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2016年10月 6日 (木)

「江戸無血開城」論考(4)江戸焦土作戦

「江戸無血開城」論考(4)江戸焦土作戦
                                                                          水野靖夫

【1.「江戸焦土作戦」とは何か】
 勝海舟が、慶応4年3月13・14日の西郷隆盛との会談に備え巡らした様々な策の一つとして、「江戸焦土作戦」(以下「焦土作戦」)なるものがある。
  これは勝が、火消し・ヤクザなどの親分のところを回って金を渡し、官軍が進撃して来たら、子分を使って市街を焼き払い焦土と化し、その進撃を食い止めるよう命じ、同時に大小の船を用意し、市民を房総に避難させる準備もした、というものである。これにより西郷に「圧力」をかけ、官軍の江戸総攻撃を中止させようとした策である。
 この策が実際に実行できるか、実行した場合に、官軍を窮地に陥れ、かつ船で江戸中の市民を避難させるという所期の目的が達成できるか、といった実現の可能性には触れない。テレビで火の燃え広がる様子をコンピューターでシミュレーションして見せたが、実現の可能性を証明するのは容易ではなく、主観に陥る恐れがあり、何よりも無意味である。
 西郷との会談のための策という以上、重要なのはこの「焦土作戦」が、有効であったか否かである。すなわち西郷をして、慶喜の処分を軽減し、江戸攻撃を中止に追い込むことができたか、さらには徳川の降伏条件の緩和に役立ったかという点である。これを証明する史料があるかを検証する。

【2.「焦土作戦」が記載された史料】
 そもそも「焦土作戦」は、どのような史料に書かれているのか。これは勝のかなり個人的な策であり、まず勝自身が書いた『海舟日記』『解難録』に記述されている。さらに後年の海舟の談話で語られている。これらを順次検討する。

 まず海舟の書いた『海舟日記』と『解難録』にはどのように記録されているのであろうか。
(1)『海舟日記』(慶応四戊辰日記)
 「焦土作戦」は、『海舟日記』の慶応4年3月10日に書かれており出所が明確である。この日は山岡鉄舟が西郷との会談を終え、江戸に戻り復命した日である。この日の海舟の日記には、そのことで鉄舟を絶賛している。主君の恭順の真をよく官軍側に納得させたこと、法親王(天台座主輪王寺宮入道公現親王)始め多くの者が嘆願に向かったにもかかわらず誰一人成功しなかったが、鉄舟だけが降伏条件の書付を持参して帰った、とその沈勇・識見を賞賛している。さらにその降伏条件の全内容が記されている。
   そして大久保一翁始め重臣が降伏条件緩和の歎願を検討し、官軍参謀に訴えようとしているが、自分には考えがある、と言って「焦土作戦」について記載している。その要旨は以下の通り。
   ○官軍は15日に江戸城を攻撃するらしい。
   ○官軍は3道から、市街地を焼き、その退路を断ちながら進軍してきているらしい。
   ○当方の嘆願が聞き入れられず、官軍が攻め寄せて来れば、江戸は灰燼と化し、無辜の死者は百万に達するであろう。
   ○もし官軍がそのような暴挙に出るなら、こちらも黙ってはいない。こちらから先んじて市街を焼き、江戸を焦土と化し、進軍を妨げてみせよう。この決意を持って官軍に対応するつもりだ。百万の民を救えないなら、自らこれを殺そうと決心した。

少々長くなったが、日記に勝がどのように書いているかを見た。徳川の嘆願が受け入れられず、官軍が進撃して来るなら、江戸を自ら焦土と化して戦う決心をした、と述べている。

