2017年6月例会開催結果
山本紀久雄から「明治天皇と鉄舟」について発表いたしました。
1. 明治天皇について検討に当たって3前提を説明。
① 明治天皇の史料はないが、資料は多い。
② 検討のためには、自らの意識を明治天皇へ止揚させることが必要。
③ 明治天皇はミラーニューロン(他人がしていることをみて、我がことのように感じるエンパシー)を十分に発揮された。忖度も必要要件。
2. 明治新政府は、諸政策変更を急ピッチで進め、民衆は今まで慣れ親しんだ社会と異なる大変革に遭遇した。だが、これらの政策が15歳で即位された少年明治天皇による意思決定とは考えられない。
① 明治3年、平民に苗字義務
② 明治4年、戸籍法、宗門人別帳廃止、廃藩置県 貨幣制度の変更
③ 明治5年、12月3日を明治6年1月1日へ、太陽暦に切替え、暦廃止
④ 明治6年、徴兵制布告、地租改正、仇討禁止令
⑤ 言葉の統一 「お母さん」母上、おっかあ「お父さん」てて親、おとう
「わたくし・わたし」拙者、みども、あっし、手前
3. 明治天皇治世への評価は次のように高い
① 「明治22年代以降、明治天皇は絶妙の政治関与を行っていった」
(伊藤之雄著『明治天皇』)
② 「君主たるミカドの人格というものが無かったならば、政治家たちもあそこまで仕事を遂行することは出来なかったろうし、また遂行するにあたってもっと時間がかかったに違いないということである。ミカドが備えていた資質の中に人間を見抜く能力があって、これは恐らく一国の君主が持つべき資質の中で最も貴重なものである」(米ボストングローブ紙の哀悼論評)
4. 上記の伊藤之雄が述べるように、明治22年の大日本帝国憲法公布以降、誠に的確な治世をなされたが、それには西南戦争が勃発した明治10年初頭から発した「うつ症状」と、この完治に鉄舟がかかわった経緯が影響している。
5. 明治10年初頭、第一に閣僚と会うのを努めて避けるようになったこと。第二に、この時期、予定された学問の日課を避けるようになったこと。このような中の1月24日、京都・大和路へ行幸された。だが、行幸先でも同様の状態であった。西南戦争の大勢が定まった7月、東京に帰り、皇居に戻ると、そこには侍従就任当時から変わらず明確な「生き方目的」に向かって行動している鉄舟がいる。この当時の鉄舟、浅利又七郎に勝つため、心の修行である禅に没頭、悟りの境地に辿りつこうと、ひたすら厳しい修行の毎日であった。その鉄舟の姿から、ミラーニューロンによって明治天皇は「君主としての持つべき変わらぬ基準」の必要性を認識されはじめ、結果として「うつ症状」を完治された。
6. 明治20年、ウィーンで憲法を学び帰国した藤波言忠から33回もの講義を受け、続いて枢密院での憲法草案審議に全て臨御し議事を聴かれ、原案や修正点をよく理解し憲法を承認された。従って「大日本帝国憲法は、自らがつくった欽定憲法である」との認識を強くお持ちで、そのことを誇りにし、憲法第4条「天皇の統治は憲法の条理により行う」を自らの行動限界範囲として理解され、納得し、実践された。
7. つまり、明治天皇は「君主としての持つべき変わらぬ基準」を憲法とされたのであるが、この「生き方基準を持つ」必要性認識は、明治5年から明治15年まで10年間侍従として身近に、その後も宮内省御用掛として終生仕えた、鉄舟のぶれない「生き方目的」からの影響と考える。
8. この影響変化は、明治6年当時の写真と、明治21年の御真影から判断できる。明らかに明治天皇の全身・相貌から、賢者・風格・重厚・気品がうかがえる。この深化を見届け、明治21年、鉄舟はこの世を去ったのであろう。
(明治6年21歳)

(明治21年36歳)
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