2015年10月、山岡鉄舟研究会例会で「江戸における吉田松陰所縁の地を訪ねる」を催行した。
集合はJR南千住駅前。周辺が以前と大きく変わっているのにびっくりしたが、小塚原刑場跡は駅近くにあり、ここで吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎、水戸藩浪士らの墓碑に手を合わせ、地下鉄日比谷線で小伝馬町に移動し、小伝馬牢獄跡と近くの神田お玉が池跡を散策。
次は、岩本町駅から三軒茶屋駅へ移動し、東急世田谷線に乗り換え松陰神社前で降り、駅前商店街を通り松陰神社へ向かった。
山門をくぐって社務所に入ると、正面に鉄舟によって明治16年に書かれた「松陰神社」額が掲げられている。ここで鉄舟と巡り合えるとは思えなかった。掲額された経緯をいずれ調べたいと思う。

社殿で正式参拝後、神職の案内で松下村塾と、伊藤博文や山形有朋・乃木希典から奉納された石灯籠の間を通り、松陰と烈士墓所をお参りする。

松陰神社の後は隣に位置する国士舘大学へ。ここでは大正8年(1919)建立の大講堂内で、国士舘史資料室の福原一成氏から、ご親切で親しみに満ちた解説を伺う内に国士舘大学のイメージが変わっていく。
国士舘大学の隣が豪徳寺。山門をくぐると一瞬京都かと思わせる風情である。紅葉が美しい。ここは正式名称を大𧮾山(だいけいさん)豪徳寺(曹洞宗)。中世には世田谷一帯は吉良氏の領地であったが、文明12年(1480)、吉良政忠が伯母を弔い「弘徳院」(当初は臨済宗)を創建、徳川時代となり、井伊家(彦根)が飛び地として拝領し寛文10年(1633)、井伊直孝死去し埋葬、戒名「久昌院殿豪徳天英居士」から寺名を「豪徳寺」と改称した。

井伊直弼墓碑(上写真)は東京都指定史跡で、歴代井伊家藩主墓碑は国指定史跡である。
これがかの有名な井伊大老の墓かと眺めていると、いつの間にか傍らに、境内解説ボランティアの年配男性が来ており、解説講釈が始まった。
名調子が一段落したので、かねてから疑問である戊辰戦争において彦根藩がいち早く官軍側につき、率先して徳川方を攻撃してきた理由を尋ねてみた。
すると、待っていましたと言わんばかりに語る。「井伊大老が桜田門外の変で横死後、彦根藩は10万石減封処分を受け、加えて、横浜・大坂湾の警護、天狗党征討などにこき使われ、第二次長州戦争では旧式の装備もあって芸州口で惨敗するなどを通じて、今まで支えてきた幕府への気持ちが冷めたのだ」と、口を尖らし憤慨口調で強調する。
なるほどと思いつつも、この彦根藩の行動が、請西(じょうざい)藩主林昌之助忠崇(ただたか)を人見勝太郎の遊撃隊へ第三隊長として参加させた理由であることを思い出す。
ここで林昌之助について少しふれておきたい。林は現役の大名であった。その大名が遊撃隊の趣旨に賛同し脱藩したことは、当時として稀なる出来事であり、この意味は大きい。
一般的に脱藩とはどのように解釈されているか。広辞苑によれば「藩籍を脱すること。武士が藩から脱して浪人となること」とある。
つまり、脱藩とは、ある藩の藩士が自らの意志によって藩籍をすてることである。例えば、水戸脱藩関鉄之介、薩摩脱藩有村治左衛門、土佐脱藩坂本龍馬、白河藩脱藩沖田総司、これら4人に共通するのは、藩の枠に縛られていては自分の志が果たせない、と考えたのであろうし、すべて頭を押さえられていた下級武士階級であった。
しかし、林の場合は大きく立場が異なる。異質である。江戸に上屋敷を有する、正真正銘の現役大名であり、単身で姿を晦ますという、忍びやかなものでない。家老以下主だった家来とともに連れ立ち、領民たちに見送られて陣屋を立ち去るという、威風堂々たる脱藩、つまり、自らの藩を捨て去ったのである。
