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2016年10月

2016年10月26日 (水)

2016年11月例会案内

2016年11月例会は以下のように開催いたします。

開催日 2016年11月16日(水)
場所  東京文化会館・中会議室1
会費  1500円
時間  18時30分~20時

発表者 山田恭久氏(窪田清音昆孫(こんそん))・・・(注記 昆孫とは六代後の子孫)

テーマ 「幕府講武所頭取・窪田清音(すがね)とその門人」

内容   旗本・窪田助太郎清音(1791年〜1867年)は兵学者・武術家で、のちに講武所頭

     取を務めました。
    

     兵学三千人、剣術六百人と伝わる門人には小栗上野介忠順、戸田忠道・忠昭兄

     弟、若山勿堂、宍戸弥四郎、四谷政宗と呼ばれた名刀工・源清麿などがいます。

     山鹿流、田宮流など十数派の兵学・武術のみならず武家故実、国学、和歌、書も

     兼修した窪田清音の生涯を説きながら、後世に残した影響を探ります。

.2016年12月例会は以下を予定します
   開催日 2016年12月21日(水)
      発表者 山本紀久雄
   テーマ ① 天田愚庵研究を通じて分かった「いわき城」の復元背景物語
       ② 三遊亭円朝研究を通じて分かった「現代の消費動向」

                                                  以上。

鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その十三

2015年8月29日(土)、あいにくの土砂降り雨の中、戊辰戦争白河口の戦い記念碑除幕式に出席した。記念碑が建てられたところは激戦地の稲荷山(白河市9番町西浦地内)である。
 慶応4年(1868)閏4月25日から始まった白河城攻防戦、7月28日まで100日弱続き、この間1000人以上の犠牲者を出した。
 戦闘員の武士たちに加えて、白河の人々も、否応なくこの戦いに巻き込まれ、軍夫として強制的に駆り出され酷使され、諸物資の調達も命じられ、戦いにつきまとう略奪と兵火により家財道具も失い、ある者は流れ弾に当たり、また、いわれなく惨殺された。
 悲惨な年、それが白河人の戊辰年であった。
 だが、このように被害者でありながら、白河人は、遠い異国で近代国家建設のために尊い生命を失った西軍の兵と、対する東軍として、社稷のため、奥羽越列藩同盟のために戦った兵、そのどちらに対しても、大義のための犠牲者として、遺体を集め各地に丁寧に埋葬している。
 その結果として白河ほど、慰霊碑や墓が多く建立されている所はなく、その墓・供養塔には、常に皿がおかれ供物が献ぜられ、近くの住む人が香華を絶やさない。これが白河の人々の情実であり価値観であって、この度は、これら各所に点在している犠牲者を一堂に会すべく、合同の慰霊碑建立を行ったという。
 その趣旨、誠に見上げたもので、関係者のご努力と情熱に感服し、僅かばかりの寄付金をお送りしたところ、記念碑の裏側に名前を刻むという、これまたご丁寧なお気持ちに感激しつつ、雨中の除幕式に参加したわけである。

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 除幕式後、2015年8月号でふれた「母成峠」の戦い跡地を訪ねた。
 ご案内いただいたのは会津ユネスコ協会事務局長の石田明夫氏である。石田氏は会津若松市在住で、会津の歴史について専門家である。
石田氏の車は、白河から郡山を通って母成グリーンラインを走り、峠道らしきところに停めると、徒歩で小降りになった雨の中、山の中に入っていく。
山には当然ながら道はない。木が茂って、藪が覆っている中を、平地を歩くがごとく石田氏は足早に動く。後を追う筆者は必至。泥土と草で靴の色が変わっていく。しばらく難儀な山中を歩くと「母成峠の陣跡はここです」と「くぼみ」を指さす。

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    (会津藩構築の塹壕跡) 

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   (母成峠の陣跡配置図)
 

 石田氏から母成峠の陣跡配置図をいただいた。そこに次のように解説が書かれている。
「母成峠には、会津藩が構築した遺構があります。母成峠の陣地は、三段構えに陣地は造られ、峠入り口に第一陣地があり、台場には石垣が積まれています。第二陣地は、中軍山にあります。峠下の牧場を見下ろす場所に、会津藩の台場があります。
 第三陣地は、峠の頂上にあります。北側の防塁は、上杉景勝・直江兼続時代に築かれた遺構を再利用し、南側に付け足し、戊辰戦争のざんごう跡が造られました。全長384mあります。ざんごうは、南側に延長して造られ、幅1m、土塁の高さ1m以内のものです。最南端と北端には、砲台の台場が造られています。ざんごうの後ろには、掘立小屋が建てられていました。
 また、よく似たものに営林署が明治時代に築いた高さ1mの火防壁もあります。
 北側の100m部分は、土塁の高さが4mあり、空堀は7m、土塁も前面の空堀外側に小さな土塁が伴う二重土塁となることから、慶長5年(1600)に上杉景勝時代に築かれた防塁を再利用したものです。改修には、会津藩の農民で組織された約800人があたりました。
 幕末に構築した会津藩の陣地の中では、母成峠は、他の峠に造られた陣地とは異なり直線的なざんごうを造っています。これは、峠が緩やかなためでした。また、段状の平場も、見られません」

 誠に見事な再現図であり、石田氏の事実調査に自然に頭が下がる。
 次に石田氏が車でご案内してくれたのは母成峠古戦場石碑である。先ほど見た塹壕跡から結構離れた場所で、母成グリーンラインの曲がりカーブのところ。

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 昭和57年(1982)10月6日建立とある。戦いは慶応4年8月21日であり、この太陽暦では10月6日となるが、記念碑の場所は実際の塹壕跡とは違う。記念碑建立は分かりやすく、訪れやすいところにしたのであろうが、石田氏にご案内いただいている身としては、何となく違和感を持つ。全国各地の歴史遺物の記念碑や看板表示なども、母成峠と同じく、事実とは異なった場所と離れて建立されているのではないかとも思う。なかなか難しいことではあるが、訪れる側としては注意が必要であると感じる。

 ここで、長らく書いてきた戊辰戦争・東北越列藩同盟についての背景を、改めて述べたい。このことは2015年4月号で以下のようにお伝えした。

「江戸無血開城が鉄舟の駿府駆けによって決まり、天下の大勢は決したのに、何故に奥羽越列藩同盟軍が結成されたのか。将軍慶喜が恭順し江戸城を明け渡したのに、東北の諸藩は幕府の命を聞かずに戦火を交えてしまったのか。または、和平の交渉が行われたはずだが、その折衝に携わった会津藩はじめ東北諸藩には、鉄舟に匹敵する人材はいなかったのか。それとも戦火を発せねばならぬ、何かやむを得ない理由と背景があったのだろうか。鉄舟を研究している立場としては、愚庵が全国へ父母妹を探す旅に出る前に、このところを検討しなければと考える」

 結論的には、東北の地に鉄舟のような人物、それは誰もが見通しをつけられなかった激動の時代に、与えられた大難題に徒手空拳で立ち向うという豪胆武勇さと、西郷との会見でみせた政治外交力と論理的構築力を併せ持つところにあるが、そのような英傑の存在は見当たらなかった。

 また、会津藩・松平容保も、慶喜が採った新政府軍へ和平の使者を立て交渉するという手段はとらず、全面戦争へと向かい、会津藩降伏という歴史事実が示すとおりで終わった。

 そこで最初に戻り、「鉄舟は愚庵に何故強く肩入れしたのか」という本題について、その背景要因分析に入ることにしたい。

 鉄舟と愚庵の関係を、愚庵研究家の第一人者である中柴光泰氏が、その著書『愚庵とその周辺』で次のように述べている。

 「明治五年、天田五郎(愚庵)は小池祥敬の紹介で、再生の恩人山岡鉄舟にはじめて知られた。相馬御風は『山岡鉄舟がなかったならば、今日私達が愛慕している僧愚庵というような一個の人物は此の世に在り得なかったかも知れない』と言っているが、まさにその通り。当時の鉄舟は『明治の和気清麻呂』(勝海舟の言)として、明治天皇の側近にあった。五郎の行動に手を焼くこともあった鉄舟も、五郎の顔を見ていると、その大きな眼がしぜんに細くなってくるから仕方ない。それほど鉄舟は彼を愛した」
 

 また、堀浩良氏は、その著書『歌人 天田愚庵の生涯』で次のように述べている。

 「思ったことをずけずけ言い、やってのける一本気なところは山岡の性格とそっくりであり、また山岡自身も15歳の時に母と死別し、16歳の時に父を失っているから、生死不明の父母、妹を探し求めて心痛辛労している五郎に一人深い憐憫の情を懐いたものであろう」
 

 さらに、愚庵会副会長で現在愚庵研究の第一人者である柳内守一氏も、その著書『愚庵物語』で次のように書いている。

 「鉄舟は、16歳で41歳の母、17歳で79歳の父と死別し、1歳の乳飲み子の弟を含めた5人の兄弟の面倒をみたので、五郎が、自分の父母と同じ年頃の両親と妹を捜しもとめる気持ちは、我がことのように分っていたのです」

 このように愚庵研究者が揃って鉄舟が愚庵の性格特性と、父母妹との別れに身をつまされ、愚庵心中を思い遣って、肩入れしたと述べている。
 

 その通りだと思うが、鉄舟を研究しているものとしては、何か、もうひとつ背景に大きな政治的背景があったのではないかと考えたい。

 それは何か。そのヒントは、やはり慶応4年6月16日新政府軍が、勿来の関近くの平潟港に軍艦3隻で入り、約千人で上陸、泉藩、湯長谷藩、小名浜陣屋を陥れ、平城めがけて攻め入って来た、という事実背景に存するのではないかと考える。

 つまり、平城が落城したのは、磐城平藩が戊辰戦争に参戦したからであるが、それは誰の意志で行われたのか。

 ここに究明のポイントがあり、そこに何らかの形、即ち、当然に直接には鉄舟は関わってはいないが、回り合わせのような不思議な運命とも言うべきものが、背後に横たわっていたのではないか。つまり、鉄舟が愚庵を助け、再生指導しなければならなかった何がしらの動機と、そこへの因果関係が存在したのではないかという推測である。

 鉄舟は過去を語らず、書かず、という人間である。だから、後世に記録化として遺っているものはすくない。しかし、当時の歴史史料と事実関係を詳細に分析して行けば「鉄舟は愚庵に何故強く肩入れしたのか」へ辿りつけるのではないか。

 そのように勘考し、これから論究していきたい。

 探求のスタートに取り上げる人物は、磐城平藩の第5代藩主安藤信正(鶴翁)である。安藤信正は安政7年(1860年)に老中となり、久世広周と共に幕政を取り仕切った久世・安藤政権という政権を担当した重要人物である。

 その安藤信正が、明治元年10月、戊辰戦争後、東京で謹慎、そのときに平藩家老・年寄に寄せた書がある。(上妻又四郎著『磐城三藩の戊辰戦争』)
「此の度の大事件畢竟我等不行届より生じ候儀にて其の方共も容易ならざる辛苦致させ気の毒の至りに候、去り乍ら彼の砌りの事情に止むを得ざる場合もこれ有り候儀は其の方共も能く心得候筈、今更是非得失の論議は其れ必ず無用にて候」
加えて、上妻氏はこの「止むを得ざる場合もこれ有り候」を明らかにすることが、同書の目的とも述べている。

 したがって、この上妻氏の検討結果をかいつまんでお伝えし、その後に、鉄舟がどのように絡んでいたかを論究していくことにしたい。

 新政府軍が平潟上陸にあたって、江戸では泉藩に嚮導するよう指示がなされた。
6月10日、大総督府より泉藩江戸屋敷留守居役の星野巌が江戸城に呼び出され、参謀の木梨精一郎から「奥羽口追討」のため嚮導二人を差し出すよう命じられた。この席には大村益次郎、渡辺清左衛門もいた。
泉藩江戸藩邸は、星野巌と浦越井保太郎を出張させることにし、このことを平潟にいる仙台藩隊長にも注進した。

 6月16日、新政府軍が平潟に上陸。薩摩藩407人、大村藩143人、佐土原藩143名、合計約700名。嚮導の星野は千人分の宿割を命じられ、四藩(泉、平、湯長谷、相馬)への達書、重役を平潟へ出頭するよう命じたもので、泉藩は早追で三藩に通知した。

 この達書から、新政府軍の四藩への対応意図は、初めから戦う目的で平潟に上陸したわけでなく、懐柔を試みていたことがわかる。

 泉藩は達書を受け取ったが、5月6日に成立した31藩による奥羽越列藩同盟があるため、重役の平潟出頭は行われなかった。同様に平、湯長谷、相馬藩も平潟へは行かなかった。

 これより前の6月2日、旧幕人見勝太郎が率いる遊撃隊と、藩主林昌之助忠崇に従う請西(じょうざい)藩、岡崎脱藩士等が小名浜沖に蒸気船で現れた。仙台藩と湯長谷藩兵が海岸に出向き、上陸した遊撃隊士と応接したところ、5月20日、22日に箱根で敗れた一行で、仙台に向かう予定であり、石炭を積み込み、明日出発すると答えた。

 ところが人見勝太郎が率いる一行は、仙台には向かわず、湯本の新滝を本営として宿陣した。

 人見一行が湯本に残った理由として様々な憶測がある。

 ひとつは前藩主安藤信正(鶴翁)より使者が来て、磐城に滞在するよう乞われ、併せて、泉、湯長谷藩からも同様であったという。この時の平藩は、藩主安藤信勇が西国にて病気滞在中であり、平藩は明確に奥羽越列藩同盟の一員であるから、積極的に人見勝太郎等を引き留めるはずがない。

