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« 山本紀久雄の講演・いわき市の天田愚庵顕彰会(愚庵会) | トップページ | 鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その十三 »

2016年10月25日 (火)

横浜史跡巡り開催する 2016年10月15日例会

   「山岡鉄舟研究会」10月例会『幕末から未来が見える『開港、横浜を巡る』解説

                                          文責:松崎 勇二
                                          補筆:矢澤 昌敏

◇「代官山からノーエ♪」
「野毛の山からノーエ   野毛の山からノーエ
野毛のサイサイ     山から異人館を見れば
鉄砲かついでノーエ   鉄砲かついでノーエ
お鉄砲 サイサイ    かついで 小隊進め」
  作者不詳のこの唄の節回しが単純で、一度聞いたら忘れられない心に響く 『ノーエ節』である。 唄が生まれたのは、文久年代(1861~3年)、一寒村であった横浜が開港によって、異国文化を目の当たりにして大きく変わった様子が人々にとって大きな衝撃的な出来事であった。
  特に、開港間もない居留地は庶民に近寄りがたい華やかな存在であり、その様子を好奇心いっぱいに目を凝らして見ていた。 その様子を、横浜一の高台:野毛山から眺めた様子を唄っている。

◇ お座敷として唄われた 『ノーエ節』
  こうした時代の中、おそらく『ノーエ節』は開港場の歓楽街・港崎(ミヨザキ)遊郭のお座敷歌として、姐さん達に唄われていたのだろう。
  関内の太田屋新田に遊郭を建設することを計画、併せて オランダ公使から遊女町開設の要請があった。
  このため 品川宿の岩槻屋佐吉らが泥地埋め立てから建設まで請け負い、約1万5千坪を貸与されて、開業した。
  江戸の吉原遊郭の構造の遊廓を準備し、外国人の接客は長崎の丸山遊郭を手本にした。 規模は遊女屋15軒、遊女300人、他に局見世44軒、案内茶屋27軒などの軒を並べた。
港崎遊郭(ミヨザキユウカク)は、安政6年(1859年)11月に現在の横浜公園に開業した遊郭であった。
慶応2年(1866年)港崎遊廓の近くの豚肉料理屋の火事(豚屋火事)で遊廓は全焼し、居留地の広範囲に広がった。 この大火を機に慶応3年(1867年)港崎遊廓を大岡川南方に移転し、港崎遊郭跡地の整備は明治9年(1876年)に完成し、外国人と日本人の共用の公園として、「横浜公園」となった。

<野毛へ>

① 神奈川奉行所跡:≪横浜市西区紅葉ヶ丘9-1(県立青少年センター横)≫
  安政6年(1859年)横浜開港時江戸幕府の神奈川奉行所が行われた処。
  東海道と居留地間に位置し、防衛上の要であった。 周辺には役宅、修文館(役人子弟のための学校)、処刑場なども建てられた。
  処刑場は、この奉行所の背後のくらやみ坂に明治の初めの頃まであった。
  神奈川奉行所は、政治、警察、裁判を司る戸部役所と税関に当たる運上所に分かれていたが、後に運上所は居留地に移った。
  明治元年(1868年)明治政府は新たに横浜裁判所を置き、後に神奈川裁判所に改め。横浜裁判所・戸部裁判所とし、運上所ならびに戸部役所の業務を引き継ぎ神奈川奉行所は廃止された。
  その後、神奈川県庁になった。 現在は、県の文化センター、図書館、音楽堂などがある。
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◇ 攘夷の嵐の中での奉行所
 文久2年(1862年)8月21日、幕末を揺るがした生麦事件では惨劇を知った横浜居留地は騒然とし、激昂した居留民が報復を叫び、一触触発状態であったが、イギリス代理行使はこれを抑えて幕府に対する外交折衝で解決を図ることにした。
  事の重大さを知った神奈川奉行所 阿部正外(マサト)は、事件の当事者である薩摩藩の島津久光に下手人の引き渡しや、旅の継続を制止したが、聞き入れずにそのまま 東海道を西下してしまった。イギリスと薩州藩に挟まれ苦慮するところは、既に雄藩をコントロールする実力を失っていた。
その2年後に鎌倉で起きたイギリス士官殺害事件など相次ぐ外国人殺傷事件に、幕府の奉行所として、犯人逮捕や管轄の戸部刑場で処刑するなど深く関与している。
  幕末期は攘夷の嵐の中の奉行所であったと言える。
神奈川奉行所のあった所、現在は県の文化センター。 当時はカエデが多かったことから≪紅葉坂≫など地名が残っている。