林大名の上屋敷は左図家紋「丸の内三頭左巴に下一文字」の林肥後守で、左に徳川御三卿の清水家の下屋敷、右に徳川御三家の紀伊家(紀州徳川家/和歌山)の蔵屋敷があり、現在の日本橋蠣殻町と箱崎町の間に流れていた箱崎川に沿って連なっていた。

箱崎川は、昭和46年(1971)首都高速道路六号線と東京シティエアターミナル建設のため埋め立てられ、今では川の面影はない。
林昌之介忠崇については『脱藩大名の戊辰戦争』(中村彰彦著)が詳しく、同書を参考に考察を続けたい。
林が脱藩する要因の一つは鳥羽伏見の戦いに参戦できなかったことである。慶喜が慶応4年(1868)1月4日夜、大坂城を脱出したことで、鳥羽伏見の戦いが幕府軍の敗退と決まったことを知らず、林は関西へ向かおうと準備し出立、浦賀に到着したのが1月13日の暁であつた。
ここで慶喜東帰の噂を聞き、浦賀奉行所に確認すると「我が方、利なくして大樹公帰城した」ことが判明。佐幕派大名として戦いの現場に行けなかったことが口惜しく憮然たる想いで悶々としていたが、とうとう堪らず東海道筋を上ってくる官軍と一戦対決すべく腹を固め、3月8日請西藩(現・千葉県木更津市)陣屋に戻った。
当時の請西藩陣屋は、間舟台という地名に因んで「真武根(まふね)陣屋」と称し、総面積2万4千坪という規模を誇っていたが、そこに4月28日、遊撃隊と名乗る人見勝太郎、伊庭八郎が指揮する江戸脱走部隊30余人が現れたのである。

「遊撃」という名称を冠した部隊は長州にも薩摩にもあるが、幕府が慶応2年(1866)に新設した遊撃隊は、一種のエリート集団であった。
その中核をなしたのは、幕府が安政3年(1856)4月に開設した講武所で刀槍柔術を教授した旗本御家人たち。この中から14代将軍家茂の奥詰衆(親衛隊)に選抜された60人と、旗本御家人の次男以下から武芸抜群の者たちを合体させて編成したのが幕府の遊撃隊である。
結成直後の隊士数は390人。頭取ないし頭取並には、心形刀(しんぎょうとう)流の達人伊庭軍兵衛、剣聖男谷(おだに)精一郎の直弟子で直心影(じきしんかげ)流の剣豪榊原鍵吉、鉄舟の義兄で槍術天下無双の高橋泥舟、鏡心明智流士学館道場主桃井春蔵など、錚々たる武芸者が顔を並べていた。
この遊撃隊、鳥羽伏見の戦いで新選組とともに最前線で戦ったため、死傷率が高く、4月11日早朝、上野寛永寺から水戸に向かった慶喜を千住まで護衛した際には100人ばかり。
その一人である人見勝太郎は見送り後脱走、同じく脱走した榎本武揚のもとで会した。
だが、榎本が勝海舟の説得で軍艦4隻を官軍に渡すことを決定したことで、榎本とは戦略の相違があると、遊撃隊は別の道を行くと定め、上総地方に上陸し兵を募ろうとして、その途次に上総請西藩林昌之助の前に現れたのであった。
この時、遊撃隊は第一軍隊長を人見勝太郎、第二軍隊長が伊庭八郎という体制であった。人見の略歴については既に触れたが、第二隊長の伊庭八郎は、遊撃隊頭取の一人だった伊庭軍兵衛(秀俊)の弟で、人見と同年齢の数え26歳。5尺2寸(1.6m)と小柄ながら「白皙美好」「眉目秀麗、俳優の如き好男子」と形容され「伊庭の麒麟児」といわれた名剣士で、鉄舟とも講武所において好敵手という間柄だった。
この二人が4月28日、上総請西藩に現れた当時の想いを、林は次のように述べている。
「隊長伊庭八郎、人見勝太郎の両人、今日請西の営に来たり、これまた徳川恢復の儀を乞う。即ち、誓いて同心すべき旨を答う」
