慶応4年(1868)6月17日、磐城平藩は人見勝太郎の指揮で、新政府軍と戦った。
だが「仙台兵は振るわず、人見勝太郎が馬上より進撃を促したが、仙台兵が浮足立ち崩れ、そのため全軍が敗走してしまった」
と、人見とともに戦った請西(じょうざい)藩主林昌之助が記録を遺している。
仙台藩が弱体であったことは、各地の戦い現場視察時に地元の歴史家からもよく聞く。仙台藩が弱卒であったことが同盟軍の敗因である、と述べる人もいるくらいである。
仙台藩は金沢藩103万石、鹿児島藩72万石に次ぐ62万石を擁する大藩、奥羽越列藩同盟の総督として、会津藩と並ぶ主力軍であるのに、もろくも各地で敗れ崩れていくという不思議さを解明しておかないと、人見勝太郎の平藩おける位置づけが分からない。
同盟軍の盟主として担がれた前寛永寺法主輪王寺宮が、仙台藩が新政府軍に降伏申し入れした9月15日に、仙台藩主・伊達慶邦(よしくに)に対次のように咎め難詰している。
「仙台は実収百万余石、軍兵も乏しからず人物も多しと見ゆるに、何故に左様なる始末に立ち至りしか」(『仙台藩の戊辰戦争』木村紀夫著)
確かに仙台藩は表石高62万石、実質生産高の家高は150万石とも2百万石ともさせる大藩である。人口は55万人、幕末時に直臣9651家、その家臣である陪臣23477家で総兵力は3.5万人から4万人といわれた。
また、藩の執行部である奉行は門閥の家臣が占めていたが、慶邦は小姓や藩校・養賢堂出身の若手から意見をよく聞き、玉虫左太夫、若生文十郎、後藤正左衛門等能力ある者を抜擢して用いた。
中でも玉虫左太夫は、万延元年(1860)1月、幕府が派遣した遣米使節団の正使新見正興とともにワシントン、続いて10か月をかけて欧州諸国を視察、それを『航米日録』として遺し、戊辰戦争では太政官に対する建白書と、列藩同盟の盟約書を書き、軍務局副頭取であった。敗戦後は獄中で切腹。享年47。
この玉虫を「政府は外務卿の最適任者は玉虫左太夫なりとして、使者を仙台に派したが時既に遅かった。政府要路は出先官に命じて軽率に人命を奪うべからずと訓令した」と『宮城県史』にあるほどの人物であった。(『仙台藩の戊辰戦争』)
玉虫のように有能な人材がおり、藩直属である大番士3660家は十分な戦闘力を持っていたが、その反面、過半を占める兵士は、地方知行という制度、これは管内各地にそれぞれの殿がいる小幕府の状態で、軍備・兵器と弾丸・訓練がなされず、勿論、洋式化などできていなかった。
さらに、地方知行下の武士は、通常は農業が主であるから、いざ戦場へと出陣しても、鉄砲の撃ち方を知らないので、洋式兵器は使えず、結果として林昌之助の記録通りとなり、戦場の現場では足を引っ張るばかりとなっていた。
対する新政府軍、上野彰義隊戦争以降、すべての装備を一新し、スペンサー銃や大砲はすべて施錠砲(ライフル銃)に切り替えていた。ライフル銃の命中率は52%、同盟軍は火縄銃、ゲベール銃で命中率4.5%、10分の1の命中率であるから(『仙台藩の戊辰戦争』)、少し不利となると訓練度が低い仙台藩兵は争って敗走したであろう。
6月17日の戦いで平城下に退いた遊撃隊一行は、18日に軍議を開き、この内容も林昌之助が記録に遺している。
「遊撃隊全軍が会津若松に向かうことを決議したが、平藩の老藩主や仙台藩の重臣古田山三郎らが磐城滞在を願い、やむを得ず滞在することにした」とある。
会津若松に向かうという背景は、仙台藩兵に絶望したためであろう。当初は仙台に行き、仙台藩兵と共に戦う計画であった。しかし、あまりの弱兵ぶりに失望、計画変更としたのだが、平藩前藩主安藤信正や古田山三郎の説得で、平城下に駐留することになったという。