② 掃部山公園(カモンヤマ):≪横浜市西区紅葉ヶ丘57≫
 この丘は、明治5年(1872年)横浜~新橋間に鉄道が敷かれた折りに機関車用の水池が設置され鉄道用地であったことから≪鉄道山≫とも言われた。
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 旧彦根藩の有志が、この丘を買い取り、明治42年(1909年)に井伊掃部直弼の開港功績を記念して銅像を建立し、≪掃部山公園≫と名付けた。
しかし、銅像建立に当たり、新政府、旧幕府の歴史の深い溝は埋まっておらず、除幕に事件が発生した。
  当時の神奈川県知事周布(スフ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之介(マサノスケ)である。
  周布政之助は、単純に尊王攘夷派ではなく藩政への責任と過激派の暴走のなかで自殺に追い込まれてし まうが、幕府の開国政策には反対していた。
  井伊直弼は、長州・萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人物で、当然、周布公平も井伊直弼に好感情は持っておらず、こうした因縁から銅像建立は許しがたかった。
  周布公平から除幕式中止が命ぜられたが、旧彦根藩士らは除幕式を強行したが、数日後には銅像の首が切り落されてしまった。
  結局、井伊は桜田門からここ野毛で2度も首を撥ねられてしまった。
  長州藩の執拗なる怨念に、未だ幕末は終わっておらず、歴史は引きずっていたのである。

  銅像は、昭和18年(1943年)戦時の金属回収によって撤去されてしまったが、昭和29年(1954年)開国100年の記念に再建された。
正に、受難の歴史を背負った銅像なのである。
その姿は、正四位上左近衛権中将の正装で、その重量は4tと言われている。公園は、春は花見で賑わい、夏には虫の音を聞く茶会が催される。

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    (松崎氏の解説に聞き入る)

◇井伊直弼
  嘉永6年(1853年)三浦半島の沖合に奇妙な4隻の船がやって来て人々は恐れおののいた。 威嚇射撃を繰り返し、江戸市中を恐怖に突き落とし、強力な武力を背景に幕府に開国を迫った。
  開国か攘夷か250年の徳川基盤も揺るぎ始めた幕末に、幕府の運命を一身に背負いながら開国の道に辣腕を振るったのがこの彦根藩主・大老井伊直弼であった。
  幕政に絶大な権力を奮って、アメリカと修好通商条約を結び、今日の横浜開港の基盤を作った。
  しかし、条約調印に反対する反幕府活動に対して安政の大獄と言われる力での弾圧で攘夷派志士を煽り、大老就任から2年足らずで桜田門で横死した。

□野毛の切り通し:≪横浜市西区宮崎町辺り≫
 徳川幕府は、安政5年(1858年)日米修好通商条約調印の翌年安政6年(1859年)を横浜開港とした。以前からあった保土ヶ谷宿から開港所への道は遠回りのため、東海道の芝生村(現浅間町交差点付近)と居留地の間に幅3間(5.4m)の「よこはま道」を作った。
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 この道は、芝生(シバウ)村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、此処 戸部坂、野毛の切り通しを開き、横浜に繋いだ。工期3カ月の突貫工事で完成した。
  開港当時、東海道から横浜を目指した人々が文明開化の横浜の景色を最初に見ることが出来たのはこの切り通しからであった。 生糸の輸送や開港の地に商売のため移住する神奈川・保土ヶ谷の商人達が良く使ったよこはま道は新開地横浜への主要道路として大いに賑わい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影を僅かに留めるのみである。

◇野毛山住宅亀甲積擁壁:キッコウヅミヨウヘキ(旧平沼専蔵別邸石積擁壁及び煉瓦塀)
≪横浜市西区老松町29≫

 野毛山交差点に向かって切り通した山道跡が、野毛山住宅亀甲擁壁と呼ばれているもので、明治時代の豪商(生糸や米穀卸商として成功)・平沼専蔵【天保7年(1836年)~大正2年(1913年)】邸の敷地があった。
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 建造年代は明治23年(1890年)~明治26年(1893年)と云われている。
石垣の石はやや歪んだ不揃いの六角形の亀甲模様になっているが、これが隙間無く精度良く組み合わされている。
 西洋技術による石垣では、直方体の石を正確に積み上げて行くところであろうが、これは異なっている。
 不揃いの亀甲にすることで、建設の手間は掛かるが、遥かに崩れにくく、地震に強くした、日本の理に叶った見事な技術による石垣に圧倒される思いである。
想像していたよりも高く、しかも長い。

