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2016年9月

2016年9月26日 (月)

2016年10月例会は「横浜史跡巡り」です

201610月は史跡巡り

 

  開催日 1015()・・・企画内容6月に掲載済み

 

 内容  「幕末から未来が見える開港:横浜を巡る」

      「日野宿本陣」ガイドの松崎勇二氏に、お願いいたし、横浜野毛に見る

「開港の足跡」をご案内いただきます。

 

201611月例会

 開催日 20161116()

場所  東京文化会館・中会議室1

会費  1500

時間  1830分~20

発表者 山田恭久氏(窪田清音

昆孫

(

こんそん

)

・・・(注記 昆孫とは六代後の子孫)
テーマ 「幕府講武所頭取・窪田

清音

(

すがね

)

とその門人」

2016年9月例会開催結果

9月は永冨明郎氏から「NHK大河ドラマ『真田丸』に絡めて

「真田に見る戦国から江戸への移り変わり」

  をご発表いただきました。

  いつもながら体系的に検討整理された内容に、参加者一同「成る程」と納得し理解いたしましたが、この内容を記録化するのは困難のため、永冨氏にご依頼し、ご多忙の中、「要旨版」を作成お願いいたしましたので、以下、ご案内申し上げます。

「真田一族に見る戦国から江戸への移り変わり」
永冨明郎氏 2016年9月21日 山岡鉄舟研究会例会発表要旨

1) 真田三代の役割
  

 真田氏の中興の祖、幸隆(信繁の祖父)は武田軍団に加わって真田の基礎を成した。
  その息子・昌幸は戦国末期の波乱の時代に、真田の独立を成し遂げた。
  その息子に信幸(のち信之)と信繁(幸村)があったが、信幸はいわば真田の「家」を江戸期を通して残した。一方の信繁は華々しい戦場での活躍により、真田の「名」を遺した。

2) 真田一族の発祥と歴史への登場
 

 真田一族は上田市の北東部、千曲川の支流・神川が形成した扇状地一体が発祥の地である。
 

 古代から上野(現・群馬)から東信州を支配した滋野氏の下に、上田盆地周辺を領有した海野氏があり、この海野氏に仕えるのが真田家だった。
 

 天文10年(1541)、この上田盆地(海野平)に北信の村上義清が攻め込み、海野一族は滅亡する。その一武将だった真田幸隆も流浪の身となる。
 

 10年後、甲斐から武田信玄が信州攻めをする。幸隆はその動きにいち早く乗って、やがて武田軍団の一員として認められる。
 

 天文22年(1553)、幸隆は三男の昌幸(この年7歳)を人質として信玄のもとに差し出す。昌幸は以後20数年間、信玄の小姓として、後には勝頼の片腕として、帝王学、戦略戦術、人間眼を養うことになる。

3) 武田家の崩壊から独立路線へ
 

 それから20年近くの天正元年(1573)、信玄は京を目指す途上で病死する。この報に勢いづいた織田・徳川連合軍は反攻を開始する。
 

 信玄の死から2年後の天正3年(1575)、長篠で織田・徳川連合軍が武田軍を破る。以後、武田家は自壊の一途をたどる事になる。
 

 一方、真田家では、この戦いで当主の信綱以下を亡くす。急きょ、昌幸が上田に戻り、真田家を継ぐことになる。以後、上田から沼田に至る吾妻街道周辺の支配を強める。
 

 長篠の合戦以後、更に勢いを得た織田・徳川連合軍は甲斐、信濃への侵攻を強め、遂に激動の天正10年(1582)を迎える。
 

 3月に武田勝頼が自刃して武田家が滅亡するが、その3ヵ月後には織田信長が本能寺の変で落命、以後、更に混沌とするなか、真田昌幸は上田周辺の地歩を固め、次第に小さいながらも独立路線を目指す。
 

 天正11年には千曲川のほとりに上田城の築城をする。旧武田軍団のなかで唯一なびいてこない真田に対して、徳川は上田に兵を差し向ける(第一次上田合戦)。
 

 これを凌ぎきった昌幸は、中央で支配力を強めつつある羽柴秀吉に接近し、次男の信繁(この年20歳)を出仕させる。以後10数年間、信繁は秀吉の元で中央の動向を見ることになる。

