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2017年1月

2017年1月26日 (木)

2017年2月例会について

2017年2月開催は以下の内容で行います
   

   開催日  2017年2月15日(水) 
   時間   18時30分~20時
      会場   東京文化会館・中会議室1
   会費   1500円
   発表者  高橋育郎氏・・・里見武士道考察
        山本紀久雄・・・三遊亭円朝研究

2017年3月例会
  

   3月は喜多村園子氏からご発表いただきます。
     開催日   2017年3月15日(水)
     時間    18時30分~20時
        会場    東京文化会館・中会議室1
     発表者   喜多村園子氏
     テーマ   「良寛を今に伝えた小林二郎伝」(鉄舟門人)

2017年1月例会開催結果

新年最初の例会は永冨明郎氏からご発表いただきました。
テーマは、「慶応元年兵庫沖外国艦隊集結事件について」で、木下雄次郎氏が所蔵されている「慶応元年兵庫開港要求事件 関連文書」を永冨氏が読み解き、解説を展開していただきました。
 1. 木下雄次郎氏所蔵原文
 Img_20170122_0002

 原文は79行ですが、文頭に数字書き込みした11行のみを上記しました。

全文ご希望の方はお申し出いただけますようお願いいたします。

 

2.原文読み下し(注=本文中のカッコ内は引用者注)
1. 日本新○○○編巻五
2. 西暦1865年11月○我が慶応元年
3. 乙丑9月16日刊行日本雑報第百
4. 九十三号○○
5. 近日出帆軍艦表
6. 英国軍艦プリンセスローヤル(プリンセス・ロイヤル)英国欽差乗り込み
7. 同  レオハルト(レパード)  同 ヘロリエス(ペラロス)
8. 同 フンセル(バウンサー)  同 アトキユス(?)  仏国軍船キユーリーロ(グエリエール)
9. 仏国欽差乗り込み 同ドプレイ(デユプレクス)  同キンサン(キャンシャン)
10. 阿蘭国軍船ソウトマン(ズートマン) 阿国欽差乗り込み
11. 以上9艘 西暦11月1日即ち我が9月13日大坂に出
  (こちらも全文ご希望の方お申し出願います)

3.文書の性格について解説
① 本書は「慶応元年四カ国艦隊兵庫沖集結事件」と称されるものの関連記事である。
② 既に横浜は開港以来5年以上を経過しており、外人商館などが立ち並び、彼らの間では現地新聞のようなものが流布していた。本書は、そうした外人相手の新聞の和訳ものと推測される。本文3-4行の「日本雑報」がこれと思われる。
また末尾に「訳者 枡川春三、玉原孫四郎?」とある。おそらく異人間で動いていた英字新聞を、急いで和訳して奉行所にでも提出したものか。
③ 本書では、その慶応元年9月13日、横浜港で集結した四カ国の艦船が兵庫に向けて出航する際の様子、また四カ国側の交渉の狙い、などについて触れている。

4.本事件の発端経緯解説
① 慶応元年(1865)閏5月、英国公使としてハリー・パークスが着任し、前任のニール、中継ぎの臨時公使・ウインチェスターらから状況を聞くと、現在の日本政情の混乱の根本原因は、安政五カ国条約が実は天皇の勅許を得ていないことによると判断した。
② 英国は文久二年(1862)の生麦事件以来、その報復である薩英戦争(文久三年7月)などで薩摩と直接交渉を持っており、その経緯からも、上記の日本認識を得ていた。同時に英国は文久三年5月の下関砲撃事件、その前年の生麦事件の賠償問題も抱えていた。
③ そこでパークスは、下関で被害を受けた米、蘭、仏に呼び掛けて、四カ国連合艦隊を朝廷に近い摂津兵庫沖に向わせて、強引に幕府との交渉打開を図った。これが慶応元年四カ国艦隊兵庫沖集結事件(兵庫沖事件)と呼ばれるものである。
④ この慶応元年夏には、長州征伐(第二次)のため将軍家茂が大坂城に入っており、これも兵庫周辺での交渉に有利と、諸外国が判断したもの。
⑤ 四カ国側の要求は主に三つで、本文中にも、それらのことが触れられている。
1)安政五カ国条約に対する天皇の正式勅許を得ること
2)兵庫開港(西暦1868年元旦=慶応3年12月9日)の前倒し実行
3)下関砲撃事件の賠償を幕府として対応すること
⑥ 幕府は老中を派遣して四カ国側と交渉に当たるが、紆余曲折があり、四カ国側は10月1日、10日以内の勅許がなければ直接京都へ向かうとの最後通牒を幕府に示す。
⑦ この事態を解決したのが一橋慶喜で、自ら参内し、有力皇族・公家の居並ぶ前で「勅許を拒むと、諸外国の軍隊が京都まで乗り込んでくる。天皇の身も保障できない」と詰め寄り、更には 「どうしても勅許が頂けないなら自分はこの場で腹を切る。そうなると自分の配下がどのような行動に出るか、考えてみられるがよい」と天皇を半ば脅迫し、一昼夜に及ぶ会議の末、ようやく天皇の了承を取り付ける(10月7日)。
⑧ 翌日、先の安政五カ国条約の正式勅許が出たことを四カ国側に伝えた。幕府は併せて、下関砲撃事件に対する賠償金300万ドルについても、幕府が負担することを回答した。
⑨ 兵庫開港の期限は前倒しとならなかったが、条約の正式勅許により、交渉では勝利したと判断し、四カ国側が船を引いた。