 この平沼専蔵別邸から感じることは、山岡鉄舟が大悟するきっかけを掴んだのは、他ならぬ平沼銀行(現横浜銀行)を設立した豪商の平沼専蔵とのビジネス体験話からであり、それを一言で纏めれば、『損得に拘ったら、物事は却って上手くいかないと云う、心の機微を実践から学び、この実践を通して事業を成功させた』というものであった。
 これに、鉄舟は深く頷き、『専蔵、お主は禅の極意を話している』と言うと、同時に『解けた!』と叫んだのである。
≪「山岡鉄舟研究会」:2010年12月例会の山本会長講演より≫

③ 野毛山軍陣病院跡(官軍病院):≪横浜市西区老松町27
(現横浜市立老松中学校)≫

◇病院開設の背景
 慶応3年(1867年)に行われた大政奉還によって慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いから明治2年(1869年)5月18日の五稜郭の戦いまで討幕派と旧幕府軍の戦い、戊辰戦争が起きた。
  鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利を納め、錦の御旗を背景に東征軍として東に戦いの舞台を移し、上野 戦争、宇都宮戦争、更に会津若松へと戦線は東へ拡大していった。
この戦いによって、両軍、数多くの死者・負傷者が出ており、その手当てが必要となり、官軍側は時の東 征大総督有栖川宮熾仁(タルヒト)親王命で慶応4年4月17日、野毛町林光寺下の修文館に、官軍藩士の負傷者を治療するため横浜軍陣病院を開設し、官軍側の専用病院となる。
  この病院の主な目的は、奥州若松、白河、棚倉、今市、相州小田原など戊辰戦争で負傷した新政府軍兵士の治療であった。
  負傷者は、開院前に7名が来ており、以後負傷者はうなぎのぼりに増え、9月には負傷者数は207名にも達している。
  患者数は増加の一途を辿り、収容限度を越え、横浜軍陣病院として改修した野毛の修文館だけでは収容しきれず、野毛山下の太田陣屋の伝習長屋も使用された。

◇医官ウィリアム・ウイルスの活躍
 イギリス公使館パークスの斡旋で駐日イギリス公使館の医師ウィリアム・ウイルスは外科病院の責任担当者として任命され赴任する。
  搬送される負傷者は銃創が多く、当時の日本医学は銃創(ジュウソウ)を治療する技術が未熟であったため、 医官ウィリアム・ウイルスが各地の戦いで負傷し、軍陣病院に入院した藩士治療にあたった。
  銃創とは、鋭器損傷の一種であり、銃弾が高速で人体を侵襲(シンシュウ)するだけでなく火薬、ガス等も関与し、独特な成傷機転をもつものである。
治療は、クロロホルムを使用して手足を切断するなど本格的な外科手術を行われるなどウイリスの活躍の場となった。
 此処には、ウイリスの他、イギリス公使館医師など数名が働き、日本側の医師団も頭取、次席医、御傭医、御雇手当、各藩医、見習医からなり最多時は60名を越えたと言われている。
 その治療成果は、目覚ましいものの、一方では亡くなる者も多く、薩摩藩の23名を筆頭に、長州6名、土佐6名 因州6名その他12名となっている 。長州、土佐両藩の死者は、久保山墓地に葬られている。
  戦いの終局時期に会津若松城の落城が近づくと軍陣病院は江戸下谷泉橋の津藩邸へと移転して行き、これが旧幕府の医学所を含めて大病院となり、やがて東京大学医学部へ発展して行く。

◇終戦と共に閉幕したが、新病院として当地へ
  横浜の軍陣病院は、この大病院の分院となり、軍関係以外に一般の人々も受け入れ治療したが、戊辰戦争が終了した明治2年(1869年)には、その役割も終わり、遂に閉鎖となる。

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 現在の老松中学校(上写真)は、官軍の横浜軍陣病院があった所である。
 当時の官軍側の病院が此処、横浜軍陣病院が治癒にその役割を果たしていたが、一方では旧幕府軍の病院は神田泉橋御徒町の医学所と浅草稍福寺が挙げられる。

