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2016年10月 4日 (火)

「江戸無血開城」論考(3)「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)

「江戸無血開城」論考(3)「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)
                                                                                        水野靖夫

この「木梨・渡辺ルート」ついては萩原延壽の『遠い崖』(7巻「江戸開城」)に詳しく分析されているが、前論考の「サトウ・ルート」に関連し、勝海舟の工作があったか否かに論及する。

【1.「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)とは何か】
 先ず「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)とは何かである。
 江戸総攻撃の直前、東征軍先鋒総督参謀の木梨精一郎と渡辺清は、横浜のイギリス公使館を訪れ、江戸総攻撃による負傷者を看護するため、病院の提供を依頼した。その時パークスは木梨らに次のことを語った。
(1)すでに徳川慶喜は恭順していると聞く。いずれの国も恭順すなわち降参している者に戦争を仕掛けるということはない。それは国際法(国際世論のこと)に違反している。
(2) 戦争を始める場合その国の政府は、外国人居留地の領事に連絡し警護の兵を出さなければならないが、何の連絡もなくどうなっているのか分からない。仕方なく我が海軍兵を上陸させて居留地を護らせている。日本は無政府の国と言わざるを得ない。

パークスよりこう告げられた木梨・渡辺は、明日江戸攻撃は出来ない、早く大総督より各国領事に命令を出さねばならないと考え、木梨は駿府の大総督府へ、渡辺は品川の西郷隆盛のところへ走った。渡辺が西郷のところに報告に来たのが14日の午後2時、正に勝との第2回目の会談の直前であり、西郷に言われて会談に同席した。以上は、渡辺の書いた『江城攻撃中止始末』の内容である。

【2.木梨・渡辺はいつパークスと面会したか】
  実は木梨・渡辺がパークスに面会したのはいつなのか、その日にちには諸説ある。萩原は『遠い崖』(7巻「江戸開城」)で、①「復古擥(らん)要(よう)」②「戊辰中立顛末1」③「横浜情実」④「岩倉家蔵書類」そして前記の⑤「江城攻撃中止始末」の5つの記録を挙げ、次のように述べている。

  パークスは情勢が分からないので、情報収集のため13日午後にラットラー号を大阪に派遣した。このことについて、①②③は「昨日」と書いている。すなわちこの3つは、面会日は13日と言っているが、実は14日である。13日を昨日と言うことは、面会日は14日ということになる。④はもともと面会日を14日と言っている。⑤は、面会日については書いてないが、ラットラー号の派遣(13日)を「先達て」と言っているので、面会日は必然的に14日以降ということになる。以上より面会日は14日である。

 ラットラー号が13日に派遣されたことは、次の、パークスがスタンレー外相に送った3月17日の報告書(①資料)とそれに添付されたスタンホープ大佐の報告書(②資料)に記載されている。

  ① 資料 3月17日(西暦4月9日)付スタンレー外相当て報告書

1
Then Majesty’s Ship “Rattler” was accordingly
despatched on the 5th Instant with the
accompanying Despatch which Mr. Mitford ……
そして、女王陛下の船「ラットラー号」がそのため同月(4月)5日(和暦3月13日)に派遣された。

  ② 資料 3月13日(西暦4月5日)付スタンホープ大佐のパークス当て報告書
  これは前記①の添付資料。
    ②―1 冒頭部分

2
                               H.M.S. ”Ocean” at
                                            5April,1868                                          
Sir,
   I have the honor to acknowledge
the receipt of Four Excellency’s letter of   

   ②―2 後半部分

3
F.E. that I have ordered the “Rattler”  
to perform this service and for Baron
Brin to be received for a passage
in accordance with F.E’s request.
 
