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2017年1月26日 (木)

2017年1月例会開催結果

新年最初の例会は永冨明郎氏からご発表いただきました。
テーマは、「慶応元年兵庫沖外国艦隊集結事件について」で、木下雄次郎氏が所蔵されている「慶応元年兵庫開港要求事件 関連文書」を永冨氏が読み解き、解説を展開していただきました。
 1. 木下雄次郎氏所蔵原文
 Img_20170122_0002

 原文は79行ですが、文頭に数字書き込みした11行のみを上記しました。

全文ご希望の方はお申し出いただけますようお願いいたします。

 

2.原文読み下し(注=本文中のカッコ内は引用者注)
1. 日本新○○○編巻五
2. 西暦1865年11月○我が慶応元年
3. 乙丑9月16日刊行日本雑報第百
4. 九十三号○○
5. 近日出帆軍艦表
6. 英国軍艦プリンセスローヤル(プリンセス・ロイヤル)英国欽差乗り込み
7. 同  レオハルト(レパード)  同 ヘロリエス(ペラロス)
8. 同 フンセル(バウンサー)  同 アトキユス(?)  仏国軍船キユーリーロ(グエリエール)
9. 仏国欽差乗り込み 同ドプレイ(デユプレクス)  同キンサン(キャンシャン)
10. 阿蘭国軍船ソウトマン(ズートマン) 阿国欽差乗り込み
11. 以上9艘 西暦11月1日即ち我が9月13日大坂に出
  (こちらも全文ご希望の方お申し出願います)

3.文書の性格について解説
① 本書は「慶応元年四カ国艦隊兵庫沖集結事件」と称されるものの関連記事である。
② 既に横浜は開港以来5年以上を経過しており、外人商館などが立ち並び、彼らの間では現地新聞のようなものが流布していた。本書は、そうした外人相手の新聞の和訳ものと推測される。本文3-4行の「日本雑報」がこれと思われる。
また末尾に「訳者 枡川春三、玉原孫四郎?」とある。おそらく異人間で動いていた英字新聞を、急いで和訳して奉行所にでも提出したものか。
③ 本書では、その慶応元年9月13日、横浜港で集結した四カ国の艦船が兵庫に向けて出航する際の様子、また四カ国側の交渉の狙い、などについて触れている。

4.本事件の発端経緯解説
① 慶応元年(1865)閏5月、英国公使としてハリー・パークスが着任し、前任のニール、中継ぎの臨時公使・ウインチェスターらから状況を聞くと、現在の日本政情の混乱の根本原因は、安政五カ国条約が実は天皇の勅許を得ていないことによると判断した。
② 英国は文久二年(1862)の生麦事件以来、その報復である薩英戦争(文久三年7月)などで薩摩と直接交渉を持っており、その経緯からも、上記の日本認識を得ていた。同時に英国は文久三年5月の下関砲撃事件、その前年の生麦事件の賠償問題も抱えていた。
③ そこでパークスは、下関で被害を受けた米、蘭、仏に呼び掛けて、四カ国連合艦隊を朝廷に近い摂津兵庫沖に向わせて、強引に幕府との交渉打開を図った。これが慶応元年四カ国艦隊兵庫沖集結事件(兵庫沖事件)と呼ばれるものである。
④ この慶応元年夏には、長州征伐(第二次)のため将軍家茂が大坂城に入っており、これも兵庫周辺での交渉に有利と、諸外国が判断したもの。
⑤ 四カ国側の要求は主に三つで、本文中にも、それらのことが触れられている。
1)安政五カ国条約に対する天皇の正式勅許を得ること
2)兵庫開港(西暦1868年元旦=慶応3年12月9日)の前倒し実行
3)下関砲撃事件の賠償を幕府として対応すること
⑥ 幕府は老中を派遣して四カ国側と交渉に当たるが、紆余曲折があり、四カ国側は10月1日、10日以内の勅許がなければ直接京都へ向かうとの最後通牒を幕府に示す。
⑦ この事態を解決したのが一橋慶喜で、自ら参内し、有力皇族・公家の居並ぶ前で「勅許を拒むと、諸外国の軍隊が京都まで乗り込んでくる。天皇の身も保障できない」と詰め寄り、更には 「どうしても勅許が頂けないなら自分はこの場で腹を切る。そうなると自分の配下がどのような行動に出るか、考えてみられるがよい」と天皇を半ば脅迫し、一昼夜に及ぶ会議の末、ようやく天皇の了承を取り付ける(10月7日)。
⑧ 翌日、先の安政五カ国条約の正式勅許が出たことを四カ国側に伝えた。幕府は併せて、下関砲撃事件に対する賠償金300万ドルについても、幕府が負担することを回答した。
⑨ 兵庫開港の期限は前倒しとならなかったが、条約の正式勅許により、交渉では勝利したと判断し、四カ国側が船を引いた。