◇医官ウイリアム・ウイルス
  アイルランド生まれ、文久元年(1861年)駐日イギリス公使館の医師で25歳で来日した。
  巨大な体躯の持ち主であったようであるが強い義務観念の持ち主として、イギリス公使館パークスの斡旋で外科病院の責任担当者として任命され、軍陣病院で活躍した。
病院勤務に飽き足らず戊辰戦争の最前線たる東北戦争にも従軍し、 越後高田、柏崎、新発田、会津若松と足を延ばし、我が国の軍医を指導すると共に戦傷者の治療を敵味方の区別なく当たった。
  我が国の西洋医学の導入に一役買った人物の一人である。

◇当院で亡くなった一人:薩摩藩「益満休之助」
 慶応3年(1867年)12月、幕府軍により江戸:薩摩藩邸(芝本亭)が焼き討ちにあった時、浪士隊の江戸撹乱工作を指揮していた益満は捕虜となったが、勝海舟に保護され、九死に一生を得た。
 翌慶応4年(1868年)3月、東征軍が江戸に迫っている時、益満は勝の計らいにより、幕府側の使者・山岡鉄舟を駿府に先導して、西郷隆盛との会見を実現、江戸開城の露払いの大役を果たしたことでも知られる。
 

 益満は、再び薩摩に戻り、上野戦争で亡くなる、数奇な運命の持ち主である。
その益満は、上野戦争で右脚の脛辺りに銃弾を受け、テタニュス(破傷風)に罹る。益満の負傷は、致命傷ではなかったが、不運にも傷口から破傷風菌が入って死亡した。不忍池近くの加賀藩邸(現・東京大学)周辺は、破傷風菌が多いことで知られ、当時は破傷風の治療法が、未だ無かったと云われている。

 負傷した当時の益満は、神田小川町の野戦病院(旧幕府の講武所跡)に収容された。西郷隆盛は、益満の負傷を知って、大変心配し、配下の小荷駄(コニダ)方(物資・兵糧係)に、その収容先を探すように命じた。益満は、特別待遇で治療させようと、横浜の軍陣病院に搬送されたが、手の施しようが無く、収容後の2日後、息を引き取った。慶応4年5月、享年28歳。
 戦闘の激化と併せ、負傷者が続出する中で、益満も負傷した一人であったが、西郷の益満に対する扱いの高さは、特別であったことを物語っている。

 益満休之助の眠る墓所は、薩摩藩島津家の江戸における菩提所:曹洞宗 泉谷山 大圓寺(東京都杉並区和泉3-52-18)にある、幕末から明治にかけての戦争で亡くなった薩摩藩の犠牲者のために建てられた墓碑「戊辰薩摩藩戦死者墓」の下部に、その名前が見られることに驚かされる。

④ 野毛山公園:≪横浜市西区老松町63-10≫
 幕末に横浜に来た一角千金の夢を追う、生糸売込問屋が横浜開港で潤い、生糸の取扱いで日本の主要貿易品となった。事業家として財を成した平沼専蔵や原善三郎や茂木惣兵衛といった明治期の横浜の豪商が此処、見晴らしの良い高台に邸宅を構えていた。
関東大震災によって周辺一帯は壊滅したが、その後の復興事業として旧野毛山貯水池や病院などの跡地と共に公園として整備された。野毛山公園は日本庭園・西洋庭園・折衷庭園の三つの様式を持つ公園として大正14年(1925年)に着工、その翌年に開園している。
 第二次大戦中は、この場所を陸軍が使用し、戦後は、米軍に接収されていたが、接収後に動物園や児童遊園が造られ、市民の公園として親しまれている。

□横浜開港の先覚者:佐久間象山之碑
 野毛山公園の一番高い台地に横浜開港の先覚者:佐久間象山の碑が昭和29年(1954年)、開国100年を記念して建てられた。
  佐久間象山は当時、清国の阿片戦争など列強の侵略を背景に海防に心を砕き、列強に劣らぬ洋式軍備による海防策と国防の面からも適地として横浜開港を主張していた。
黒船来迎時、神奈川宿周辺の警備に松代藩が命じられ、象山も赴任しており、縁の地でもある。
  野毛山に建つ井伊大老像共併せ、横浜開港に関わる一人として佐久間象山があり、顕彰碑には以下が書いてある。