(2)『解難録』
『解難録』でも「33.一火策」「32.府下鼎沸(ていふつ) 乾父(おやぶん)使用」と出所が明確になっている。
『解難録』は、明治17年に旧稿を整理したもので、旧稿は主として幕末維新期に書かれた「解難の書」によって構成されている。つまり『解難録』は幕末維新の頃、海舟日記とほぼ同じ時期に勝海舟の手によって記録されたものである。
  この中の「33 一火策」の項に「江戸焦土作戦のことが詳しく書かれている。要旨は以下の通り。
   ○官軍は3月15日に江戸城を攻撃すると決定している。自分は出掛けて行き西郷と交渉する。
  ○自分は密かに無頼や鳶を使って江戸の治安を維持している。
 ○もし西郷が、自分の言い分を聞かずに江戸城を攻撃するなら、大人しく降伏はしない。
  ○もし江戸に進軍して来るなら、無頼や鳶に命令し、市街を焼き、進退を立ち切り、焦土と化す。民を殺すのは官軍の側であって、自分ではない。
  ○これはロシアがナポレオンを苦しめた策である。
 ○自分の策はこれとは違う。こうすれば1日で焦土となって戦いは終わり、それによりむしろ無辜の民の死は少なくて済むであろうと思う。
  ○官軍の伊知地(正治)(東山道先鋒、総督府参謀)という者は、火を放って退路を断ち進軍して来ると聞いた。少数で多数に勝つ戦法である。伊知地は豪傑である。
  ○自分は火付け道具を密かに用意したが、不要となり品川の海に捨てた。そのため、後に新政府より嫌疑をかけられた。
  ○西郷は度量が大きく、とても自分は及ばない。西郷の仕事を手伝わされる羽目になるのもやむを得ない。
  ○大火が発生した場合、庶民を避難させるため船の用意をさせた。
  ○幸いにして、江戸攻撃は中止となり、「焦土作戦」は徒労に終わった
     (幸にして無事を保ち、此策終(つい)に徒労となる
  ○「焦土作戦」を笑う者もいるし、自分も愚策とは思う。
  ○しかしこうして自分の精神を活発にしておかなければ、西郷との交渉を貫徹することは出来なかった。

なお、『解難録』のこの「33 一火策」の前の「32 府下鼎沸(ていふつ)、乾父(おやぶん)使用」という項の内容は以下の通りである。
官軍が迫り、江戸市中は逃げ出す者で混乱に陥った。自分は、無頼の徒が、強奪・放火をすることを恐れ、火消し・博徒などのうち名望のある親分35~36名に金を渡し、自分が指図するまでは妄りに騒ぎ回るなと諭した。皆、自分から直接談判を受けたことに感激し、快諾した。こうした無頼の徒に対して、その義侠心に訴え服せしめた。
ここには、江戸市中の治安の維持が書かれており、次の「火策」については記されていないが、その布石であったことは明らかである。

 『解難録』の「焦土作戦」に関する記載内容を紹介したが、ここには、西郷にこの策が伝わった、伝わって西郷が臆して江戸攻撃を中止した、降伏条件に付き譲歩したとは書かれていてない。それどころか、「江戸攻撃は中止となり、『焦土作戦』は徒労に終わった」と、述べている。「焦土作戦」により江戸攻撃が中止になったのではない。その逆で、別の理由で江戸攻撃が中止になったのであり、その結果「焦土作戦」は不要になったと言っているのである。
ただ最後にこの様にイザとなれば戦うぞという、強い気持ちで臨まなければ、交渉は成功しないと記しているに過ぎない。

以上の『海舟日記』『解難録』は勝自身の手になるものだが、この他に勝の談話をまとめたものがある。『氷川清話』(吉本襄編)と『海舟座談』(『海舟余波』の改訂版)(巌本善治編)である。『海舟日記』等はその事実が発生した時点で書かれたものであるが、『氷川清話』等の方は、それから30年程後の、勝晩年の談話である。そのため記憶が不確かになっている面もあり、また関係者が没してしまった後のため、勝一流の自慢話が混じっている。
一般的に、自分のことは過大評価し、他人のことは逆に過小評価するものである。まして政敵、ライバル、手柄争いの相手などは、時に酷評することがある。まして対象者がすでに没している場合は反論がないので一層増幅される可能性がある。特に勝の場合は、敵も多く、一流の毒舌家でもあり、特にその傾向がみられる。こうしたことも踏まえ、この両談話の「焦土作戦」に関連すると思われる箇所を見てみたい。

