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2016年10月26日 (水)

鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その十三

2015年8月29日(土)、あいにくの土砂降り雨の中、戊辰戦争白河口の戦い記念碑除幕式に出席した。記念碑が建てられたところは激戦地の稲荷山(白河市9番町西浦地内)である。
 慶応4年(1868)閏4月25日から始まった白河城攻防戦、7月28日まで100日弱続き、この間1000人以上の犠牲者を出した。
 戦闘員の武士たちに加えて、白河の人々も、否応なくこの戦いに巻き込まれ、軍夫として強制的に駆り出され酷使され、諸物資の調達も命じられ、戦いにつきまとう略奪と兵火により家財道具も失い、ある者は流れ弾に当たり、また、いわれなく惨殺された。
 悲惨な年、それが白河人の戊辰年であった。
 だが、このように被害者でありながら、白河人は、遠い異国で近代国家建設のために尊い生命を失った西軍の兵と、対する東軍として、社稷のため、奥羽越列藩同盟のために戦った兵、そのどちらに対しても、大義のための犠牲者として、遺体を集め各地に丁寧に埋葬している。
 その結果として白河ほど、慰霊碑や墓が多く建立されている所はなく、その墓・供養塔には、常に皿がおかれ供物が献ぜられ、近くの住む人が香華を絶やさない。これが白河の人々の情実であり価値観であって、この度は、これら各所に点在している犠牲者を一堂に会すべく、合同の慰霊碑建立を行ったという。
 その趣旨、誠に見上げたもので、関係者のご努力と情熱に感服し、僅かばかりの寄付金をお送りしたところ、記念碑の裏側に名前を刻むという、これまたご丁寧なお気持ちに感激しつつ、雨中の除幕式に参加したわけである。

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 除幕式後、2015年8月号でふれた「母成峠」の戦い跡地を訪ねた。
 ご案内いただいたのは会津ユネスコ協会事務局長の石田明夫氏である。石田氏は会津若松市在住で、会津の歴史について専門家である。
石田氏の車は、白河から郡山を通って母成グリーンラインを走り、峠道らしきところに停めると、徒歩で小降りになった雨の中、山の中に入っていく。
山には当然ながら道はない。木が茂って、藪が覆っている中を、平地を歩くがごとく石田氏は足早に動く。後を追う筆者は必至。泥土と草で靴の色が変わっていく。しばらく難儀な山中を歩くと「母成峠の陣跡はここです」と「くぼみ」を指さす。

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    (会津藩構築の塹壕跡) 

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   (母成峠の陣跡配置図)
 

 石田氏から母成峠の陣跡配置図をいただいた。そこに次のように解説が書かれている。
「母成峠には、会津藩が構築した遺構があります。母成峠の陣地は、三段構えに陣地は造られ、峠入り口に第一陣地があり、台場には石垣が積まれています。第二陣地は、中軍山にあります。峠下の牧場を見下ろす場所に、会津藩の台場があります。
 第三陣地は、峠の頂上にあります。北側の防塁は、上杉景勝・直江兼続時代に築かれた遺構を再利用し、南側に付け足し、戊辰戦争のざんごう跡が造られました。全長384mあります。ざんごうは、南側に延長して造られ、幅1m、土塁の高さ1m以内のものです。最南端と北端には、砲台の台場が造られています。ざんごうの後ろには、掘立小屋が建てられていました。
 また、よく似たものに営林署が明治時代に築いた高さ1mの火防壁もあります。
 北側の100m部分は、土塁の高さが4mあり、空堀は7m、土塁も前面の空堀外側に小さな土塁が伴う二重土塁となることから、慶長5年(1600)に上杉景勝時代に築かれた防塁を再利用したものです。改修には、会津藩の農民で組織された約800人があたりました。
 幕末に構築した会津藩の陣地の中では、母成峠は、他の峠に造られた陣地とは異なり直線的なざんごうを造っています。これは、峠が緩やかなためでした。また、段状の平場も、見られません」