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安政元年(1854年)米国の使節ペリーが来朝のおり、松代藩軍議役として横浜村にいた佐久象山先生は、当時の思想家であり、また熱心な開国論者であった。 先生は日本が世界の先進国から取り残されることを憂え幕府の要路に対してしばしば欧米諸国との通商交易の必要なことを献策した。 また、その開港場として横浜が最適地であることを強く主張し、幕府の決意を促して、国際港都横浜の今日の発展の諸を作った。 不幸にも先生はその後京都に遊説中攘夷派刺客の兇刃のために木屋町三條で客死した。 時に、元治元年(1864年)7月11日のことであった。 本年はたまたま開国百年の記念すべき年に当たるので、われわれ有志相はかり、その功績をたたえるためにここに顕彰碑を建て、永く後世に伝えることにした。
                         昭和28年10月1日
                          佐久間象山顕彰会
                        横浜市長 平沼亮三 書

◇象山の予言
  彼は、国防の近代化を痛感し、幕府の門戸を閉ざした鎖国に対して開国を訴えたが、取り上げることはなかった。そのうちに黒船が来航し、幕府はもとより国全体が狼狽する衝撃を与えた。「だから言ったじゃねえか」とでもつぶやいたのであろうか、象山がこの日を予言していた。
威嚇を前に、ようやく幕府も目覚め洋式軍備による海防策を論じるようになった

□野毛山公園から
 佐久間象山の碑を見て、野毛の吊り橋を渡り、野毛山配水池に出る。 
 石畳と芝生の植え込みが一面に敷かれた広々とした空間に出る。海側に展望台があり、其処から海側の景色を見る。
 みなとみらいで開発された296mのランドマークタワーやショッピング街、ホテルなど高層建築で埋めつくされ、かっては足元までに広がって見えたであろう海の姿はビルの影に埋まってしまった。
  井伊直弼や佐久間象山が描いた開国の夢が、こんな巨大な横浜に変わってしまった。
  海側を辿って行くと従来の港の見える丘公園、山下公園、大桟橋に加え、新たに三菱重工業の敷地が開放され、みなとみらいとして、更に懐の広い横浜に変わってしまった。

<関内へ>


⑤ 吉田橋(関門跡):≪横浜市中区伊勢佐木町1-2≫
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安政6年((1859年)の開港当時、木の橋が架けられていた。
  橋の袂に浪人と外国人の間に不祥事を防止するために関門が設けられ、それを境に関内、関外と言う呼称が生まれた。
  幕府は神奈川宿からこの関内まで関所・番所それぞれ10数カ所設けて警戒した。
この吉田橋を渡るのに鑑札を必要とし、元治元年(1864年)にはこれらの警備隊は太田陣屋を本営として、定番(じょうばん)が700人下番(かばん)は1,300人という大きな人数で警備していた。
明治2年(1869年)英国人工兵技監にして建築家(日本灯台の父)リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計によりトラス構造の無橋脚の鉄の橋にかけ替えられ「かねの橋」(「鉄」と「金銭」をかけて)として知られた。
橋長約24m、幅約9mの日本最初のトラス鉄橋である。
  明治44年(1911年)老朽化により我が国最初のカーン式鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。
  現在の橋は、「かねの橋」を模して架け替えられた。

◇吉田橋で獄門
 横浜で相次ぐ外国人殺傷事件に備えイギリス・フランスの軍隊が駐在していた。
  元治元年(1864年)イギリスの駐屯軍兵士2人が鎌倉から江ノ島に遊興で出掛けた折、2人の浪人に襲撃され、1人は即死、1人は夜半亡くなった。生麦事件の2年後に起きた事件であった。
 他の強盗事件で捕まった犯人の供述から、外国人襲撃の犯人を割り出すことが出来た。
犯人は清水清次で、事件後1カ月で千住の遊廓で捕縛し、戸部の牢屋敷まで護送し、横浜市中を引き回し、処刑され、その首は吉田橋の袂で晒された。
 清水は武士の姿を装った25歳の浪人で、横浜開港以来物価が騰貴し、生活が苦しくなったのは夷人と信じこみ、犯行に及んだ。
 他の1名は清水とたまたま道ずれになった講所出役の中小姓で住み込んでいた、間宮一と言う18歳の若者で事件後10カ月後捕縛され、横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、清水と同様、吉田橋の袂で獄門にかけられた。
  全権公使ハリーバークスは鎌倉事件の総てが解決したことを本国政府に報告し、激しい攘夷の嵐も漸く治まったと言われている。・・・歴史読本'78 「幕末外人殺傷事件」  岡田章雄から引用:

 このように攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあったのである。
 居留地と外部を結ぶ接点が此処「吉田橋」で交通の要路として武士、町人が絶えず行き交う、人並みが絶えなかった。
  現在でも横浜の中心街の一つとして、伊勢佐木町とJR関内や馬車道方面を結ぶ橋で車とも併せ、人通りの激しい場所である。 吉田橋から欄干越しに見下ろすと、下写真のように網が貼られ、長閑な川に非ず(アラズ)猛烈な勢いで車が走る高速道路であった。

