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2017年7月25日 (火)

2017年7月例会開催結果

永冨明郎氏から「西郷隆盛の生涯」<幕末篇>についてご発表頂きました。

1.西郷が世に出たきっかけ
 西郷は41石取りの最下級武家の長男で、下に6人の弟妹があり、生活に困窮していたが、ペリーとの間で開国論議が進んでいた嘉永7年、国還りした
斉彬が何人かの若者を江戸に連れ戻り、西郷も選ばれ「お庭方」に登用、以後、斉彬の懐刀として、全国区の志士として知られるようになる。

2. 奄美大島配流
開明派のトップであった老中首座・安部正弘は安政4年、道半ばで世を去り(39歳)、斉彬もその2年後急死(50歳)。当時、政治的には①次期将軍問題と②通商条約の締結可否、という大きなふたつの問題に、大老に就任した井伊直弼は①紀州の慶福(のちの家茂)を決め、②には朝廷の反対を無視して独断締結し、安政の大獄となった。

その捕縛の手は当然、西郷にも迫り、月照と共に薩摩に帰るが、藩では匿えないと拒否され、悲嘆したふたりは錦江湾に身投げ、西郷だけは蘇生する。
この、一旦は死を決めたが生き返ってしまったということに、西郷は以後、独特の生死感を抱く事になったと考えられる。
 生き残った西郷は、偽名で奄美大島に潜伏を命じられ、藩からは6石(途中からは12石)が与えられ、島長の一族の娘、愛加那と結婚、二児(菊次郎、菊子)を設ける。

3.沖永良部島へ流刑
 桜田門外変以後幕府は公武合体路線に傾くが、幕府批判の「尊皇攘夷」運動が過激化。その世情に、「薩摩ここにあり」を目指した久光は卒兵上洛を目論む。周囲は、諸藩や朝廷、幕府にも最もカオが売れている西郷の呼び戻しを進言する。

帰藩した西郷は久光の無計画振りに対し「ジゴロ(田舎者)」と呟き、久光との仲は決定的な溝ができるが、なんとか、先行して情報収集して下関で待機せよとの指示を得る。
 

一方、久光による卒兵上洛の噂は全国の尊攘派に、絶好の決起の機会と期待され、その動きが急であることを知った西郷は独断で大坂、京都に出向くが、久光の命に従わなかったと、西郷は沖永良部へ流刑され、現地では半年以上、吹き曝しの小屋に閉じ込められる。
はからずも座禅と同じ境遇となり、西郷の生死感が更に一歩深まる。

4.蛤御門の変
 西郷が沖永良部に流されている間、薩摩藩は英国艦隊の攻撃、そして講和交渉に直面する(文久3年)。中央では、長州系の尊攘派の動きが更に過激化していったため、孝明天皇の意を戴した薩摩藩が京都守護職・会津藩と計らい、一夜にして京都から長州藩とそれに与する公家らを排斥(八・一八クーデター)。
 

その世情混乱に、薩摩としての対応を進めるためにはやはり西郷が必要と周囲が久光を説得、ようやく元治元年初め、西郷は罪を赦されて藩政に復帰。
このタイミングに、過激化した長州は数千の兵を率いて上洛、守る京都守護職(会津)や薩摩との間に蛤御門変となり、朝敵となった長州征伐が発令され、その参謀に西郷が選ばれる。

5.海舟から目を開かせられる
長州攻めに下向する途中、大坂で海軍奉行・勝海舟と面会した西郷は、勝から大いに目を開かされ、結果、長州征伐は三家老の切腹などの寛典で決着させる。

6.薩長同盟から王政復古へ
 慶応元年、長州はその後ふたたび革新路線に変わり、そのため幕府は長州再征を発表するが、薩摩藩は「義がない」と参戦を拒否する。西郷の所見がそのまま藩論となった。
 一方で勝の世界観を受けた坂本竜馬らの工作により、水面下で薩摩は長州と手を組む(薩長同盟、慶応2年1月)。以後、藩論は西郷、大久保の進める倒幕論に傾く。
幕府側は、長州再征に大敗、将軍家茂の死去、そして孝明天皇の崩御と、将軍職を継いだ慶喜に誤算が続き、大政奉還となる(慶応3年10月)。
 しかし倒幕を決意した薩摩、長州は兵を京都周辺に送り、遂に王政大復古のクーデターを決行(慶応3年12月)。大坂に退いていた幕府軍が京都に上り、鳥羽伏見で開戦となり、慶喜は江戸に戻って謹慎。

7.江戸城無血開城と戊辰戦争
「徳川家の殲滅、慶喜の首を上げる」と西郷も叫んで東征軍が江戸を目指すが、謹慎恭順の姿勢を示す慶喜の意を踏まえた山岡鉄太郎が駿府で西郷と談判、江戸城無血開城となる。
 戦わずして終わったことに不満の旧幕府軍などは彰義隊上野戦争、東北戦争、函館戦争と続くが、ようやく明治2年、戦乱が終結する。
この間、西郷は再三郷里に戻る。体調不良もあったが、その姿は「自分の役割は終わった、一日も早く身を引く」という様子。

8.「薩摩藩の立ち位置」
幕末15年を通して、薩摩藩の立ち位置が大きく変化している、その背景として以下の「幕末諸藩の立ち位置図」で示したように、文久から元治元年は明らかに佐幕側に立っていたが、慶応元年を境に倒幕のリーダー格に変化した。
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この変化は、元治元年までは国父・久光の保守的な意向が強く前面に出ていたが、元治元年秋を境に西郷、大久保らの革新路線の意向が藩論となっていったためである。しかし久光が大きく倒幕派に転じた訳ではない。久光の保守性と西郷らの革新さとの間を取り持ち、久光を説得したのが、家老・小松帯刀だった。小松の存在はもっと評価されるべきであろう。

9.「江戸無血開城」後の西郷
明治に入って西郷はしきりに表舞台から身を引こうとする。既に戊辰戦争終末期にもその姿が現れる。その西郷の人間像を含め、9月例会の「西郷隆盛の生涯」<明治篇>にて総合的にお伝えしたい。

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