鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その十七
西郷従道が率いる日本軍は、明治7年(1874)5月から6月にかけて、台湾西南部の社寮港に全軍集結し、本格的な制圧を開始。牡丹社など事件発生地域を占領した。敵は当時蛮族といわれていた台湾未開地の原住民であり、武器類も刀剣が主なものであって、戦闘は簡単に片付いた。
(新編日本史図表 第一学習社)
だが清国は、台湾征討は日本の軍事的侵略行為であると決めつけて来た。それに対する日本外交は大久保利通が全権大使として北京に赴いたが、交渉は遅々として進まず、国内は清国と戦争になるのではと日毎に騒然としてきた。
この状況下、五郎は憤慨し「清国討つべし」と口角泡をとばし、壮士仲間を歴訪すべく、京都、大阪から福岡に渡った。
しかし、五郎の期待に反して、日清交渉は急転直下妥結した。大久保の粘り強い交渉努力の結果であった。
この間、博多で五郎は、戊辰戦争で平城を攻撃した薩摩藩の小隊長だった財部羗(すすむ・鮫島高朗)と知り合い、父母妹を捜していることを伝えた。
同情した財部は、陸軍少将の桐野利秋を紹介してくれ、紹介状を持ち鹿児島の桐野を訪ねた。鹿児島で五郎はかなり優遇されたようである。
翌明治8年(1875)の春まで鹿児島に滞在した五郎が、帰京しようとすると、鹿児島県庁から出頭命令があり、何ごとかと行くと、旅費として金一封が支給された。
路銀ができた五郎は、天草、長崎などを回って帰路につき、東京に戻ると、待ち受けていたのは警視庁の拘引状であった。
血写経では「五郎は同志の者数人と共に警視の廰へ引かれ数月の間拘留の上、不応為罪を以て禁獄30日に処せられたり」と記している。
拘引された理由としては、日清交渉問題で過激な発言を続けたことなのか、それとも鹿児島に桐野を訪ねたことなのかは述べていないが、不応為罪として罰せられたのである。
不応為罪とは「特に律令にあてはまる条例がなくても、裁判官がなすべきでないと考えた場合には処罰することができる」という不応為条に基づくものであった。なお、不応為条は明治15年(1882)刑法(旧刑法)施行によって廃止されている。
五郎の場合、数カ月の尋問にもかかわらず明治初年の刑法に照らして、罰すべき罪状を見出し得なかったが「お前はうろうろ歩きおってけしからぬ奴だ。よって30日間獄につなぐ」ということになったのであろう。(参照『歌人 天田愚庵の生涯』堀浩良)
30日間の刑期終え出所した五郎、「父母を尋ねる心をおろそかにしていたために、天罰をこうむったのだ」と深く悔い、ひとまず故郷に帰り、兄にも会わんと、明治9年(1876)春、上京してからはじめていわき平に戻った。5年ぶりであった。
この時、詠んだ歌が、愚庵の記録に載る最初の歌である。(参照 愚庵物語 柳内守一)
「移れば変はる習ひとて、さしも厳めしかりし城の趾(あと)は牛飼葉となりて、
春草離々たる士族屋敷は、大かた跡もなく、春知り顔に菜の花の、
唯一面に咲きにほへるも、我が眼には恨めしくて
吹く風は 問えど答へず 菜の花の 何処(いずこ)やもとの 住家(すみか)なるらん」
この歌が述べる情景、筆者がはじめていわき平城址を訪ねたときと同じである。勿論、今は愚庵が詠んだ「牛飼葉」や「菜の花が一面に咲き」という景色はない。それに代わっているのは一般民家である。城内の道は敵の侵入を阻むために細く曲がりくねっているが、それに沿うよう建ち並ぶ有り様は、城跡という実感が浮かばない。
しかし、歌の「我が眼には恨めしく」については同感で、五郎は城がないという実態を涙したであろう。
ところで福島民報(平成28年1月6日)で「平城跡市有化へ」と報道された。現在、本丸跡の芝生広場と住宅は民有地であるが、これを「市有化に向けた作業を進めたい」といわき市長が新春記者会見で明らかにしたのである。強力に推進してほしいと思うし、ようやく行政が動き出したのかと少しほっとする。