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◇関内の由来
 安政6年(1859年)に、≪日米修好通商条約≫(安政の五カ国条約)によって、横浜に設置された。
 開港場の区域を「関内」と呼んだことに由来し、住所表示上の正式地名としての「関内」という地名はなく、そういう名称の駅があるのみで、その界隈を「関内」と呼んでいるだけである。
 横浜市中区にある大岡川、首都高速横羽線、中村川と海に囲まれた地区を示す通称で、国土交通省の都市景観100選にも選定されている。
  かって関内周辺は海であり、現在の大岡川と中村川に囲まれたい一帯は入り江があり、江戸時代にこの入り江は≪吉田新田≫として埋め立てられ、現在のような陸地となり、更に海側の関内地区は横浜新田や太田屋新田が埋め立てにより造成された。
 江戸末期に、アメリカから開港を要求され、当時「神奈川」の隣町であり、それまで寒村であった「横浜村」を神奈川の一部と称し、この地を開港した。
当時の幕府が、東海道の宿場町であり、栄えていた「神奈川宿」に外国人を入れたくなかったためと云われている。
 万延元年(1860年)に幕府は、「神奈川宿」から「横浜村」へ道(横浜道)や開港場を作り、今までの川に加えて掘割りと川で区切り、その間にある大岡川の分流「吉田川に「吉田橋」を架け、その橋に関門と云う関所を設け、その関所を通らなければ横浜(関内)には行けないようにし、他の全ての橋にも関門を設けた。
 その関門の内側を「関内」、そして外側(伊勢佐木町や吉田町など)は「関外」と呼ばれた。
  これらの地区の道路は、碁盤の目状に整備され、町名や古来からのものではなく、埋め立てに関わった人物に因むものの他、埋め立てた当時の謡曲や百人一首から取られた綺麗な町名、縁起の良い町名(瑞祥地名)が多くつけられている。
≪参考文献:「横浜開港資料館」「関内新聞」の資料より≫

<元町へ>

⑥ フランス軍駐屯(フランス山):≪横浜市中区山手町114≫
 幕末時代から明治時代まで「フランス軍」が駐屯していた場所として≪フランス山≫と名付け、「フランス軍」が撤退した後、その跡地に領事館を建設しようと考えたフランス領事は、その旨本国に提案するものの、紆余曲折があって、やっと建設に着手できたのは、明治27年(1894年)にフランス人建築家:サルダ【弘化元年(1844年)~明治38年1905年)】がフランス領事館を設計・建築し、明治29年(1896年)に「極東一の素晴らしい名建 築のひとつ」」(フランス領事から本省宛報告書)が完成した。外観からも煉瓦造りの2階建てのフランス領事館は華麗な意匠の堂々としたものだった。だが、領事館と領事官邸は、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊してしまった。
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 その後、昭和5年(1930年)に、スイス人建築家:マックス・ヒンデル【明治20年(1887年)~昭和38年(1963年)】の手によって、倒壊した領事官邸が旧領事官邸跡に再現されたが、昭和22年(1947年)の不審火により全面焼失してしまった。マックス・ヒンデルが建築した領事官邸の構造は、建築家:サルダが建築したものと違って、1階部分が煉瓦で造られ、2階・3階は木で造られていたため、火が回るのが早かった。今現在は、港の見える丘公園の中の一区間のフランス山にフランス領事館跡地が残っている。
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 今現在の在日フランス大使館(フランス領事館)は場所を転々として、東京都港区南麻布4-11-44に場所を移動している。
 また、フランス領事館遺構の傍に風車が建っているが、これはまだフランス領事館が建っていた頃に、井戸水を汲み上げるために用いられたものである。
 当時の山手は、まだ上水道が出来ていなく、経済面のことを考え、井戸水汲み上げ用の風車が出来たとされる。
≪インターネット:「タイムスリップよこはま」より抜粋≫