これを裏付けるのは、遊撃隊・小柳津要人の「遊撃隊戦記」で「昨日は本来勝利するはずだったが、仙台藩が瓦解し逃げ、平・泉・湯長谷藩兵も臆病で頼りにならず、平城下に引き上げた。軍議は激論になった。平藩の山田貢は必死に戦うので留まって指揮してくれという。仙台藩の古田山三郎は仙台藩隊長の責任なので、隊長の首を刎ねるので、是非磐城に留まり、同盟軍のために尽力願いたいという。仕方ないのでそのまま平城下に滞在した」と書き述べている。(上妻又四郎著『磐城三藩の戊辰戦争』)
この中に出てくる古田山三郎とは、仙台藩から慶應4年5月に磐城口若年寄兼軍事参謀として派遣された人物である。
遊撃隊が平藩からも滞留を請われたことは、家老・上坂助太夫の日記にもある。
「人見勝太郎様万事御差図にて関田表戦争の処仙台兵弱兵にて破軍にも相候」以下に原文が続くが、それを要約すると以下となる。
「人見勝太郎の指図により関田で新政府軍と戦ったが、仙台藩弱兵のため敗北。人見ら一行は平まで引き揚げ、明朝、平から撤退するとのこと。そうなると平は維持することができないので助力を依頼するため、止宿先に行き頼んだ」
この平藩の対応、いかにも主体性がない。
その通りで、平藩の立場は、奥羽越列藩同盟に参加はしたものの、なるべく同盟側の色は出さないようにし、磐城の地に出張ってきた同盟総督仙台藩の指示にすべて従うという方針にし、出兵も領内に限ることにしていた。
これらの背景には、西国滞在中の藩主安藤信勇への気遣いがあったと考える。つまり、新政府軍支配地域に留まっている藩主に、なるべく不利益を与えないようにするため、あいまいな態度、それは、なるべく戦いは避けたい、だが、同盟総督仙台藩の意向にも逆らえない、という矛盾に満ちた考えである。
そのため平藩は、明確な政策意図を持たず「人見勝太郎の指示に従うが、これは仙台藩の指示である」というロジックを持つことで対応したのである。
これが、前藩主安藤信正が、明治元年10月、戊辰戦争後、東京で謹慎、そのときに平藩家老・年寄に寄せた書にあった「止むを得ざる場合もこれ有り候」の意味合いで、遊撃隊の人見らが平に来たので戦争になったが、それは仙台藩の指示に従ったのであり、結果として人見の指揮下に入ったということになる。
このような経緯を見ると、安藤信正には、かつて老中として幕府政権を仕切ってきた面影はない。実際の戦い現場では、権威とか門閥は役立たず、武力がものをいうわけで、平藩の武力は脆弱で、安藤が主体的に全体をリードし正面切って戦う力はなかつた。
慶応元年(1865)時の平藩家臣数は336人、大砲は10門程度。泉藩の家臣数は228人、湯長谷藩は114人、磐城三藩の軍事力はこの程度しかなく、加えて、仙台藩は弱い。
対する平潟に慶應4年6月16日上陸した新政府軍は、施錠砲(ライフル銃)を持つ、薩摩藩407人、大村藩143人、佐土原藩143人、計約700人である。
その状況を詳しく伝えるのは「薩摩出陣戦状」の中の「私領二番隊戦状」である。(『磐城三藩の戊辰戦争』)
① バッテラ(ボート)に4人乗り込み陸地に向かった。
② 陸地には兵士がいたので、どこの兵かと聞くと、仙台藩だと答えた。
③ そこで我々は日州(日向)近辺の者で、薪水乏しいので手当てしたいと伝えた。
④ 仙台兵は、その議は隊長に聞いてから回答すると言ったが、我々は「押て上陸」し、近辺に宿を手配した。
⑤ 時が経って、仙台兵が宿を取り巻くようになったので、仙台藩の返事を待たずに上陸すべきと判断し、船に戻り参謀に報告した。
⑥ バッテラに乗れるだけの兵士を乗せようとした時、陸上にいたはずの仙台兵はすべてどこかへ消えてしまっていた。