4. 総括=本事件の影響解説
① 元治元年(1864)の蛤御門変を境に、長州系攘夷運動はいったん鳴りを潜める。これによって幕府は内政面では優位を獲得したかに見えたが、一方で幕府に対する諸外国の圧力は更に増していた。本書が示す慶応元年9月の「四カ国艦隊兵庫沖集結事件」はまさにその圧力の象徴である。
② 蛤御門変で長州が朝敵となって以後も、依然として孝明帝は「夷人嫌い」を変えていないことも、本書の経緯が物語っている。この「夷人嫌い」を論拠とした長州系攘夷派は押さえ込んだ(ように見えた)一方で、それで貿易を阻害されている列強からは依然として幕府批判材料となっていることを象徴した事件である。
③ ペリー来航以後の政争は、この「攘夷論」対「開国論」の対立をベースとしてきた。とりわけ安政五年の五カ国条約締結後は、これを天皇が認めていないという事実を背景に、もう一度条約を破棄(破約)し、異人を排斥する(攘夷)という政治主張が幕府攻撃の論拠であった。
しかしこの「兵庫沖艦隊集結事件」によって孝明天皇が安政五カ国条約に勅許を下され
たことにより反幕派の「攘夷」論拠は失われる。これに代わって、「(貿易を独占してい
る)幕府批判」=ひいては「討幕」論に移る。
④ 密かに、最もその点を狙っていたのが薩摩藩であり、第二次長州征伐への不参加表明と薩長同盟(この事件の四ヵ月後=慶応2年1月)締結でその路線を明確にすることになる。
⑤ その意味においても、当事件は幕末史のなかの大きな転換点であったが、従来の歴史認識ではあまり重要視されておらない現状について、改めて強く認識すべきと永冨氏は主張された。

5. 最後に永冨氏による徳川慶喜への見解を紹介したい。
それは、孝明天皇から勅許を引き出す際の一橋慶喜の姿勢は極めて強硬だったことからの見解であり、慶喜が朝廷を相手にこれほど強気に出られた背景を推測するに、次の2点が考えられると述べられた。
① 文久二年(1862)7月に幕府より「将軍後見職」に任じられ、翌年早々に京都入りすると、元治元年(1864)3月、朝廷より「禁裏守衛総督」を命じられる。その年7月の蛤御門変では京都守護職(会津)以下薩摩藩などの部隊を陣頭指揮して長州軍と戦い、その排除に成功している。
つまり慶喜は幕府側の駐京の実質総責任者であり、かつ朝廷からも全幅の信頼を得ているという、対立する双方のリーダー格であった。しかも御所防衛に実績を残している。そこから来る強烈な自信があったものと思われる。
② そもそも慶喜は、母方(登美宮=有栖川織仁親王娘)を4代遡ると霊元天皇(在位1663~1687、孝明帝の9代前)に繋がる。加えて水戸学の中で育っており、幕府も朝廷も併せて俯瞰できる客観性を持っていた。
本事件に直面した時、その客観性に前項の自信が加わり、天皇を天皇とも思わぬ強い発言、行動となったのではないか。
③ ついでに言えば、その「客観性」、つまりは日本を総体として把握して先を読める性格が、慶応四年正月6日の大坂脱出となってしまうのではないか。

いつもながら永冨氏の、歴史認識を全体像から洞察し、そこから導き出された「慶応元年兵庫開港要求事件 関連文書」の読み解きと解説に深く感謝申し上げます。

 

なお、青山忠正佛教大学教授は、その著書『幕末維新奔流の時代』143頁で、慶喜について以下の見解を述べていますので、ご参考までに記述します。
 「慶喜はのちに、自分が幕末に死を決したことは三度あるが、これがその内の一つだと語っている。(注・今回検討した安政五カ国条約の正式勅許のこと) ちなみに、あとの二つは、禁門の変と江戸開城の際という」

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