   ②―3 最後の部分

4
   The“Rattler” will proceed this   
afternoon.
(signed)Chandos S. Stanhope
                               Captain and  
                               Senior Naval Officer

 ②資料の冒頭部分(②―1)は、「女王陛下の船(H.M.S. : Her Majesty’s Ship)「オーシャン号」の艦上にて、4月5日1868年」と、この報告書の作成日が書かれている。そして報告書の後半部分(②―2)には「私は“ラットラー号”にこの任務の遂行と、4か国の公使館(F.E. Four Exellencies)の要請に基づきブラン男爵の便乗を認めることを命じた」、最後の部分(②―3)には「“ラットラー号”は本日(4月5日〔和暦3月13日〕)午後(兵庫に)向かうでしょう」と書かれており、スタンホープ大佐の署名がある。この報告書は「控え」であるため、署名がされているということを表示している。  

 さらに萩原は、①②④は面会が終わったのは「夕刻」と書いている、と述べている。14日の夕刻とは、西郷・勝会談の終わった時刻である。パークスとの面会は横浜、西郷・勝会談は品川。①②④に基づく限り、パークスの話は、会談前の西郷に伝えられなかったと言える。

 残るは③⑤であるが、③はラットラー号の記述より面会日は14日ということになるが、時刻は不明である。

 多くの識者が引用する⑤「江城攻撃中止始末」について検討を加えてみたい。「江城攻撃中止始末」は渡辺清が明治30年(1897)に史談会で語った談話であり、日付に誤りと思われる箇所がある。史談会速記録より、日付に関連する部分を拾ってみると次の通りである。
 (1)≪14日に江城を攻撃する≫ ➡ 実際の江戸城攻撃予定は15日
 

 (2)≪12日に藤澤驛に着た。所が木梨精一郎が大総督の命を承けたといふて此に來た。……横濱に参り英の「パークス」に逢ふて……清ハ木梨と同道して急に横濱に参った。……「パークス」は幸ひ在邸で面會しました≫ ➡ 萩原の言う通り、いつ横浜に行きパークスに会ったかは書いてないが、このまま読めば12日に木梨が来て直ぐにパークスに会いに行ったとすれば、面会日は12日ということになる。
 

 (3)≪それ故先達て自費を以て船一艘を雇て兎も角兵庫に使いして、彼處まで行けば大抵様子が判るだらうと思ふて聞きにやった位である≫ ➡ これはラットラー号のことであろう。「自費で船を雇って」というのも間違いだろうが、それは30年も後の渡辺の記憶の曖昧さで仕方ないとして、「先達て」に拘れば、13日が「先達て」ということは、今日は14日以降ということになる。つまり面会日は14日となる。
 

 (4)≪品川に行き此事を西郷に告ぐべしと……品川に着したのは午後二時頃であった……勝安房が急に自分に逢ひたいといひ込んでおる。之ハ必ず明日の戦争を止めて呉れといふじゃらう≫ ➡ 勝が面会を求めているとなれば、この日は13日になる。しかし明日の戦争という表現は、江戸城攻撃が15日であるから、今日は14日ということになる。しかし渡辺は江戸城攻撃は14日と言っているので、そうであるとすれば今日は13日ということになる。
 

 (5)≪君も一所に行たらどうかい……其時西郷と一緒に出たは村田新八、中村半次郎、清はほんの付け物のやうにして其席に出ました≫ ➡ この後の会談の様子は、13日のものではなく、14日の会談内容であるので、この日は14日ということになる。

 萩原は『遠い崖』(7巻「江戸開城」)で≪日付を明示していないが、前後の文脈から推して、3月12日(陽暦4月4日)か3月13日である≫(24頁)と言っている。確かに文脈だけから判断すれば、その通りかもしれない。12日に藤沢に着き、直ぐに木梨と一緒にパークスに会いに行ったとすれば、渡辺がパークスに会ったのは12日ということになる。また江戸城攻撃予定は14日と言っているから、明日の戦争という表現から、今日が13日であることを意味する。そうすれば萩原の言う通り、文脈からはパークスに会ったのは12日か13日、ということになる。
 

 しかし、江戸城攻撃予定が15日、ラットラー号派遣が13日、西郷と勝の2回目の会談が14日という、動かせない歴史的事実を踏まえて読めば、渡辺がパークスに会ったのは14日ということになる。萩原ほどの学者がなぜ≪日付を明示していないが、前後の文脈から推して、3月12日(陽暦4月4日)か3月13日である≫と類推したのか、甚だ疑問である。
 