 『磐城三藩の戊辰戦争』は、人見らは仙台に出向き、今一度戦いと願ったが、平城下に出張していた仙台藩の幹部から、仙台藩に問い合わせするから、それまで磐城の地に逗留するよう談判があり、一行は湯本に留まったというのが正確だと述べる。

 人見一行が湯本に滞留しているところに、16日の新政府軍平潟上陸がなされた。それを知った遊撃隊一行は上陸を知り、湯本より平潟へ向けて出撃したが、途上で、仙台・平藩勢と出会い、新田宿まで退き改めて軍議を開くことになった。

 軍議は人見が主導権を握り、遊撃隊、請西藩、岡崎脱藩士、仙台藩、平藩、泉藩、湯長谷藩等350人程度の兵で、17日早朝進撃開始と決定し、実際の進撃指揮も人見が行った。

 この進撃状況について、当地の様子が遺されている。
 「17日、植田から北に当たる新田宿のほうから、フランスかアメリカかともかく異国風の笙鼓が響き、人々は何事かと思って外に出てみると、旗指物を掲げた兵の進撃であり、村方一同は驚き指差し見物していた。平藩植田陣屋詰代官菊地小平太より平潟に上陸した官軍を征伐するため進撃していること、問屋場から借家に至るまで人が詰めるようにとの下知があった。泉藩領でも人が詰めた。村人たちは食糧の仕度、人足の手配などをした。鮫川には舟橋が出来、兵たちはそれを渡り名古曽山へ進撃した。昔の戦と異なり、今の戦はフランス伝来の元込鉄砲で行われるので、人足はもちろん村に残った老若男女は、人足どもに玉が当たり怪我などしないで、無事帰村出来るように神仏に祈ったというのである」

 戦いの記録は請西藩主林昌之助が遺している。
 「6月17日、夜明けとともに諸隊は軍議にしたがって平潟へ向け進撃した。林昌之助率いる請西藩士は最後尾を進んだ。ところが、仙台兵は振るわず、人見勝太郎が馬上より進撃を促した。遊撃隊の一行が仙台藩兵を率い平潟の後の山に進んだところ、敵兵が待ち受けており戦闘が始まった。しばらくすると、仙台兵が浮足立ち崩れ、そのため全軍が敗走してしまった」

 撤退した遊撃隊一行は、平城下に退いたが、17日の戦闘を指揮したのは遊撃隊長人見勝太郎で、仙台藩兵、磐城三藩兵はその指揮下に入ったわけで、この日以降の指揮も人見が取ることになった。

 愚庵の父母妹が行方不明になった平藩の戊辰戦争は、遊撃隊の人見勝太郎によって引き起こされたのである。平藩は人見勝太郎に巻き込まれたといえる。

 人見が小名浜沖に蒸気船で現れ、石炭を積み込み、仙台に向かっていれば、平藩の戊辰戦争はなかったかもしれず、愚庵の「十五歳で戊辰の役に出陣中、父母妹行方不明となり、爾後その所在を探して全国を遍歴すること二十年」(いわき市松が丘公園にある愚庵の庵門前の伝碑)という半生は変わっていたはず。

 鉄舟が愚庵と出会う前、既に鉄舟は人見勝太郎と接触している。そのあたりの論究は次号としたい。

2016年10月25日 (火)

横浜史跡巡り開催する 2016年10月15日例会

   「山岡鉄舟研究会」10月例会『幕末から未来が見える『開港、横浜を巡る』解説

                                          文責:松崎 勇二
                                          補筆:矢澤 昌敏

◇「代官山からノーエ♪」
「野毛の山からノーエ   野毛の山からノーエ
野毛のサイサイ     山から異人館を見れば
鉄砲かついでノーエ   鉄砲かついでノーエ
お鉄砲 サイサイ    かついで 小隊進め」
  作者不詳のこの唄の節回しが単純で、一度聞いたら忘れられない心に響く 『ノーエ節』である。 唄が生まれたのは、文久年代(1861~3年)、一寒村であった横浜が開港によって、異国文化を目の当たりにして大きく変わった様子が人々にとって大きな衝撃的な出来事であった。
  特に、開港間もない居留地は庶民に近寄りがたい華やかな存在であり、その様子を好奇心いっぱいに目を凝らして見ていた。 その様子を、横浜一の高台:野毛山から眺めた様子を唄っている。

◇ お座敷として唄われた 『ノーエ節』
  こうした時代の中、おそらく『ノーエ節』は開港場の歓楽街・港崎(ミヨザキ)遊郭のお座敷歌として、姐さん達に唄われていたのだろう。
  関内の太田屋新田に遊郭を建設することを計画、併せて オランダ公使から遊女町開設の要請があった。
  このため 品川宿の岩槻屋佐吉らが泥地埋め立てから建設まで請け負い、約1万5千坪を貸与されて、開業した。
  江戸の吉原遊郭の構造の遊廓を準備し、外国人の接客は長崎の丸山遊郭を手本にした。 規模は遊女屋15軒、遊女300人、他に局見世44軒、案内茶屋27軒などの軒を並べた。
港崎遊郭(ミヨザキユウカク)は、安政6年(1859年)11月に現在の横浜公園に開業した遊郭であった。
慶応2年(1866年)港崎遊廓の近くの豚肉料理屋の火事(豚屋火事)で遊廓は全焼し、居留地の広範囲に広がった。 この大火を機に慶応3年(1867年)港崎遊廓を大岡川南方に移転し、港崎遊郭跡地の整備は明治9年(1876年)に完成し、外国人と日本人の共用の公園として、「横浜公園」となった。

<野毛へ>

① 神奈川奉行所跡:≪横浜市西区紅葉ヶ丘9-1(県立青少年センター横)≫
  安政6年(1859年)横浜開港時江戸幕府の神奈川奉行所が行われた処。
  東海道と居留地間に位置し、防衛上の要であった。 周辺には役宅、修文館(役人子弟のための学校)、処刑場なども建てられた。
  処刑場は、この奉行所の背後のくらやみ坂に明治の初めの頃まであった。
  神奈川奉行所は、政治、警察、裁判を司る戸部役所と税関に当たる運上所に分かれていたが、後に運上所は居留地に移った。
  明治元年(1868年)明治政府は新たに横浜裁判所を置き、後に神奈川裁判所に改め。横浜裁判所・戸部裁判所とし、運上所ならびに戸部役所の業務を引き継ぎ神奈川奉行所は廃止された。
  その後、神奈川県庁になった。 現在は、県の文化センター、図書館、音楽堂などがある。
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◇ 攘夷の嵐の中での奉行所
 文久2年(1862年)8月21日、幕末を揺るがした生麦事件では惨劇を知った横浜居留地は騒然とし、激昂した居留民が報復を叫び、一触触発状態であったが、イギリス代理行使はこれを抑えて幕府に対する外交折衝で解決を図ることにした。
  事の重大さを知った神奈川奉行所 阿部正外(マサト)は、事件の当事者である薩摩藩の島津久光に下手人の引き渡しや、旅の継続を制止したが、聞き入れずにそのまま 東海道を西下してしまった。イギリスと薩州藩に挟まれ苦慮するところは、既に雄藩をコントロールする実力を失っていた。
その2年後に鎌倉で起きたイギリス士官殺害事件など相次ぐ外国人殺傷事件に、幕府の奉行所として、犯人逮捕や管轄の戸部刑場で処刑するなど深く関与している。
  幕末期は攘夷の嵐の中の奉行所であったと言える。
神奈川奉行所のあった所、現在は県の文化センター。 当時はカエデが多かったことから≪紅葉坂≫など地名が残っている。

② 掃部山公園(カモンヤマ):≪横浜市西区紅葉ヶ丘57≫
 この丘は、明治5年(1872年)横浜~新橋間に鉄道が敷かれた折りに機関車用の水池が設置され鉄道用地であったことから≪鉄道山≫とも言われた。
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 旧彦根藩の有志が、この丘を買い取り、明治42年(1909年)に井伊掃部直弼の開港功績を記念して銅像を建立し、≪掃部山公園≫と名付けた。
しかし、銅像建立に当たり、新政府、旧幕府の歴史の深い溝は埋まっておらず、除幕に事件が発生した。
  当時の神奈川県知事周布(スフ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之介(マサノスケ)である。
  周布政之助は、単純に尊王攘夷派ではなく藩政への責任と過激派の暴走のなかで自殺に追い込まれてし まうが、幕府の開国政策には反対していた。
  井伊直弼は、長州・萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人物で、当然、周布公平も井伊直弼に好感情は持っておらず、こうした因縁から銅像建立は許しがたかった。
  周布公平から除幕式中止が命ぜられたが、旧彦根藩士らは除幕式を強行したが、数日後には銅像の首が切り落されてしまった。
  結局、井伊は桜田門からここ野毛で2度も首を撥ねられてしまった。
  長州藩の執拗なる怨念に、未だ幕末は終わっておらず、歴史は引きずっていたのである。

  銅像は、昭和18年(1943年)戦時の金属回収によって撤去されてしまったが、昭和29年(1954年)開国100年の記念に再建された。
正に、受難の歴史を背負った銅像なのである。
その姿は、正四位上左近衛権中将の正装で、その重量は4tと言われている。公園は、春は花見で賑わい、夏には虫の音を聞く茶会が催される。

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    (松崎氏の解説に聞き入る)

◇井伊直弼
  嘉永6年(1853年)三浦半島の沖合に奇妙な4隻の船がやって来て人々は恐れおののいた。 威嚇射撃を繰り返し、江戸市中を恐怖に突き落とし、強力な武力を背景に幕府に開国を迫った。
  開国か攘夷か250年の徳川基盤も揺るぎ始めた幕末に、幕府の運命を一身に背負いながら開国の道に辣腕を振るったのがこの彦根藩主・大老井伊直弼であった。
  幕政に絶大な権力を奮って、アメリカと修好通商条約を結び、今日の横浜開港の基盤を作った。
  しかし、条約調印に反対する反幕府活動に対して安政の大獄と言われる力での弾圧で攘夷派志士を煽り、大老就任から2年足らずで桜田門で横死した。

□野毛の切り通し:≪横浜市西区宮崎町辺り≫
 徳川幕府は、安政5年(1858年)日米修好通商条約調印の翌年安政6年(1859年)を横浜開港とした。以前からあった保土ヶ谷宿から開港所への道は遠回りのため、東海道の芝生村(現浅間町交差点付近)と居留地の間に幅3間(5.4m)の「よこはま道」を作った。
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 この道は、芝生(シバウ)村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、此処 戸部坂、野毛の切り通しを開き、横浜に繋いだ。工期3カ月の突貫工事で完成した。
  開港当時、東海道から横浜を目指した人々が文明開化の横浜の景色を最初に見ることが出来たのはこの切り通しからであった。 生糸の輸送や開港の地に商売のため移住する神奈川・保土ヶ谷の商人達が良く使ったよこはま道は新開地横浜への主要道路として大いに賑わい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影を僅かに留めるのみである。

◇野毛山住宅亀甲積擁壁:キッコウヅミヨウヘキ(旧平沼専蔵別邸石積擁壁及び煉瓦塀)
≪横浜市西区老松町29≫

 野毛山交差点に向かって切り通した山道跡が、野毛山住宅亀甲擁壁と呼ばれているもので、明治時代の豪商(生糸や米穀卸商として成功)・平沼専蔵【天保7年(1836年)~大正2年(1913年)】邸の敷地があった。
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 建造年代は明治23年(1890年)~明治26年(1893年)と云われている。
石垣の石はやや歪んだ不揃いの六角形の亀甲模様になっているが、これが隙間無く精度良く組み合わされている。
 西洋技術による石垣では、直方体の石を正確に積み上げて行くところであろうが、これは異なっている。
 不揃いの亀甲にすることで、建設の手間は掛かるが、遥かに崩れにくく、地震に強くした、日本の理に叶った見事な技術による石垣に圧倒される思いである。
想像していたよりも高く、しかも長い。

 この平沼専蔵別邸から感じることは、山岡鉄舟が大悟するきっかけを掴んだのは、他ならぬ平沼銀行(現横浜銀行)を設立した豪商の平沼専蔵とのビジネス体験話からであり、それを一言で纏めれば、『損得に拘ったら、物事は却って上手くいかないと云う、心の機微を実践から学び、この実践を通して事業を成功させた』というものであった。
 これに、鉄舟は深く頷き、『専蔵、お主は禅の極意を話している』と言うと、同時に『解けた!』と叫んだのである。
≪「山岡鉄舟研究会」:2010年12月例会の山本会長講演より≫

③ 野毛山軍陣病院跡(官軍病院):≪横浜市西区老松町27
(現横浜市立老松中学校)≫

◇病院開設の背景
 慶応3年(1867年)に行われた大政奉還によって慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いから明治2年(1869年)5月18日の五稜郭の戦いまで討幕派と旧幕府軍の戦い、戊辰戦争が起きた。
  鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利を納め、錦の御旗を背景に東征軍として東に戦いの舞台を移し、上野 戦争、宇都宮戦争、更に会津若松へと戦線は東へ拡大していった。
この戦いによって、両軍、数多くの死者・負傷者が出ており、その手当てが必要となり、官軍側は時の東 征大総督有栖川宮熾仁(タルヒト)親王命で慶応4年4月17日、野毛町林光寺下の修文館に、官軍藩士の負傷者を治療するため横浜軍陣病院を開設し、官軍側の専用病院となる。
  この病院の主な目的は、奥州若松、白河、棚倉、今市、相州小田原など戊辰戦争で負傷した新政府軍兵士の治療であった。
  負傷者は、開院前に7名が来ており、以後負傷者はうなぎのぼりに増え、9月には負傷者数は207名にも達している。
  患者数は増加の一途を辿り、収容限度を越え、横浜軍陣病院として改修した野毛の修文館だけでは収容しきれず、野毛山下の太田陣屋の伝習長屋も使用された。