(1)『氷川清話』(角川文庫 1972年)
 『氷川清話』の「理屈と体験について」の中の「無学な人ほど真実」という項に以下のように書かれている(173~174頁)。
   ○へたな政論を聞くよりも、無学文盲の徒を相手に話す方が大いにましだ。(後略)
  ○新門の辰(五郎)などはずいぶん物の分かった男で、金や威光にはびくともせず、ただ意気ずくで交際するのだから、同じ交際するにも力があったよ。
  ○官軍が江戸城へ押し寄せて来たころには、(中略)いわゆるならずものの糾合にとりかかった。(中略)四つ手駕籠に乗って、あの仲間で親分といわれるやつどもを尋ねてまわったが、骨が折れるとはいうものの、なかなかおもしろかったよ。
  ○「貴様らの顔をみこんで頼むことがある。しかし、貴様らは金の力やお上の威光で動く人ではないから、この勝が自分でわざわざやってきた」と一言いうと、「へえ、わかりました。この顔がご入用なら、いつでもご用にたてます」というふうで(後略)
  ○官軍が江戸へはいって、しばらく無政府の有様であったときにも、火つけや盗賊が割り合いに少なかったのは、おれがあらかじめこんな仲間のやつを取り入れておいたからだよ。
   以上である。ここでは「焦土作戦」には直接触れていない。単にならず者の親分と交際があり、江戸開城の頃、彼らを利用して江戸市中の治安維持に努めた、と誇っているだけである。この部分の表題は「無学な人ほど真実」である。

(2)『海舟座談』(『勝海舟全集 20「勝海舟語録」』)(講談社 1972年)
 『勝海舟全集 20「勝海舟語録」』に『海舟座談』が収録されている。
   その「明治30年3月27日」の談話に以下の記載がある(73~74頁)。
   ○町人以上は、皆騒ぎはしない。それ以下のものが騒ぎ出しては如何ともしようがない。(中略) 遊人などが仕方がないのだ。それを鎮めるのに、骨が折れたのだ。
  ○えたの頭に金次郎、吉原では金兵衛、新門の辰。この辺で権二。赤坂の薬鑵(やかん)の八。今加藤。清水の次郎長(後略)
  ○女では八百松の姉。橋本。深川のお今。松井町の松吉。
  ○剣術の師匠をした頃は、本所のきり店〔下級の娼家〕の後ろにいた。鉄棒引(かなぼうひき)(夜警)などに弟子があった。それで下情に明るい。言葉もぞんざいだ。
  ○あの親分子分の間柄を御覧ナ。何んでアンナに服しているのだい。精神の感激というものじゃないか。
  以上の部分には、「焦土作戦」に触れた箇所はない。下々の者との付き合いがあり、下情に通じていたこと、そして幕末の治安の維持にこれらの者を利用した、と語っているだけである。
 唯一「焦土作戦」を匂わせる箇所は「明治31年11月30日」の談話にある(218頁)。以下その部分を全文引用する。
  ≪ナアニ、維新のことは、おれと西郷とでやったのサ。西郷の尻馬にのって、明治の功臣もなにもあるものか。自分が元勲だと思うから、コウなったのだ。
  江戸の明け渡しの時は、スッカリ準備してあったのサ。イヤだと言やあ、仕方がない。あっちが無辜の民を殺す前に、コチラから焼打のつもりサ。爆裂弾でもたいそうなものだったよ。あとで、品川沖へ棄てるのが骨サ。治まってから、西郷と話して、「あの時は、ひどい目にあわせてやろうと思ってた」と言ったら、西郷め、「アハハ、その手は食わんつもりでした」と言ったよ。ナアニ、おれのほうよりか西郷はひどい目にあったよ。勝に欺されたのだといって、ソレハソレハひどい目にあったよ。≫
  ここには「焼打」という表現が見える。しかしそれよりも注目すべきは西郷とのやり取りである。「ひどい目」とは「焦土作戦」のことであろう。このやり取りからは、江戸開城時の二人の会談でこの話題は出なかったことが読み取れる。またこの「焦土作戦」を知った西郷が江戸攻撃を中止した、などということはなかったことが読み取れない。もし二人の会談にこの話が出ていれば、勝は≪ひどい目にあわせてやろうと思ってた≫とは言わないし、西郷も≪その手は食わんつもりでした≫とは言わない。

