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2017年3月24日 (金)

鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その十八

明治19年(1886)、天田五郎(愚庵)は大阪の新聞社・大阪内外新報社へ就職した。その際、鉄舟から「今まで両親や妹を十分に捜した。もう旅に出て捜すことはやめ、心の中に両親を求める修行をしなさい」と諭され、天龍寺の滴水禅師を紹介された。

滴水禅師は明治17年(1884)から洛北の修学院林丘寺住職も兼ねていたので、新聞社が休みとなる前日に、大阪から京都に出て、縄手三条の小川亭に泊まり、朝早く、滴水禅師のもとに参じた。

小川亭の女将テイは、池田屋で新選組に襲撃され奮戦するが自刃した宮部鼎蔵等の遺体を密かに葬ったり、勤皇の志士たちを匿ったりしたので、「勤皇婆さん」と呼ばれた有名な女将であった。

愚庵は「出家するときは親代わりになってもらいたい」とテイに時々話していて、テイも「ハイ。いつでも」と聞き流していたところ、ある日、突然、「出家する」と言いだした。

この頃の愚庵、新聞社の同僚、大橋丑次郎が親と妻子を抱え、安い給料で生活が厳しいので、彼を援助していた。しかし、大橋は結核に罹病、家族も感染してしまった。愚庵は懸命に看病したが、次々と一カ月の間に親と妻子、一家五人全員が亡くなってしまった。

木肌も新しい五つの卒塔婆の前に立って合掌する愚庵、その心の中に無情の嵐が荒れ狂いつつ、この時仏門に入る決心をしたという。

その決心をテイに伝えると、驚いて引き留めようとしたが、愚庵の決意は変わらない。それを理解したテイは、愚庵の出家に立ち会うことにした。

明治20年(1887)4月8日、釈迦誕生の日に出家が決まり、テイは身の回り品を整え、愚庵と共に林丘寺に向かった。

滴水禅師は儀式に従って愚庵の髪を剃り、法衣と偈(げ)文(もん)を与えた。
愚 八識を打破して、はじめて丈夫と称す

小智を認めるなかれ、須らく大愚に至るべし
明治丁亥仏誕生日書属小師鉄眼  林丘老師滴水

 偈文は、八識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那(まな)識(しき)・阿頼耶(あらや)識(しき))という人間の認識の働きや、妄念妄執の根元となるものを断ち切り、小賢しい智賢のとりことならず、徹底的な大愚の境に入れと滴水禅師から教えられ、これより名を五郎から鉄眼と改めた。34歳。

仏門に入った頃の歌がある。
「頭おろしける頃
 墨染の 麻の衣手 朝な朝な 手向くる花の 露に濡れつつ
 初めて托鉢したる折に 今朝いでて ほほとはいへど 舌たみて 初音優しき 黄鳥(うぐいす)の声」
 

翌明治21年(1888)7月21日午前9時15五分、鉄舟が逝去した。53歳。明治天皇おられる御所に向かって結跏趺坐し、死後も端然として崩れなかったという。正に坐脱であった。

翌22日、篠突くばかりの大雨の中、御所の前で十分間葬列を止めた。天皇・皇后陛下が高殿から目送されたという。
次郎長は子分二百名を引き連れ、折からの豪雨の中、ずぶ濡れになって泣きながら行列の先頭を歩いた。次郎長の装いは改心する前の博徒旅姿だったという。次郎長が鉄舟によって真の改心ができたという証を示したのだろう。

しかし、愚庵は葬儀に参列できなかった。ちょうど滴水禅師が山陰地方を巡錫(じゅんしゃく)中であり、林丘寺の留守をあずかる愚庵は京都を離れられず、激しく慟哭したであろう。

鉄舟が磐城戊辰戦争を起こした人見勝太郎等と関与したと愚庵は知らないが、悍馬のように走り回り、始末におえぬ自分を、時には厳しく、時には優しく導いてくれた鉄舟。もし鉄舟に会わねば、今の自分はなく、不逞の輩で終わったであろう。

