2017年6月例会は、水野靖夫氏の『英国公文書などで読み解く江戸無血開城の新事実』発表に関心高く、参加者多く、かつ、産経新聞と静岡新聞記者も例会に参加され、取材を受けております。
2017年5月例会開催結果
●最初に矢澤昌敏氏より、特別例会企画6月4日(日)13:00~17:00開催の「渋沢史料館」見学&飛鳥山史跡巡りについて案内されました。
●山本紀久雄から「名刀「武蔵正宗」拝観と『正宗鍛刀記』の原本発見」について説明を行いました。
長いことその原本所在が不明であった『正宗鍛刀記』原本、刀剣博物館における「開館50年にわたる寄贈名品展」を、水野靖夫氏と山本が見学したことから、同館に保管されていることを発見、実際に原本を確認した経緯をお伝えいたしました。
この詳細経緯につきましてはHPに掲載しております。
http://bushido-kyoffice.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-0d27.html
●水野靖夫氏から本日のメインテーマである『英国公文書などで読み解く江戸無血開城の新事実』の発表がなされました。
これは昨年2月の例会で水野氏が発表された続編として、その後の研究を含め披露されたもので、その概要は以下であります。
第1に、「江戸無血開城」の全体の分析を解説されました。
「無血開城」とは何か。いつ決定したのか。それは山岡鉄舟・西郷隆盛の「駿府談判」で決定。西郷隆盛・勝海舟の「江戸会談」ではない。
○「無血開城」(戦わず城明け渡し)は、鉄舟が、西郷に朝命である慶喜追討を撤回させ、江戸城明け渡しを約束した時点で実質決定した。3月9日の「駿府談判」においてである。
○「慶喜の処置」(水戸謹慎)は交渉の対象外。その証拠に鉄舟の『談判筆記』には、「駿府談判」での5ヶ条が「江戸会談」では4ヶ条に減じている。
鉄舟には肩書がない。だから西郷は勝に会って確認した。それが西郷にとっての「江戸会談」の目的。
西郷・勝の「江戸会談」では、西郷は、すでに決している「慶喜の処置」以外の条件の「事後確認」をし、それに対し勝は「事後承認」をしたに過ぎない。勝(幕閣)は「慶喜→(泥舟)→鉄舟」のバイパスであり、勝に与えられた権限は敗戦処理・降伏条件交渉で、承認せずに戦う権限はなし。よって応否の談判はせず、条件緩和の嘆願のみをおこなった。
○「江戸会談」の内容は、渡辺清の『江城攻撃中止始末』以外史料がなく、勝自身も書き残しておらず、中身がないため、学者始め小説家等、誰もこの会談内容が書けない。松浦玲氏すら『氷川清話』を引用。
○西郷は、鉄舟には確約したが(慶喜の処置)、勝には何の確約もせず(他条件の緩和歎願)、ペンディングとし、京都へ持ち帰った。慶喜追討撤回は西郷(東征軍)の権限外。
○京都での朝議の焦点は「慶喜の処置」で、鉄舟との約束は果たしたが、海舟の歎願は、重要条件は却下。
○結局、西郷・勝の「江戸会談」は、「駿府談判」の実質決定、朝議での正式決定、城明け渡しという流れの中の、「通過点」に過ぎなかった。
≪「無血開城」の流れ≫
3月9日 3月13・14日 3月20日 4月4日 4月11日
「駿府談判」 ➡ 「江戸会談」 ➡ 朝議 ➡ 降伏条件伝達➡ 「無血開城」
(実質決定)(事後確認・緩和歎願(正式決定) (条件言い渡し) (実行)
○「無血開城」が勝の功績と信じられている理由を3点列挙。
①勲功調査で、鉄舟の功績を勝が自分のものにすり替えた。
家達は武蔵正宗を勝にではなく鉄舟に下賜。徳川家として鉄舟の功績を評価した。
岩倉具視が勝の勲功報告ではなく、鉄舟の功績を認めたゆえに『正宗鍛刀記』を残した。
②聖徳記念絵画館の壁画「江戸開城談判」 山岡家没落してお金が出せなかった(岩下哲典東洋大教授)
③『氷川清話』『海舟座談』の放談で、関係者がほとんど亡くなった後自分の功績と吹聴。
第2に、勝海舟が西郷との「江戸会談」前に準備したと言われる事前工作は、ことごとく、史実に反するか、その効果を伝える史料がないことを解説。
その1が、鉄舟は勝の使いではなかった(『海舟日記』『氷川清話』『談判筆記』)
その2が、「パークスの圧力」はなかったことを、英国公文書を中心に証明。
その3「江戸焦土作戦」、その4「人質作戦」は、実効があったことを証する史料がない。
そして第3に、「パークスの圧力」について、昨年の発表以後の検討を詳しく解説。
前回は、『一外交官の見た明治維新』(『サトウ回想録』)と、サトウの報告書(英文)および『海舟日記』を根拠に、勝の事前工作はなかったことを説明したが、今回はこれらに加え、新たな史料から検証を行った。
○“A Diplomat In Japan”に“used to visit”と書かれており、これは単なる過去の習慣で、(サトウが勝を)「訪問した」と言っているのではない。
○サトウの報告書(M-2)に、3月21日に勝に会ったと書いてある。ただこの会った日付が、“A Diplomat In Japan”には書かれておらず、したがってその翻訳である『サトウ回想録』にも書かれていないため、読者はそれ以前に会ったと思い込んでしまう。
○パークスのスタンレー外相宛に送った1回目の報告書に書かれた降伏条件の重要な内容が、勝の持っている情報と異なるため、これがサトウから報告されたものではなく、したがってサトウが勝に会っていなかったことが分かる。
○パークスのハモンド外務次官に送った報告書により、西郷・勝の「江戸会談」以前に、サトウが勝に会っていないことが証明される。「無いことの証明」、いわゆる「悪魔の証明」である。すなわち英国側は、旧幕府の責任者が、3月17日時点では誰か分かっっておらず、19日にそれが勝海舟であることが判明したため、サトウを再び江戸に派遣した、と書かれている。このことから、3月17日以前には英国側は勝にコンタクトしていなかったことが証明される。このように多くの英国公文書などから、「パークスの圧力」の勝工作説は否定されることが証明されたと論究されました。
なお、この研究内容の要点を小冊子『英国公文書などで読み解く江戸無血開城の新事実』にまとめ、5月例会参加者に配布され、さらに「山岡鉄舟研究会」の研究成果として、国会図書館、東京大学史料編纂所、東京大学図書館始め「無血開城」に関係の深い全国の大学図書館に納本し、また大学教授、マスコミ、作家等に謹呈し、多くの識者・研究団体から関心高い見解を受けていることも報告されました。
水野氏の緻密で深い洞察力からまとめられた『英国公文書などで読み解く江戸無血開城の新事実』冊子につきまして、そのご努力に感謝申し上げます。
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