4) 秀吉の天下取り
 

 羽柴秀吉は着々と地方勢力を討伐し、天正14年(1586)には朝廷より「関白」の地位を得て天下人の第一歩を踏み出す。
 

 その後、九州攻めも行った秀吉は、天正17年(1588)春の時点でふたつの課題を残すのみとなる。第一は関東の北条氏がまだ臣下の礼をとってこないこと、そして東北の雄、伊達政宗が沈黙している、その二点だった。
 

 その北条氏は、真田昌幸が実効支配していた沼田城の扱いを巡って、勝手に兵を動かす挙に出る。秀吉は前年に発した「惣無事令」に違反したと、全国大名に小田原攻撃を命じる。つまり真田昌幸が小田原攻めの原因作りにひと役買ったのである。
 

 天正18年(1589)7月、四ヶ月の篭城で限界となった北条氏は、氏政、氏直親子の切腹で滅亡することになる。
 

 この結果、北条氏が支配していた北関東から房総までの広大な空間に、徳川家康はじめ多くの旧武田軍団を転封させる。秀吉はこれを密かに「鉢替え」と称し、領民との数世代に及ぶ信頼関係も分断させる、事実上の「兵農分離」を進めることになる。
 

 その中、真田氏だけは最大限の厚遇を得る。上田は昌幸の支配を安堵され、加えて問題となった沼田は長男・信幸に与え、信幸を独立させて大名に取り立てることになる。
 

 いまひとつの懸案であった伊達政宗も小田原包囲中に参上して臣下の礼をとり、ここに秀吉の天下統一が完成する。

5) ポスト秀吉=関が原の合戦
 

 晩年になってようやく後嗣・秀頼を得た秀吉は、五大老五奉行制を残して、慶長3年(1598)8月、63年の生涯を閉じる。
 

 その直後から、徳川家康の天下への工作が始まる。豊臣家の安泰が最優先とする石田三成はその家康の動きが許せない。
 

 遂に慶長5年(1600)6月、双方の対立が極限に達し、全国大名が東西に分かれて雌雄を決することになる。
 

 真田昌幸、信繁は西軍加担を決めて上田に立て篭もる。一方の長男・信幸はそのまま東軍に加わり、秀忠が率いる3万8千の軍団とともに中山道を西に向かうことになる。
 

 9月5日、上田城を取り囲んだ秀忠軍に対して昌幸、信繁はわずか2千5百の手勢で城を守りとおす(第二次上田合戦)。
 

 攻めきれない秀忠軍はやむなく9月11日に囲みを解き、西に向かうが、関が原の大合戦は既に9月15日の一日で東軍大勝利となっており、これに5日も遅参するという失態をすることになる。

)「関が原」のIF
 

 ①もし豊臣秀頼が出陣していたら?
  (現実には、豊臣家はこの合戦を、部下の徳川と石田との争いと見ており、部下同士の戦に親が出て行くことはない、という考えだった)
 ・石田VS徳川という構図ではなく、「豊臣家VS徳川」という構図、すなわち豊臣総本家に歯向かう徳川家康、という構図となる。
 ・そうなると、多くの秀吉恩顧の大名はすべて豊臣家に付いたはず(現実には三成憎しもあって多くの武断派は家康に付いた)。
 ・そうなると、西軍が一挙に優勢となり、西軍勝利となった?
 

 ②もし西軍が勝利していたら?
 ・西軍側に、天下を治めるだけのカリスマ性を持った武将がいたか?
  (総大将となった毛利輝元も、祖父・元就の遺言「毛利家は天下を狙わず」のとおり、自ら頂点に立つほどの力量はなかった)
 ・その結果、更なる戦乱の世が続いた?
 

 ③それでも、もし東軍が勝利したら?
 ・豊臣家はこの段階で滅ぶ、もしくはなんらかの措置を受け、その結果「大坂の陣」はなかった?