4. 総括=本事件の影響解説
① 元治元年(1864)の蛤御門変を境に、長州系攘夷運動はいったん鳴りを潜める。これによって幕府は内政面では優位を獲得したかに見えたが、一方で幕府に対する諸外国の圧力は更に増していた。本書が示す慶応元年9月の「四カ国艦隊兵庫沖集結事件」はまさにその圧力の象徴である。
② 蛤御門変で長州が朝敵となって以後も、依然として孝明帝は「夷人嫌い」を変えていないことも、本書の経緯が物語っている。この「夷人嫌い」を論拠とした長州系攘夷派は押さえ込んだ(ように見えた)一方で、それで貿易を阻害されている列強からは依然として幕府批判材料となっていることを象徴した事件である。
③ ペリー来航以後の政争は、この「攘夷論」対「開国論」の対立をベースとしてきた。とりわけ安政五年の五カ国条約締結後は、これを天皇が認めていないという事実を背景に、もう一度条約を破棄(破約)し、異人を排斥する(攘夷)という政治主張が幕府攻撃の論拠であった。
しかしこの「兵庫沖艦隊集結事件」によって孝明天皇が安政五カ国条約に勅許を下され
たことにより反幕派の「攘夷」論拠は失われる。これに代わって、「(貿易を独占してい
る)幕府批判」=ひいては「討幕」論に移る。
④ 密かに、最もその点を狙っていたのが薩摩藩であり、第二次長州征伐への不参加表明と薩長同盟(この事件の四ヵ月後=慶応2年1月)締結でその路線を明確にすることになる。
⑤ その意味においても、当事件は幕末史のなかの大きな転換点であったが、従来の歴史認識ではあまり重要視されておらない現状について、改めて強く認識すべきと永冨氏は主張された。

5. 最後に永冨氏による徳川慶喜への見解を紹介したい。
それは、孝明天皇から勅許を引き出す際の一橋慶喜の姿勢は極めて強硬だったことからの見解であり、慶喜が朝廷を相手にこれほど強気に出られた背景を推測するに、次の2点が考えられると述べられた。
① 文久二年(1862)7月に幕府より「将軍後見職」に任じられ、翌年早々に京都入りすると、元治元年(1864)3月、朝廷より「禁裏守衛総督」を命じられる。その年7月の蛤御門変では京都守護職(会津)以下薩摩藩などの部隊を陣頭指揮して長州軍と戦い、その排除に成功している。
つまり慶喜は幕府側の駐京の実質総責任者であり、かつ朝廷からも全幅の信頼を得ているという、対立する双方のリーダー格であった。しかも御所防衛に実績を残している。そこから来る強烈な自信があったものと思われる。
② そもそも慶喜は、母方(登美宮=有栖川織仁親王娘)を4代遡ると霊元天皇(在位1663~1687、孝明帝の9代前)に繋がる。加えて水戸学の中で育っており、幕府も朝廷も併せて俯瞰できる客観性を持っていた。
本事件に直面した時、その客観性に前項の自信が加わり、天皇を天皇とも思わぬ強い発言、行動となったのではないか。
③ ついでに言えば、その「客観性」、つまりは日本を総体として把握して先を読める性格が、慶応四年正月6日の大坂脱出となってしまうのではないか。

いつもながら永冨氏の、歴史認識を全体像から洞察し、そこから導き出された「慶応元年兵庫開港要求事件 関連文書」の読み解きと解説に深く感謝申し上げます。

 