⑦ 港の見える丘公園:≪横浜市中区山手町114≫

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⑧ イギリス軍駐屯(イギリス館):≪横浜市中区山手町115-3≫
 開港3年目の文久2年(1862年)薩摩藩の総勢400人の大名行列が東海道生麦村に差しかかる時に馬で行く4人連れのイギリス人が行列に混入する。
 激怒した薩摩藩士から、リチャードソンが斬られ絶命し、他の3人も負傷を負いながら、居留地に逃げ帰った。
 外国人殺傷事件は、「生麦事件」と言われ薩摩に賠償を求め、イギリスは艦隊を送り込み薩英戦争まで展開、薩摩は近代化されたイギリスの前に破れる。
更に、元治元年(1864年)攘夷で外国船に砲撃した長州藩を四カ国連合軍が下関を報復攻撃し完膚なまでに叩き、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。
 文久2年(1862年)に起きた生麦事件の翌年文久3年(1863年)には居留民保護の名目で、フランス海兵隊が、現在の「フランス山」周辺へ、イギリス軍も現在のイギリス館、周辺へそれぞれ駐屯した。イギリス軍の第20連隊であることから「トワンテ山」と呼ばれている。
 幕末から明治初期にかけて「港の見える丘公園」は、フランスとイギリスの軍事拠点だった。
 当初は英仏の軍艦に乗り組んでいた水兵が居留地の警備に当たっていたが、元治元年(1864年)四カ国連合軍が長州に出航する頃、横浜に駐屯していた地上部隊の兵力はイギリスが陸軍1,200名、海兵隊300名、フランスは海兵隊が300名と併せて1,800名にも及んだ。
 こうした防衛の中で居留地に居た一般人は僅か309名に過ぎなかった。
 山手の屯所でイギリス軍は、今の「港の見る公園」一帯にThe North Campとその隣にThe South Campの陣営が、フランス軍はThe North Campに接する谷戸橋側の断崖上に位置する(現在のフランス山)に設けられた。
 イギリス軍の使用地は19,189坪、兵舎の建坪は4,593坪。
 フランス軍の使用地は3,042坪、兵舎の建坪は119坪であったと言う。
 駐屯軍はその後、明治8年(1875年)に二カ国同時撤退するまで12年間、山手に留まっていた。

1                     (イギリス館)

⑨ 横浜外国人墓地:≪横浜市中区山手町96≫
「黒船」四隻を従えたペリー提督は、嘉永6年(1853年)三浦半島の久里浜に上陸して幕府に、米国大統領:フィルモアの国書を渡し、開国を迫りました。

翌安政元年(1854年)ペリーは、開国交渉のため、7隻の艦隊を組織して、再び来日しました。この時、艦隊の中の1隻:ミシシッピー号の乗組員:ロバート・ウィリアムズという二等水兵が墜死し、この水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地を、幕府に要求した。

Img_0047_2
 
協議の末、幕府は横浜村の増徳院(現在の元町一丁目から入った所にあったが大震災で全焼した)の境内の一部を提供することにしました。ペリーの要求した「港の見える地」という条件にも合い、ウィリアムズは此処に埋葬されました。これが、横浜山の手の外国人墓地の始まりとなります。
 日米和親条約によって、伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、ウィリアムズの遺体は、この3カ月後に、此処に移されました。現在、玉泉寺にはペリー艦隊の日本遠征中に死亡した水兵らアメリカ人5名、ロシア人3名が埋葬されています。
 横浜開港後の安政6年(1859年)に、攘夷派の武士に本町で殺害されたと見られるロシア使節:ムラビヨフの艦隊乗組士官:ローマン・モフェトとイワン・ソコロフの2人が、増徳院に隣接する地に埋葬されました。これらの墓は、現在の22区(元町側通用門・ルゥーリー記念門付近)に当たり、外国人墓地として、諸外国に貸与された最初の墓区となって行きました。
Img_0052_2


Img_0050_2 (チャールズ・リチャードソンの墓)

 開国が進み、来日する外国人が増加すると共に、日本で亡くなる外国人も増えて行きました。このため、増徳院の外国人埋葬地と日本人埋葬地は区別が付きにくくなり、文久元年(1861年)に外国人専用の墓域を定めるために日本人墓地が移転されました。現在の元町側通用門付近の墓域が、この時定められた外国人専用のもので、薩英戦争の原因となった文久2年(1862年)9月の「生麦事件」の犠牲者:チャールズ・リチャードソンの墓などが最も古い区域となったのです。この後、文久3年(1863年)10月のフランス陸軍:アンリ・カミュ少尉殺害の「井土ヶ谷事件」、元治元年(1864年)11月のイギリス陸軍:ジョージ・ウォルター・ボールドウィン少佐とロバート・ニコラス・バード中尉が殺害された「鎌倉事件」と続きますが、次第に殺害事件は治まって行きました。
 