と対応、即刻遊撃隊と同盟を結ぶことを決意したのである。
その理由を、嘉永元年(1848)生まれ、昭和16年(1941)没であるから94歳の長寿を全うした林が、後年、語っている。
「伊庭は義勇の人、人見は智勇の人。二人とも立派な人物だと思ったから、(自分は)これにおつかぶさったのだ」
この発言には前提がある。遊撃隊が上総請西藩に現れる前の4月13日、幕府歩兵の予備兵力「撤兵(さっぺい)隊」3千が、江戸を脱走して木更津に現れた。
林はこの撤兵隊とともに戦争準備を始めたが、その後の状況を見守っていると、撤兵隊は次第に横暴な態度を示しだし、暴行多く、民家で金穀を貪るなどで、林は失望を禁じえなかったところに、遊撃隊が現れ、その素行は極めて規律正しく、林を納得させたのである。
このところが大事である。遊撃隊一行が、突如として磐城平藩に現れ、安藤信正や仙台藩から指揮をとるよう頼られるということ、それはこの林の語りにもあるように、人見と伊庭が一廉のじんぶつであり、遊撃隊が極めて規律正しい集団だったからである。
林は遊撃隊とともに脱藩する意図を次のように述べた。
「速やかに房総の諸侯を連和(連合)し、兵を借りて豆相(伊豆・相模)に航海し、小田原(藩)韮山(代官所)に力を借り、大いに兵威を張り、東海道の諸侯を説き、従う者は力を合わせ、拒む者はこれを伐ち、怨を紀尾彦(紀州和歌山藩・尾張名古屋藩・彦根藩)の三藩に報ぜば、徳川氏の恢復難きにあらず」
徳川御三家である和歌山藩と名古屋藩、それと徳川家大番頭として常に徳川勢の先頭に立って戦ってきた彦根藩、これらが官軍にいち早く加わったということが義に反しているので、遺恨を晴らしたいと覚悟したからであった。
この彦根藩への遺恨という林の言葉を、豪徳寺でのボランティア解説から思い出したのである。
さて、人見、伊庭、林の三隊長が率いる遊撃隊は、伊豆にわたり、小田原藩や韮山代官所にも断られ、東海道筋の諸藩からも支持されず、沼津から甲州に向かう途次、御殿場で宿営した際、鉄舟が田安中納言の命「伊庭八郎、人見勝太郎両名に御用あり。至急出府すべし」とのご沙汰をもつて説得に来たことは前号で述べ、人見が「田安殿は我々の主君ではない。臣下が主君を討とうとする、尾張、彦根のごとき天下の倫理に反する者たちの罪を問おうとしているだけです。もしも連中に味方し、我々に抵抗する者がいれば、やむを得ず応戦し、志を果たすことができなければ、倒れて止むのみ。このことを書面にしるし、東海道先鋒総督府において一面識のある海江田武司へお送りするつもりです。田安殿には不敬ながらよろしくお断り願いたい」と対応した。
この結果、鉄舟は空しく江戸へ戻って行ったと「人見寧履歴書」が伝えている。
だが、鉄舟研究を続けている立場から考えると、鉄舟という人物は「田安大納言の命云々」という、上下関係に基づく型通り形式的な説得をするはずがない。「人見寧履歴書」の記述は、鉄舟の本質を表現していないと推察する。鉄舟は国家という全体的立場から説得を試みたはずだ。
それを『幕末遊撃隊』(池波正太郎著)から見てみたい。同書は伊庭八郎を主人公に描いたものであるが、この中で伊庭八郎と鉄舟との対応を、以下のように記している。
「御殿場へついた翌々日の夕暮れ近くになって、『大監察・山岡鉄太郎まかり通る』とよばわり、御殿場の番所にやって来たものがいる。
汗と埃にまみれた木綿の紋付をまとい、剣術の稽古につかうよれよれの袴をつけた大男が、一人で馬に乗って来たのだ。
幕臣なら、山岡鉄太郎を知らぬはずがない。
鉄太郎はこのとき、33歳。勝安房守の右腕となって、終戦の始末に活躍している。だから、大監察という役目まで、官軍からゆるされているのだ。