なお、青山忠正佛教大学教授は、その著書『幕末維新奔流の時代』143頁で、慶喜について以下の見解を述べていますので、ご参考までに記述します。
 「慶喜はのちに、自分が幕末に死を決したことは三度あるが、これがその内の一つだと語っている。(注・今回検討した安政五カ国条約の正式勅許のこと) ちなみに、あとの二つは、禁門の変と江戸開城の際という」

鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その十六

慶応4年(1868)6月16日、新政府軍は平潟に上陸した。翌17日、人見勝太郎が指揮する遊撃隊、請西藩、岡崎脱藩士、仙台藩、平藩、泉藩、湯長谷藩等の同盟軍は迎撃戦に入った。
遊撃隊について上妻又四郎著『磐城三藩の戊辰戦争』は、大山柏の『戊辰役戦史』を参考に、次のように述べている。

「『大島軍によって総野戦争が起こり、衝鋒隊によって北陸戦争が生じたのであって、これ等は、いずれも脱走軍なのである。再言すれば、大久保一翁、勝海舟等の策謀によって江戸の静穏をかちえた代わりに戦乱のバチルスを東日本に振りまいた結果となった』
大山は幕府脱走軍である大鳥圭介軍によって下総及び下野各地で戦争が起こり、古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊によって北陸戦争が起こったとし、幕府脱走軍こそが、東日本における戦乱のバチルス(大腸菌・コレラ菌等最近の総称)であったとする。
遊撃隊一同も磐城にまかれたバチルスだったのである。遊撃隊一同が、磐城に宿陣していなかったならば、磐城三藩は、政府軍の平潟出頭要請に応じていたかもしれないのである。もし、このことが実現していたならば磐城の戊辰戦争の様相は全く異なったものとなっていただろう。磐城の戊辰戦争は、遊撃隊によって始められたといっても過言でないのである。」

この見解も分かる。

だが、磐城の地に来た遊撃隊は、鉄舟が箱根・御殿場に赴き、戦いを止めるよう説得したが、「ただ微衷(びちゅう)(注 まごころ)をつくすのみ」という「義」を具現化する意志を崩せず失敗、その延長で、磐城の地へ辿りついたわけで、明らかに海舟と大久保一翁の策謀ではない。
また、遊撃隊が磐城に留まったのは、6月2日、遊撃隊以下が小名浜沖に蒸気船で現れ、これから仙台に向かう予定であり、石炭を積み込み、明日出発すると答えたところ、平城下に出張ってきていた仙台藩の幹部から、仙台藩に問い合わせするから、それまで磐城の地に逗留するよう談判があったため。(『磐城三藩の戊辰戦争』)
さらに、人見一行が湯本に滞留している16日に、新政府軍の平潟上陸がなされ、磐城三藩と仙台藩を交えて軍議が行われた結果、人見が主導権を握り、進撃指揮がなされたわけで、奥羽列藩同盟の盟主たる仙台藩の意向が大きかった。

その上、6月17日の戦いで仙台藩兵に絶望した遊撃隊一行は、「遊撃隊全軍が会津若松に向かうことを決議したが、平藩の老藩主や仙台藩の重臣古田山三郎らが磐城滞在を願い、やむを得ず滞在することにした」(林昌之助戊辰出陣記)という経緯からも、磐城での戊辰戦争を引き起こした誘因は、平藩と仙台藩にもあったと考えるのが妥当だろう。

さて、17日以後、新政府軍には柳河兵と岡山兵が参加し、計1600の兵力となった。対する東北勢の同盟軍には、相馬中村兵、米沢兵、会津藩純義隊等が来援し、磐城での戊辰戦争はいよいよ熾烈さを増していく。
24日から始まった八幡山第二次の戦いで、またしても同盟軍は潰走、28日新田峠でも同盟軍が敗走瓦解し、泉藩・泉城が落城、29日には湯長谷陣屋も陥落したため、泉兵、湯長谷兵は平城に入って籠城準備に入った。

この時、突然、29日に至って榎本武揚より密書が届いた。
「時に海軍の長榎本(武揚)から密使来たり、我公(林)及び遊撃隊に密書を建す。(略)徳川家70万石にお取り立てありしと、軍事方当番へ御達しありのみなりき」(檜山省吾『慶応戊辰戦争日記』)
既に5月24日、徳川家は駿河国70万石と、新政府から通知されていたが、それから一カ月以上経過している29日に、この事実を榎本密使から聞いたのである。