  ≪ナアニ、維新のことは、おれと西郷とでやったのサ≫と言うくらいの勝であるから、もし「焦土作戦」が功を奏し、それにより西郷から何らかの譲歩を引き出したというのであれば、「ナアニ、どうしてもオレのいうことを聞かんなら、江戸に火をつけるゾ、と脅してやったヨ。そしたら、西郷のヤツ、勝さん、それは困る、と言ってオレの出した条件は全て呑んだよ。そして自分一存では決められないから、と言って、翌日京都にスッ飛んで行ったヨ」くらいのことは言ったであろう。しかし『氷川清話』にも『海舟座談』にも、「焦土作戦」が西郷に対し功を奏したという自慢話は語られていない。

【3.学者の見方】
  学者は「焦土作戦」についてどのように書いているであろうか。勝海舟の主な研究家の記述を検証する。
(1)江藤淳 『海舟余波 わが読史余滴』(文春文庫 1974年)
 江藤淳は『海舟日記』『解難録』『氷川清話』の他に伊藤仁太郎の『幕末の海舟先生』を引用して、勝は、火消人足・博徒、魚河岸・青物市場の若い衆に、≪肩に錦切を付けている官軍を見つけしだい、応接無用、有無をいわさず片っ端から斬ってしまえ≫ ≪「官軍の兵士ならかまわぬから、どしどし斬ってしまえ。あばれ放題あばれろ≫(163~164頁)とけしかけた、と言っている。そしてまた≪この講談調の逸話はなかなか面白いが、面白すぎて……≫(165頁)とも言っている。いずれにしても江藤は「焦土作戦」の内容を引用しているだけで、西郷との会談に、具体的にどのような効果があったのかには触れていない。「焦土作戦」の中身については、出典を明らかにして解説しているが、その効果については、西郷との交渉を前に、勝の精神を活発ならしめた、という以外に、なんら具体的効果というものを、出典を示して説明してはいない。

(2)勝部真長 『勝海舟』(PHP研究所 1992年)
 勝部真長は『海舟日記』『解難録』の内容を紹介し、「焦土作戦」によりナポレオンがロシアで大敗した様子、火消しの親分新門辰五郎の人と為りなどを紹介している。
 そして≪江戸無血開城となって、海舟の「一火策」はムダになった。(中略)もし談判破裂のときは打つ手がある、という自信がこちらにあればこそ、気迫がこもり、相手を圧倒することができたのである。その意味で決してムダではなかった≫と述べている。さらに≪海舟も「日記」に、「小拙、此の両日は全力を以てす」と書いている。およそ外交談判というものは、気迫である。ただ理路整然と言葉を並べるだけでは、相手を承服させることはできない、というのが海舟の信念である≫(181~182頁)と記述している。
 しかし勝部は、「焦土作戦」が西郷に対する「圧力」となって、西郷の江戸攻撃を断念させたとは書いていない。

(3)松浦玲 『勝海舟 維新前夜の群像3』(中公新書 1968年)
         『勝海舟』(筑摩書房 2010年)

 松浦玲氏は、『勝海舟 維新前夜の群像3』では『海舟日記』『解難録』の「焦土作戦」を紹介しているが、これより約40年後に書かれた『勝海舟』では「焦土作戦」には全く触れていない。前者は200頁足らずの新書であり、後者は900頁に及ぶ大部の単行本である。多くの勝海舟研究書に紹介され、小説・児童書・マンガにも書かれ、さらにテレビでも取り上げられている「焦土作戦」を、勝海舟研究の大家の松浦氏はなぜその決定版ともいうべき『勝海舟』に書かなかったのであろうか。9歳の時犬に睾丸を噛まれたという事件は書いているにもかかわらず、「焦土作戦」は書いていないのである。
 その理由は、勝が実際に工作したのは事実であり、面白い話ではあるが、西郷・勝会談に対しては何の効果もなく、歴史的には無用な事実だと判断したから省いたのではなかろうか。もし「焦土作戦」が「江戸無血開城」に何らかの影響を与えたのであれば、松浦氏がそれに触れないはずはない。「川中島の合戦」が、物語としては面白いが、歴史の流れから見れば一局地戦に過ぎず、歴史的重要性が小さいため、ほとんどの歴史教科書に取り上げられていないのと同じであろう。