走馬灯のごとく思い起こす数々の鉄舟との想い出。切々たる追慕の情が、このまま鉄舟墓前に走りたいと想う。だが、今は鉄舟が師と仰げと指示された滴水禅師の許、巡錫の間は思い留まざるを得ない。

愚庵は京都の相国寺で追善大法会を催した。導師は愚庵が滴水に次いで私淑する独園禅師である。法会に参席する中に「おれの師匠」の著者小倉鉄樹(てつじゅ)がいた。

小倉鉄樹の元名は渡辺伊三郎で、明治14年(1881)に春風館道場に入門した。ここで起居すること3年、鉄舟は伊三郎に鉄樹の名を与え、京都八幡円福寺の伽山老師のもとで3年間の禅門参修を命じた。

鉄舟臨終の報に、鉄樹は伽山老師の許しを得て、鉄舟の枕元に侍ろうと上京した。だが、鉄舟は「まだ3年経っていない。即刻帰って修行に精進せよ」と追い返されてしまった。

その後小倉庄之助の養子となって小倉鉄樹となったが、これに愚庵が関わっている。
「鉄眼は俺にとっても忘れられないなつかしい人だ。臨終にもついてゐた程懇意に往来したが、俺が死んだ家内の家へ入夫して小倉姓をなのるやうになったのも、鉄眼が媒酌をして呉れたからだ」と『おれの師匠』で小倉鉄樹が語っている。
小倉庄之助は一時巨万の富を擁した豪商であったが、日清戦争後に破産、失意のうち亡くなり、生活に窮した娘ちか子に鉄樹を愚庵が世話し結婚させたのである。
だが、ちか子は神戸小町と言われるほどの美人だったが、結核によって結婚後2年で亡くなった。その後添えが上村松園とともに日本を代表する女流画家小倉遊亀である。

昭和13年(1938) 鉄樹73歳、遊亀43歳。親子ほど歳の違う結婚には謂れ話がある。それを『画業60年記念、小倉遊亀』(朝日新聞社)で河北倫明氏が紹介している。
「このように比較的順調に仕事を伸ばした女史ではあつたが、ここでもう一つ越えなければならない転換期が来た。・・・・ちょうど、その時点に当って、女史がフトした機縁から熱海長畑山の修養道場『法恩閣』の小林法運に出会ったことは印象的である。女史は当時を回想して語っている。
『小林先生が゛お前さんはいい絵をかきたいだろうね゛といわれるから、はい、できましたら法隆寺の壁画みたいなものを一生に一枚でも・・・・と答えましたら゛バカヤロウ!絵なんか捨ててしまえ・・・・地位も、名誉も、金も、それに法もだぞ゛とどなれました。とらわれやすい心、甘えた根性を捨てよ、ということなんです。』

こうした強烈な刺激で、転換のきっかけをつかんだ女史は、昭和13年、43歳のとき、73歳の山岡鉄舟門下の禅徒小倉鉄樹と結婚して世間を驚かせた。これには小林法運から゛結婚して一人前の女になれ、半端人足じゃだめだ゛といわれたことも作用していたという。

それについて遊亀女史は、
『どうせ一ぺんしか生まれて来ないんだから、小倉先生のような方のそばにおらしていただいて、もう一ぺん自分をたたき直していただいた方が人間としてありがたいのではないかと真剣にそう思ったのです』(参照『歌人 天田愚庵の生涯』堀浩良)

明治23年(1890)の三回忌法会には、滴水禅師に従って上京、全生庵で鉄舟の菩提を弔った。

明治24年(1891)、父母妹を捜して諸国を遍歴すること20余年、今は心の中に父母妹を観入することができた愚庵、滴水禅師の許しを得て、林丘寺を去り、清水寺に登る産寧坂のほとりに、四畳半と二畳二間の小さな庵を結んだ。幼友達の江正敏(ごうまさとし)の喜捨であった。これを機に出家した際に滴水禅師から授けられた偈文から、庵も自らも「愚庵」と称した。

明治25年(1892)、正岡子規が高浜虚子を連れて、産寧坂に愚庵を訪ねて来た。この時はあいにく愚庵が留守であった。数日後、子規は再び虚子を伴って愚庵を訪ねて来た。三人は子規の手土産柚子味噌をなめながら、夜遅くまで語り合った。