この記録からわかるように、仙台藩は守備していた平潟から戦わずにして関田に退却したのである。したがって、新政府軍は何の抵抗も受けず上陸できたのだが、それでは仙台藩は何のために平潟守備に出張っていたのか疑問であるが、その後の実戦現場で示された仙台兵の弱さを考えると頷ける。
このような仙台藩の弱兵力と仙台藩退却行動、それと磐城三藩の脆弱な軍事力、これらを併せ考え類推すると、遊撃隊の人見勝太郎一行が6月2日に小名浜沖に蒸気船で現れ、その後、湯本に滞陣していなければ、新政府軍との戦いは、仙台藩が磐城の地から総退却してしまい、戦いはなかったかもしれない。
また、仮に人見一行に頼らず戦ったとしても、圧倒的な戦力差で簡単に勝敗がつくという推測は容易であろう。
ということは、15歳の久五郎(愚庵)が、日毎に聞こえてくる味方の敗報に切歯扼腕し、猛反対する父母を説き伏せ出陣したという行動はなかったかもしれなく、そうならば父母妹との永遠の別れはあり得なかったであろう。
安藤信正の「止むを得ざる場合もこれ有り候」とは、人見が磐城の地に現れ指揮を執ったことであり、それが愚庵の生涯を変え、鉄舟との関わり合いにつながったのである。
では、その人見勝太郎とはいかなる人物で、鉄舟との接触はどこでどのようになされたのか。
人見勝太郎は天保14年(1843)生れ、 大正11年(1922年)死去。享年80歳。維新後は寧と名乗る。
慶応3年(1867年)に遊撃隊に入隊。鳥羽・伏見の戦いにおいては、伏見方面で戦い、その敗退後は、江戸へ撤退して徹底抗戦を主張する。遊撃隊の伊庭八郎ら主戦派とともに房総半島へ移動し、請西藩主・林忠崇と合流するなど、小田原や韮山、箱根などで新政府軍と交戦した。奥羽越列藩同盟に関与し、北関東から東北地方を転戦した後、蝦夷地へ渡り、箱館戦争に参加。降伏後は捕虜として豊前香春藩(旧小倉藩)に預けられたものの、翌明治3年(1870年)に釈放。
維新後は、明治4年(1871年)、静岡に徳川家が設立した静岡学問所で、校長に相当する学問処大長に就任。明治9年(1876年)に大久保利通の推挙により勧業寮に出仕し、製茶業務に従事した。明治10年(1877年)、群馬県官営工場所長、明治12年(1879年)に茨城県大書記官、翌年には茨城県令を務める。その後は実業界に転じて、明治20年(1887年)に利根川と江戸川を繋ぐ利根運河会社を設立、初代社長に就任。その他、サッポロビールや台湾樟脳会社の設立に関与した。これが略歴である。
鉄舟とどこで、どのように関与し接触したのか。それを述べていきたい。参考とするのは「人見寧履歴書」で、大正11年(1922)に人見が往事を回想し遺したもの。
同書の慶喜が水戸へ向かうところから始めたい。
慶応4年4月11日、人見は千住大橋まで水戸に向かう徳川慶喜の伴をし、見送りをした後、脱走し挙兵を謀った。時に、榎本武揚も海軍を率いて脱走すると聞き、下谷の榎本邸に行き同盟の約を結び、遊撃隊士等と旧幕府艦隊に乗船、房州館山湾に碇泊した。
そこへ勝海舟が一人で押送船に座し現れ、開陽丸の下まで漕ぎ寄せ、するすると梯子を登ってきて、榎本と共に艦長室へ入った。
しばらくして人見らが、艦長室に呼ばれ入ると、海舟から「委細は榎本に話しておいたから、話を聞いてくれ」といい、くれぐれも面倒を起こすなと諭した後、再び小船に乗り込んで去った。
榎本は「君たちと盟約を結んだものの、実行に移すことは難しくなってきた。勝先生が言うには、追討しようにも官軍には海軍がないわけで、我々の脱走に対し、大総督府は大いに心痛しているとのこと。朝廷の命に従わなければ徳川家のご処置に対する道も開けないから何とかしろと言ってきた」