【4.小説・児童書・マンガの記述】
「焦土作戦」が面白い話題のためか、小説等でも取り上げられる。しかしそれが西郷の知るところとなり、そのために西郷が江戸攻撃を中止した、と書いているものはない。

(1)『江戸開城』(海音寺潮五郎 新潮文庫)(1987年)
 海音寺潮五郎は『解難録』『海舟座談』を引用して、勝が、火消しの頭などに放火を依頼したり、房総の漁師らに船を出して江戸の市民らを救うよう依頼したりした、と記している。
 また渡辺清左衛門(清)が後年史談会で語った追憶談で、勝の西郷への訴えを次のように引用している。≪一口に旗本八万騎と申しますが、このほかに伝習隊その他の近年とり立ての兵も莫大な数があります。(中略)今日では慶喜といえども、命令を出しましても、その通りに従わせることは出来ない形勢なのです。だのに官軍では明日兵を動かして江戸城を総攻撃しようとなさる。必ず何らかの変動がおこり、慶喜の精神が水泡に帰するばかりでなく、江戸はいうまでもなく、天下の大動乱となることは明らかであります≫(150頁)と。
 そして海音寺は≪勝のことばの最後のくだりは、実におそろしい威迫に満ちたことばであった。そうなった場合には、勝の命令一下、江戸中のナラズモノらがそれぞれに放火して。官軍を江戸の町とともに灰燼にしてしまうということを言っているのである。はたして西郷にそれが読み取れたかどうか、西郷は依然にこにこして聞いているだけである≫(150~151頁)と続けている。
 海音寺は、「官軍が無理やり攻撃を仕掛けてくれば天下は大動乱になる」ということは、「勝が手配したナラズモノが江戸中に放火すること」だと言っている。そしてこれを西郷が読み取ったかどうか、と言っている。勝は「焦土作戦」のことを西郷に明言はしておらず、ましてや「天下が大動乱となる」という勝の言葉から、西郷が「焦土作戦」を想像してこれを恐れ、江戸攻撃を中止したかは疑問である、と海音寺は言っているのである。言葉を変えれば、海音寺は、勝が「焦土作戦」で西郷に「圧力」をかけ、江戸攻撃を中止させた史料などない、と言っているに等しい。
 
(2)『勝海舟 私に帰せず』(下)(津本陽 潮出版社)(2003年)
 津本陽氏は『解難録』『海舟座談』の要点を引用し、新門辰五郎・清水の次郎長らに江戸の治安維持から放火まで頼んだこと、また信太(しのだ)歌之助(元講武所柔術教授方)らに頼んで江戸市民の房総への避難のため、船を用意させたことなどが書かれている(214頁)。
 こうした「焦土作戦」準備の内容については触れられているが、これが西郷に伝わり、それによって西郷が江戸攻撃を中止したとは、一言も書いてない。

(3)『江戸を戦火からすくった男 勝海舟』(安永貞夫 講談社 火の鳥伝記文庫)(1985年)(児童書)
 勝海舟が、町火消し「を」組の頭・新門辰五郎を訪ね、江戸に火をつけること、そして避難する人たちを助けるためありったけの船を集めることを依頼することが書かれている。しかし江戸の町に放火する理由についての説明はない。まして西郷との交渉に、この話は一切出てこない。江戸城明け渡しの後で、お礼に町火消に金を配った後日談だけが書かれている。

 マンガを2件紹介する。絵はそのまま掲載できないので、当該部分の解説文とセリフのみを紹介する。いずれも勝が火消しやヤクザの親分に放火を依頼する場面だけで、西郷への「圧力」など描かれてはいない。
 