◇医官ウィリアム・ウイルスの活躍
 イギリス公使館パークスの斡旋で駐日イギリス公使館の医師ウィリアム・ウイルスは外科病院の責任担当者として任命され赴任する。
  搬送される負傷者は銃創が多く、当時の日本医学は銃創(ジュウソウ)を治療する技術が未熟であったため、 医官ウィリアム・ウイルスが各地の戦いで負傷し、軍陣病院に入院した藩士治療にあたった。
  銃創とは、鋭器損傷の一種であり、銃弾が高速で人体を侵襲(シンシュウ)するだけでなく火薬、ガス等も関与し、独特な成傷機転をもつものである。
治療は、クロロホルムを使用して手足を切断するなど本格的な外科手術を行われるなどウイリスの活躍の場となった。
 此処には、ウイリスの他、イギリス公使館医師など数名が働き、日本側の医師団も頭取、次席医、御傭医、御雇手当、各藩医、見習医からなり最多時は60名を越えたと言われている。
 その治療成果は、目覚ましいものの、一方では亡くなる者も多く、薩摩藩の23名を筆頭に、長州6名、土佐6名 因州6名その他12名となっている 。長州、土佐両藩の死者は、久保山墓地に葬られている。
  戦いの終局時期に会津若松城の落城が近づくと軍陣病院は江戸下谷泉橋の津藩邸へと移転して行き、これが旧幕府の医学所を含めて大病院となり、やがて東京大学医学部へ発展して行く。

◇終戦と共に閉幕したが、新病院として当地へ
  横浜の軍陣病院は、この大病院の分院となり、軍関係以外に一般の人々も受け入れ治療したが、戊辰戦争が終了した明治2年(1869年)には、その役割も終わり、遂に閉鎖となる。

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 現在の老松中学校(上写真)は、官軍の横浜軍陣病院があった所である。
 当時の官軍側の病院が此処、横浜軍陣病院が治癒にその役割を果たしていたが、一方では旧幕府軍の病院は神田泉橋御徒町の医学所と浅草稍福寺が挙げられる。

◇医官ウイリアム・ウイルス
  アイルランド生まれ、文久元年(1861年)駐日イギリス公使館の医師で25歳で来日した。
  巨大な体躯の持ち主であったようであるが強い義務観念の持ち主として、イギリス公使館パークスの斡旋で外科病院の責任担当者として任命され、軍陣病院で活躍した。
病院勤務に飽き足らず戊辰戦争の最前線たる東北戦争にも従軍し、 越後高田、柏崎、新発田、会津若松と足を延ばし、我が国の軍医を指導すると共に戦傷者の治療を敵味方の区別なく当たった。
  我が国の西洋医学の導入に一役買った人物の一人である。

◇当院で亡くなった一人:薩摩藩「益満休之助」
 慶応3年(1867年)12月、幕府軍により江戸:薩摩藩邸(芝本亭)が焼き討ちにあった時、浪士隊の江戸撹乱工作を指揮していた益満は捕虜となったが、勝海舟に保護され、九死に一生を得た。
 翌慶応4年(1868年)3月、東征軍が江戸に迫っている時、益満は勝の計らいにより、幕府側の使者・山岡鉄舟を駿府に先導して、西郷隆盛との会見を実現、江戸開城の露払いの大役を果たしたことでも知られる。
 

 益満は、再び薩摩に戻り、上野戦争で亡くなる、数奇な運命の持ち主である。
その益満は、上野戦争で右脚の脛辺りに銃弾を受け、テタニュス(破傷風)に罹る。益満の負傷は、致命傷ではなかったが、不運にも傷口から破傷風菌が入って死亡した。不忍池近くの加賀藩邸(現・東京大学)周辺は、破傷風菌が多いことで知られ、当時は破傷風の治療法が、未だ無かったと云われている。

 負傷した当時の益満は、神田小川町の野戦病院(旧幕府の講武所跡)に収容された。西郷隆盛は、益満の負傷を知って、大変心配し、配下の小荷駄(コニダ)方(物資・兵糧係)に、その収容先を探すように命じた。益満は、特別待遇で治療させようと、横浜の軍陣病院に搬送されたが、手の施しようが無く、収容後の2日後、息を引き取った。慶応4年5月、享年28歳。
 戦闘の激化と併せ、負傷者が続出する中で、益満も負傷した一人であったが、西郷の益満に対する扱いの高さは、特別であったことを物語っている。

 益満休之助の眠る墓所は、薩摩藩島津家の江戸における菩提所:曹洞宗 泉谷山 大圓寺(東京都杉並区和泉3-52-18)にある、幕末から明治にかけての戦争で亡くなった薩摩藩の犠牲者のために建てられた墓碑「戊辰薩摩藩戦死者墓」の下部に、その名前が見られることに驚かされる。

④ 野毛山公園:≪横浜市西区老松町63-10≫
 幕末に横浜に来た一角千金の夢を追う、生糸売込問屋が横浜開港で潤い、生糸の取扱いで日本の主要貿易品となった。事業家として財を成した平沼専蔵や原善三郎や茂木惣兵衛といった明治期の横浜の豪商が此処、見晴らしの良い高台に邸宅を構えていた。
関東大震災によって周辺一帯は壊滅したが、その後の復興事業として旧野毛山貯水池や病院などの跡地と共に公園として整備された。野毛山公園は日本庭園・西洋庭園・折衷庭園の三つの様式を持つ公園として大正14年(1925年)に着工、その翌年に開園している。
 第二次大戦中は、この場所を陸軍が使用し、戦後は、米軍に接収されていたが、接収後に動物園や児童遊園が造られ、市民の公園として親しまれている。

□横浜開港の先覚者:佐久間象山之碑
 野毛山公園の一番高い台地に横浜開港の先覚者:佐久間象山の碑が昭和29年(1954年)、開国100年を記念して建てられた。
  佐久間象山は当時、清国の阿片戦争など列強の侵略を背景に海防に心を砕き、列強に劣らぬ洋式軍備による海防策と国防の面からも適地として横浜開港を主張していた。
黒船来迎時、神奈川宿周辺の警備に松代藩が命じられ、象山も赴任しており、縁の地でもある。
  野毛山に建つ井伊大老像共併せ、横浜開港に関わる一人として佐久間象山があり、顕彰碑には以下が書いてある。

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安政元年(1854年)米国の使節ペリーが来朝のおり、松代藩軍議役として横浜村にいた佐久象山先生は、当時の思想家であり、また熱心な開国論者であった。 先生は日本が世界の先進国から取り残されることを憂え幕府の要路に対してしばしば欧米諸国との通商交易の必要なことを献策した。 また、その開港場として横浜が最適地であることを強く主張し、幕府の決意を促して、国際港都横浜の今日の発展の諸を作った。 不幸にも先生はその後京都に遊説中攘夷派刺客の兇刃のために木屋町三條で客死した。 時に、元治元年(1864年)7月11日のことであった。 本年はたまたま開国百年の記念すべき年に当たるので、われわれ有志相はかり、その功績をたたえるためにここに顕彰碑を建て、永く後世に伝えることにした。
                         昭和28年10月1日
                          佐久間象山顕彰会
                        横浜市長 平沼亮三 書

◇象山の予言
  彼は、国防の近代化を痛感し、幕府の門戸を閉ざした鎖国に対して開国を訴えたが、取り上げることはなかった。そのうちに黒船が来航し、幕府はもとより国全体が狼狽する衝撃を与えた。「だから言ったじゃねえか」とでもつぶやいたのであろうか、象山がこの日を予言していた。
威嚇を前に、ようやく幕府も目覚め洋式軍備による海防策を論じるようになった

□野毛山公園から
 佐久間象山の碑を見て、野毛の吊り橋を渡り、野毛山配水池に出る。 
 石畳と芝生の植え込みが一面に敷かれた広々とした空間に出る。海側に展望台があり、其処から海側の景色を見る。
 みなとみらいで開発された296mのランドマークタワーやショッピング街、ホテルなど高層建築で埋めつくされ、かっては足元までに広がって見えたであろう海の姿はビルの影に埋まってしまった。
  井伊直弼や佐久間象山が描いた開国の夢が、こんな巨大な横浜に変わってしまった。
  海側を辿って行くと従来の港の見える丘公園、山下公園、大桟橋に加え、新たに三菱重工業の敷地が開放され、みなとみらいとして、更に懐の広い横浜に変わってしまった。

<関内へ>


⑤ 吉田橋(関門跡):≪横浜市中区伊勢佐木町1-2≫
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安政6年((1859年)の開港当時、木の橋が架けられていた。
  橋の袂に浪人と外国人の間に不祥事を防止するために関門が設けられ、それを境に関内、関外と言う呼称が生まれた。
  幕府は神奈川宿からこの関内まで関所・番所それぞれ10数カ所設けて警戒した。
この吉田橋を渡るのに鑑札を必要とし、元治元年(1864年)にはこれらの警備隊は太田陣屋を本営として、定番(じょうばん)が700人下番(かばん)は1,300人という大きな人数で警備していた。
明治2年(1869年)英国人工兵技監にして建築家(日本灯台の父)リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計によりトラス構造の無橋脚の鉄の橋にかけ替えられ「かねの橋」(「鉄」と「金銭」をかけて)として知られた。
橋長約24m、幅約9mの日本最初のトラス鉄橋である。
  明治44年(1911年)老朽化により我が国最初のカーン式鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。
  現在の橋は、「かねの橋」を模して架け替えられた。

◇吉田橋で獄門
 横浜で相次ぐ外国人殺傷事件に備えイギリス・フランスの軍隊が駐在していた。
  元治元年(1864年)イギリスの駐屯軍兵士2人が鎌倉から江ノ島に遊興で出掛けた折、2人の浪人に襲撃され、1人は即死、1人は夜半亡くなった。生麦事件の2年後に起きた事件であった。
 他の強盗事件で捕まった犯人の供述から、外国人襲撃の犯人を割り出すことが出来た。
犯人は清水清次で、事件後1カ月で千住の遊廓で捕縛し、戸部の牢屋敷まで護送し、横浜市中を引き回し、処刑され、その首は吉田橋の袂で晒された。
 清水は武士の姿を装った25歳の浪人で、横浜開港以来物価が騰貴し、生活が苦しくなったのは夷人と信じこみ、犯行に及んだ。
 他の1名は清水とたまたま道ずれになった講所出役の中小姓で住み込んでいた、間宮一と言う18歳の若者で事件後10カ月後捕縛され、横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、清水と同様、吉田橋の袂で獄門にかけられた。
  全権公使ハリーバークスは鎌倉事件の総てが解決したことを本国政府に報告し、激しい攘夷の嵐も漸く治まったと言われている。・・・歴史読本'78 「幕末外人殺傷事件」  岡田章雄から引用:

 このように攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあったのである。
 居留地と外部を結ぶ接点が此処「吉田橋」で交通の要路として武士、町人が絶えず行き交う、人並みが絶えなかった。
  現在でも横浜の中心街の一つとして、伊勢佐木町とJR関内や馬車道方面を結ぶ橋で車とも併せ、人通りの激しい場所である。 吉田橋から欄干越しに見下ろすと、下写真のように網が貼られ、長閑な川に非ず(アラズ)猛烈な勢いで車が走る高速道路であった。

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◇関内の由来
 安政6年(1859年)に、≪日米修好通商条約≫(安政の五カ国条約)によって、横浜に設置された。
 開港場の区域を「関内」と呼んだことに由来し、住所表示上の正式地名としての「関内」という地名はなく、そういう名称の駅があるのみで、その界隈を「関内」と呼んでいるだけである。
 横浜市中区にある大岡川、首都高速横羽線、中村川と海に囲まれた地区を示す通称で、国土交通省の都市景観100選にも選定されている。
  かって関内周辺は海であり、現在の大岡川と中村川に囲まれたい一帯は入り江があり、江戸時代にこの入り江は≪吉田新田≫として埋め立てられ、現在のような陸地となり、更に海側の関内地区は横浜新田や太田屋新田が埋め立てにより造成された。
 江戸末期に、アメリカから開港を要求され、当時「神奈川」の隣町であり、それまで寒村であった「横浜村」を神奈川の一部と称し、この地を開港した。
当時の幕府が、東海道の宿場町であり、栄えていた「神奈川宿」に外国人を入れたくなかったためと云われている。
 万延元年(1860年)に幕府は、「神奈川宿」から「横浜村」へ道(横浜道)や開港場を作り、今までの川に加えて掘割りと川で区切り、その間にある大岡川の分流「吉田川に「吉田橋」を架け、その橋に関門と云う関所を設け、その関所を通らなければ横浜(関内)には行けないようにし、他の全ての橋にも関門を設けた。
 その関門の内側を「関内」、そして外側(伊勢佐木町や吉田町など)は「関外」と呼ばれた。
  これらの地区の道路は、碁盤の目状に整備され、町名や古来からのものではなく、埋め立てに関わった人物に因むものの他、埋め立てた当時の謡曲や百人一首から取られた綺麗な町名、縁起の良い町名(瑞祥地名)が多くつけられている。
≪参考文献:「横浜開港資料館」「関内新聞」の資料より≫