明治26年(1893)、東京の子規を見舞ってから北海道の江正敏を訪ねたが、この度の途中で清水次郎長の訃報に接し、北海道の帰路、清水によって次郎長の追善供養をする。

明治26年9月、一つは父母妹菩提のため、二つは衆生結縁のため、西国33カ所巡礼を思い立ち、旅に出ることになった。愚庵はできるだけ多くの人の結縁を得るため、33カ所に因んで、一人3銭3厘の喜捨を求め、このことが『新聞日本』に掲載されると、たちまち1,550人も応募した。当時の3銭3厘は、かけそば一杯分くらいの価格だといわれている。

出発を前に、滴水禅師は笈摺(おいずる)を作ってくれた。笈摺とは、袖のない法被のことで巡拝の際に着るもので、 笈とは修験者などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱で、今でいうリュックのようなもの。

滴水禅師は笈摺の前の方に七言絶句の偈文を、背の方に『奉巡拝西国三十三所、京都東山鉄眼、同行千五百五十人』と書いて愚庵に与え、さらに、各札所の寺院宛に宿泊を求める紹介状を書いてくれた。
愚庵は、4つの道中約束事を定めた。
1. 道順は、先ず伊勢神宮と熊野三社に参拝し、その後は、番号順に巡礼すること。
2. 一カ所に一夜ずつ、参篭通夜すること。
3. 札所の他にも、近くの神仏霊場や名所旧跡を訪ねること。
4. 道中は、みだりに船、車、カゴなどの乗り物に乗らないこと。

9月20日、秋の彼岸の入り日に旅立ってから93日、清水の庵に帰って巡礼を無事終えることができ、詩歌も漢詩26篇、和歌33首を詠むことができた。
明治27年(1894)、西国三十三観音札所を巡拝した時の日記をまとめた『順礼日記』を発行することにした。

 滴水禅師は「善哉」と見開きにしたためた。禅の挨拶の言葉である。「さあー、ページを開いて『順礼日記』を読みましょう」とうながしている。

 題詞は天龍寺の法兄・峩山和尚と、愚庵の親友漢詩人・国分青崖。序文は郷里の大先輩で漢学者の大須賀次郎と、日本新聞社社長陸羯南である。

 この3カ月に及ぶ巡礼中、2度喀血し、『順礼日記』を出版するため上京した際、腎臓病にかかり、幸い病状が軽かったので京都に帰ってきたが、12月にも大喀血をおこし、一時は重態となり須磨に療養する羽目になった。少しずつ宿痾(しゅくあ)が忍び込んできていた。

 明治33年(1900)、明治天皇御陵地選定に内務大臣品川弥二郎が入洛したとき、愚庵は伏見桃山付近を案内した。この伏見を愚庵も気に入り、産寧坂の庵を売却して、指月の杜の緩やかな坂道が続く空地を手に入れ、庵の設計も愚庵が行い、居を移した。

 明治37年(1904)1月1日、愚庵は突然発熱し、自らの死期を悟った。あと一週間だろう。死にゆく準備を始めた。

 庵を処分し、借りたものは返し、残金は旧友知己に贈るため小分けにし、半紙約300枚に揮毫し、遺偈(ゆいげ)と辞世歌、遺言の覚などを書いた。
   遺偈
 氷魂向水散   氷魂(ひょうこん)水に向かって散じ
 銕骨入苔穿   銕骨(てつこつ)苔に入って穿(うが)つ
 月下人尋否   月下人尋ぬるや否や
 梅花白処烟   梅花白き処に烟(けぶ)る

   辞世歌
 大和田に 島もあらなく 梶緒(かじおお)たえ 漂ふ船の 行方知らずも
        (注 梶緒とは櫨(ろ)の綱のこと)

      覚
1.金銀米穀に不足なければ、今日より一切贈物を受け不申候
1.御見舞の御方は、一面の後直ちに御引取被下候が、第一の御親切と存候
1.死後は、遁世者の儀に付、葬式を為すを許さず
1.又塔を立つるを得ず
   学術に補益ありとせば、解剖するも不妨
1. 遺骸は二三の法弟に荼毘せしめ、近親と雖も埋葬するを許さず
  右の箇条何人も容喙(ようかい)するを得ず
明治37年1月14日      愚庵主人自記
  