さて五郎、兄に会うのも久し振りで、故郷で半月余り過ごした五郎は、再び、奥州各地を探索しつつ、藩校時代の友人である江正敏を函館に訪ねた。
北海道にまで父母妹が来ているはずはないと思ったが、江正敏が函館近くに漁場を持ち、製糖業まで営んで、なかなかの羽振りであったので、心おきなく江のところで過ごし、これから北海道奥深く行こうとしたある日、突然喀血した。
幸い、江の手厚い看護によって回復に向かったが、この酷寒の地では、再び喀血することもあろうかと江から諭され、東京に戻った。これが明治10年(1877)春のこと。
時は西南戦争が勃発、世の中が騒然となっているタイミング、今までの五郎であったならば、桐野俊秋から餞別を受け取った身、直ちに鹿児島へと馳せ参じたかもしれないが、血写経には次のように記されているのみ。
「西郷隆盛が兵を九州に起したりとて、東京の騒動一方ならず、五郎は子細ありて伊丹信義氏と共に浅草梅園院の寺中に宿し、山岡鉄太郎氏の扶持を受けて居たり」
五郎は動かなかった。否、「動かない」ようにさせられたのであろう。
血写経には「函館から上京し鉄舟を訪ねた」との記述がないが、「山岡鉄太郎氏の扶持を受けて居たり」とあるので、上京してすぐに鉄舟を訪ねたか、又は、鉄舟が心配して五郎を捕捉したのかもしれない。
血写経の「子細ありて伊丹信義氏と共に浅草梅園院の寺中に宿し」、この伊丹とは何者かは不明だが、一緒に寺院にいることを推察するに、伊丹は見張り人ではなかったかと思う。それを暗示するのが「子細ありて」で、多分、鉄舟が五郎の突拍子もない行動を警戒し、浅草寺院に抑留させたのではないか。
既に述べたように、鉄舟は五郎が後年に発揮する潜在的な脳力を見抜いている。だが、ここで九州へ飛ぶことを許すと、その潜在力の未来は危険な状態になる。ここは手許において監督しておこう。そのため伊丹の監視のもとで監禁しよう。
鉄舟の五郎に対する特別な思い入れが、そのような状態にさせたと思うが、さらに、この時点で五郎が職業を持っていないことに、改めて気づき、近いうちに何とかしなければとも思い始めていたであろう。
そのような時、五郎にとって恩人の一人で、石油会社を経営している小池祥敬が病に倒れた。小池にとって石油事業は「士族の商法」で、経営不振で破産、病に伏したのである。
かつて多くの人の面倒を見た小池であるが、落ちぶれるとほとんどの人は寄りつかず、窮状を知るや、五郎は鉄舟、落合直亮、権田直助等、小池の旧知からの援助を得て、小池家の生活を支えたが、失意のうちに小池はこの世を去った。
五郎は、再び、鉄舟はじめ各方面を奔走し葬式を営み、未亡人と5人の遺子を京都の親類方へ送りとどけた。
翌明治11年(1878)、五郎は再び動き出した。
血写経に「松川杢蔵氏と思ふ旨ありて二人密かに大阪に赴かんとて、身を商人に扮装て、駿河國原の宿に泊りける」とある。
この「思ふ旨ありて二人密かに大阪に」とはどのような背景なのか。『愚庵ノート』(中柴光泰)では、「晩春、土佐愛国社(明治8年板垣退助等創立)の同志として計画するところあって、松川杢蔵(喜三郎)と共に商人に扮装して西下した」と書かれている。
この当時、板垣が創設した土佐愛国社は消滅していたが、もともと大阪で結成された全国的政治結社であり、再び、大阪で再興すべく「愛国社再興趣意書」をもって広く同志を募り、9月に「愛国社再興大会」を大阪にて開催することを発表していた。五郎が鉄舟に隠れて東京から姿を消したのはこの頃である。ここでも五郎の壮士気分が行動させたのであった。
明治11年の日本は大変な年だった。5月14日に大久保利通が暗殺され、8月23日に竹橋事件発生、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件である。