「ということで、官軍の申し入れを拒絶することはできない。徳川家のために軍艦2、3隻を引き渡すことに決定した。ついては、品川湾に戻って、徳川家に対する処遇を確認しようと思う。不満はあると思うが、ここは堪えて欲しい。私の意見に従ってもらえないか」
榎本の言葉に、各艦の艦長たちは服従したが、我々遊撃隊はそうはいかない。
「ここは勝つか負けるかの瀬戸際だ。事情に流されて連中の言いなりになることは、軍機を失い、士気を阻喪し、大事を誤る千載の失策だ!」
必死で説得したが、榎本の意思は変わらず、やむを得ず、遊撃隊一同、上総地方へ上陸し、房総で兵を募って、事を起こそうと決意、小舟に乗り換え木更津付近から上陸。
ここで遊撃隊を2隊に分け、第一軍隊長を人見勝太郎、第二軍隊長を伊庭八郎とし、請西藩主林昌之助を訪ねたところ、林昌之助氏が家臣を率いて遊撃隊に加わることを決めたので、林隊を第三軍とし林を隊長とした。
翌日、松平大和守殿(上野前橋の藩主)の富津陣屋、続いて佐貫、次に勝山、北条館山へ行き、同盟者を加え総勢300名あまりとなったので軍議を開き、伊豆へ進軍することにし、館山から数隻の小船に乗り込んで、伊豆の真鶴に上陸した。
小田原藩に同盟を求めようと、根生川の裏関所に行き、同盟するよう説得したが断られ、韮山の代官所に向かった。韮山でも同盟参加を断られた。
そこで東海道筋の諸藩に檄文を送って参加を呼びかけたが応募なく、仕方ないので沼津から甲州に向かう途次、御殿場で宿営した。
その夜、山岡鉄太郎が田安中納言の命を奉じてやって来た。
「伊庭八郎、人見勝太郎両名に御用あり。至急出府すべし」とのご沙汰を伝えた後、我々を諭してこう言った。
「東北へ脱走した連中は大鳥はじめ全員が鎮撫された。朝廷において徳川家のご処置が今にも決まるという大切な時だ。おとなしく君命を奉じて俺と一緒に出府してくれ」
人見が答えた。
「田安殿は我々の主君ではありません。俺達は、末家が宗家を討ち、臣下が主君を討とうとする、尾張、彦根のごとき天下の倫理に反する者たちの罪を問おうとしているだけです。もしも連中に味方し、我々に抵抗する者がいれば、やむを得ず応戦し、志を果たすことができなければ、倒れて止むのみ。このことを書面にしるし、東海道先鋒総督府において一面識のある海江田武司へお送りするつもりです。田安殿には不敬ながらよろしくお断り願いたい」
山岡氏は空しく江戸へ戻って行った。
ここで鉄舟との接点があり、鉄舟の説得が功を奏さず、止めえなかったことが、人見が平藩に登場する要因になったわけであるが、もう少し平まで行く過程を見てみたい。
吉田、川口などを経て、三阪峠を超え、甲州黒駒に宿営していた時、江戸から石坂周三と水沢主水の2人が田安中納言殿の使者としてやって来た。
山岡が持っていたのと同じ内容の辞令を渡し、我々と共に出府せよと促したが、先日御殿場で山岡に告げたのと同じ理由から、謝絶して応じなかった。
彼らもまた空しく江戸へ戻って行った。
我が軍の斥候が、伊沢の地で官軍の斥候と衝突し小競り合いとなった。知らせを聞いて、すぐに援軍を率いて甲府に入ったが、甲府の防衛を任されているはずの松代藩士の姿はすでになく、同地で休養をとることにした。
酒食を喫して一息ついていると、甲府勤番の旧幕臣数名が来て、我が軍への加盟を申し出た。また、和多田貢氏ら20名余の参州・岡崎藩士が脱藩加盟した。
道を南信にとり、尾州を目指そうとしていると、江戸にいる同志から急報がもたらされた。
「彰義隊をはじめとする諸藩の脱走兵が、多数上野に集結し、まもなく戦になる模様」
評議の結果、沼津に引き返そうと出発し伊豆の香貫に宿営した。