生前になすべきことを終えた愚庵は、1月15日、薬餌一切を断った。16日、法弟に身を清めさせ、滴水禅師よりいただいた法衣に着替えて、床についた。
 

明治37年1月17日午後零時10分、法弟たちに読経を命じ、経を聞きながら示寂した。51歳だった。
 

愚庵の最期、明治20年に得度し禅僧となり、亡くなる明治37年まで17年間で、人はこのような心境変化が可能なのであろうか。

 あの悍馬のように各地を走り回った男が、鉄舟との出会いから、滴水禅師に師事し、修行を重ねた結果、自らの庵で示寂し、遺言で墓を造るなと明示して逝く。

 やはり普通人ではないと思う。鉄舟が初対面で推測したとおりである。愚庵は優れた脳細胞を所有していて、それを禅修行で顕現させたのだ。想い遺すことはないはずだ。

 しかし、残された愚庵を慕う弟子、友人は異なる感慨をもつのも正直な心情であろう。時が過ぎ、愚庵の33回忌(昭和11年1936)になったが、愚庵の遺言で墓を建てることができなく、遺骨は天龍寺にあるが、愚庵を知る人は次第に少なくなってきた。
 

それらの人々の中から、このままでは愚庵が忘れ去られていく。だが、墓は造れない。そうならば歌碑ならよいのでは・・・。

 愚庵が伏見桃山に庵を造った際、自分の庵の前にの家も設計していた。中川とは京都法政学校(現・立命館大学)の創立者であるが、伏見桃山ではいつも朝食を一緒にしていたという関係から中川等が歌碑建立を言い出した。
 

中川は愚庵の臨終を看取った法弟の一人、今は嵯峨の鹿王院住職である樋口実動師をはじめ、愚庵と関係のある人々と相談し、中川小十郎鹿王院歴代和尚の墓域に、愚庵の遺骨を埋め、愚庵の辞世歌を正面に、側面には父母妹の法名を彫り刻んだ石碑を歌碑として建立した。
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            愚庵の歌碑

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     刻まれた父母妹の法名
                     
 さらに、次の墓誌を腐食し難い銅板に、鏨(たがね)彫りをして、石碑の下に遺骨と一緒に埋めた。

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「天龍第一座愚庵鉄眼和尚 磐城平藩士嘗逢亂離失父母 踪跡数十年不得其所在 明治丁亥佛誕日 謁滴水禅師為僧示寂五十一 立命館總長中川小十郎等 深知愚庵者相謀為其父母建石以弔其霊并瘞愚庵遺骨  時維昭和丙子年1月17日 鹿王院 樋口實堂 撰」
この墓誌の意は「天龍寺の愚庵和尚は、磐城平藩士です。戊辰の戦乱で父母が行方不明。その後、数十年捜し続けたが見つけることができなかった。明治20年(1887)、釈迦誕生の4月8日。滴水禅師にお願いして仏門に入り、51歳で亡くなった。立命館総長の中川小十郎らが、愚庵と親しかった人たちと相談して、愚庵の父母の石碑を建てて、その霊を弔い、あわせて、愚庵の遺骨を埋めた。
 時は、昭和11年(1936)1月17日で、鹿王院の樋口實堂和尚が代表して書きました」(参照 愚庵物語 柳内守一)

 これで「鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編」を終えるが、ここで気づいたことがある。愚庵は墓を造るなと遺言したが、時間の経過とともに、愚庵を知る人々は少なくなっていくにつれ、愚庵という人物が社会へ成した貢献や影響力についても、忘れられて行きやすい。これは愚庵の影響を受けた者たちにとって受け入れがたい感覚である。
 

愚庵という人物を、いつまでも世の中に遺していきたい。そのためには遺言に反するが、墓や銅像等を造るこが必要ではないか。

 そう想いはせる人々がいてもよいのではないかと考える。筆者が愚庵を書き述べてきたことも、その想いの一貫である。師の想いに反することも、弟子の想いであろう。

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