 なお、パークスのスタンレー外相当て3月17日付報告書に,「御門の軍の士官」“an officer of the Mikado’s army”がやってきたので、これに横浜の自衛策を伝え、御門の兵が隊列から離れ横浜をうろつくことがないよう伝え、了解を得た、と記録されている。この士官は、内容から木梨達と推測されるが、その名も、訪ねてきた日付も書かれていない。

以上まとめると以下のようになる。
 (1)多くの記録が示しているように、木梨・パークスの面会終了が、西郷勝会談の終了とほぼ同時であれば、西郷に対する「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)は時間的にあり得ないことになる。

 (2)「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)があったと言えるのは、渡辺の「江城攻撃中止始末」に基づく場合である。これについては次のことが言える。
 

 (ア)西郷にとって勝との会談時にこれが「圧力」となったか否かは、推測の域を出ない。既述のように萩原は『遠い崖』(7巻「江戸開城」)の中でこれを否定している。西郷が自派の説得に利用したという記録はあるが、勝との会談で圧力となったことを西郷自身が語った記録はない。
 渡辺は≪西郷も成る程惡かったと、「パークス」の談話を聞て愕然として居りましたが、暫くしていハくそれハ却て幸であった≫と言った、と述べている。萩原は、すでに江戸攻撃を中止することを決めていた西郷が、「愕然」としたのは、冒頭で述べた(1)「恭順している慶喜を攻撃するのは国際法違反」と言われたからではなく、(2)「領事に連絡しないのは無政府の国」と言われたからである、と述べている。そして「却て幸」と言ったのは、自派の強硬派を説得する材料になると考えたからであると解釈している。事実江戸城攻撃中止命令を聞いた板垣退助が西郷に抗議しに来たとき、このパークスの話をしたところ、≪板垣もなる程仕方がない。それなら異存を云うこともない。それでハ明日の攻撃ハ止めましやう≫と言って大人しく引き下がった、と述べている。

 (イ) パークスの立場から考えると、彼が官軍側の江戸攻撃は好ましくないと考えていた としても、パークス自ら積極的に西郷に圧力をかけてはいない。その理由は2つある。
  ①  木梨たちがパークスのところにやって来たのはパークスにとっては偶然であり、
両者の接触はパークスの意思によるものではない。
  ②  パークスが、官軍側の実質的な責任者が西郷であることを知ったのは17日以降
である。それは、8月号の「ハモンド・ペーパー」ですでに述べた通りである。

 (ウ)これが西郷との会談のための勝の事前工作であったか否かは、以下の理由により
あり得ない。
  ①  6月号と7月号で既に論じた(「パークスの圧力」(サトウ・ルート))により、勝は事前にサトウに会っていない。
  ② 横浜での木梨・渡辺とパークスの面会時、サトウは江戸に居てこの面会に同席していない。
  ③  面会に同席したサトウ以外の者が、横浜から馬を飛ばし、渡辺が西郷に知らせた
  と同時に、すでに薩摩屋敷に来ている勝に知らせることなどあり得ない。
  ④ そもそもこの面会は、木梨・渡辺の方からパークスを訪ねたものであるから、あらかじめパークスに「圧力」を要請しておいても、それが西郷に伝わるという保証はない。
 
【3.テレビ放映】
 例によって、テレビ報道はこの「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)をどのように扱っているか見てみよう。BS-TBS2015年11月13日の「THE 歴史列伝」の「江戸無血開城 勝海舟」は以下のように解説している。≪実は、すでに薩長にはイギリス公使から「戦争をやめるべき」という強い抗議が来ていて、西郷はすでに強硬策を取れない状況になっていたのだ。勝の水面下での工作が効いたと言われている≫。余りはっきり述べていないが、イギリス公使からの強い抗議が、「勝の水面下の工作」と言っている。

 BS-日本テレビ2015年12月10日「歴史捜査」の「幕末のネゴシエーター勝海舟」
は、さらに明確に述べている。≪パークスは、慶喜公は抵抗していないのに戦争とは何事か、と非難。新政府軍の行動は国際的なルールに違反しており、江戸で戦争になれば、イギリスの駐留地を守るため、軍を動かすことを匂わせたのだ。このことはその日のうちに西郷にも伝わったと言われている。パークスは勝とサトウの意思を汲み取り圧力を掛けたと考えられるのだ≫と。つまりパークスはサトウを通じ事前に勝から言われていたため、木梨たちが訪ねてきたとき、その「意思を汲み取り圧力をかけた」と言っている。いずれの番組も、「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)は勝の工作と主張している。

