中国だけで、日本の思い上がりは許せぬ」という朝鮮側の姿勢に対して、いまだに鎖国している朝鮮はけしからん、といった征韓論が持ち上がる。これに対して西郷は、いきなり軍の派遣は「義がない」、まずは使者を派遣し、仮にその使者が害されたら出兵すればよい、という「遣韓論」を主張する。一旦は天皇の裁可も下るが、結局帰国した岩倉らの反対工作により、明治6年9月、使者派遣は否決される。これによって西郷、江藤新平などが下野し、近衛軍や警察隊に入っていた多くの薩摩人も倣って下野。

3)西郷に倣って下野した多くの薩摩人は仕事をするでもなく、ごろごろしている。そのため西郷は彼らを纏めて農耕、軍事調練をさせるため、私学校を設立する。鶴丸城横に本校を置き、薩摩全土に分校ができ、私学校生は鹿児島の一大勢力となる。

 一方で廃藩置県以後、中央政府の動きを認めない久光は自分の小姓上がりの大山綱良を県令(県知事)とし、大山県令は役人や警察の主要ポストに私学校生を起用し、これを支援する。更に中央政府の政策をことごとく拒否し、鹿児島県は事実上独立国家の様子となる。

3.士族の乱

1)明治7年2月の佐賀の乱、同9年10月の熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などが頻発する。いずれも薩摩の西郷が連動決起することを期待してのものだったが、西郷はいっさい動かなかった。

2)一方、独立国家状態の鹿児島県に神経を使っていた中央政府は、まず密偵を送り込んで状況を探る。しかし密偵はすぐに私学校生に捕まり、拷問の結果「西郷をシサツ(視察?刺殺?)するために潜入した」と自供する。

 政府は鹿児島にあった武器弾薬庫から、密かにそれらを運び出そうとするが、その動きも私学校生が察知し、逆に草牟田弾薬庫を私学校生が襲撃して武器弾薬を奪うという事件が起きてしまう(明治10年1月29日)。

 これがきっかけとなり、西郷を擁立した私学校生が決起、当初、西郷は数名で上京して政府の意図を糾すというが周囲が認めず、結局は鹿児島全県から1万3千名が付き従って出陣することになる。2月15日であった。

4.西南戦争

1)熊本鎮台(熊本城)の攻防

 西南戦争では、西郷は戦略戦術に口を挟まなかった。多くは桐野利明の指図で進められた。その最初の、そして最大の過ちとなったのが熊本城に攻めかかったことである。桐野は、我が国の唯一の陸軍大将である西郷が動けば、日本中の鎮台兵はその指揮下に下ってくる、という楽観を持っていた。加えて熊本鎮台は明治5年の初代司令長官が他ならぬ桐野で、当時は農民上がりの鎮台兵の軟弱さに手を焼いていた経験がそのまま残っており、攻めかければすぐに降伏すると考えていた。

2)田原坂の攻防から逃避行へ

 熊本城を包囲した西郷軍は、政府軍と田原坂で3月初めから17日間にわたって攻防。しかし、その間に政府軍は熊本の南方、八代に軍隊を上陸させ、熊本を南北から攻める。そのため西郷軍は熊本攻城を諦め、以後は人吉、都城、延岡と逃避行を続けることになる。その間の5月22日には政府軍は鹿児島に上陸制圧した。

3)解軍

 8月中旬、延岡まで来た西郷軍で、初めて西郷自身が指揮を執ることを宣言する。手仕舞いは自らするという決意であった。そして翌々日、西郷は解軍を指示する。最大4万人いた西郷軍はこの時点で3千名余りとなっており、解軍の結果わずか3百名余りだけとなる。彼らは宮崎の山間部を抜け、9月1日に鹿児島に潜入して、城山に篭るが、政府軍は圧倒的な兵力で城山を包囲し、9月24日を持って総攻撃し、西郷以下全員が生涯を閉じる。

5.勝海舟による西郷追悼

1)乱が終結した後、なぜか勝海舟は西郷の追悼に尽力している。

・明治11年=『亡友帖』の出版

・翌12年 =木下川浄光寺に追悼碑「留魂碑」建立(海舟の死後、その墓とともに洗足池そばに移転)

・同18年 =遺児・寅太郎、菊次郎の出仕留学に奔走(山岡鉄舟も宮中仲介役で協力)

・毎年命日には「南洲私祭」(供養)

・同22年2月 明治憲法発布、特赦の際、西郷に「正三位」の追叙に尽力

・同23年 =追悼書『流芳遺墨』の出版

・同25年頃?=薩摩琵琶歌「城山」を制作発表

 また西郷以下、西南戦争での薩摩側戦没者の墓が並ぶ南洲墓地の入り口近くには、勝海舟の追悼歌碑がある。

 「ぬれぎぬを干そうともせず 子供らがなすがまにまに 果てし君かな」

2)なぜ勝はそこまで追悼に心を砕いたか。その答えは洗足池に建っている「留魂碑」の裏面に彫られた海舟による追悼文にあった。

「嗚呼君能知我 而知君亦莫若我」

 (あなたは私のことをよく知っている、そして私こそあなたのことを一番知っている)

 かつて、江戸城無血開城をふたりでやった。その結果、お互いに自陣から終始、厳しい目で見られることになった。そのことだけは、俺とあんたとしか判らないことだ。

 

7月の<幕末篇>に続く永冨氏のご発表は、史料検証と現地調査に基づかれ、パワーポイントの技術を巧みに駆使され、解説も的確で、加えて理解しやすい語り口、参加者の方々から「西郷隆盛の生涯」を改めてつかむことができたとの声が多く、来年の大河ドラマに対する伏線となりました。

永冨氏のご発表に、厚くお礼申し上げます。

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