<元町へ>

⑥ フランス軍駐屯(フランス山):≪横浜市中区山手町114≫
 幕末時代から明治時代まで「フランス軍」が駐屯していた場所として≪フランス山≫と名付け、「フランス軍」が撤退した後、その跡地に領事館を建設しようと考えたフランス領事は、その旨本国に提案するものの、紆余曲折があって、やっと建設に着手できたのは、明治27年(1894年)にフランス人建築家:サルダ【弘化元年(1844年)~明治38年1905年)】がフランス領事館を設計・建築し、明治29年(1896年)に「極東一の素晴らしい名建 築のひとつ」」(フランス領事から本省宛報告書)が完成した。外観からも煉瓦造りの2階建てのフランス領事館は華麗な意匠の堂々としたものだった。だが、領事館と領事官邸は、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊してしまった。
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 その後、昭和5年(1930年)に、スイス人建築家:マックス・ヒンデル【明治20年(1887年)~昭和38年(1963年)】の手によって、倒壊した領事官邸が旧領事官邸跡に再現されたが、昭和22年(1947年)の不審火により全面焼失してしまった。マックス・ヒンデルが建築した領事官邸の構造は、建築家:サルダが建築したものと違って、1階部分が煉瓦で造られ、2階・3階は木で造られていたため、火が回るのが早かった。今現在は、港の見える丘公園の中の一区間のフランス山にフランス領事館跡地が残っている。
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 今現在の在日フランス大使館(フランス領事館)は場所を転々として、東京都港区南麻布4-11-44に場所を移動している。
 また、フランス領事館遺構の傍に風車が建っているが、これはまだフランス領事館が建っていた頃に、井戸水を汲み上げるために用いられたものである。
 当時の山手は、まだ上水道が出来ていなく、経済面のことを考え、井戸水汲み上げ用の風車が出来たとされる。
≪インターネット:「タイムスリップよこはま」より抜粋≫

⑦ 港の見える丘公園:≪横浜市中区山手町114≫

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⑧ イギリス軍駐屯(イギリス館):≪横浜市中区山手町115-3≫
 開港3年目の文久2年(1862年)薩摩藩の総勢400人の大名行列が東海道生麦村に差しかかる時に馬で行く4人連れのイギリス人が行列に混入する。
 激怒した薩摩藩士から、リチャードソンが斬られ絶命し、他の3人も負傷を負いながら、居留地に逃げ帰った。
 外国人殺傷事件は、「生麦事件」と言われ薩摩に賠償を求め、イギリスは艦隊を送り込み薩英戦争まで展開、薩摩は近代化されたイギリスの前に破れる。
更に、元治元年(1864年)攘夷で外国船に砲撃した長州藩を四カ国連合軍が下関を報復攻撃し完膚なまでに叩き、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。
 文久2年(1862年)に起きた生麦事件の翌年文久3年(1863年)には居留民保護の名目で、フランス海兵隊が、現在の「フランス山」周辺へ、イギリス軍も現在のイギリス館、周辺へそれぞれ駐屯した。イギリス軍の第20連隊であることから「トワンテ山」と呼ばれている。
 幕末から明治初期にかけて「港の見える丘公園」は、フランスとイギリスの軍事拠点だった。
 当初は英仏の軍艦に乗り組んでいた水兵が居留地の警備に当たっていたが、元治元年(1864年)四カ国連合軍が長州に出航する頃、横浜に駐屯していた地上部隊の兵力はイギリスが陸軍1,200名、海兵隊300名、フランスは海兵隊が300名と併せて1,800名にも及んだ。
 こうした防衛の中で居留地に居た一般人は僅か309名に過ぎなかった。
 山手の屯所でイギリス軍は、今の「港の見る公園」一帯にThe North Campとその隣にThe South Campの陣営が、フランス軍はThe North Campに接する谷戸橋側の断崖上に位置する(現在のフランス山)に設けられた。
 イギリス軍の使用地は19,189坪、兵舎の建坪は4,593坪。
 フランス軍の使用地は3,042坪、兵舎の建坪は119坪であったと言う。
 駐屯軍はその後、明治8年(1875年)に二カ国同時撤退するまで12年間、山手に留まっていた。

1                     (イギリス館)

⑨ 横浜外国人墓地:≪横浜市中区山手町96≫
「黒船」四隻を従えたペリー提督は、嘉永6年(1853年)三浦半島の久里浜に上陸して幕府に、米国大統領:フィルモアの国書を渡し、開国を迫りました。

翌安政元年(1854年)ペリーは、開国交渉のため、7隻の艦隊を組織して、再び来日しました。この時、艦隊の中の1隻:ミシシッピー号の乗組員:ロバート・ウィリアムズという二等水兵が墜死し、この水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地を、幕府に要求した。

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協議の末、幕府は横浜村の増徳院(現在の元町一丁目から入った所にあったが大震災で全焼した)の境内の一部を提供することにしました。ペリーの要求した「港の見える地」という条件にも合い、ウィリアムズは此処に埋葬されました。これが、横浜山の手の外国人墓地の始まりとなります。
 日米和親条約によって、伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、ウィリアムズの遺体は、この3カ月後に、此処に移されました。現在、玉泉寺にはペリー艦隊の日本遠征中に死亡した水兵らアメリカ人5名、ロシア人3名が埋葬されています。
 横浜開港後の安政6年(1859年)に、攘夷派の武士に本町で殺害されたと見られるロシア使節:ムラビヨフの艦隊乗組士官:ローマン・モフェトとイワン・ソコロフの2人が、増徳院に隣接する地に埋葬されました。これらの墓は、現在の22区(元町側通用門・ルゥーリー記念門付近)に当たり、外国人墓地として、諸外国に貸与された最初の墓区となって行きました。
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Img_0050_2 (チャールズ・リチャードソンの墓)

 開国が進み、来日する外国人が増加すると共に、日本で亡くなる外国人も増えて行きました。このため、増徳院の外国人埋葬地と日本人埋葬地は区別が付きにくくなり、文久元年(1861年)に外国人専用の墓域を定めるために日本人墓地が移転されました。現在の元町側通用門付近の墓域が、この時定められた外国人専用のもので、薩英戦争の原因となった文久2年(1862年)9月の「生麦事件」の犠牲者:チャールズ・リチャードソンの墓などが最も古い区域となったのです。この後、文久3年(1863年)10月のフランス陸軍:アンリ・カミュ少尉殺害の「井土ヶ谷事件」、元治元年(1864年)11月のイギリス陸軍:ジョージ・ウォルター・ボールドウィン少佐とロバート・ニコラス・バード中尉が殺害された「鎌倉事件」と続きますが、次第に殺害事件は治まって行きました。
 

元治元年(1864年)≪横浜居留地覚書き書≫が、幕府とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの各国公使との間で締結され、墓域の拡張が認められることになり、増徳院の上の高台に、新たに一区域が設けられました。更に、慶応2年(1866年)横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書は締結され、ほぼ現在の墓域まで拡張されました。
(公益財団法人横浜外国人墓地:「資料館建設計画」及び「横浜外国人墓地に
 ついて」より抜粋)

⑩ パンの発祥地「ヨコハマベーカリーウチキ商店」:≪横浜市中区元町1-50≫
  パンの元祖とは、以下の通りである。

                                                           
 

種  類

 
 

始  祖

 
 

店  名

 
 

場  所

 
 

時  期

 
 

兵糧パン

 

(ビスケット)

 
 

江川太郎左衛門

 
 

 

 
 

伊豆韮山

 
 

天保13年

 

(1842年)

 
 

大型型焼食パン

 
 

ロバート・クラーク

 
 

ヨコハマ

 

ベーカリー

 
 

横浜市中区

 

山下町129

 
 

文久2年

 

(1862年)

 
 

フランスパン

 
 

内海 各蔵

 
 

冨田屋

 
 

横浜市中区

 

北仲通1丁目

 
 

慶応2年

 

(1866年)

 
 

あんぱん

 
 

木村 安兵衛

 
 

木村屋

 
 

東京 銀座

 
 

明治2年

 

(1869年)

 
 

クリームパン

 
 

相馬 愛蔵

 
 

中村屋

 
 

東京 新宿

 
 

明治34年

 

(1901年)

 

 日本にパンがやって来たのは戦国時代だそうだ。種子島(鉄砲)と一緒である。そう云えば、「パン」はポルトガル語のPãoだった。然し、日本の食事としては定着しなかった。再び、日本のパンの歴史が動くのは、江戸時代末である。
幕臣:江川太郎左衛門【享和元年(1801年)~安政3年(1856年)】が、初めて堅焼パンを焼き、パン祖と云われるようになった。
この堅パンは、西洋兵学と共にもたらされた保存食であり、ビスケットのようなものである。
 私たちが「パン」という言葉から想像するものに近いものを、最初に焼いたのは内海兵吉で、万延元年(1860年)のことだった。フランス軍艦乗組みのコックから手ほどきを受けたと云う。内海は、「冨田屋」を開業した。
 続いて、横浜で外国人がパンを焼き始める。文久元年(1861年)には、アメリカ人のW・グッドマンと、ポルトガル人のフランク・ホセが相次いで、横浜にベーカリーを開業。
元治元年(1864年)、グッドマンは一時帰国することになり、イギリス人のロバート・クラークに店を預けた。そのクラークが独立し、慶応元年(1865年)に開業したのが、「ヨコハマベーカリ」だ。

   「ヨコハマベーカリ」の名物が「イギリスパン」だった。いわゆる食パンである。型に入れて、ふんわりと焼き上げる(上に蓋をしないので、山型になる。アメリカ人は蓋をして、四角形にした。)明治政府は、文明開化にあたり、イギリス人を重用したため、「ヨコハマベーカリー」のパンは重宝がられたに違いない。この店で修業したのが「打木彦太郎」で、明治21年(1888年)に暖簾を継ぎ、「ヨコハマベーカリー宇千喜商店」を開業した。現在も「ウチキパン」として暖簾が続いている。
≪参考文献:「ヨコハマベーカリー宇千喜商店」HP、横浜開港資料館「横浜もののはじめ考」斎藤多喜夫著「パン」(1988年)他より抜粋≫

◇ 国際港都の歩み(幕末から未来が見える)
  半農半魚の一寒村であった横浜が安政5年(1858年)日米通商条約の締結で諸外国との貿易が決定し国際港都に生まれ変わる。各地からの移住者も増え、商人、職人、運搬、建設など多種など横浜は巨大な都市へ変貌して行く。
開港当初は外国人居留地と日本人の住まいと拡大していくが慶応2年(1866年)の大火で市街地として整備される。
その後、丘の上に多くの洋館が建ち並ぶ。居留地の貿易取引が拡大し、巨万の富を生み、岩崎、三井などの豪商と肩を並べる程の貿易商が中核として発展して行く。
  外国人との接触から、西洋の技術、文化がドット流れ、『日本で最初と言われる』物が横浜から誕生、独特の異国情緒を含めた文化を持つ巨大な都市に街ぐるみ、賑わいを見せる。

                                                                       以 上

2016年10月 6日 (木)

山本紀久雄の講演・いわき市の天田愚庵顕彰会(愚庵会)

2016102()、福島県いわき市の天田愚庵顕彰会(愚庵会)主催の「縁・講演会」(会場・いわき市生涯学習プラザ大会議室4)にて、山岡鉄舟研究会の山本紀久雄会長が講演いたしました。

1 

講演内容は、山本会長が月刊ベルダ誌で連載中の「山岡鉄舟が影響を与えた人物…天田愚庵編」で取り上げ検討してきたもので、講演ストーリーは

 

1. 愚庵はいわき市が生んだ偉人であり

2. 愚庵を理解するためには

3. 愚庵の若き時代の奔放な生き方と

4. 最期にみせた素晴らしい逝き方

5. その格差に注視すべきだが

6. それには鉄舟が大きく影響しており

7. そこに磐城平における戊辰戦争発端要因が絡んでいる

 

と述べ、その戊辰戦争発端要因への探求スタートは、磐城平藩の第5代藩主安藤信正(鶴翁)明治元年10月、戊辰戦争後、東京で謹慎、そのときに平藩家老・年寄に寄せた書(上妻又四郎著『磐城三藩の戊辰戦争』参照)に、

「此の度の大事件畢竟我等不行届より生じ候儀にて其の方共も容易ならざる辛苦致させ気の毒の至りに候、去り乍ら彼の砌りの事情に止むを得ざる場合もこれ有り候儀は其の方共も能く心得候筈、今更是非得失の論議は其れ必ず無用にて候」とあり、

 

さらに「磐城の戊辰戦争は旧幕府を脱走した遊撃隊の人見勝太郎・伊庭八郎によって始められたのである。人見が仙台藩・古田山三郎の要請によって平潟奪回の軍事行動を起こしたという史料は見当たらなかった。この軍事行動は、人見勝太郎や伊庭八郎と請西藩主林昌之助らのある意味で勝手な単独行動から始まったのである。史料を丹念にたどるならば、磐城三藩の戊辰戦争は明らかに巻き込まれて始まったのである」と同書は結論づけ、

 

従って「前藩主安藤鶴翁の手紙にあった戦争の敗北に至る経緯が『止むを得ざる場合これ有り候』という言葉は事実を伝えているとしか言いようがないのである」としている。

1_2                        (愚庵)