それが理由なのか、29日の午後2時に至って、突如、人見等遊撃隊一行は「しばらく休息したい」という理由をもって、磐城から離脱し、相馬中村に向かったのである。
これに関して『磐城三藩の戊辰戦争』は以下のように指摘する。
① 新政府軍が平城に迫り攻防を繰り返しているその時、指揮を執っていた人見等が相馬中村に向かうのは敵前逃亡である。
② 人見等が離脱したのは、仙台藩の大軍が戦わずして逃げたことか、それとも安藤信正が城を出たので落城すると考えたのか。
③ 又は、この時、榎本武揚より密書が届いたことからか。
いずれにしても、人見等は去り、以後、同盟軍は新政府軍の猛攻に苦戦を続け、結果として7月13日平城落城、これをもって磐城の戊辰戦争は終りを告げた。

一方、人見勝之助と伊庭八郎等は相馬中村以降、様々な経緯を経て、榎本武揚のいる蝦夷地へ向かったが、林昌之助は「降伏謝罪」の道を選んだ。

 林昌之助は「一夢林翁戊辰出陣記」という回想録を残している。「一夢」とは林昌之助晩年の雅号であるが、降伏理由を次のように述べている。(中村彰彦著『脱藩大名の戊辰戦争』)
 「素より(人見たち、ないし榎本艦隊とは)同盟のことなればひとたび(は)塩竈に赴きたりと雖も、元来(自分は)徳川氏の永く亡滅にいたらんことを惕(おそれ)み(恐れ)、その冤を雪がんとの挙に出たり。しかるに朝廷寛大の御処置をもってその(徳川家)祀を存せられ(家名を存続させ)、今、さらに奥羽の同盟ことごとく降伏し、輪王寺宮もまた謝罪したもうに、猶も官軍に抗して罪を重ぬるは本意にあらず。予は速かに、甘んじて天刑に就かんと決心せり」
このように、林は6月29日榎本武揚の密使によって、徳川家が所領を駿府に70万石として存続することが、明らかになったことを理由にしている。
 林は降伏後、仙台藩が指定した八塚(仙台市)の林香院で謹慎した。林香院に入った林一行は20名であった。

鉄舟が愚庵へ肩入れした背景を探るべく、長らく戊辰戦争を検討してきたが、ここから主題に戻って鉄舟と天田愚庵の出会いについて述べていきたい。
まずは、戊辰戦争後の愚庵の動向である。

磐城の地での戊辰戦争が終り、次いで9月4日の米沢藩降伏、9月15日仙台藩降伏、9月22日、会津藩降伏によって東北における戦いは全て終わった。
戦場に赴いた甘田久五郎(愚庵)も、平落城後、仙台へと落ち延びたが、平藩地で謹慎を命じられた。『血写経』は次のように語る。

「平藩士は一まず舊知へ立ち帰り、更に朝命を待つべきの由沙汰せられければ、帰る故郷の山々は錦をかざりて待ちやせん。照る楓葉に身を慙ぢて、著るは嵐の木の葉衣、射残された雁金の、心もなく立出る青葉の山は名のみなり、朝の露夕の風、あはれも日數もそはり行きて、野の草中に横たわる屍を見るに、死なぬ我袖を掩うて一雫、涙を手向け定めなき、よつ倉久の濱打過て、はるかに見ゆる岩城の平、父母は恙なく坐しますか、妹もやさしき者なれば、我々の歸ると聞き、定めて悦び迎ひにも出ん。父母も待ちかねて道に出て玉はんも知れず、何より語り何より問んなど忍び續けて、久五郎は迎ひに集ひし人の中に心をとめて尋ぬれど、如何にやしたる妹も見えず、懐しき父母の影もなし、知りたる者に逢ふごとに、先づ何は措き父母の事を問えど、所在も行方も知る者なし」
ひとまず小泉村(いわき市・小泉)の瑞光寺で待命したが、そこで知ったのは疎開先にいるはずの父母妹が行方不明ということ。
そのうち新川町に設けられた復員局に兄善蔵が勤めていると聞き、会いに行き尋ねたが、善蔵も行方は知らず、兄と久五郎は、毎日心当たりを探したが、手掛かりはつかめない。
皮肉にも、戦場に向かった兄弟は命を拾い、故郷に残った父母妹は行方不明。久五郎は「生涯をかけて探し出すぞ!」とこのとき決心したのである。
翌明治2年(1869)の春、民生局磐城政務庁に捜索を依頼したが、行方は依然として不明。兄善蔵は「関東・新潟・山形・秋田あたりを捜して来る」と、易者の姿をして出かけた。
戦争が終って間もないので、士族の旅は厳しく、易者のような姿での旅は割合見逃されると考えたからである。