7) 大坂の陣

 慶長8年(1603)2月、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、ここに江戸幕府が開かれる。

 しかし家康はわずか2年で、将軍職を秀忠に譲り、自らは駿府に下がって大御所政治を執ることになる。

 豊臣家はそもそも、天下人は秀頼である、しかしまだ幼いため、筆頭家老の家康に(一時的に)政治を任せているに過ぎない、いずれ秀頼が成人すれば、政権は戻ってくるはず、という感覚を失っていない。その視線を知っていた家康が、それを否定する意味で、早々に将軍職を秀忠に継がせたのである。

 同時にこの知らせは、紀州九度山で蟄居している真田昌幸、信繁親子に失望をもたらす。いずれは何かの折(たとえば将軍の代替わり)に特赦が出ることを期待していたが、なんと継いだのが他ならぬ秀忠であるなら、まず自分たちへは特赦も出るはずがない、と。

 その失意のまま、昌幸は九度山で慶長16年(1611)6月、65年の波乱の生涯を閉じる。

 ちなみに信繁はこの間、3人の妻女を連れてきており、九度山でも合わせて6名の子作りに励んでいた!

 家康にとって唯一の懸念事項は、大阪城に豊臣一族が現存していることである。どうしても自身の目が黒い内に、これを排除しておきたい。

 言いがかりは何でもよかった。そこで方広寺落成に供される釣鐘の銘文に、家康を呪う文言ありとクレームをつけ、結果として豊臣家に謀反の意思ありと、全国大名に大坂攻めを命じる。これが大坂の陣である。

 豊臣家は依然として、秀吉恩顧の大名たちが加勢に来ると思っているが、既に徳川の世になって10数年。恩顧の大名も代替わりが進んでおり、大名はすべて徳川将軍の命に従う。

 やむを得ず豊臣家は、関が原浪人を金で集めるしかなかった。九度山に蟄居する真田信繁にも声がかかり、いよいよ大阪城入りする。

 大坂の陣は慶長19年(1614)秋の「冬の陣」、翌年5月の「夏の陣」の二度の戦となる。

 しかし、所詮は豊臣家の勝ち目はない戦だった。つまり「散り行く者の美学」しかない。後の幸村伝説がこうして生まれることになる。

 慶長20年(1615、この年7月に元和に改元)5月7日、最終決戦が天王寺南の平野で行われ、豊臣側は敗退。その夜、大坂城に火が掛けられ、秀頼、淀殿など自刃して豊臣家は滅びる。

 結果として、多くの(おそらく10万人以上の)関が原浪人のほとんどがこの陣で世をさることになる。これは以後の江戸幕府の統治の上で、大きな意味を持った。

8) 大坂の陣に思うこと;250年後の「江戸城無血開城」との対比

・慶応4年(1868)の江戸城無血開城は、慶喜の意を踏まえた山岡鉄舟、勝海舟らの尽力により、内乱の防止、江戸市中の保全、徳川家の存続が守られた。

・一方、その250年前のこと、豊臣家は大坂城に立て篭もることで、遂に大坂市中を火の海とし、豊臣家は消滅することとなった。そこには、豊臣家(つまりは淀殿?)の「そもそも天下は豊臣家のもの」という時代錯誤の思いが、そのような結果をもたらしたと言える。

・陣の途中、徳川側より再三、和睦条件が提示されていた。

①大坂城を出て大和か伊勢に領地替え、

②雇い入れている多くの浪人の解雇、

がその条件だった。つまり豊臣側には、十分にお家存続のチャンスはあったはずであり、大坂の町を焦土とすることもなかった。

・250年を挟んだこのふたつの事例の違いを、我々はどう理解すればよいのだろうか?