 この「磐城の戊辰戦争」を始めた旧幕府遊撃隊の人見勝太郎・伊庭八郎には、彼らの脱走を止めるべく、鉄舟が箱根路に出向き、説得したが、失敗し、それが「磐城の戊辰戦争」となって愚庵の父母妹が行方不明、以後、愚庵が20年もに渡る捜索行動に結びついていく。

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                                         (いわき市愚庵・いおり)

 

鉄舟は、明治5年、愚庵と始めて会った際、愚庵が訴え告げる「父母の所在を尋ねんこと是のみ一生の宿願に候」を耳にしたとき、禅修行で鍛え抜いた身、その顔貌には出さなかったが、胸中、湧き上がる自責の念を感じざるを得なかった

 

箱根・御殿場に赴き、戦いを止めるよう遊撃隊を説得したが出来ず、その結果が、今、眼前にいる五郎に、痛ましい苦しみと、真の悲しみ、強い覚悟というべき決意を与えている。

 

鉄舟は、愚庵と会った明治5年から8年後、師の滴水和尚から印可を受けるが、既に、この頃から師家としての心境に達しており、晩年には「世間は吾が有、衆生は吾が児」、即ち「世の中の出来事は一切自分の責任である、生きとし生けるものは、すべて自分の子供である」という境地に達していた。

 

このように宇宙界のすべての現象が我が身と直結しているという、空恐ろしいまでの心境となったほどであるから、まして自らが関与した箱根・御殿場の説得失敗に連なる五郎に対しては、深く想いを新たにした。

 

そのような境地にある鉄舟、五郎が語る父母妹捜索話に、深い悔恨を持つとともに、五郎の脳細胞奥底に隠れている潜在的な「ある特別な才能」を一瞬にして見抜き、このときから格別の感情を抱き、特別な想いを持ったと解説し、講演を締めくくった。




山本紀久雄会長の講演・江戸東京博物館友の会セミナー

164回 江戸東京博物館友の会セミナー(平成2814日)

           山岡鉄舟の人間力

講師 山本 紀久雄(山岡鉄舟研究会会長

 

一転、和平路線をとった徳川幕府

慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで破れた15代将軍慶喜は大坂城を6日抜け出し、11日夜半品川沖に着き、12日江戸城に入りました。江戸城では、錦の御旗を掲げた官軍と戦うか、和平を結ぶか大評定が続きます。和平を唱えるハト派の勝海舟に対し、武闘派の小栗上野介や榎本武揚などのタカ派が一時主流となりましたが、その後一転、徳川幕府は和平路線をとります。もしこのとき、武闘派の言うなりに戦いに進んでいたら、大きな戦争となり江戸城の無血開城は無かったでしょう。これが1月の15日のことでした。

どうやら勝を苦手としていた慶喜ですが、今は勝に頼るしかなく、官軍との和平を彼に託しました。最初は西郷隆盛を知っている勝が自ら和平交渉に行こうと提案しますが、万一勝を失ってはもう後がない、と慶喜に拒否されます。その後は、和宮や天璋院、さらに上野の輪王寺宮まで担ぎ出して和平を求めますが、いい結論は得られませんでした。誰か西郷と渡り合える者はいないか・・・、このような複雑な場面で登場してきたのが、全く無名の山岡鉄舟でした。

駿府への出立

そのとき33歳だった鉄舟は、謹慎していた慶喜を警護するために寛永寺周辺を見回る警備兵にすぎませんでした。彼を推薦したのは鉄舟の妻の兄、槍の名人の髙橋泥舟(でいしゅう)でした。

 慶喜公に一度も会ったこともない鉄舟でしたが、二心将軍と呼ばれていた慶喜に、状況が変わったら、また方針を変えるのではないか、と詰問しています。結果、慶喜から間違いなく別心無しという言質(げんち)をとった鉄舟はこの使命は絶対に成功させると自分を追い込んだことでしょう。しかし、一体どうやったらいいのか分からなかった鉄舟は、多くの幕閣などを訪ねて助力・相談を請いますが、誰も相手にしてくれませんでした。

 そうして、最後に訪ねたのが勝海舟でした。虎尾(こび)の会で清河八郎と付き合っていた鉄舟を危険人物と警戒していた勝でしたが、自宅に訪ねてきた鉄舟と会うことになります。鉄舟に会った海舟は日記に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」と書いています。この日が3月5日です。勝は鉄舟が駿府にいる西郷との交渉に行くことを了解し、薩摩藩邸焼き討ち時に捉えられ、海舟邸に預かっていた、同じく虎尾の会で鉄舟と仲間だった益満(ますみつ)休之助と一緒に、鉄舟は官軍でいっぱいの東海道を駿府に向かいました。が、途中休之助は鉄舟のあまりの速足のせいもあってか腹痛を起こし落伍、箱根の山からは全くの一人旅となりました。

西郷、鉄舟会見

箱根の山を逃げ隠れしながら西に向かった鉄舟は、あの侠客清水次郎長の世話になって駿府に辿り着きます。

 そして東征軍の西郷との会見が3月9日。和平への道は、ただ一つのことにかかっていました。イノチ、慶喜の命です。

あとは東征軍の言いなりでしたが、これだけは譲れません。ところが西郷は、これは朝命で、慶喜公は備前藩に預ける、の一点張りです。この時点で備前藩は官軍側になっており、そこへ移すことは即、死を意味しました。

鉄舟は武士道精神に基づき鋭く反論しました。「もし、あなたの君主島津公が同じ立場に立たされたら、あなたは殿様を敵方に渡しますか?」それを聞いた西郷は暫し沈黙したあと応えました。「分かりました。慶喜公のことは拙者が預かりもうす」と。この一言で江戸城の無血開城が決まったのでした。西郷は鉄舟という人間像のなかに無類の侍魂を見出したのです。後日3月1314日の西郷と勝の会談はあとの段取りの確認であり、事務手続きみたいなものでした。その際、西郷が勝に述べたという記録が残っています。「徳川さんはえらいおタカラをお持ちですね」「???」「命も、金も、名誉もいらぬ。ああいう人でなくては天下の大業は成し遂げられません」と。

明治天皇との17年

明治天皇は日本のもっとも偉大な統治者であった、ということに異論はなかろうと思いますが、その天皇を扶育した人が侍従として36歳から53歳まで終生仕えた鉄舟でした。

 

 鉄舟の厳しい禅修業を宮城で見ていた天皇はそこから学び、自分を磨いていったと思われます。京都の公家社会で女官たちに囲まれて育った天皇と、赤貧洗うがごとしの生活をしてきた鉄舟、境遇が違い過ぎる2人でしたが、ともに大酒飲みでした。2人でお酒を酌み交わしながら、天皇は世の中のこと社会のこと世界のことを身に付けていったことと思います。

 

 東征軍参謀として明治維新を実質的に成し遂げたのは西郷隆盛であり、明治の45年間に日本を冠たる列強に築きあげ、大正、昭和、平成とつなぎ、今の日本を先進国に位置づけた始まりは明治天皇の治世であり、その偉大なる2人と深く関係を築いたのは山岡鉄舟で、人間を鍛え続けると「こうなり得るという実態・境地実像」を遺したのが鉄舟です。

 我々はこの世に生を受け、一人一人が意義ある存在として今ここにいる。鉄舟は自らの奥底深く存在する意義を、厳しい修行で到達した境地から発揮させ業績を遺しました。厳しい修行を課せられない我々が、鉄舟から学ぶとするならば、自らの生きる意義を再確認することではないでしょうか。それが現代的な意味での鉄舟の教えと思います。意義を探し、求め、それを見つけた人は素晴らしい人生を送れるのだと、鉄舟は語っているのです。  参加者156人。

「江戸無血開城」論考(4)江戸焦土作戦

「江戸無血開城」論考(4)江戸焦土作戦
                                                                          水野靖夫

【1.「江戸焦土作戦」とは何か】
 勝海舟が、慶応4年3月13・14日の西郷隆盛との会談に備え巡らした様々な策の一つとして、「江戸焦土作戦」(以下「焦土作戦」)なるものがある。
  これは勝が、火消し・ヤクザなどの親分のところを回って金を渡し、官軍が進撃して来たら、子分を使って市街を焼き払い焦土と化し、その進撃を食い止めるよう命じ、同時に大小の船を用意し、市民を房総に避難させる準備もした、というものである。これにより西郷に「圧力」をかけ、官軍の江戸総攻撃を中止させようとした策である。
 この策が実際に実行できるか、実行した場合に、官軍を窮地に陥れ、かつ船で江戸中の市民を避難させるという所期の目的が達成できるか、といった実現の可能性には触れない。テレビで火の燃え広がる様子をコンピューターでシミュレーションして見せたが、実現の可能性を証明するのは容易ではなく、主観に陥る恐れがあり、何よりも無意味である。
 西郷との会談のための策という以上、重要なのはこの「焦土作戦」が、有効であったか否かである。すなわち西郷をして、慶喜の処分を軽減し、江戸攻撃を中止に追い込むことができたか、さらには徳川の降伏条件の緩和に役立ったかという点である。これを証明する史料があるかを検証する。

【2.「焦土作戦」が記載された史料】
 そもそも「焦土作戦」は、どのような史料に書かれているのか。これは勝のかなり個人的な策であり、まず勝自身が書いた『海舟日記』『解難録』に記述されている。さらに後年の海舟の談話で語られている。これらを順次検討する。

 まず海舟の書いた『海舟日記』と『解難録』にはどのように記録されているのであろうか。
(1)『海舟日記』(慶応四戊辰日記)
 「焦土作戦」は、『海舟日記』の慶応4年3月10日に書かれており出所が明確である。この日は山岡鉄舟が西郷との会談を終え、江戸に戻り復命した日である。この日の海舟の日記には、そのことで鉄舟を絶賛している。主君の恭順の真をよく官軍側に納得させたこと、法親王(天台座主輪王寺宮入道公現親王)始め多くの者が嘆願に向かったにもかかわらず誰一人成功しなかったが、鉄舟だけが降伏条件の書付を持参して帰った、とその沈勇・識見を賞賛している。さらにその降伏条件の全内容が記されている。
   そして大久保一翁始め重臣が降伏条件緩和の歎願を検討し、官軍参謀に訴えようとしているが、自分には考えがある、と言って「焦土作戦」について記載している。その要旨は以下の通り。
   ○官軍は15日に江戸城を攻撃するらしい。
   ○官軍は3道から、市街地を焼き、その退路を断ちながら進軍してきているらしい。
   ○当方の嘆願が聞き入れられず、官軍が攻め寄せて来れば、江戸は灰燼と化し、無辜の死者は百万に達するであろう。
   ○もし官軍がそのような暴挙に出るなら、こちらも黙ってはいない。こちらから先んじて市街を焼き、江戸を焦土と化し、進軍を妨げてみせよう。この決意を持って官軍に対応するつもりだ。百万の民を救えないなら、自らこれを殺そうと決心した。

少々長くなったが、日記に勝がどのように書いているかを見た。徳川の嘆願が受け入れられず、官軍が進撃して来るなら、江戸を自ら焦土と化して戦う決心をした、と述べている。

(2)『解難録』
『解難録』でも「33.一火策」「32.府下鼎沸(ていふつ) 乾父(おやぶん)使用」と出所が明確になっている。
『解難録』は、明治17年に旧稿を整理したもので、旧稿は主として幕末維新期に書かれた「解難の書」によって構成されている。つまり『解難録』は幕末維新の頃、海舟日記とほぼ同じ時期に勝海舟の手によって記録されたものである。
  この中の「33 一火策」の項に「江戸焦土作戦のことが詳しく書かれている。要旨は以下の通り。
   ○官軍は3月15日に江戸城を攻撃すると決定している。自分は出掛けて行き西郷と交渉する。
  ○自分は密かに無頼や鳶を使って江戸の治安を維持している。
 ○もし西郷が、自分の言い分を聞かずに江戸城を攻撃するなら、大人しく降伏はしない。
  ○もし江戸に進軍して来るなら、無頼や鳶に命令し、市街を焼き、進退を立ち切り、焦土と化す。民を殺すのは官軍の側であって、自分ではない。
  ○これはロシアがナポレオンを苦しめた策である。
 ○自分の策はこれとは違う。こうすれば1日で焦土となって戦いは終わり、それによりむしろ無辜の民の死は少なくて済むであろうと思う。
  ○官軍の伊知地(正治)(東山道先鋒、総督府参謀)という者は、火を放って退路を断ち進軍して来ると聞いた。少数で多数に勝つ戦法である。伊知地は豪傑である。
  ○自分は火付け道具を密かに用意したが、不要となり品川の海に捨てた。そのため、後に新政府より嫌疑をかけられた。
  ○西郷は度量が大きく、とても自分は及ばない。西郷の仕事を手伝わされる羽目になるのもやむを得ない。
  ○大火が発生した場合、庶民を避難させるため船の用意をさせた。
  ○幸いにして、江戸攻撃は中止となり、「焦土作戦」は徒労に終わった
     (幸にして無事を保ち、此策終(つい)に徒労となる
  ○「焦土作戦」を笑う者もいるし、自分も愚策とは思う。
  ○しかしこうして自分の精神を活発にしておかなければ、西郷との交渉を貫徹することは出来なかった。

なお、『解難録』のこの「33 一火策」の前の「32 府下鼎沸(ていふつ)、乾父(おやぶん)使用」という項の内容は以下の通りである。
官軍が迫り、江戸市中は逃げ出す者で混乱に陥った。自分は、無頼の徒が、強奪・放火をすることを恐れ、火消し・博徒などのうち名望のある親分35~36名に金を渡し、自分が指図するまでは妄りに騒ぎ回るなと諭した。皆、自分から直接談判を受けたことに感激し、快諾した。こうした無頼の徒に対して、その義侠心に訴え服せしめた。
ここには、江戸市中の治安の維持が書かれており、次の「火策」については記されていないが、その布石であったことは明らかである。