元治元年(1864年)≪横浜居留地覚書き書≫が、幕府とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの各国公使との間で締結され、墓域の拡張が認められることになり、増徳院の上の高台に、新たに一区域が設けられました。更に、慶応2年(1866年)横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書は締結され、ほぼ現在の墓域まで拡張されました。
(公益財団法人横浜外国人墓地:「資料館建設計画」及び「横浜外国人墓地に
 ついて」より抜粋)

⑩ パンの発祥地「ヨコハマベーカリーウチキ商店」:≪横浜市中区元町1-50≫
  パンの元祖とは、以下の通りである。

                                                           
 

種  類

 
 

始  祖

 
 

店  名

 
 

場  所

 
 

時  期

 
 

兵糧パン

 

(ビスケット)

 
 

江川太郎左衛門

 
 

 

 
 

伊豆韮山

 
 

天保13年

 

(1842年)

 
 

大型型焼食パン

 
 

ロバート・クラーク

 
 

ヨコハマ

 

ベーカリー

 
 

横浜市中区

 

山下町129

 
 

文久2年

 

(1862年)

 
 

フランスパン

 
 

内海 各蔵

 
 

冨田屋

 
 

横浜市中区

 

北仲通1丁目

 
 

慶応2年

 

(1866年)

 
 

あんぱん

 
 

木村 安兵衛

 
 

木村屋

 
 

東京 銀座

 
 

明治2年

 

(1869年)

 
 

クリームパン

 
 

相馬 愛蔵

 
 

中村屋

 
 

東京 新宿

 
 

明治34年

 

(1901年)

 

 日本にパンがやって来たのは戦国時代だそうだ。種子島(鉄砲)と一緒である。そう云えば、「パン」はポルトガル語のPãoだった。然し、日本の食事としては定着しなかった。再び、日本のパンの歴史が動くのは、江戸時代末である。
幕臣:江川太郎左衛門【享和元年(1801年)~安政3年(1856年)】が、初めて堅焼パンを焼き、パン祖と云われるようになった。
この堅パンは、西洋兵学と共にもたらされた保存食であり、ビスケットのようなものである。
 私たちが「パン」という言葉から想像するものに近いものを、最初に焼いたのは内海兵吉で、万延元年(1860年)のことだった。フランス軍艦乗組みのコックから手ほどきを受けたと云う。内海は、「冨田屋」を開業した。
 続いて、横浜で外国人がパンを焼き始める。文久元年(1861年)には、アメリカ人のW・グッドマンと、ポルトガル人のフランク・ホセが相次いで、横浜にベーカリーを開業。
元治元年(1864年)、グッドマンは一時帰国することになり、イギリス人のロバート・クラークに店を預けた。そのクラークが独立し、慶応元年(1865年)に開業したのが、「ヨコハマベーカリ」だ。

   「ヨコハマベーカリ」の名物が「イギリスパン」だった。いわゆる食パンである。型に入れて、ふんわりと焼き上げる(上に蓋をしないので、山型になる。アメリカ人は蓋をして、四角形にした。)明治政府は、文明開化にあたり、イギリス人を重用したため、「ヨコハマベーカリー」のパンは重宝がられたに違いない。この店で修業したのが「打木彦太郎」で、明治21年(1888年)に暖簾を継ぎ、「ヨコハマベーカリー宇千喜商店」を開業した。現在も「ウチキパン」として暖簾が続いている。
≪参考文献:「ヨコハマベーカリー宇千喜商店」HP、横浜開港資料館「横浜もののはじめ考」斎藤多喜夫著「パン」(1988年)他より抜粋≫

◇ 国際港都の歩み(幕末から未来が見える)
  半農半魚の一寒村であった横浜が安政5年(1858年)日米通商条約の締結で諸外国との貿易が決定し国際港都に生まれ変わる。各地からの移住者も増え、商人、職人、運搬、建設など多種など横浜は巨大な都市へ変貌して行く。
開港当初は外国人居留地と日本人の住まいと拡大していくが慶応2年(1866年)の大火で市街地として整備される。
その後、丘の上に多くの洋館が建ち並ぶ。居留地の貿易取引が拡大し、巨万の富を生み、岩崎、三井などの豪商と肩を並べる程の貿易商が中核として発展して行く。
  外国人との接触から、西洋の技術、文化がドット流れ、『日本で最初と言われる』物が横浜から誕生、独特の異国情緒を含めた文化を持つ巨大な都市に街ぐるみ、賑わいを見せる。

                                                                       以 上

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