9) 新たな秩序の事態へ=信幸(信之)の苦労

 大坂の陣が集結すると、いよいよ長い戦乱の世から文治の時代に移った。
陣の翌々月から「一国一城制」、「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、「諸宗諸本山諸法度」など江戸期を通して根幹となる制度を次々に発すると、家康は翌年元和2年(1616)4月、75年の生涯を閉じる。

 以後、長く朱子学を柱とした文治の世になる。

 そのなか、上田(約6万石)の信之は松代10万石に転封となる。遂に真田一族が永く親しんだ地を離れることになった。

 しかしその新領地は常に幕府隠密の眼が光っていた。それを承知で信之は領民統治に尽力する。万治元年(1658)、孫を三代目に就けることまで仕上げて、ようやく世を去る。享年93歳。将軍家は既に四代目(家綱)の世になっていた。

 信之の築いた松代真田藩は、その苦労のおかげで江戸期を通して存続し、幕末には稀代の傑物、佐久間象山を輩出することになる。                

 

                                 了

2016年9月25日 (日)

鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その十二

前月で、東北諸藩に共通する欠陥ともいえる、国際情勢を含む変化時流に対する感度の鈍さについて触れたが、この背景には当時の外国情報入手システムも影響していた。
これについて少し補足したい。

徳川幕府が外国の情報を入手するのは長崎からであった。(参照『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』岩下哲典)

長崎に入港するオランダ船は、入港の際、長崎奉行所に「風説書」の提出を義務づけられていた。「風説書」は、オランダ船がどこの港を出帆して、途中どこの国の船と出合ったとか、オランダ本国はどんな様子かとか、そうした海外情報を記したものである。

ニュースソースは、シンガポールなどで発行されていた英字新聞などで、それをオランダ商館長が日本向けに編集して、日本側に手交した。

日本側では、オランダ通詞が翻訳して長崎奉行に提出し、長崎奉行は、江戸の老中に提出した。これらのオランダ語原文と日本語訳の「風説書」を特に「オランダ風説書」と呼んでいる。もちろん長崎には中国船(唐船)も入港していた。この中国船が義務づけられていたのが、「唐風説書」である。

さて、江戸後期になるとオランダ商館長は、「オランダ風説書」とは別仕立てで、一つの事件・事案などに関してさらに詳しく情報を提供するようになる。これを「オランダ別段風説書」という。

オランダ商館長は、一年交替で長崎出島に勤務していた。毎年一回程度やってくるオランダ船に新しい商館長が乗っていて、それまで勤務していた商館長と交替する。このときオランダ船は、幕府、すなわち長崎奉行に対して、乗船員名簿、積み荷目録、風説書、書簡類を提出する義務があった。

乗船員名簿は、キリスト教徒が乗り込んでいないかどうかを点検するために提出を命じられたものであり、積み荷目録は、御禁制品を積み込んでいないかどうか、検査するためである。

さらに、風説書は、いわゆる「鎖国」を維持するために、キリスト教国の船が日本に来ないかどうか、また、ヨーロッパの情勢を判断するために、幕府にとって必要不可欠な情報だったのである。

 また、長崎聞役という存在もあった。主に九州の諸藩が、長崎防衛や長崎における経済活動のために、長崎の各藩蔵屋敷に駐在させていたのが長崎聞役で、長崎奉行所の役人と、諸藩の聞役とは普段から交流をもち、情報を収集し自藩に送致していた。

聞役をおけたのは14藩に限られ、年間を通じておかれたのは福岡、佐賀、熊本、対馬、平戸、小倉の6藩で、これを「定詰(じょうづめ)」といった。

 残りの8藩は薩摩、長州、久留米、柳川、島原、唐津、大村、五島で、オランダ船が来航して出帆する5月から9月にかけて長崎に詰め、これを「夏詰」と称した。

しかし、この14藩以外にも「風説書」や「別段風説書」の内容が漏れ伝わっていた事実がある。それは宇和島藩である。藩主は伊達宗城で蘭学に造詣が深い。宇和島藩は長崎に聞役を派遣することができなかったので、藩士を蘭学修行のため長崎のオランダ通詞に入門させ、情報収集をさせていた。

ということから推察できるのは、宇和島藩以外でも同様の方法で情報収集活動をしていたのではないかと思われ、加えて、親しい他藩主に情報を伝達していたようである。

その事例としては、宇和島藩の伊達宗城が嘉永5年(1852)9月、越前福井藩主松平慶永に、嘉永6年(1853)6月の「ペリー来航予告情報」を書簡で送っている。

長崎奉行所は嘉永5年6月に、オランダ商館長が提出した「別段風説書」によって、翌年の嘉永6年のいずれかの時期に、アメリカ艦隊が来航することを予告されていたが、この事実が伊達宗城から松平慶永に伝わっていたのである。