 『解難録』の「焦土作戦」に関する記載内容を紹介したが、ここには、西郷にこの策が伝わった、伝わって西郷が臆して江戸攻撃を中止した、降伏条件に付き譲歩したとは書かれていてない。それどころか、「江戸攻撃は中止となり、『焦土作戦』は徒労に終わった」と、述べている。「焦土作戦」により江戸攻撃が中止になったのではない。その逆で、別の理由で江戸攻撃が中止になったのであり、その結果「焦土作戦」は不要になったと言っているのである。
ただ最後にこの様にイザとなれば戦うぞという、強い気持ちで臨まなければ、交渉は成功しないと記しているに過ぎない。

以上の『海舟日記』『解難録』は勝自身の手になるものだが、この他に勝の談話をまとめたものがある。『氷川清話』(吉本襄編)と『海舟座談』(『海舟余波』の改訂版)(巌本善治編)である。『海舟日記』等はその事実が発生した時点で書かれたものであるが、『氷川清話』等の方は、それから30年程後の、勝晩年の談話である。そのため記憶が不確かになっている面もあり、また関係者が没してしまった後のため、勝一流の自慢話が混じっている。
一般的に、自分のことは過大評価し、他人のことは逆に過小評価するものである。まして政敵、ライバル、手柄争いの相手などは、時に酷評することがある。まして対象者がすでに没している場合は反論がないので一層増幅される可能性がある。特に勝の場合は、敵も多く、一流の毒舌家でもあり、特にその傾向がみられる。こうしたことも踏まえ、この両談話の「焦土作戦」に関連すると思われる箇所を見てみたい。

(1)『氷川清話』(角川文庫 1972年)
 『氷川清話』の「理屈と体験について」の中の「無学な人ほど真実」という項に以下のように書かれている(173~174頁)。
   ○へたな政論を聞くよりも、無学文盲の徒を相手に話す方が大いにましだ。(後略)
  ○新門の辰(五郎)などはずいぶん物の分かった男で、金や威光にはびくともせず、ただ意気ずくで交際するのだから、同じ交際するにも力があったよ。
  ○官軍が江戸城へ押し寄せて来たころには、(中略)いわゆるならずものの糾合にとりかかった。(中略)四つ手駕籠に乗って、あの仲間で親分といわれるやつどもを尋ねてまわったが、骨が折れるとはいうものの、なかなかおもしろかったよ。
  ○「貴様らの顔をみこんで頼むことがある。しかし、貴様らは金の力やお上の威光で動く人ではないから、この勝が自分でわざわざやってきた」と一言いうと、「へえ、わかりました。この顔がご入用なら、いつでもご用にたてます」というふうで(後略)
  ○官軍が江戸へはいって、しばらく無政府の有様であったときにも、火つけや盗賊が割り合いに少なかったのは、おれがあらかじめこんな仲間のやつを取り入れておいたからだよ。
   以上である。ここでは「焦土作戦」には直接触れていない。単にならず者の親分と交際があり、江戸開城の頃、彼らを利用して江戸市中の治安維持に努めた、と誇っているだけである。この部分の表題は「無学な人ほど真実」である。

(2)『海舟座談』(『勝海舟全集 20「勝海舟語録」』)(講談社 1972年)
 『勝海舟全集 20「勝海舟語録」』に『海舟座談』が収録されている。
   その「明治30年3月27日」の談話に以下の記載がある(73~74頁)。
   ○町人以上は、皆騒ぎはしない。それ以下のものが騒ぎ出しては如何ともしようがない。(中略) 遊人などが仕方がないのだ。それを鎮めるのに、骨が折れたのだ。
  ○えたの頭に金次郎、吉原では金兵衛、新門の辰。この辺で権二。赤坂の薬鑵(やかん)の八。今加藤。清水の次郎長(後略)
  ○女では八百松の姉。橋本。深川のお今。松井町の松吉。
  ○剣術の師匠をした頃は、本所のきり店〔下級の娼家〕の後ろにいた。鉄棒引(かなぼうひき)(夜警)などに弟子があった。それで下情に明るい。言葉もぞんざいだ。
  ○あの親分子分の間柄を御覧ナ。何んでアンナに服しているのだい。精神の感激というものじゃないか。
  以上の部分には、「焦土作戦」に触れた箇所はない。下々の者との付き合いがあり、下情に通じていたこと、そして幕末の治安の維持にこれらの者を利用した、と語っているだけである。
 唯一「焦土作戦」を匂わせる箇所は「明治31年11月30日」の談話にある(218頁)。以下その部分を全文引用する。
  ≪ナアニ、維新のことは、おれと西郷とでやったのサ。西郷の尻馬にのって、明治の功臣もなにもあるものか。自分が元勲だと思うから、コウなったのだ。
  江戸の明け渡しの時は、スッカリ準備してあったのサ。イヤだと言やあ、仕方がない。あっちが無辜の民を殺す前に、コチラから焼打のつもりサ。爆裂弾でもたいそうなものだったよ。あとで、品川沖へ棄てるのが骨サ。治まってから、西郷と話して、「あの時は、ひどい目にあわせてやろうと思ってた」と言ったら、西郷め、「アハハ、その手は食わんつもりでした」と言ったよ。ナアニ、おれのほうよりか西郷はひどい目にあったよ。勝に欺されたのだといって、ソレハソレハひどい目にあったよ。≫
  ここには「焼打」という表現が見える。しかしそれよりも注目すべきは西郷とのやり取りである。「ひどい目」とは「焦土作戦」のことであろう。このやり取りからは、江戸開城時の二人の会談でこの話題は出なかったことが読み取れる。またこの「焦土作戦」を知った西郷が江戸攻撃を中止した、などということはなかったことが読み取れない。もし二人の会談にこの話が出ていれば、勝は≪ひどい目にあわせてやろうと思ってた≫とは言わないし、西郷も≪その手は食わんつもりでした≫とは言わない。

  ≪ナアニ、維新のことは、おれと西郷とでやったのサ≫と言うくらいの勝であるから、もし「焦土作戦」が功を奏し、それにより西郷から何らかの譲歩を引き出したというのであれば、「ナアニ、どうしてもオレのいうことを聞かんなら、江戸に火をつけるゾ、と脅してやったヨ。そしたら、西郷のヤツ、勝さん、それは困る、と言ってオレの出した条件は全て呑んだよ。そして自分一存では決められないから、と言って、翌日京都にスッ飛んで行ったヨ」くらいのことは言ったであろう。しかし『氷川清話』にも『海舟座談』にも、「焦土作戦」が西郷に対し功を奏したという自慢話は語られていない。

【3.学者の見方】
  学者は「焦土作戦」についてどのように書いているであろうか。勝海舟の主な研究家の記述を検証する。
(1)江藤淳 『海舟余波 わが読史余滴』(文春文庫 1974年)
 江藤淳は『海舟日記』『解難録』『氷川清話』の他に伊藤仁太郎の『幕末の海舟先生』を引用して、勝は、火消人足・博徒、魚河岸・青物市場の若い衆に、≪肩に錦切を付けている官軍を見つけしだい、応接無用、有無をいわさず片っ端から斬ってしまえ≫ ≪「官軍の兵士ならかまわぬから、どしどし斬ってしまえ。あばれ放題あばれろ≫(163~164頁)とけしかけた、と言っている。そしてまた≪この講談調の逸話はなかなか面白いが、面白すぎて……≫(165頁)とも言っている。いずれにしても江藤は「焦土作戦」の内容を引用しているだけで、西郷との会談に、具体的にどのような効果があったのかには触れていない。「焦土作戦」の中身については、出典を明らかにして解説しているが、その効果については、西郷との交渉を前に、勝の精神を活発ならしめた、という以外に、なんら具体的効果というものを、出典を示して説明してはいない。

(2)勝部真長 『勝海舟』(PHP研究所 1992年)
 勝部真長は『海舟日記』『解難録』の内容を紹介し、「焦土作戦」によりナポレオンがロシアで大敗した様子、火消しの親分新門辰五郎の人と為りなどを紹介している。
 そして≪江戸無血開城となって、海舟の「一火策」はムダになった。(中略)もし談判破裂のときは打つ手がある、という自信がこちらにあればこそ、気迫がこもり、相手を圧倒することができたのである。その意味で決してムダではなかった≫と述べている。さらに≪海舟も「日記」に、「小拙、此の両日は全力を以てす」と書いている。およそ外交談判というものは、気迫である。ただ理路整然と言葉を並べるだけでは、相手を承服させることはできない、というのが海舟の信念である≫(181~182頁)と記述している。
 しかし勝部は、「焦土作戦」が西郷に対する「圧力」となって、西郷の江戸攻撃を断念させたとは書いていない。

(3)松浦玲 『勝海舟 維新前夜の群像3』(中公新書 1968年)
         『勝海舟』(筑摩書房 2010年)

 松浦玲氏は、『勝海舟 維新前夜の群像3』では『海舟日記』『解難録』の「焦土作戦」を紹介しているが、これより約40年後に書かれた『勝海舟』では「焦土作戦」には全く触れていない。前者は200頁足らずの新書であり、後者は900頁に及ぶ大部の単行本である。多くの勝海舟研究書に紹介され、小説・児童書・マンガにも書かれ、さらにテレビでも取り上げられている「焦土作戦」を、勝海舟研究の大家の松浦氏はなぜその決定版ともいうべき『勝海舟』に書かなかったのであろうか。9歳の時犬に睾丸を噛まれたという事件は書いているにもかかわらず、「焦土作戦」は書いていないのである。
 その理由は、勝が実際に工作したのは事実であり、面白い話ではあるが、西郷・勝会談に対しては何の効果もなく、歴史的には無用な事実だと判断したから省いたのではなかろうか。もし「焦土作戦」が「江戸無血開城」に何らかの影響を与えたのであれば、松浦氏がそれに触れないはずはない。「川中島の合戦」が、物語としては面白いが、歴史の流れから見れば一局地戦に過ぎず、歴史的重要性が小さいため、ほとんどの歴史教科書に取り上げられていないのと同じであろう。

【4.小説・児童書・マンガの記述】
「焦土作戦」が面白い話題のためか、小説等でも取り上げられる。しかしそれが西郷の知るところとなり、そのために西郷が江戸攻撃を中止した、と書いているものはない。

(1)『江戸開城』(海音寺潮五郎 新潮文庫)(1987年)
 海音寺潮五郎は『解難録』『海舟座談』を引用して、勝が、火消しの頭などに放火を依頼したり、房総の漁師らに船を出して江戸の市民らを救うよう依頼したりした、と記している。
 また渡辺清左衛門(清)が後年史談会で語った追憶談で、勝の西郷への訴えを次のように引用している。≪一口に旗本八万騎と申しますが、このほかに伝習隊その他の近年とり立ての兵も莫大な数があります。(中略)今日では慶喜といえども、命令を出しましても、その通りに従わせることは出来ない形勢なのです。だのに官軍では明日兵を動かして江戸城を総攻撃しようとなさる。必ず何らかの変動がおこり、慶喜の精神が水泡に帰するばかりでなく、江戸はいうまでもなく、天下の大動乱となることは明らかであります≫(150頁)と。
 そして海音寺は≪勝のことばの最後のくだりは、実におそろしい威迫に満ちたことばであった。そうなった場合には、勝の命令一下、江戸中のナラズモノらがそれぞれに放火して。官軍を江戸の町とともに灰燼にしてしまうということを言っているのである。はたして西郷にそれが読み取れたかどうか、西郷は依然にこにこして聞いているだけである≫(150~151頁)と続けている。
 海音寺は、「官軍が無理やり攻撃を仕掛けてくれば天下は大動乱になる」ということは、「勝が手配したナラズモノが江戸中に放火すること」だと言っている。そしてこれを西郷が読み取ったかどうか、と言っている。勝は「焦土作戦」のことを西郷に明言はしておらず、ましてや「天下が大動乱となる」という勝の言葉から、西郷が「焦土作戦」を想像してこれを恐れ、江戸攻撃を中止したかは疑問である、と海音寺は言っているのである。言葉を変えれば、海音寺は、勝が「焦土作戦」で西郷に「圧力」をかけ、江戸攻撃を中止させた史料などない、と言っているに等しい。
 
(2)『勝海舟 私に帰せず』(下)(津本陽 潮出版社)(2003年)
 津本陽氏は『解難録』『海舟座談』の要点を引用し、新門辰五郎・清水の次郎長らに江戸の治安維持から放火まで頼んだこと、また信太(しのだ)歌之助(元講武所柔術教授方)らに頼んで江戸市民の房総への避難のため、船を用意させたことなどが書かれている(214頁)。
 こうした「焦土作戦」準備の内容については触れられているが、これが西郷に伝わり、それによって西郷が江戸攻撃を中止したとは、一言も書いてない。

(3)『江戸を戦火からすくった男 勝海舟』(安永貞夫 講談社 火の鳥伝記文庫)(1985年)(児童書)
 勝海舟が、町火消し「を」組の頭・新門辰五郎を訪ね、江戸に火をつけること、そして避難する人たちを助けるためありったけの船を集めることを依頼することが書かれている。しかし江戸の町に放火する理由についての説明はない。まして西郷との交渉に、この話は一切出てこない。江戸城明け渡しの後で、お礼に町火消に金を配った後日談だけが書かれている。