そのような騒然たる状況下、明治天皇の巡幸が8月30日~11月9日にかけて北陸・東海道地方へ行われた。供奉するのは右大臣岩倉具視、参議大隈重信を筆頭に800名に及ぶ大行列で、その中に宮内大書記官の鉄舟もいた。
鉄舟は五郎の東京出奔を心配していた。このまま壮士気分で思うままに動かせたら、五郎の持つ「地力」ともいえる輝く何かが消え失せる。だから、五郎の壮士気分を変えさせなければならない。
巡幸一行が京都に到着したのが10月16日。鉄舟は五郎がまだ大阪付近にいるだろうと、粟津清秀なる者に所在を探させたが不明。鉄舟はやむなく一書をしたため三宅某なる者に託し、供奉の列に加わった。
それから数日後、三宅はようやく五郎を捕まえ鉄舟書を渡した。書には次のようにあった。
「急に東京に立帰るべし。さなくば不慮の禍ひにも掛りつべし」
詳しいことは分からないが、この書からは容易ならざる危険が自分に迫っていると感じ、すぐに五郎は大阪を引き払い、鉄舟を追って11月3日、静岡の旅館にいる鉄舟の前に現れた。
「この尻軽猿め。何故、わしに一言もなく東京を飛び出したのだ」
鉄舟は大声で怒鳴りつけた。その時、ちょうど次郎長が訪れて来た。
ご存知のように次郎長の地盤は静岡であるから、鉄舟のところへ挨拶に来るのは当然だろうが、五郎がいる際に来たというのには何かの意図があったに違いない。偶然とは思えない。
この当時の五郎、後年の愚庵とは違って、父母妹の捜索を一生の宿願と宣言しながらも、天下国家に殉ぜんという客気強く、壮士気取りで各方面へ鉄砲玉のように飛び跳ねている。
鉄舟から見ると、五郎は自分という本質を分かっていない。自分にはどのような潜在脳力があるのか、それを全く理解していないし、知ろうともしていない。誠に嘆かわしい。お粗末極まりない。
いつか気づきの機会を与えなければと思っていたが、鉄舟は手取り足取りして教える人物ではない。自ら体得させるしかないが、それを行わせるに格好の材料人物が次郎長だった。
ご存知の通り次郎長は博徒、つまり賭場で骰子(さいころ)賭博をしてお金を稼ぐか、賭場を運営してテラ銭を稼ぐことで資金を得るという、世に言うアウトロー稼業であった。
しかし、この頃の次郎長は清水一家をあげて堅気の世界に転身していた。その変身について、静岡市清水区・梅陰禅寺にある銅板に次のように刻字している。
「明治初年、未だ蒸気船などに乗る事を嫌ふ時代に盛んに之を説き回って開港場としての清水今日の端をひらいたのも彼である。明治三年江戸から英語教師を伴れて来て地方青年に教え弘めたのも彼である。富士の裾野を開墾したのも彼である」と。
この内容、無宿博徒として喧嘩に明け暮れしていた武闘派次郎長ではなく、人間改造を遂げた成果として掲げているが、このような転身内容、次郎長が自分自身で時代の流れを敏感につみ、己の考えで行動したとは、とても思えない。
二十三歳で博打のもつれから喧嘩、障害沙汰となって、無宿者に落ち、清水を出奔した次郎長である。体に博徒の灰汁がつきすぎている。それをきれいさっぱり明治と共に消し去り、社会福祉事業家へ転身したのである。この見事すぎる背景に何があったのか。
それは勿論、鉄舟との出会いからである。その二人の邂逅場面については既に「東海遊侠伝」編で述べたので省略するが、次郎長は剣・禅・書で鍛えあげ、完成された鉄舟いう人間力に、心から感心し、惚れたからであった。
つまり、斬った張ったの博徒世界で鍛え生抜いてきた次郎長が、鉄舟に師事することで、己の中に隠れていた次元、それまで気がつかなかった「閾値」ともいえるものを引き出し得て、無宿・無頼の渡世からキッパリと足を洗ったのである。
同様のことを五郎にもさせたい。そのためには大変身した次郎長のところにおくことがよいだろう。これが鉄舟の五郎に対する「特別な想い」であった。
次郎長は五郎を清水港に連れ帰った。アウトローの仲間のルートを利用して父母妹を捜すためにも都合がよかったはずだが、それより五郎は素晴らしいことを成し遂げた。それは「次郎長物語 東海遊侠伝」を書き上げたことである。