さらに、このペリー来航予告情報は吉田松陰も知っていた節がある。松陰は嘉永6年6月5日、浦賀に着いたが、その日は夜遅かったので、6日の朝に「高処に登り賊船の様子相窺」ったところ「4艘」の「賊船」を認めた。米船を賊船と松陰は記している。

松陰は4艘の「賊船」を詳細に書きとめたが、その中で「船は北アメリカ国に相違無之、願筋は昨年より風聞の通りなるべし」と。つまり、松陰ら長州藩につながる浪人たちには、嘉永5年の段階でペリー来航が噂になっていたことが分かる。当然に松陰の師である佐久間象山も知っていたはずた。

このように西国の諸藩は、嘉永5年という明治維新に遡ること16年前に、ペリー来航情報を入手しており、松陰や象山のように情報ネットワークを持つ者もつかんでいたのである。
その情報の通り、翌年の嘉永6年6月3日、第一回目のペリー来航があり、この時、日本側が認識したのは軍備体制の手薄さであった。

その認識が明らかになったのは、サスケハナ号(2450トン)を旗艦とする4隻の艦隊威容と、翌日に測量船を江戸湾内に入れたときからである。

この経緯を『開国と幕末変革(日本の歴史18)』「井上勝生著」から参照してみる。

ペリーは、江戸湾内に測量船を入れるにあたって、測量船が攻撃を受けたら掩護できるよう、蒸気軍艦ミシシッピー号の大砲射程外には行かない様伝えていた。ミシシッピー号はサスケハナ号より一回り小型(1692トン)の外輪式蒸気フリゲート艦。大砲12門。
これに比べて日本の千石船は100トンクラスでしかなく、最大級の千六百石船でも150トン、乗員は20人であった。
ミシシッピー号は江戸湾の奥深くに侵入、羽田沖1.3kmに迫った。パクサンズ型の滑腔大砲の有効射程距離は3カイリ(約5.6km、当時の領海範囲)をはるかに超えていた。江戸城も竹芝沖から射程に入る。サスケハナ号に乗艦した中島三郎助(浦賀奉行の与力)は、新型大砲の知識があり、船員に「これはパクサンズ砲ではないのか。射程は・・・」と尋ねている。

ペリーは国際法に依拠した対応を貫くと述べていたが、彼の江戸湾での行動は、以下に記すように、当時の近代国際法に全く適わないものであった。

当時の領海は3カイリ。そして入り口が直線距離で6カイリ(約11.1km)より狭い湾・内海は「内水」と決められていた。「内水」は領海であり、領土と同じ扱いである。

江戸湾の入り口、観音崎と富津の間は約7kmなので、江戸湾は「内水」であった。
6月6日、ミシシッピー号が江戸湾の中に侵入した時、中島三郎助は追尾して「内海に乗り入れ候儀は、相成り難し」と抗議している。

ミシシッピー号が江戸湾の内海に侵入した際、日本側の45隻ばかりの番船が相手方の測量船を阻止しようと対峙する様子が、ペリーに同行した画家のハイネによって描かれて残っている。画の中央には測量船が描かれ、15、6人アメリカ水兵が船を漕いでいる。銃剣を向ける水兵もいる。日本側の番船では、黒の陣笠をつけ、真っ赤な陣羽織を着た役人が、扇を挙げて測量船を制止している。鑓数本も突き出され、つぎつぎに漕ぎ出す番船の列もきれいに描き出されている。(『開国と幕末変革』口絵)

1
遠景には富士山が浮かび、千石船の向こうに黒船の姿がある。測量船の船尾には、大きな星条旗が水面に触れそうにたなびいている。

なにかが起きても不思議ではない状況であったが、日本側が譲歩した。川越藩などの番船隊は、浦賀奉行の「けっしてお構いなされざる方よろしく」(「川越藩記録」6月6日)という指示で水路をあけたのであった。