 マンガを2件紹介する。絵はそのまま掲載できないので、当該部分の解説文とセリフのみを紹介する。いずれも勝が火消しやヤクザの親分に放火を依頼する場面だけで、西郷への「圧力」など描かれてはいない。
 

 (1)『勝海舟』(学研まんが人物日本史)(監修 樋口清之、まんが ムロタニツネ象)(学習研究社)(1984年)(127~128頁)
 勝「よしっ! 江戸中の火消しと、やくざの親分のところを回ってくれ! 急げ!!」
 勝「談判が決裂したときは、江戸の町を火の海にして、官軍と戦うつもりだ。放火に協力してくれ!!」
 親分たち「幕府のヘッポコ役人なら聞きやしませんが、勝先生のお頼みとあれば、なんでもやりやすぜ! 官軍を江戸の火であぶってやりまさあ!」
  親分たち「江戸をいちばん愛している勝先生が……、その江戸に火をつけろとおっしゃるんですからね。われわれ江戸っ子の意気を、みせてやりまさあ。」
  さらに、房総に船を集めて、江戸の大火が見えたら、すぐ江戸川にこぎ入れて難民を救えるように、手配をしました。
  船頭「勝先生、いつでも動かせますぜ。」
 勝「ありがとうよ。」

 (2)『勝海舟』(コミック版 日本の歴史 幕末・維新人物伝)(企画・構成・監修 加来耕三 原作 水谷俊樹、作画 中島健志)(ポプラ社)(2013年)(96~96頁)
   一方その頃海舟は江戸火消しの元締め新門辰五郎宅にいた。
   勝「アンタに頼みがある 新政府軍が江戸に入ったら町に火をかけてもらいてぇんだ」
   辰五郎「ええっ! 旦那 あっしらは火消しですぜ 火をかけろだなんて……」
   勝「どのみち戦になりゃ燃えちまうんだ! だったら少しでも進軍を遅らせて 和平交渉に持ち込むのが狙いよ」
  辰五郎「江戸の町民はどうするんで?」
  勝「抜かりはねぇ その前に漁船を使って房総へ避難させるさ」
  勝「頼む! これができるのは火の扱いを熟知しているアンタしかいねぇんだ!」
  辰五郎「……承知しやした! でもそうならないことを祈っておりやすぜ 勝の旦那」 

【5.テレビ放映】
  「焦土作戦」をテレビではどのように扱っているであろうか。
(1)BS-日本テレビ「片岡愛之助の歴史捜査」
  BS-日本テレビ「片岡愛之助の歴史捜査」はサブタイトルが「江戸無血開城の真相と江戸焦土作戦に迫る!」で、「焦土作戦」を重視した構成になっている。「新政府軍は金を持っていなかったので、江戸の物資を当てにしていた。その新政府軍に打撃を与えるため、火消・博徒に金を渡して江戸中に火をつけ焦土と化すよう協力を依頼した」と述べている。そして江戸博のマイクロフィルムから「戊辰以来会計荒増」を探し出し、慶応4年2月、「15日 江城官軍侵撃に門生その他間謀焼討手当」として250両(現在の価値で2500万円)が記録されていることを紹介している。
  また実際に江戸の町火消が一斉に火を放ったらどのように燃え広がるか、コンピューターによりシミュレーションを行っている。
 「これが西郷に届くかどうかということですよね」と解説しながら、どのようにして届けたか、届いたか否かについては、述べていない。「作戦の噂を相手が知れば当然ひるむからプレッシャーになった、この情報だけでも十分交渉の切り札になった」と解説している。しかし西郷にプレッシャーになったことを示す史料などはなく、西郷がどのように反応したかについては何も語っていない。「交渉の切り札になった」というのは、飽くまで番組解説者の推測に過ぎない。

(2)BS-TBSの「THE歴史列伝」
  BS-TBSの「THE歴史列伝」も似たような内容である。江戸の町に火をつける依頼のため、江戸の町を仕切る強者たち(とび職・テキ屋・ヤクザの大親分・火消し)を自宅に呼び寄せた、と言っている。一方、火の海となって混乱する江戸の町から住民たちを救うため、江戸中から避難準備船を集め、そのために2千数百万両(2億5千万円)かかり、これがほとんど勝の自腹だったと言っている。
  また次のようにも言っている。「わざとうわさが広まるようにした。分かった相手が当然ひるむ。江戸の町には新政府軍のスパイみたいな存在が入り込んでいた」と。しかしスパイがいたとしても、それが西郷に伝わり、西郷がひるんで、江戸総攻撃をためらったなどという史料はない。「分かった相手が当然ひるむ」というのは、日本テレビと同様に、解説者の何等根拠のない憶測に過ぎない。
 
  両番組に共通しているのは、「作戦を知れば当然ひるむはず」という点である。しかし両番組とも、西郷がこれを知ったという事実はおろか、ひるんだという事実も語ってはいない。西郷がこれを知った、そしてひるんだということを示す史料などないのである。

【6.結論】
「焦土作戦」は、勝が西郷隆盛との会談を成功させるために取った「工作」であるというが、果たしてそうであろうか。このような準備をしたことは事実であるが、これが勝の「工作」として西郷に対し効果があったのであろうか。結論は否である。
その理由は「工作」として実効があったと主張する以上、この策が西郷に対する「圧力」となったという史料がなければならない。その「圧力」によって西郷が江戸総攻撃を中止し、慶喜の処分等降伏条件の緩和に応じたという史料がなければならない。しかし西郷が勝の準備したこの策を恐れ譲歩した、などという史料はない。何よりも勝自身が書いた『海舟日記』『解難録』に、この策が西郷にプレッシャーを与えたなどと記されていない。それどころか、『解難録』に「幸にして無事を保ち、此策終(つい)に徒労となる」と書いているように、「焦土作戦」は徒労に終わったのである。つまり勝の「焦土作戦」という工作は、西郷・勝会談には何の影響も与えなかったと勝自らが書いているのである。
もしこの策が功を奏していたのであれば、放談録である『氷川清話』や『海舟座談』に勝の自慢話が載っているはずである。しかしそれがない。
また「焦土作戦」を扱った著書やマンガ、テレビ番組などは、いずれも「焦土作戦」の準備の実態、特に火消しやヤクザの親分に勝が放火を頼んだことを紹介するばかりで、西郷に対し「圧力」となったということは一言も述べていない。特に勝海舟研究の大家である松浦玲氏の集大成ともいうべき『勝海舟』(筑摩書房)に、この「焦土作戦」が全く触れられていないということは、幕末・維新史においてほとんど歴史的価値がないと解釈されたものと思われる。

2016年10月 4日 (火)

「江戸無血開城」論考(3)「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)

「江戸無血開城」論考(3)「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)
                                                                                        水野靖夫

この「木梨・渡辺ルート」ついては萩原延壽の『遠い崖』(7巻「江戸開城」)に詳しく分析されているが、前論考の「サトウ・ルート」に関連し、勝海舟の工作があったか否かに論及する。

【1.「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)とは何か】
 先ず「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)とは何かである。
 江戸総攻撃の直前、東征軍先鋒総督参謀の木梨精一郎と渡辺清は、横浜のイギリス公使館を訪れ、江戸総攻撃による負傷者を看護するため、病院の提供を依頼した。その時パークスは木梨らに次のことを語った。
(1)すでに徳川慶喜は恭順していると聞く。いずれの国も恭順すなわち降参している者に戦争を仕掛けるということはない。それは国際法(国際世論のこと)に違反している。
(2) 戦争を始める場合その国の政府は、外国人居留地の領事に連絡し警護の兵を出さなければならないが、何の連絡もなくどうなっているのか分からない。仕方なく我が海軍兵を上陸させて居留地を護らせている。日本は無政府の国と言わざるを得ない。

パークスよりこう告げられた木梨・渡辺は、明日江戸攻撃は出来ない、早く大総督より各国領事に命令を出さねばならないと考え、木梨は駿府の大総督府へ、渡辺は品川の西郷隆盛のところへ走った。渡辺が西郷のところに報告に来たのが14日の午後2時、正に勝との第2回目の会談の直前であり、西郷に言われて会談に同席した。以上は、渡辺の書いた『江城攻撃中止始末』の内容である。

【2.木梨・渡辺はいつパークスと面会したか】
  実は木梨・渡辺がパークスに面会したのはいつなのか、その日にちには諸説ある。萩原は『遠い崖』(7巻「江戸開城」)で、①「復古擥(らん)要(よう)」②「戊辰中立顛末1」③「横浜情実」④「岩倉家蔵書類」そして前記の⑤「江城攻撃中止始末」の5つの記録を挙げ、次のように述べている。

  パークスは情勢が分からないので、情報収集のため13日午後にラットラー号を大阪に派遣した。このことについて、①②③は「昨日」と書いている。すなわちこの3つは、面会日は13日と言っているが、実は14日である。13日を昨日と言うことは、面会日は14日ということになる。④はもともと面会日を14日と言っている。⑤は、面会日については書いてないが、ラットラー号の派遣(13日)を「先達て」と言っているので、面会日は必然的に14日以降ということになる。以上より面会日は14日である。

 ラットラー号が13日に派遣されたことは、次の、パークスがスタンレー外相に送った3月17日の報告書(①資料)とそれに添付されたスタンホープ大佐の報告書(②資料)に記載されている。

  ① 資料 3月17日(西暦4月9日)付スタンレー外相当て報告書

1
Then Majesty’s Ship “Rattler” was accordingly
despatched on the 5th Instant with the
accompanying Despatch which Mr. Mitford ……
そして、女王陛下の船「ラットラー号」がそのため同月(4月)5日(和暦3月13日)に派遣された。

  ② 資料 3月13日(西暦4月5日)付スタンホープ大佐のパークス当て報告書
  これは前記①の添付資料。
    ②―1 冒頭部分

2
                               H.M.S. ”Ocean” at
                                            5April,1868                                          
Sir,
   I have the honor to acknowledge
the receipt of Four Excellency’s letter of   

   ②―2 後半部分

3
F.E. that I have ordered the “Rattler”  
to perform this service and for Baron
Brin to be received for a passage
in accordance with F.E’s request.
 
   ②―3 最後の部分

4
   The“Rattler” will proceed this   
afternoon.
(signed)Chandos S. Stanhope
                               Captain and  
                               Senior Naval Officer

 ②資料の冒頭部分(②―1)は、「女王陛下の船(H.M.S. : Her Majesty’s Ship)「オーシャン号」の艦上にて、4月5日1868年」と、この報告書の作成日が書かれている。そして報告書の後半部分(②―2)には「私は“ラットラー号”にこの任務の遂行と、4か国の公使館(F.E. Four Exellencies)の要請に基づきブラン男爵の便乗を認めることを命じた」、最後の部分(②―3)には「“ラットラー号”は本日(4月5日〔和暦3月13日〕)午後(兵庫に)向かうでしょう」と書かれており、スタンホープ大佐の署名がある。この報告書は「控え」であるため、署名がされているということを表示している。  

 さらに萩原は、①②④は面会が終わったのは「夕刻」と書いている、と述べている。14日の夕刻とは、西郷・勝会談の終わった時刻である。パークスとの面会は横浜、西郷・勝会談は品川。①②④に基づく限り、パークスの話は、会談前の西郷に伝えられなかったと言える。

 残るは③⑤であるが、③はラットラー号の記述より面会日は14日ということになるが、時刻は不明である。

 多くの識者が引用する⑤「江城攻撃中止始末」について検討を加えてみたい。「江城攻撃中止始末」は渡辺清が明治30年(1897)に史談会で語った談話であり、日付に誤りと思われる箇所がある。史談会速記録より、日付に関連する部分を拾ってみると次の通りである。
 (1)≪14日に江城を攻撃する≫ ➡ 実際の江戸城攻撃予定は15日
 

 (2)≪12日に藤澤驛に着た。所が木梨精一郎が大総督の命を承けたといふて此に來た。……横濱に参り英の「パークス」に逢ふて……清ハ木梨と同道して急に横濱に参った。……「パークス」は幸ひ在邸で面會しました≫ ➡ 萩原の言う通り、いつ横浜に行きパークスに会ったかは書いてないが、このまま読めば12日に木梨が来て直ぐにパークスに会いに行ったとすれば、面会日は12日ということになる。
 

 (3)≪それ故先達て自費を以て船一艘を雇て兎も角兵庫に使いして、彼處まで行けば大抵様子が判るだらうと思ふて聞きにやった位である≫ ➡ これはラットラー号のことであろう。「自費で船を雇って」というのも間違いだろうが、それは30年も後の渡辺の記憶の曖昧さで仕方ないとして、「先達て」に拘れば、13日が「先達て」ということは、今日は14日以降ということになる。つまり面会日は14日となる。
 

 (4)≪品川に行き此事を西郷に告ぐべしと……品川に着したのは午後二時頃であった……勝安房が急に自分に逢ひたいといひ込んでおる。之ハ必ず明日の戦争を止めて呉れといふじゃらう≫ ➡ 勝が面会を求めているとなれば、この日は13日になる。しかし明日の戦争という表現は、江戸城攻撃が15日であるから、今日は14日ということになる。しかし渡辺は江戸城攻撃は14日と言っているので、そうであるとすれば今日は13日ということになる。
 

 (5)≪君も一所に行たらどうかい……其時西郷と一緒に出たは村田新八、中村半次郎、清はほんの付け物のやうにして其席に出ました≫ ➡ この後の会談の様子は、13日のものではなく、14日の会談内容であるので、この日は14日ということになる。