 (1)『勝海舟』(学研まんが人物日本史)(監修 樋口清之、まんが ムロタニツネ象)(学習研究社)(1984年)(127~128頁)
 勝「よしっ! 江戸中の火消しと、やくざの親分のところを回ってくれ! 急げ!!」
 勝「談判が決裂したときは、江戸の町を火の海にして、官軍と戦うつもりだ。放火に協力してくれ!!」
 親分たち「幕府のヘッポコ役人なら聞きやしませんが、勝先生のお頼みとあれば、なんでもやりやすぜ! 官軍を江戸の火であぶってやりまさあ!」
  親分たち「江戸をいちばん愛している勝先生が……、その江戸に火をつけろとおっしゃるんですからね。われわれ江戸っ子の意気を、みせてやりまさあ。」
  さらに、房総に船を集めて、江戸の大火が見えたら、すぐ江戸川にこぎ入れて難民を救えるように、手配をしました。
  船頭「勝先生、いつでも動かせますぜ。」
 勝「ありがとうよ。」

 (2)『勝海舟』(コミック版 日本の歴史 幕末・維新人物伝)(企画・構成・監修 加来耕三 原作 水谷俊樹、作画 中島健志)(ポプラ社)(2013年)(96~96頁)
   一方その頃海舟は江戸火消しの元締め新門辰五郎宅にいた。
   勝「アンタに頼みがある 新政府軍が江戸に入ったら町に火をかけてもらいてぇんだ」
   辰五郎「ええっ! 旦那 あっしらは火消しですぜ 火をかけろだなんて……」
   勝「どのみち戦になりゃ燃えちまうんだ! だったら少しでも進軍を遅らせて 和平交渉に持ち込むのが狙いよ」
  辰五郎「江戸の町民はどうするんで?」
  勝「抜かりはねぇ その前に漁船を使って房総へ避難させるさ」
  勝「頼む! これができるのは火の扱いを熟知しているアンタしかいねぇんだ!」
  辰五郎「……承知しやした! でもそうならないことを祈っておりやすぜ 勝の旦那」 

【5.テレビ放映】
  「焦土作戦」をテレビではどのように扱っているであろうか。
(1)BS-日本テレビ「片岡愛之助の歴史捜査」
  BS-日本テレビ「片岡愛之助の歴史捜査」はサブタイトルが「江戸無血開城の真相と江戸焦土作戦に迫る!」で、「焦土作戦」を重視した構成になっている。「新政府軍は金を持っていなかったので、江戸の物資を当てにしていた。その新政府軍に打撃を与えるため、火消・博徒に金を渡して江戸中に火をつけ焦土と化すよう協力を依頼した」と述べている。そして江戸博のマイクロフィルムから「戊辰以来会計荒増」を探し出し、慶応4年2月、「15日 江城官軍侵撃に門生その他間謀焼討手当」として250両(現在の価値で2500万円)が記録されていることを紹介している。
  また実際に江戸の町火消が一斉に火を放ったらどのように燃え広がるか、コンピューターによりシミュレーションを行っている。
 「これが西郷に届くかどうかということですよね」と解説しながら、どのようにして届けたか、届いたか否かについては、述べていない。「作戦の噂を相手が知れば当然ひるむからプレッシャーになった、この情報だけでも十分交渉の切り札になった」と解説している。しかし西郷にプレッシャーになったことを示す史料などはなく、西郷がどのように反応したかについては何も語っていない。「交渉の切り札になった」というのは、飽くまで番組解説者の推測に過ぎない。

(2)BS-TBSの「THE歴史列伝」
  BS-TBSの「THE歴史列伝」も似たような内容である。江戸の町に火をつける依頼のため、江戸の町を仕切る強者たち(とび職・テキ屋・ヤクザの大親分・火消し)を自宅に呼び寄せた、と言っている。一方、火の海となって混乱する江戸の町から住民たちを救うため、江戸中から避難準備船を集め、そのために2千数百万両(2億5千万円)かかり、これがほとんど勝の自腹だったと言っている。
  また次のようにも言っている。「わざとうわさが広まるようにした。分かった相手が当然ひるむ。江戸の町には新政府軍のスパイみたいな存在が入り込んでいた」と。しかしスパイがいたとしても、それが西郷に伝わり、西郷がひるんで、江戸総攻撃をためらったなどという史料はない。「分かった相手が当然ひるむ」というのは、日本テレビと同様に、解説者の何等根拠のない憶測に過ぎない。
 