測量船の江戸湾侵入によって、翌日、幕閣の評議は米大統領の国書受け取りを決断した。反激論もあったが「大国の中国でもついに国を挟められし程の国害」(「老中覚」六月)と、老中から浦賀奉行へ出された書取(命令書)の付属文書に明記されているように、アヘン戦争での中国の敗戦が、幕府に大きく影響を与えていた。

当時の近代国際法では、世界の国々を「文明国」「半未開国」と、国とは扱わない「未開」
の三群に区分していた。文明国とは欧米の国家群であり、半未開国とは半文明国としてトルコ、ペルシャ、シャム、タイ、中国、朝鮮と日本を指し、法律のあることは承認されていたが「文明の法」とは認知されず、主権を制限され、領事裁判権等の特例を設けられていた。これにしたがってペリーは日本に対応していたのである。

 ペリーの江戸湾侵入は、シーボルト文庫やオランダの地図を参考に、測量船を先に出し、江戸に威圧を直接加える方針であって、江戸という首都の弱点を事前に十分知って練られたものといわれている。

江戸の地勢は海に近接している。その上食糧自給率は低いので、浦賀水道が閉ざされると、江戸は危機に陥ることが予測される。臨海政治都市江戸の姿は、日本が海からの防衛に不利な軍事的弱国であることを示している。

このことは異国船打払令が出された翌年の文政九年(1826)、シーボルトは「江戸参府紀行」の中で、江戸は「異常に大きい人口」を持っており、江戸への海上輸送が一週間途絶えれば「大名屋敷にいちじるしい圧迫を及ぼし、貧困な庶民階級は飢餓に苦しむ」と記し、海上輸送のストップが江戸を窮地に陥れることを見抜いていた。この指摘内容を理解していた幕閣は、ペリーの強攻策によって国書受け取りとなったのであった。

安政元年(1854)1月、ペリーは、予告通り、再び浦賀沖に姿を現した。
その際、仙台藩主の命により、大槻磐渓は横浜の応接所に赴き、ペリー一行の様子をつぶさに観察、報告し、作成したものが『金海奇観』で早稲田大学図書館に所蔵されている。
その復刻版(雄松堂)が昨年出版され、その解説を担当した岩下哲典明海大学教授から、先日、実際の絵図に基づき詳しくお聞きする機会を得た。

本絵巻の作成にかかわった人物は、題字を揮毫した幕府儒者林家の家塾長・河田迪斎をはじめ、松代藩医・高川文筌、膳所藩儒者・関藍梁、津山藩御用絵師・鍬形蕙斎の子である赤子等で、儒者のネットワークである。

林大学頭(復斎)と米国東インド艦隊司令長官ペリーを代表とする日米双方は、真摯な交渉により発砲交戦を避け、横浜村で日本史上初の条約、日米和親条約を平和裏に締結した。

なお、「金海」とは「金川(=神奈川)の海」の意であり、巻は乾、坤の二軸に分かれ、ペリーらの肖像はもちろん、ペリー艦隊が碇泊している本牧沖の景観、蒸気船と帆船の図、榴弾砲、乗組員の服装、蒸気機関車と客車、線路、コルト拳銃、携帯火薬入れ瓶、鉛弾の鋳型、電信機などが精密に描かれている。
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『金海奇観』に描かれた蒸気軍艦3隻は、超大国イギリスにもない世界最大・最先端・最新鋭であり、うちポーハタン号は1851年就航の新造船で、対メキシコ戦争(米墨戦争 1846~48年)に伴い米海軍が発注したもので2415トン・フリゲートである。

ただし、強力な破壊力を有する巨大蒸気軍艦は石炭食いで、補給を断たれれば「粗大ごみ」同然となることを、大槻磐渓が早くも見抜き林大学頭(健)に「彼らに交戦の意図なし、彼らには補給線がないため戦争にはならない」と上申している。さすが大槻磐渓だと思う。
この際、軍事力を示したばかりでなく、献上物として「蒸気機関車」「電信機」などもあった。