『本陣はどこだ?』ゆうゆうとして、微笑さえうかべて『伊庭に、おれが来たとつたえろ』。
旧家を借りて、幔幕をはりめぐらした本陣から、伊庭八郎があらわれた。
『伊庭か・・・・』
『久しぶりですな』
別室へ行き、二人は向かい合った。
『この旗あげの本心をきこう』おごそかに訊いてきた。
『ただ微衷(びちゅう)(注 まごころ)をつくすのみです』
『それだけか?』
『山岡さん。これだけ慶喜公(だんな)が頭を下げても、官軍は、わずかに慶喜公の死一等を減じただけというじゃアありませんか。世にいう旗本八万旗・・・つまり徳川の家来はどうなるンです?』
『だからこそ、無益な戦はやめようというのだ』
『見こみがありますかねえ』
『だからこそ、勝さんもおれも必死ではたらいているのだ』
『ま、よろしい』
八郎は立ちあがった。
『もう、お帰り下さい』
『伊庭!!』
山岡も突っ立って、
『いまは国の中で争うている場合ではないぞ。西洋諸国が、この小さな日本という国をとりかこみ、爪を磨(と)いでいるのだ』」
この池波正太郎による表現、鉄舟のもどかしい気持ちを率直適切に表現している。
駿府での西郷隆盛との交渉とは異なることを鉄舟は感じたであろう。薩摩の西郷という人物には日本国家という背景構想が存在していた。
だが、伊庭には国家より、徳川家に対する「義」を充満させている。己が幕府の一員であったという立場、そこから発する「何かをしなければ自らの生き様が成り立たない」という武士としての心意気、それが伊庭にも人見にも、林も同様で、西郷とは立ち位置が異なる。
次元が違うといってしまえばそれまでだが、この「義」という立場に入り込むと、そこから次なる世界は構築でき得ないことが多い。したがって、相手への説得は困難を極める。
鉄舟が彰義隊における上野寛永寺の執当職・覚王院義観との説得でも、結局、義観が持つ「義」という壁は崩せなかった。相手が持つ世界観へのスタート地点が異なるのであるから、このような場合の説得は難しく成功し難い。
鉄舟は、その虚しさを奥深く込めつつ御殿場を去ったであろう。
伊庭も人見も「義」を具現化する意志によって、鉄舟の説得には応じなかったが、戊辰戦争が片付くと人は意識が変って、国家に尽くす人物に変身する。
伊庭は函館五稜郭で斃れたが、人見は生き残り、明治4年(1871年)静岡に徳川家が設立した静岡学問所で、校長に相当する学問処大長に就任。明治12年(1879年)に茨城県大書記官、翌年には茨城県令を務め、その後は実業界に転じて活躍している。
維新後の経歴を振り返ればわかるように、維新前と維新後で人見は転化・変革し、微衷の「義」から「国家全体」の「大義」へと立場・思考を転じさせている。
つまり、人とは時代・時流によって変身できることを物語っているのであるが、いっとき熱情・情念に入り込んでいる場合は、物事の条理を判断する基準が異なるので、強い思い込み、所願を捨て去ることは難しい。
結果として鉄舟は人見を説得できなかった、その虚しさをというべきものが、愚庵へとつながっていくのである。
なお、林昌之助忠崇も旧大名諸侯が明治2年(1869)に与えた「華族」という身分地位を認めるよう、家格再興運動を行った結果、明治27年(1894)3月に、「旧請西藩主、従五位、林忠崇」と自署できるようになり、昭和16年(1941)まで生き延び、94歳の長寿を全うしたように、人はその立場を時代と共に変えるものである。
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