 誠に見事な再現図であり、石田氏の事実調査に自然に頭が下がる。
 次に石田氏が車でご案内してくれたのは母成峠古戦場石碑である。先ほど見た塹壕跡から結構離れた場所で、母成グリーンラインの曲がりカーブのところ。

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 昭和57年(1982)10月6日建立とある。戦いは慶応4年8月21日であり、この太陽暦では10月6日となるが、記念碑の場所は実際の塹壕跡とは違う。記念碑建立は分かりやすく、訪れやすいところにしたのであろうが、石田氏にご案内いただいている身としては、何となく違和感を持つ。全国各地の歴史遺物の記念碑や看板表示なども、母成峠と同じく、事実とは異なった場所と離れて建立されているのではないかとも思う。なかなか難しいことではあるが、訪れる側としては注意が必要であると感じる。

 ここで、長らく書いてきた戊辰戦争・東北越列藩同盟についての背景を、改めて述べたい。このことは2015年4月号で以下のようにお伝えした。

「江戸無血開城が鉄舟の駿府駆けによって決まり、天下の大勢は決したのに、何故に奥羽越列藩同盟軍が結成されたのか。将軍慶喜が恭順し江戸城を明け渡したのに、東北の諸藩は幕府の命を聞かずに戦火を交えてしまったのか。または、和平の交渉が行われたはずだが、その折衝に携わった会津藩はじめ東北諸藩には、鉄舟に匹敵する人材はいなかったのか。それとも戦火を発せねばならぬ、何かやむを得ない理由と背景があったのだろうか。鉄舟を研究している立場としては、愚庵が全国へ父母妹を探す旅に出る前に、このところを検討しなければと考える」

 結論的には、東北の地に鉄舟のような人物、それは誰もが見通しをつけられなかった激動の時代に、与えられた大難題に徒手空拳で立ち向うという豪胆武勇さと、西郷との会見でみせた政治外交力と論理的構築力を併せ持つところにあるが、そのような英傑の存在は見当たらなかった。

 また、会津藩・松平容保も、慶喜が採った新政府軍へ和平の使者を立て交渉するという手段はとらず、全面戦争へと向かい、会津藩降伏という歴史事実が示すとおりで終わった。

 そこで最初に戻り、「鉄舟は愚庵に何故強く肩入れしたのか」という本題について、その背景要因分析に入ることにしたい。

 鉄舟と愚庵の関係を、愚庵研究家の第一人者である中柴光泰氏が、その著書『愚庵とその周辺』で次のように述べている。

 「明治五年、天田五郎(愚庵)は小池祥敬の紹介で、再生の恩人山岡鉄舟にはじめて知られた。相馬御風は『山岡鉄舟がなかったならば、今日私達が愛慕している僧愚庵というような一個の人物は此の世に在り得なかったかも知れない』と言っているが、まさにその通り。当時の鉄舟は『明治の和気清麻呂』(勝海舟の言)として、明治天皇の側近にあった。五郎の行動に手を焼くこともあった鉄舟も、五郎の顔を見ていると、その大きな眼がしぜんに細くなってくるから仕方ない。それほど鉄舟は彼を愛した」
 

 また、堀浩良氏は、その著書『歌人 天田愚庵の生涯』で次のように述べている。

 「思ったことをずけずけ言い、やってのける一本気なところは山岡の性格とそっくりであり、また山岡自身も15歳の時に母と死別し、16歳の時に父を失っているから、生死不明の父母、妹を探し求めて心痛辛労している五郎に一人深い憐憫の情を懐いたものであろう」
 

 さらに、愚庵会副会長で現在愚庵研究の第一人者である柳内守一氏も、その著書『愚庵物語』で次のように書いている。

 「鉄舟は、16歳で41歳の母、17歳で79歳の父と死別し、1歳の乳飲み子の弟を含めた5人の兄弟の面倒をみたので、五郎が、自分の父母と同じ年頃の両親と妹を捜しもとめる気持ちは、我がことのように分っていたのです」