【4.学者・作家の説】
 以上を踏まえて、学者・作家の説をいくつか見てみよう。
 (1)田中惣五郎 『勝海舟』  既論考の「サトウ・ルート」で紹介したように、田中は3月9日にサトウと勝が会っていると誤った解釈をしている。そのため、木梨がパークスを訪問した時の事情を西郷に報告したとき、≪この事情(木梨の報告)に直面し、勝の口添が利いたためでもあったらう≫と言っているが、勝の口添など、この時点で届いているはずはない。≪4月5日大久保(利通)へあて、「横浜より薩道(さとう)(アーネスト・サトウ)、書面を以て、英国公使面会致したく候間、是非立寄りくれ候様申し来たり候につき、駿府へ到着の日に相達し候故,定めて勝などよりも外国人へ手を入れ……」≫と書いてあるが、西郷が「勝の外国人への手入れ」があるかと想像し、パークスに説明に行ったのは3月の28日である。勝がパークスを訪問したのはその前日27日である。いずれも西郷が京都に行き朝廷の最終決裁を得た20日以降の話である。

 (2)江藤淳 『海舟余波』 ≪ところで勝安房守は、おそらく事前に木梨・パークス会談がおこなわれることを知っていたものと思われる。3月13日の西郷との第一次会談を儀礼的なものにとどめ、本会談を翌日に持ち越したのは、並行しておこなわれている木梨・パークス会談の結果をたしかめてから西郷との談判にあたろうとしたためにちがいないからである≫。これは、「サトウ・ルート」で既述したように、3月9日に勝がサトウに会っていると錯覚しているために起こった誤った論理構成である。

 (3)石井孝 『戊辰戦争論』 ≪おそらく、13日パークスと木梨との会見が行われるのを知っていた勝は、西郷との本格的な会見を14日にのばしたのであろう≫。これも江藤淳と同様誤った解釈である。

 (4)海音寺潮五郎 『江戸開城』 ≪渡辺清左衛門が品川に着いたのは午後2時ごろであった。すぐ西郷の陣屋に行き、パークスとの応対のことを報告した≫。渡辺清(清左衛門)が西郷に、勝との会談前にパークスの要請を伝えていることが記されているが、サトウと勝が会ったのは≪最も確実には3月20日以後ということになる≫と、『サトウ回想録』を正しく読み取っており、そこには勝の工作が入り込んではいないことを示している。

 (5)高野澄(きよし) 『勝海舟』 ≪パークスは、恭順を表明している慶喜を攻撃するのは賛成できないことを西郷に通告してあった。西郷はこのことを海舟に知らせてはいないが、おそらく海舟のほうは、パークスの書記官アーネスト・サトウを通じて知っていたであろう≫。パークスはいつ西郷に通告したと言うのであろうか。せいぜい14日の勝との会談の直前しかあり得ない。ましてそれを勝がサトウから聞いて知っていたというのは、全く荒唐無稽の話である。

 (6)勝部真長(みたけ) 『勝海舟』 まず≪渡辺が品川の藩邸に西郷のもとに駆けつけたのが、「午後2時頃」というのは、翌14日のことであろうと思われる≫と記載している。また≪しかるに最近、萩原延壽氏がアーネスト・サトウの日記に基づいて考証されているところによると(同氏『遠い崖』朝日新聞夕刊808回)、渡辺のパークス発言の報告が西郷に届いたのは、14日の西郷・勝会談の後であろう、ということである≫、≪この辺が、やはり歴史の謎である≫と述べている。すなわち渡辺が西郷に知らせたのが、勝との会談の前であるか後であるかについて、渡辺とサトウのそれぞれの回想録に、相違があると言っているのである。しかし続けて≪勝のほうも、西郷との会談の前には、まだパークスとは会っていないし、パークスが慶喜助命に有利な発言を第三者の立場からしていることは知らずにいたようである。勝がイギリス公使館と連絡が取れたのは、21日になってからである≫と述べており、勝の工作はあり得ないことを主張している。 