5月17日。同士の某が「払暁、上野で戦が始まり、ご府内は大騒乱だ!」という知らせ、俺たちは一斉に立ち上がった。
ぼやぼやしてはいられない。
さっそく軍議を開き、援軍に向かうことに決したものの、この日はあいにくの暴風雨。その中、何とか出船した。
五隻の大船に兵士百有余名、大砲一門、小銃弾薬などを搭載し、ようやく東海道の松並木の間に着船し、三嶋に向かい、そこから箱根に入った。山中の村で小休止している時、児嶋竜雄(雲井龍雄)が現れた。児島は米沢藩士で、藩命を奉じてこれまで太政官に出仕していたが、わけあって帰国の途にあるのだという。
「薩長の権謀術数によって鳥羽伏見の戦いが引き起こされたことは明らかです。連中が先に発砲し、一方的に戦端を開き、天子を擁してことをあげ、徳川家、会津藩、桑名藩などを冤罪に陥れた。薩長が天下を欺く奸族であることを確認できたからには、太政官などに出仕してはいられない。昼夜兼行で帰国し、殿の面前で全てを述べた後、奥羽諸藩に檄を飛ばして同盟を結ばせ、会津の囲みを解いて薩長を討伐する。それにしても、こんな所で君たちのような義軍に出くわすとは…これからどうするつもりです?」
「どうするもりか」と訊ねられた俺は、上野で戦争が始まったことを告げ、「これから箱根の関所を破り、小田原を突破して、江戸へ向かうつもりだ」と答えたが、児島は妙なことを言い出した。
「心意気は感に堪えざるものの、わずかな軍勢を率いて敵地に入り、勇敢な義兵たちを無駄死にさせることは上策とは言い難い。いかがでしょう、全軍を率いて海路をとり、常州と奥羽の境にあたる平潟に上陸して、南奥羽の諸藩を説得してはもらえないでしょうか。兵糧や軍資金のことは棚倉藩に頼み込んで何とかしてもらいますから、俺に任せて下さい」
児島の言葉にも一理あるが、いきなりそんなことを言われても、「はい、そうですか」と応じるわけにはいかない。
「お心遣いには感謝しますが、我が軍の方針は定まっており、すでに箱根の関所に向かっている最中ですから、今さらあなたの申し出をお受けするわけにはまいりません。しかしながら、場合によっては、将来、奥羽へ行くこともあるでしょう。その時は、あなたを頼ることになるかも知れない」
「お待ちしています」と児島は笑った。俺達は酒盃を傾けた後、盟約を結んで分かれた。
ここで人見は東北の地と関係を持ったことになる。
さて、その後の人見らはいくつかの経緯を経て小田原藩との戦い、いわゆる箱根戦争において敗れ、熱海から館山へ海路逃走した。
館山にはちょうど長崎丸がいて、庄内に向かおうとしていた。そこで、奥州平潟まで乗船したいと希望、傷病兵を降ろし、遊撃隊、林昌之助、岡崎藩士、館山藩士、甲府勤番等合計140名余で出航、新政府軍が追撃してくる恐れがあるので、小名浜に変更し上陸した。
小名浜に上陸し、仙台藩と湯長谷藩兵が応接し、前号で述べたごとく湯本の新滝を本営として宿陣することになった。
ここのところの経緯について「人見寧履歴書」では「小名浜に上陸したところ、幕府代官所があり、石炭も多く貯蔵しており、長崎丸は石炭を積み羽州へ向かった。人見等が休憩していると、仙台藩から派遣された磐城口の若年寄兼軍事参謀である古田山三郎の使者が騎馬で来て、歓迎したいので湯本温泉に来ていただきたい」とあり「湯本にて入浴酒食している暁天、哨兵より急報。逃走してきた仙台兵からの情報で、新政府軍の軍艦二隻が平潟に入り、格別戦争なくして大軍上陸し、奥州諸藩兵が陸続逃走していると聞き、直ちに出撃した」とある。
これが既に述べた安藤信正の書の意味であり、愚庵の一生を決めたのである。
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