山本紀久雄会長の講演・江戸東京博物館友の会セミナー
第164回 江戸東京博物館友の会セミナー(平成28年5月14日)
山岡鉄舟の人間力
講師 山本 紀久雄(山岡鉄舟研究会会長)
一転、和平路線をとった徳川幕府
慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで破れた15代将軍慶喜は大坂城を6日抜け出し、11日夜半品川沖に着き、12日江戸城に入りました。江戸城では、錦の御旗を掲げた官軍と戦うか、和平を結ぶか大評定が続きます。和平を唱えるハト派の勝海舟に対し、武闘派の小栗上野介や榎本武揚などのタカ派が一時主流となりましたが、その後一転、徳川幕府は和平路線をとります。もしこのとき、武闘派の言うなりに戦いに進んでいたら、大きな戦争となり江戸城の無血開城は無かったでしょう。これが1月の15日のことでした。
どうやら勝を苦手としていた慶喜ですが、今は勝に頼るしかなく、官軍との和平を彼に託しました。最初は西郷隆盛を知っている勝が自ら和平交渉に行こうと提案しますが、万一勝を失ってはもう後がない、と慶喜に拒否されます。その後は、和宮や天璋院、さらに上野の輪王寺宮まで担ぎ出して和平を求めますが、いい結論は得られませんでした。誰か西郷と渡り合える者はいないか・・・、このような複雑な場面で登場してきたのが、全く無名の山岡鉄舟でした。
駿府への出立
そのとき33歳だった鉄舟は、謹慎していた慶喜を警護するために寛永寺周辺を見回る警備兵にすぎませんでした。彼を推薦したのは鉄舟の妻の兄、槍の名人の髙橋泥舟(でいしゅう)でした。
慶喜公に一度も会ったこともない鉄舟でしたが、二心将軍と呼ばれていた慶喜に、状況が変わったら、また方針を変えるのではないか、と詰問しています。結果、慶喜から間違いなく別心無しという言質(げんち)をとった鉄舟はこの使命は絶対に成功させると自分を追い込んだことでしょう。しかし、一体どうやったらいいのか分からなかった鉄舟は、多くの幕閣などを訪ねて助力・相談を請いますが、誰も相手にしてくれませんでした。
そうして、最後に訪ねたのが勝海舟でした。虎尾(こび)の会で清河八郎と付き合っていた鉄舟を危険人物と警戒していた勝でしたが、自宅に訪ねてきた鉄舟と会うことになります。鉄舟に会った海舟は日記に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」と書いています。この日が3月5日です。勝は鉄舟が駿府にいる西郷との交渉に行くことを了解し、薩摩藩邸焼き討ち時に捉えられ、海舟邸に預かっていた、同じく虎尾の会で鉄舟と仲間だった益満(ますみつ)休之助と一緒に、鉄舟は官軍でいっぱいの東海道を駿府に向かいました。が、途中休之助は鉄舟のあまりの速足のせいもあってか腹痛を起こし落伍、箱根の山からは全くの一人旅となりました。
西郷、鉄舟会見
箱根の山を逃げ隠れしながら西に向かった鉄舟は、あの侠客清水次郎長の世話になって駿府に辿り着きます。
そして東征軍の西郷との会見が3月9日。和平への道は、ただ一つのことにかかっていました。イノチ、慶喜の命です。
あとは東征軍の言いなりでしたが、これだけは譲れません。ところが西郷は、これは朝命で、慶喜公は備前藩に預ける、の一点張りです。この時点で備前藩は官軍側になっており、そこへ移すことは即、死を意味しました。
鉄舟は武士道精神に基づき鋭く反論しました。「もし、あなたの君主島津公が同じ立場に立たされたら、あなたは殿様を敵方に渡しますか?」それを聞いた西郷は暫し沈黙したあと応えました。「分かりました。慶喜公のことは拙者が預かりもうす」と。この一言で江戸城の無血開城が決まったのでした。西郷は鉄舟という人間像のなかに無類の侍魂を見出したのです。後日3月13、14日の西郷と勝の会談はあとの段取りの確認であり、事務手続きみたいなものでした。その際、西郷が勝に述べたという記録が残っています。「徳川さんはえらいおタカラをお持ちですね」「???」「命も、金も、名誉もいらぬ。ああいう人でなくては天下の大業は成し遂げられません」と。
明治天皇との17年
明治天皇は日本のもっとも偉大な統治者であった、ということに異論はなかろうと思いますが、その天皇を扶育した人が侍従として36歳から53歳まで終生仕えた鉄舟でした。
鉄舟の厳しい禅修業を宮城で見ていた天皇はそこから学び、自分を磨いていったと思われます。京都の公家社会で女官たちに囲まれて育った天皇と、赤貧洗うがごとしの生活をしてきた鉄舟、境遇が違い過ぎる2人でしたが、ともに大酒飲みでした。2人でお酒を酌み交わしながら、天皇は世の中のこと社会のこと世界のことを身に付けていったことと思います。
東征軍参謀として明治維新を実質的に成し遂げたのは西郷隆盛であり、明治の45年間に日本を冠たる列強に築きあげ、大正、昭和、平成とつなぎ、今の日本を先進国に位置づけた始まりは明治天皇の治世であり、その偉大なる2人と深く関係を築いたのは山岡鉄舟で、人間を鍛え続けると「こうなり得るという実態・境地実像」を遺したのが鉄舟です。
我々はこの世に生を受け、一人一人が意義ある存在として今ここにいる。鉄舟は自らの奥底深く存在する意義を、厳しい修行で到達した境地から発揮させ業績を遺しました。厳しい修行を課せられない我々が、鉄舟から学ぶとするならば、自らの生きる意義を再確認することではないでしょうか。それが現代的な意味での鉄舟の教えと思います。意義を探し、求め、それを見つけた人は素晴らしい人生を送れるのだと、鉄舟は語っているのです。 参加者156人。
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