 (7)加来耕三 『勝海舟 行蔵は我にあり』 既論考の「サトウ・ルート」で勝が西郷との会談前にサトウと会っていたという説を支持していると書いたが、さらに次のように書いている。≪とすれば、海舟、西郷ともにそんなことは素知らぬ顔の大芝居ということになる。が、それとて共に互いを信頼頼し合える、大人としての間柄であったこその演出であったろう≫。すなわち勝は、直接口には出さず、腹芸で西郷に「パークスの圧力」をかけたと言っている。

 (8)津本陽 『勝海舟 私に帰せず』 ≪3月14日の会見のときの様子を、麟太郎は記している。……麟太郎は、西郷がパークスから牽制をうけていることを知っていた≫(麟太郎は勝海舟のこと)。「パークスの圧力」をどのように利用したかには触れてはいないが、勝が西郷との会見に臨んだ時点で、西郷に「パークスの圧力」がかかっていることを知っていたと解釈している。

 (9)松浦玲 『勝海舟』 詳しく論じられているので少し詳細に紹介する。既論考の「サトウ・ルート」で述べたように萩原の『遠い崖』(7巻「江戸開城」)を引用し、勝工作説を否定している。ここでは、渡辺のパークス面談結果の西郷への報告が、西郷・勝会談の前か後かについてどのように記述しているか見てみたい。≪萩原の判断は渡辺が西郷に報告したのは西郷・勝会談の後だろうとの『仮説』に傾く。私の判断は、渡辺が西郷・勝の会談に同席したという方に傾く。横浜と田町が共に夕刻という必ずしも確定的ではない制約よりも、渡辺の談話が持つ臨場感を採りたい≫と述べている。確定的ではない時間的制約より談話の臨場感を優先するというのである。「講釈師、見てきたような嘘をつき」とはよく言われることであり、渡辺自身も≪記録もありませぬから概略しか覺へて居りませぬ≫と言っているように、30年も前の記憶などかなり曖昧である。

 (10)星亮一 『勝海舟と明治維新の舞台裏』 ≪江戸で戦争を起こすべきにあらずという意見は、駐日公使パークスからも寄せられていた≫。しかし「サトウ・ルート」で述べたように、勝が事前にパークスに会って依頼し、同意を得た、と星氏は主張している。

 こう見ると、いずれも渡辺が西郷・勝会談前に西郷にパークスの意向を伝えた、と述べている。すなわち渡辺の「江城攻撃中止始末」に則った説を展開している。(6)勝部真長と(9)松浦玲の両氏は、渡辺の報告が西郷・勝会談前に西郷にもたらされたか否か両論あることに触れている。しかし勝が、西郷との会談に臨む前に、サトウを通じてパークスに働きかけたという勝工作説を取っているのは(1)田中惣五郎、(2)江藤淳、(3)石井孝、(5)高野澄、(7)加来耕三、(8)津本陽、(10)星亮一の7氏で、(2)江藤淳、(3)石井孝の両氏に至っては、勝が木梨・渡辺とパークスが会うことを事前に知っているがゆえに、本格的な会議を14日に引き延ばしたと主張している。勝工作説を否定しているのは(4)海音寺潮五郎、(6)勝部真長、(9)松浦玲の3氏のみである。

 歴史の真実は多数決という訳にはいかない。飽くまで史実に基づいて判断しなければならない。しかし、多数の間違った説があると、後世、それを読んだ多くの人が、そのまま誤った説を信じて伝えることになる。特に著名な学者や作家などの説となるとなおさらである。中々間違った通説・俗説が改まらない所以である。

【5.結論】
 「木梨・渡辺ルート」は既論考の「サトウ・ルート」とも密接に関連している。学者のほとんどは渡辺清の談話「江城攻撃中止始末」を採用して、西郷・勝会談の直前に、渡辺がパークスの意向を西郷に伝えたとしている。しかしたとえそれが西郷に伝わっていたとしても、勝には時間的に伝わる可能性はない。事前に勝が知っていた、まして勝が工作したとするためには、当然勝とサトウが事前に会っていなければならないが、それは8月19日の論考(2)「パークスの圧力」(サトウ・ルート)により完全に否定されている。

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