  両番組に共通しているのは、「作戦を知れば当然ひるむはず」という点である。しかし両番組とも、西郷がこれを知ったという事実はおろか、ひるんだという事実も語ってはいない。西郷がこれを知った、そしてひるんだということを示す史料などないのである。

【6.結論】
「焦土作戦」は、勝が西郷隆盛との会談を成功させるために取った「工作」であるというが、果たしてそうであろうか。このような準備をしたことは事実であるが、これが勝の「工作」として西郷に対し効果があったのであろうか。結論は否である。
その理由は「工作」として実効があったと主張する以上、この策が西郷に対する「圧力」となったという史料がなければならない。その「圧力」によって西郷が江戸総攻撃を中止し、慶喜の処分等降伏条件の緩和に応じたという史料がなければならない。しかし西郷が勝の準備したこの策を恐れ譲歩した、などという史料はない。何よりも勝自身が書いた『海舟日記』『解難録』に、この策が西郷にプレッシャーを与えたなどと記されていない。それどころか、『解難録』に「幸にして無事を保ち、此策終(つい)に徒労となる」と書いているように、「焦土作戦」は徒労に終わったのである。つまり勝の「焦土作戦」という工作は、西郷・勝会談には何の影響も与えなかったと勝自らが書いているのである。
もしこの策が功を奏していたのであれば、放談録である『氷川清話』や『海舟座談』に勝の自慢話が載っているはずである。しかしそれがない。
また「焦土作戦」を扱った著書やマンガ、テレビ番組などは、いずれも「焦土作戦」の準備の実態、特に火消しやヤクザの親分に勝が放火を頼んだことを紹介するばかりで、西郷に対し「圧力」となったということは一言も述べていない。特に勝海舟研究の大家である松浦玲氏の集大成ともいうべき『勝海舟』(筑摩書房)に、この「焦土作戦」が全く触れられていないということは、幕末・維新史においてほとんど歴史的価値がないと解釈されたものと思われる。

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コメント

江戸焦土作戦に関して

記事読ませていただきましたが、実は近年、江戸焦土作戦が実際に準備されていたことの強い証拠となるかもしれない資料が発見されたとのことです。勝から江戸の火消しや親方衆に金が渡されたことが明記された帳簿が発見されたとのことです。最近です。つくづぐ思いますが、勝海舟の言う通り、歴史というものは実に難しいものだと思いますね。海舟曰く「今日起こっていることすらわからないではないか」と。ですから、私も、歴史に対してはあまり断定はせず、できる限り慎重に慎重にと思っています。また、江戸無血開城についても、山岡鉄舟のみを過大評価するのはやはり注意が必要ではないでしょうか。なにしろ、西郷と鉄舟は初対面であり、一方、西郷と海舟は、旧知の仲で信頼関係があった(西郷は斉彬からも海舟の話は聞いていたでしょう)。確かに鉄舟は尊敬すべき人間とはいえ、あくまでも一幕臣であり、海舟は幕府全権であったのです。西郷と海舟の長年の深いつながり(海舟は坂本龍馬の師匠であったわけで、西郷は信頼を寄せていた)をしっかりと考慮しなければならないでしょう。また海舟は長州、薩摩の要人とも気脈を通じていた。では鉄舟はどうでしょうか。その辺は客観的に考える必要があると思いますが。私は、鉄舟が開いた全生庵で禅会に参加しているほど鉄舟好きですが、これと先ほどの話とは別の話。海舟の政治的な動きは対諸藩、対英仏を含めて、その動きは極めて広範囲にわたっている。
非常に重要なのは、西郷の腹の中であり、海舟の腹の中であったと思います。無血開城の直前、西郷は海舟を好敵手としてことの成り行きを楽しんでいた節もあります(手紙が残っています)。おそらく両者ともに「和平」をはじめから考えていたでしょう。しかし問題は「突発事故」であったのでは? さまざまな突発事故の可能性があった。海舟はそれをもっとも恐れていた。海舟の最大の貢献は、この突発事故を未然に防いだ点でしょう。しばしば、大きな戦争は不足の自体から発生しているのです。

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