 萩原は『遠い崖』(7巻「江戸開城」)で≪日付を明示していないが、前後の文脈から推して、3月12日(陽暦4月4日)か3月13日である≫(24頁)と言っている。確かに文脈だけから判断すれば、その通りかもしれない。12日に藤沢に着き、直ぐに木梨と一緒にパークスに会いに行ったとすれば、渡辺がパークスに会ったのは12日ということになる。また江戸城攻撃予定は14日と言っているから、明日の戦争という表現から、今日が13日であることを意味する。そうすれば萩原の言う通り、文脈からはパークスに会ったのは12日か13日、ということになる。
 

 しかし、江戸城攻撃予定が15日、ラットラー号派遣が13日、西郷と勝の2回目の会談が14日という、動かせない歴史的事実を踏まえて読めば、渡辺がパークスに会ったのは14日ということになる。萩原ほどの学者がなぜ≪日付を明示していないが、前後の文脈から推して、3月12日(陽暦4月4日)か3月13日である≫と類推したのか、甚だ疑問である。
 

 なお、パークスのスタンレー外相当て3月17日付報告書に,「御門の軍の士官」“an officer of the Mikado’s army”がやってきたので、これに横浜の自衛策を伝え、御門の兵が隊列から離れ横浜をうろつくことがないよう伝え、了解を得た、と記録されている。この士官は、内容から木梨達と推測されるが、その名も、訪ねてきた日付も書かれていない。

以上まとめると以下のようになる。
 (1)多くの記録が示しているように、木梨・パークスの面会終了が、西郷勝会談の終了とほぼ同時であれば、西郷に対する「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)は時間的にあり得ないことになる。

 (2)「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)があったと言えるのは、渡辺の「江城攻撃中止始末」に基づく場合である。これについては次のことが言える。
 

 (ア)西郷にとって勝との会談時にこれが「圧力」となったか否かは、推測の域を出ない。既述のように萩原は『遠い崖』(7巻「江戸開城」)の中でこれを否定している。西郷が自派の説得に利用したという記録はあるが、勝との会談で圧力となったことを西郷自身が語った記録はない。
 渡辺は≪西郷も成る程惡かったと、「パークス」の談話を聞て愕然として居りましたが、暫くしていハくそれハ却て幸であった≫と言った、と述べている。萩原は、すでに江戸攻撃を中止することを決めていた西郷が、「愕然」としたのは、冒頭で述べた(1)「恭順している慶喜を攻撃するのは国際法違反」と言われたからではなく、(2)「領事に連絡しないのは無政府の国」と言われたからである、と述べている。そして「却て幸」と言ったのは、自派の強硬派を説得する材料になると考えたからであると解釈している。事実江戸城攻撃中止命令を聞いた板垣退助が西郷に抗議しに来たとき、このパークスの話をしたところ、≪板垣もなる程仕方がない。それなら異存を云うこともない。それでハ明日の攻撃ハ止めましやう≫と言って大人しく引き下がった、と述べている。

 (イ) パークスの立場から考えると、彼が官軍側の江戸攻撃は好ましくないと考えていた としても、パークス自ら積極的に西郷に圧力をかけてはいない。その理由は2つある。
  ①  木梨たちがパークスのところにやって来たのはパークスにとっては偶然であり、
両者の接触はパークスの意思によるものではない。
  ②  パークスが、官軍側の実質的な責任者が西郷であることを知ったのは17日以降
である。それは、8月号の「ハモンド・ペーパー」ですでに述べた通りである。

 (ウ)これが西郷との会談のための勝の事前工作であったか否かは、以下の理由により
あり得ない。
  ①  6月号と7月号で既に論じた(「パークスの圧力」(サトウ・ルート))により、勝は事前にサトウに会っていない。
  ② 横浜での木梨・渡辺とパークスの面会時、サトウは江戸に居てこの面会に同席していない。
  ③  面会に同席したサトウ以外の者が、横浜から馬を飛ばし、渡辺が西郷に知らせた
  と同時に、すでに薩摩屋敷に来ている勝に知らせることなどあり得ない。
  ④ そもそもこの面会は、木梨・渡辺の方からパークスを訪ねたものであるから、あらかじめパークスに「圧力」を要請しておいても、それが西郷に伝わるという保証はない。
 
【3.テレビ放映】
 例によって、テレビ報道はこの「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)をどのように扱っているか見てみよう。BS-TBS2015年11月13日の「THE 歴史列伝」の「江戸無血開城 勝海舟」は以下のように解説している。≪実は、すでに薩長にはイギリス公使から「戦争をやめるべき」という強い抗議が来ていて、西郷はすでに強硬策を取れない状況になっていたのだ。勝の水面下での工作が効いたと言われている≫。余りはっきり述べていないが、イギリス公使からの強い抗議が、「勝の水面下の工作」と言っている。

 BS-日本テレビ2015年12月10日「歴史捜査」の「幕末のネゴシエーター勝海舟」
は、さらに明確に述べている。≪パークスは、慶喜公は抵抗していないのに戦争とは何事か、と非難。新政府軍の行動は国際的なルールに違反しており、江戸で戦争になれば、イギリスの駐留地を守るため、軍を動かすことを匂わせたのだ。このことはその日のうちに西郷にも伝わったと言われている。パークスは勝とサトウの意思を汲み取り圧力を掛けたと考えられるのだ≫と。つまりパークスはサトウを通じ事前に勝から言われていたため、木梨たちが訪ねてきたとき、その「意思を汲み取り圧力をかけた」と言っている。いずれの番組も、「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)は勝の工作と主張している。

【4.学者・作家の説】
 以上を踏まえて、学者・作家の説をいくつか見てみよう。
 (1)田中惣五郎 『勝海舟』  既論考の「サトウ・ルート」で紹介したように、田中は3月9日にサトウと勝が会っていると誤った解釈をしている。そのため、木梨がパークスを訪問した時の事情を西郷に報告したとき、≪この事情(木梨の報告)に直面し、勝の口添が利いたためでもあったらう≫と言っているが、勝の口添など、この時点で届いているはずはない。≪4月5日大久保(利通)へあて、「横浜より薩道(さとう)(アーネスト・サトウ)、書面を以て、英国公使面会致したく候間、是非立寄りくれ候様申し来たり候につき、駿府へ到着の日に相達し候故,定めて勝などよりも外国人へ手を入れ……」≫と書いてあるが、西郷が「勝の外国人への手入れ」があるかと想像し、パークスに説明に行ったのは3月の28日である。勝がパークスを訪問したのはその前日27日である。いずれも西郷が京都に行き朝廷の最終決裁を得た20日以降の話である。

 (2)江藤淳 『海舟余波』 ≪ところで勝安房守は、おそらく事前に木梨・パークス会談がおこなわれることを知っていたものと思われる。3月13日の西郷との第一次会談を儀礼的なものにとどめ、本会談を翌日に持ち越したのは、並行しておこなわれている木梨・パークス会談の結果をたしかめてから西郷との談判にあたろうとしたためにちがいないからである≫。これは、「サトウ・ルート」で既述したように、3月9日に勝がサトウに会っていると錯覚しているために起こった誤った論理構成である。

 (3)石井孝 『戊辰戦争論』 ≪おそらく、13日パークスと木梨との会見が行われるのを知っていた勝は、西郷との本格的な会見を14日にのばしたのであろう≫。これも江藤淳と同様誤った解釈である。

 (4)海音寺潮五郎 『江戸開城』 ≪渡辺清左衛門が品川に着いたのは午後2時ごろであった。すぐ西郷の陣屋に行き、パークスとの応対のことを報告した≫。渡辺清(清左衛門)が西郷に、勝との会談前にパークスの要請を伝えていることが記されているが、サトウと勝が会ったのは≪最も確実には3月20日以後ということになる≫と、『サトウ回想録』を正しく読み取っており、そこには勝の工作が入り込んではいないことを示している。

 (5)高野澄(きよし) 『勝海舟』 ≪パークスは、恭順を表明している慶喜を攻撃するのは賛成できないことを西郷に通告してあった。西郷はこのことを海舟に知らせてはいないが、おそらく海舟のほうは、パークスの書記官アーネスト・サトウを通じて知っていたであろう≫。パークスはいつ西郷に通告したと言うのであろうか。せいぜい14日の勝との会談の直前しかあり得ない。ましてそれを勝がサトウから聞いて知っていたというのは、全く荒唐無稽の話である。

 (6)勝部真長(みたけ) 『勝海舟』 まず≪渡辺が品川の藩邸に西郷のもとに駆けつけたのが、「午後2時頃」というのは、翌14日のことであろうと思われる≫と記載している。また≪しかるに最近、萩原延壽氏がアーネスト・サトウの日記に基づいて考証されているところによると(同氏『遠い崖』朝日新聞夕刊808回)、渡辺のパークス発言の報告が西郷に届いたのは、14日の西郷・勝会談の後であろう、ということである≫、≪この辺が、やはり歴史の謎である≫と述べている。すなわち渡辺が西郷に知らせたのが、勝との会談の前であるか後であるかについて、渡辺とサトウのそれぞれの回想録に、相違があると言っているのである。しかし続けて≪勝のほうも、西郷との会談の前には、まだパークスとは会っていないし、パークスが慶喜助命に有利な発言を第三者の立場からしていることは知らずにいたようである。勝がイギリス公使館と連絡が取れたのは、21日になってからである≫と述べており、勝の工作はあり得ないことを主張している。 

 (7)加来耕三 『勝海舟 行蔵は我にあり』 既論考の「サトウ・ルート」で勝が西郷との会談前にサトウと会っていたという説を支持していると書いたが、さらに次のように書いている。≪とすれば、海舟、西郷ともにそんなことは素知らぬ顔の大芝居ということになる。が、それとて共に互いを信頼頼し合える、大人としての間柄であったこその演出であったろう≫。すなわち勝は、直接口には出さず、腹芸で西郷に「パークスの圧力」をかけたと言っている。

 (8)津本陽 『勝海舟 私に帰せず』 ≪3月14日の会見のときの様子を、麟太郎は記している。……麟太郎は、西郷がパークスから牽制をうけていることを知っていた≫(麟太郎は勝海舟のこと)。「パークスの圧力」をどのように利用したかには触れてはいないが、勝が西郷との会見に臨んだ時点で、西郷に「パークスの圧力」がかかっていることを知っていたと解釈している。

 (9)松浦玲 『勝海舟』 詳しく論じられているので少し詳細に紹介する。既論考の「サトウ・ルート」で述べたように萩原の『遠い崖』(7巻「江戸開城」)を引用し、勝工作説を否定している。ここでは、渡辺のパークス面談結果の西郷への報告が、西郷・勝会談の前か後かについてどのように記述しているか見てみたい。≪萩原の判断は渡辺が西郷に報告したのは西郷・勝会談の後だろうとの『仮説』に傾く。私の判断は、渡辺が西郷・勝の会談に同席したという方に傾く。横浜と田町が共に夕刻という必ずしも確定的ではない制約よりも、渡辺の談話が持つ臨場感を採りたい≫と述べている。確定的ではない時間的制約より談話の臨場感を優先するというのである。「講釈師、見てきたような嘘をつき」とはよく言われることであり、渡辺自身も≪記録もありませぬから概略しか覺へて居りませぬ≫と言っているように、30年も前の記憶などかなり曖昧である。

 (10)星亮一 『勝海舟と明治維新の舞台裏』 ≪江戸で戦争を起こすべきにあらずという意見は、駐日公使パークスからも寄せられていた≫。しかし「サトウ・ルート」で述べたように、勝が事前にパークスに会って依頼し、同意を得た、と星氏は主張している。

 こう見ると、いずれも渡辺が西郷・勝会談前に西郷にパークスの意向を伝えた、と述べている。すなわち渡辺の「江城攻撃中止始末」に則った説を展開している。(6)勝部真長と(9)松浦玲の両氏は、渡辺の報告が西郷・勝会談前に西郷にもたらされたか否か両論あることに触れている。しかし勝が、西郷との会談に臨む前に、サトウを通じてパークスに働きかけたという勝工作説を取っているのは(1)田中惣五郎、(2)江藤淳、(3)石井孝、(5)高野澄、(7)加来耕三、(8)津本陽、(10)星亮一の7氏で、(2)江藤淳、(3)石井孝の両氏に至っては、勝が木梨・渡辺とパークスが会うことを事前に知っているがゆえに、本格的な会議を14日に引き延ばしたと主張している。勝工作説を否定しているのは(4)海音寺潮五郎、(6)勝部真長、(9)松浦玲の3氏のみである。

 歴史の真実は多数決という訳にはいかない。飽くまで史実に基づいて判断しなければならない。しかし、多数の間違った説があると、後世、それを読んだ多くの人が、そのまま誤った説を信じて伝えることになる。特に著名な学者や作家などの説となるとなおさらである。中々間違った通説・俗説が改まらない所以である。

【5.結論】
 「木梨・渡辺ルート」は既論考の「サトウ・ルート」とも密接に関連している。学者のほとんどは渡辺清の談話「江城攻撃中止始末」を採用して、西郷・勝会談の直前に、渡辺がパークスの意向を西郷に伝えたとしている。しかしたとえそれが西郷に伝わっていたとしても、勝には時間的に伝わる可能性はない。事前に勝が知っていた、まして勝が工作したとするためには、当然勝とサトウが事前に会っていなければならないが、それは8月19日の論考(2)「パークスの圧力」(サトウ・ルート)により完全に否定されている。

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