久五郎も同行しようとしたが、「経済的にも大変だから、お前は学問をしながら近いところを捜しなさい」といわれ、近くを歩き回ったが分からず、善蔵の旅も徒労に終わった。
久五郎は捜しながらの学問を、磐城平藩の藩校「佑賢堂(ゆうけんどう)」で学んだ。全国隈なく捜す旅に出るには、学問を身につけなければならないと、一心に勉強をしたので、成績は抜群だった。
学友には、江(ごう)正敏、伊坂員正、猪瀬伝一(ただかず)、伊藤祐介等がいた。久五郎は主に神林復所の長男・惺斎(せいさい)に学んだといわれている。後に、愚庵の『巡礼日記』序文を書いてくれた大須賀筠(いん)軒(けん)は神林惺斎の弟にあたる。
平藩(佑賢堂)、湯長谷藩(致道館(しどうかん))、泉藩(汲深館(きゅうしんかん))の三藩には三藩輪講会という、隣同士の勉強会があり、平藩の講師役は久五郎と伊坂、伊藤だったと伝えられほどの優等生であったが、久五郎は暴れ者で、ときに学監の室桜関(むろおうかん)を困らせるようなこともしたが、この明治3年(1870)頃が、久五郎にとって最も落ち着いて勉強ができた頃という。
明治4年(1871)、兄善蔵は名を天田真武(まさたけ)と改めたので、久五郎も名を五郎に改めた。天田五郎である。

役所勤めの兄は磐城に残ったが、五郎は伊藤祐介と、佑賢堂で仲良かった友人や、同郷の先輩をたよって秋に上京した。

先に上京していた猪瀬伝一は、役人になって関西に転任していたので、二人はがっかり落胆。路銀も残り少なくなり、伊藤は下谷の知人を頼っていったが、五郎は保科保という同郷人の世話で、駿河台のニコライ神学校に入った。
儒教的教育を受けている五郎に、神学校の教義は馴染まず、もともと五郎がこのニコライに入ったのは、三度の食事にありつこうというだけで、キリスト教を学び信仰を求めようとするものでなかった。
結果的に馴染まず、敬虔な祈りを捧げている姿を傍観者的に無感動で眺めるだけの五郎には、とうてい無理な生活であった。

ニコライ神学校を退学すると、神学校同窓の安藤憲三等の紹介で、石丸八郎(越前の人。当時教部省の役人で慷慨家(注 世の中の不条理や国の行く末を嘆き悲しんで憤る人・大辞林)として有名)という人物を知り、その石丸の紹介で正院の大主記である小池祥敬の食客になった。
正院とは、明治4年の廃藩置県後に発布された、太政官職制の最高機関である。 それまでの太政官を正院、左院、右院の三つに分け、左右両院の上に立ち、政務を執る正院は従来の太政官に相当し、太政大臣、納言、参議、枢密正権大少史、正権大少史等で構成された。
その正院の大主記とは、判任官の最右翼の役職であった。この小池は、一見柔和な優しい人柄に見えたが、内面は剛直で、血気の壮士も小池の前に出ると小さくなると言われたそうである。

小池との初対面時「御身仕官の望ありやと問ふ、否某し毛頭さる望候はず、天下を歴遊する事の自在なる身となり、父母の所在を尋ねんこと是のみ一生の宿願に候」(『血写経』)という答え、五郎はこの小池家の食客として受け入れられ、小池の紹介で落合直亮(なおあき)について国学を学び、鉄舟から禅学の指導を受けることになる。

落合直亮とは、江戸後期の国学者で、かつては清河八郎や藤本鉄石と行動を共にした尊皇攘夷の志士であり、慶應3年(1867)には薩摩藩の浪士徴集に応じて三田藩邸に投じたこともある所謂新政府方である。したがって、明治維新後、一時官途についたが、ある国事犯の嫌疑を受けて下野した。五郎が彼から国学の指導を受けたのは落合直亮閑居中のことであった。(『歌人 天田愚庵の生涯』堀浩良著)