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(上は献上物の古文書)

「機関車」には、河田迪斎が乗り「火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く、旋転数匝極めて快し」と日記に記した蒸気機関車。河田はこの時締結された日米和親条約の草案起草者の一人であり、『金海奇観』の題字を揮毫している。後にこの機関車は江戸に送られ、江川太郎左衛門が運転。開成所から神戸海軍操練所に移されたが、元治元年(1864)の火災によって焼失し、現存しない。」と復刻版パンフに記されている。

『ペリー日本遠征日記』には「この美しい小さな模型の機械は、円環状の線路をぐるぐる回り、かん高い汽笛の音で大気を満たしたが、この行事は、呼び集められた莫大な数の人びとの群れを驚かせ、かつ喜ばせた」とある。

4

上図はエンボッシング・モールス電信機。送信側の電信機でモールス符号を打つと、受信側の電信機の紙テープがエンボス(凹凸)されて信号を送ることができる。ペリーは電線や電池など装置一式を持参し、横浜の応接所から約1キロの間に電線を架して通信実験を行った。実物は平成9(1997)年に国の重要文化財に指定され、郵政博物館に収蔵されている。

『ペリー日本遠征随行記』には、日本人通訳の手を借りて日本語を送信し、日本人が「この実験に満足し、どんな作用をする仕組なのかわからないなりにも、おおよその概念は理解した風である」と記されている。

さて、松平容保が京都守護職として京に入ったのは、ペリー再来航から9年後の文久2年(1862)である。

当然にペリー来航の件は承知しており、近代的軍備力の必要性は認識していた。これは東北諸藩も同様であろうが、当時、日本で最も勇猛であると評価されていたのは会津藩で

あった。会津の強さについて司馬遼太郎はつぎのように述べている。
「会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える」(『歴史を紀行する』1968年)

「京都守護職松平容保が、藩兵千人をひきいて京に入ったのは、文久2年(1862)12月24日であった。三条大橋の東詰についたのは、午前10時過ぎである。

(これが世にやかましい鴨川か)
と、容保は馬上から目をそばめてその両岸の風景を見た。容保だけではなかった。会津藩兵のたれもがはじめて京に来、物語できく王城の地をはじめて見た。無言の感動が隊列のなかでおこったが、しかしかれらはたれも私語する者がなかった。
それが多年訓練してきた長沼流の行軍心得であった。歩武はみごとにそろっている。騎乗の将も、歩行の士卒も、前方を凝視し、視線を動かす者もなかった。

これが、都の士民を驚かせた。かねて会津藩が王城の守護につくという噂があり、たれもがその軍容を見ることを楽しみにしていた。日本第一の勇猛の藩であるということはほとんどこの日まで巷間の常識になっている」(『王城の護衛者』)

会津藩の兵法は長沼流である。長沼流とは信濃松本藩士・長沼澹(たん)斎(さい)によって、寛文6年(1666)に「長沼流兵法兵要録」が発表されたもので、当時、山鹿素行による山鹿流と並ぶ兵法の双璧であった。

だが、幕末時から200年も昔の兵法であるので、武士と武士による個の戦いには効果的だが、訓練された武装集団による近代戦では時代遅れであった。

対する、後に官軍・新政府軍として攻める薩摩は、ペリー来航から10年後の文久3年(1863)に薩英戦争、長州は11年後の元治元年(1864)に四国艦隊下関砲撃事件で苦渋を嘗め、これを機に軍備の近代化を進め、洋式軍隊として装備も新しく、かつ訓練度も格段に整えた。

ところが、会津藩では戊辰戦争まで、藩校日新館において依然として長沼流兵法の講義が続けられていたのである。

そこで、急遽、会津藩は軍制を洋式化したが、実戦には間に合わず、軍備近代化の遅れ、武器弾薬の不足、結果として「死して武士道を守る」という収束敗戦となったわけで、いかにも時代・時流に遅れている。これでは武士道会津魂をもってしても近代戦には勝てない。

これで会津戦争について終わりたい。

次号からは「何故に鉄舟は愚案をあれほどまでに肩入れしたか」について検討する。

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