 このように愚庵研究者が揃って鉄舟が愚庵の性格特性と、父母妹との別れに身をつまされ、愚庵心中を思い遣って、肩入れしたと述べている。
 

 その通りだと思うが、鉄舟を研究しているものとしては、何か、もうひとつ背景に大きな政治的背景があったのではないかと考えたい。

 それは何か。そのヒントは、やはり慶応4年6月16日新政府軍が、勿来の関近くの平潟港に軍艦3隻で入り、約千人で上陸、泉藩、湯長谷藩、小名浜陣屋を陥れ、平城めがけて攻め入って来た、という事実背景に存するのではないかと考える。

 つまり、平城が落城したのは、磐城平藩が戊辰戦争に参戦したからであるが、それは誰の意志で行われたのか。

 ここに究明のポイントがあり、そこに何らかの形、即ち、当然に直接には鉄舟は関わってはいないが、回り合わせのような不思議な運命とも言うべきものが、背後に横たわっていたのではないか。つまり、鉄舟が愚庵を助け、再生指導しなければならなかった何がしらの動機と、そこへの因果関係が存在したのではないかという推測である。

 鉄舟は過去を語らず、書かず、という人間である。だから、後世に記録化として遺っているものはすくない。しかし、当時の歴史史料と事実関係を詳細に分析して行けば「鉄舟は愚庵に何故強く肩入れしたのか」へ辿りつけるのではないか。

 そのように勘考し、これから論究していきたい。

 探求のスタートに取り上げる人物は、磐城平藩の第5代藩主安藤信正(鶴翁)である。安藤信正は安政7年(1860年)に老中となり、久世広周と共に幕政を取り仕切った久世・安藤政権という政権を担当した重要人物である。

 その安藤信正が、明治元年10月、戊辰戦争後、東京で謹慎、そのときに平藩家老・年寄に寄せた書がある。(上妻又四郎著『磐城三藩の戊辰戦争』)
「此の度の大事件畢竟我等不行届より生じ候儀にて其の方共も容易ならざる辛苦致させ気の毒の至りに候、去り乍ら彼の砌りの事情に止むを得ざる場合もこれ有り候儀は其の方共も能く心得候筈、今更是非得失の論議は其れ必ず無用にて候」
加えて、上妻氏はこの「止むを得ざる場合もこれ有り候」を明らかにすることが、同書の目的とも述べている。

 したがって、この上妻氏の検討結果をかいつまんでお伝えし、その後に、鉄舟がどのように絡んでいたかを論究していくことにしたい。

 新政府軍が平潟上陸にあたって、江戸では泉藩に嚮導するよう指示がなされた。
6月10日、大総督府より泉藩江戸屋敷留守居役の星野巌が江戸城に呼び出され、参謀の木梨精一郎から「奥羽口追討」のため嚮導二人を差し出すよう命じられた。この席には大村益次郎、渡辺清左衛門もいた。
泉藩江戸藩邸は、星野巌と浦越井保太郎を出張させることにし、このことを平潟にいる仙台藩隊長にも注進した。

 6月16日、新政府軍が平潟に上陸。薩摩藩407人、大村藩143人、佐土原藩143名、合計約700名。嚮導の星野は千人分の宿割を命じられ、四藩(泉、平、湯長谷、相馬)への達書、重役を平潟へ出頭するよう命じたもので、泉藩は早追で三藩に通知した。

 この達書から、新政府軍の四藩への対応意図は、初めから戦う目的で平潟に上陸したわけでなく、懐柔を試みていたことがわかる。

 泉藩は達書を受け取ったが、5月6日に成立した31藩による奥羽越列藩同盟があるため、重役の平潟出頭は行われなかった。同様に平、湯長谷、相馬藩も平潟へは行かなかった。

 これより前の6月2日、旧幕人見勝太郎が率いる遊撃隊と、藩主林昌之助忠崇に従う請西(じょうざい)藩、岡崎脱藩士等が小名浜沖に蒸気船で現れた。仙台藩と湯長谷藩兵が海岸に出向き、上陸した遊撃隊士と応接したところ、5月20日、22日に箱根で敗れた一行で、仙台に向かう予定であり、石炭を積み込み、明日出発すると答えた。