ところで、『血写経』では、小池と鉄舟との出会いについて、

「五郎は小池氏の許にありて学問怠らず、尚ほ落合直亮氏に国学を学び、山岡鉄太郎氏に禅定の要を尋ねしが、二氏とも五郎の身の上を憐れみ、小池氏と同じく何くれと助力せられける」と簡略な記述に留めており、ここからは鉄舟との深い関係が浮かび上がってこない。
愚庵研究家の第一人者である中柴光泰氏が著書『愚庵とその周辺』で、次のように鉄舟との関係を強調している。

「明治五年、天田五郎は小池祥敬の紹介で、再生の恩人山岡鉄舟にはじめて知られた。相馬御風は『山岡鉄舟がなかったならば、今日私達が愛慕している僧愚庵というような一個の人物は此の世に在り得なかったかも知れない』と言っているが、まさにその通り。当時の鉄舟は『明治の和気清麻呂』(勝海舟の言)として、明治天皇の側近にあった。五郎の行動に手を焼くこともあった鉄舟も、五郎の顔を見ていると、その大きな眼がしぜんに細くなってくるから仕方ない。それほど鉄舟は彼を愛した」

同様に『歌人 天田愚庵の生涯』でも、「思ったことをずけずけ言い、やってのける一本気なところは山岡の性格とそっくりであり、また山岡自身も15歳の時に母と死別し、16歳の時に父を失っているから、生死不明の父母、妹を探し求めて心痛辛労している五郎に一人深い憐憫の情を懐いたものであろう」

このように愚庵研究者は揃って、愚庵の性格特性と、父母妹との別れに身をつまされ、愚庵心中を思い遣って、鉄舟が肩入れしたと述べている。

しかし、既に読者諸兄はご理解されている通り、鉄舟という人物は、このような情緒的要因で、一人の人物に強く介入していく人間ではない。
愚庵にひときわ肩入れした背景には、鉄舟側に何か深い因縁・動機が隠されているはずだと、東北戊辰戦争の始まりから検討・究明を今まで続けてきた。

鉄舟は、天田五郎を小池の紹介ではじめて知った際、五郎が訴え告げる「父母の所在を尋ねんこと是のみ一生の宿願に候」(『血写経』)を耳にしたとき、禅修行で鍛え抜いた身、その顔貌には出さなかったが、胸中、湧き上がる自責の念を感じざるを得なかったのではないか。
箱根・御殿場に赴き、戦いを止めるよう遊撃隊を説得したが出来ず、その結果が、今、眼前にいる五郎に、痛ましい苦しみと、真の悲しみ、強い覚悟というべき決意を与えている。

鉄舟はこの明治5年から8年後、師の滴水和尚から印可を受けるが、既に、この頃から師家としての心境に達しており、晩年には「世間は吾が有、衆生は吾が児」、即ち「世の中の出来事は一切自分の責任である、生きとし生けるものは、すべて自分の子供である」という境地に達した。

このように宇宙界のすべての現象が我が身と直結しているという、空恐ろしいまでの心境となったほどであるから、まして自らが関与した箱根・御殿場の説得失敗に連なる五郎に対しては、深く想いを新たにしただろう。
加えて、鉄舟は書するとき、常に一枚ごとに必ず心の中で「衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)」と唱えながら揮毫した。 (参照「山岡鉄舟」大森曹玄)」

 このような書き手を現代で探すのは困難だろう。「衆生無辺誓願度」とは、禅の四弘誓願(しぐぜいがん)のひとつである。四弘誓願とは、すべての菩薩が共通して発する四つの誓願のことで、衆生を救おうとする衆生無辺誓願度,煩悩を絶とうという煩悩無量誓願断,すべての教えを学ぼうという法門無尽誓願知,最高の悟りに達しようという仏道無上誓願成の総称である。
鉄舟は、「衆生無辺誓願度」を唱えることで、「世の中の全ての人達を私が誓って救います、あの岸へお移しいたします」と一枚一枚誦経し、祈って書いたのである。

一般人は祈る際、自分のために祈るのが普通だが、鉄舟は人のために祈る。鉄舟書には、無心精神に基づく根源的ないのちの発動がある。だからこそ、書の前に立つ人を魅了するのであり、鉄舟が多くの人を惹きつける要因となっている。
そのような境地にある鉄舟、五郎が語る父母妹捜索話に、深い悔恨を持つとともに、五郎の脳細胞奥底に隠れている潜在的な「ある特別な才能」を一瞬にして見抜き、このときから格別の感情を抱き、特別な想いを持ったのではないか。
この特別なというべきものについては、もう少し、五郎を検討してから述べたい。

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