「東海遊侠伝」が刊行されたのは、次郎長に会ってから6年後の明治17年(1884)4月、天田愚案が山本姓を名乗り、鉄眉と号し、愚案31歳、次郎長65歳、鉄舟48歳のときである。
洋装(いわゆるボール表紙本)の一冊で、成島柳北閲、山本鉄眉著、縦19.1cm×横12.9cm、本文160頁、タイトルは「東海遊侠伝 一名次郎長物語」、輿論社から発行された。
巻頭には次郎長の肖像画、次が鉄舟の描く富士山と大小二個の髑髏、そこに勝海舟が「鷹峰秀峰雲間、天風常飄々」と賛をした書を掲げ、後に衆議院議長や文部大臣になった大岡育蔵が序文を書いている。鉄舟と海舟に加え、朝野新聞の社長である成島柳北閲という豪華顔ぶれである。
この「東海遊侠伝」を種本として子母澤寛や岡本綺堂などの作家・劇作者が次郎長に関する著作を多数書き、それに講釈師の三代目神田伯山と、浪曲師の広沢虎造が加わって次郎長人気は決定的となったが、その背景要因に鉄舟が存在していたのである。
明治12年(1879)秋のはじめ、兄の真武から福島町(福島市)に転居したという知らせがあり、逢いたくなり鉄舟に旅に出る許しを得て兄のもとへと向かった。
兄は平藩が亡くなったとき、藩士たちに配られた家禄奉還金だと200円を五郎に渡した。このお金で五郎は新聞に探索の広告を出す。
見つけてくれた人に謝礼金百円を出すというもの。そのころの米価は、一石(1500㎏)8円1銭。新聞代は月に25銭であった。(参照 愚庵物語)
(東海遊侠伝より)
この頃、ようやく五郎は何か手に職をつけねばと思ったようで、写真師になろうと決めて、日本一の写真師と言われた江崎礼二の門を叩いたが、門前払い。鉄舟にその旨を報告すると、来客で来ていた老人が「江崎ならよく知っている。話してみよう」という。
その老人とは五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)で、は江戸時代末期から明治初期にかけて活躍した洋画家、浮世絵師で、この五姓田の紹介で江崎に弟子入れする。
明治13年(1880)、写真術をマスターした五郎、小田原で写真店を開業したが、父母妹を捜すには、旅の写真師になるのがよいだろうと、写真機を担いで旅に出て、熱海、伊豆、東海道を経て京都、それから引き返し東山道から甲信諸国を回ったが、探索の効果なく、やむなく東京に戻った。
明治14年(1881)、再び数社の新聞に父母妹探索広告を出したが、いずれも効果なく終わった。
この年の3月、次郎長に見込まれ、鉄舟の世話で次郎長の養子、山本五郎となり、富士の裾野の開墾事業を多くの博徒を率いて行ったが、「元より無頼(ぶらい)懶惰(らんだ)の博徒共なれば、畑うち耕る骨折に堪えず、果は逃亡する輩さへあり、特には極めて痩地なれば穀菜も多くは生育せず、さるにても此まゝに打棄んも口惜しと、二三年いろいろに力を盡したれとも、末望なき事業なれば、其由を次郎長に説き、開墾地監督の事を止める・・・」次郎長も五郎の訴えを聞くまでもなく、これ以上の開墾経営は不可能と考えていた。
明治17年(1884)秋、下総の猫実村(千葉県浦安市)にある有栖川宮家の開墾地の監督にスカウトされた五郎、鉄舟に相談し次郎長から離籍し清水港を去った。
その際、鉄舟は「一旦の親は、すなわち終身の親なり」と言い聞かせた。五郎31歳であった。
明治19年(1886)、大阪の大阪内外新報社という新聞社に勤めることになった。鉄舟はそのことを知ると、「そうか。大阪と京都は近い。私の禅の師匠である天龍寺の滴水禅師を訪ねるのがよかろう。お前は今まで両親や妹を十分に捜した。もう旅に出て捜すことはやめて、心の中に両親を求めるよう修行したらよいだろう」と滴水禅師への紹介状を与えた。
この2年後鉄舟は逝く。この愚庵連載もわずかとなった。
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