 ところが人見勝太郎が率いる一行は、仙台には向かわず、湯本の新滝を本営として宿陣した。

 人見一行が湯本に残った理由として様々な憶測がある。

 ひとつは前藩主安藤信正(鶴翁)より使者が来て、磐城に滞在するよう乞われ、併せて、泉、湯長谷藩からも同様であったという。この時の平藩は、藩主安藤信勇が西国にて病気滞在中であり、平藩は明確に奥羽越列藩同盟の一員であるから、積極的に人見勝太郎等を引き留めるはずがない。

 『磐城三藩の戊辰戦争』は、人見らは仙台に出向き、今一度戦いと願ったが、平城下に出張していた仙台藩の幹部から、仙台藩に問い合わせするから、それまで磐城の地に逗留するよう談判があり、一行は湯本に留まったというのが正確だと述べる。

 人見一行が湯本に滞留しているところに、16日の新政府軍平潟上陸がなされた。それを知った遊撃隊一行は上陸を知り、湯本より平潟へ向けて出撃したが、途上で、仙台・平藩勢と出会い、新田宿まで退き改めて軍議を開くことになった。

 軍議は人見が主導権を握り、遊撃隊、請西藩、岡崎脱藩士、仙台藩、平藩、泉藩、湯長谷藩等350人程度の兵で、17日早朝進撃開始と決定し、実際の進撃指揮も人見が行った。

 この進撃状況について、当地の様子が遺されている。
 「17日、植田から北に当たる新田宿のほうから、フランスかアメリカかともかく異国風の笙鼓が響き、人々は何事かと思って外に出てみると、旗指物を掲げた兵の進撃であり、村方一同は驚き指差し見物していた。平藩植田陣屋詰代官菊地小平太より平潟に上陸した官軍を征伐するため進撃していること、問屋場から借家に至るまで人が詰めるようにとの下知があった。泉藩領でも人が詰めた。村人たちは食糧の仕度、人足の手配などをした。鮫川には舟橋が出来、兵たちはそれを渡り名古曽山へ進撃した。昔の戦と異なり、今の戦はフランス伝来の元込鉄砲で行われるので、人足はもちろん村に残った老若男女は、人足どもに玉が当たり怪我などしないで、無事帰村出来るように神仏に祈ったというのである」

 戦いの記録は請西藩主林昌之助が遺している。
 「6月17日、夜明けとともに諸隊は軍議にしたがって平潟へ向け進撃した。林昌之助率いる請西藩士は最後尾を進んだ。ところが、仙台兵は振るわず、人見勝太郎が馬上より進撃を促した。遊撃隊の一行が仙台藩兵を率い平潟の後の山に進んだところ、敵兵が待ち受けており戦闘が始まった。しばらくすると、仙台兵が浮足立ち崩れ、そのため全軍が敗走してしまった」

 撤退した遊撃隊一行は、平城下に退いたが、17日の戦闘を指揮したのは遊撃隊長人見勝太郎で、仙台藩兵、磐城三藩兵はその指揮下に入ったわけで、この日以降の指揮も人見が取ることになった。

 愚庵の父母妹が行方不明になった平藩の戊辰戦争は、遊撃隊の人見勝太郎によって引き起こされたのである。平藩は人見勝太郎に巻き込まれたといえる。

 人見が小名浜沖に蒸気船で現れ、石炭を積み込み、仙台に向かっていれば、平藩の戊辰戦争はなかったかもしれず、愚庵の「十五歳で戊辰の役に出陣中、父母妹行方不明となり、爾後その所在を探して全国を遍歴すること二十年」(いわき市松が丘公園にある愚庵の庵門前の伝碑)という半生は変わっていたはず。

 鉄舟が愚庵と出会う前、既に鉄舟は人見勝太郎と接触している。そのあたりの論究は次号としたい。

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