前月で、東北諸藩に共通する欠陥ともいえる、国際情勢を含む変化時流に対する感度の鈍さについて触れたが、この背景には当時の外国情報入手システムも影響していた。
これについて少し補足したい。
徳川幕府が外国の情報を入手するのは長崎からであった。(参照『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』岩下哲典)
長崎に入港するオランダ船は、入港の際、長崎奉行所に「風説書」の提出を義務づけられていた。「風説書」は、オランダ船がどこの港を出帆して、途中どこの国の船と出合ったとか、オランダ本国はどんな様子かとか、そうした海外情報を記したものである。
ニュースソースは、シンガポールなどで発行されていた英字新聞などで、それをオランダ商館長が日本向けに編集して、日本側に手交した。
日本側では、オランダ通詞が翻訳して長崎奉行に提出し、長崎奉行は、江戸の老中に提出した。これらのオランダ語原文と日本語訳の「風説書」を特に「オランダ風説書」と呼んでいる。もちろん長崎には中国船(唐船)も入港していた。この中国船が義務づけられていたのが、「唐風説書」である。
さて、江戸後期になるとオランダ商館長は、「オランダ風説書」とは別仕立てで、一つの事件・事案などに関してさらに詳しく情報を提供するようになる。これを「オランダ別段風説書」という。
オランダ商館長は、一年交替で長崎出島に勤務していた。毎年一回程度やってくるオランダ船に新しい商館長が乗っていて、それまで勤務していた商館長と交替する。このときオランダ船は、幕府、すなわち長崎奉行に対して、乗船員名簿、積み荷目録、風説書、書簡類を提出する義務があった。
乗船員名簿は、キリスト教徒が乗り込んでいないかどうかを点検するために提出を命じられたものであり、積み荷目録は、御禁制品を積み込んでいないかどうか、検査するためである。
さらに、風説書は、いわゆる「鎖国」を維持するために、キリスト教国の船が日本に来ないかどうか、また、ヨーロッパの情勢を判断するために、幕府にとって必要不可欠な情報だったのである。
また、長崎聞役という存在もあった。主に九州の諸藩が、長崎防衛や長崎における経済活動のために、長崎の各藩蔵屋敷に駐在させていたのが長崎聞役で、長崎奉行所の役人と、諸藩の聞役とは普段から交流をもち、情報を収集し自藩に送致していた。
聞役をおけたのは14藩に限られ、年間を通じておかれたのは福岡、佐賀、熊本、対馬、平戸、小倉の6藩で、これを「定詰(じょうづめ)」といった。
残りの8藩は薩摩、長州、久留米、柳川、島原、唐津、大村、五島で、オランダ船が来航して出帆する5月から9月にかけて長崎に詰め、これを「夏詰」と称した。
しかし、この14藩以外にも「風説書」や「別段風説書」の内容が漏れ伝わっていた事実がある。それは宇和島藩である。藩主は伊達宗城で蘭学に造詣が深い。宇和島藩は長崎に聞役を派遣することができなかったので、藩士を蘭学修行のため長崎のオランダ通詞に入門させ、情報収集をさせていた。
ということから推察できるのは、宇和島藩以外でも同様の方法で情報収集活動をしていたのではないかと思われ、加えて、親しい他藩主に情報を伝達していたようである。
その事例としては、宇和島藩の伊達宗城が嘉永5年(1852)9月、越前福井藩主松平慶永に、嘉永6年(1853)6月の「ペリー来航予告情報」を書簡で送っている。
長崎奉行所は嘉永5年6月に、オランダ商館長が提出した「別段風説書」によって、翌年の嘉永6年のいずれかの時期に、アメリカ艦隊が来航することを予告されていたが、この事実が伊達宗城から松平慶永に伝わっていたのである。
さらに、このペリー来航予告情報は吉田松陰も知っていた節がある。松陰は嘉永6年6月5日、浦賀に着いたが、その日は夜遅かったので、6日の朝に「高処に登り賊船の様子相窺」ったところ「4艘」の「賊船」を認めた。米船を賊船と松陰は記している。
松陰は4艘の「賊船」を詳細に書きとめたが、その中で「船は北アメリカ国に相違無之、願筋は昨年より風聞の通りなるべし」と。つまり、松陰ら長州藩につながる浪人たちには、嘉永5年の段階でペリー来航が噂になっていたことが分かる。当然に松陰の師である佐久間象山も知っていたはずた。
このように西国の諸藩は、嘉永5年という明治維新に遡ること16年前に、ペリー来航情報を入手しており、松陰や象山のように情報ネットワークを持つ者もつかんでいたのである。
その情報の通り、翌年の嘉永6年6月3日、第一回目のペリー来航があり、この時、日本側が認識したのは軍備体制の手薄さであった。
その認識が明らかになったのは、サスケハナ号(2450トン)を旗艦とする4隻の艦隊威容と、翌日に測量船を江戸湾内に入れたときからである。
この経緯を『開国と幕末変革(日本の歴史18)』「井上勝生著」から参照してみる。
ペリーは、江戸湾内に測量船を入れるにあたって、測量船が攻撃を受けたら掩護できるよう、蒸気軍艦ミシシッピー号の大砲射程外には行かない様伝えていた。ミシシッピー号はサスケハナ号より一回り小型(1692トン)の外輪式蒸気フリゲート艦。大砲12門。
これに比べて日本の千石船は100トンクラスでしかなく、最大級の千六百石船でも150トン、乗員は20人であった。
ミシシッピー号は江戸湾の奥深くに侵入、羽田沖1.3kmに迫った。パクサンズ型の滑腔大砲の有効射程距離は3カイリ(約5.6km、当時の領海範囲)をはるかに超えていた。江戸城も竹芝沖から射程に入る。サスケハナ号に乗艦した中島三郎助(浦賀奉行の与力)は、新型大砲の知識があり、船員に「これはパクサンズ砲ではないのか。射程は・・・」と尋ねている。
ペリーは国際法に依拠した対応を貫くと述べていたが、彼の江戸湾での行動は、以下に記すように、当時の近代国際法に全く適わないものであった。
当時の領海は3カイリ。そして入り口が直線距離で6カイリ(約11.1km)より狭い湾・内海は「内水」と決められていた。「内水」は領海であり、領土と同じ扱いである。
江戸湾の入り口、観音崎と富津の間は約7kmなので、江戸湾は「内水」であった。
6月6日、ミシシッピー号が江戸湾の中に侵入した時、中島三郎助は追尾して「内海に乗り入れ候儀は、相成り難し」と抗議している。
ミシシッピー号が江戸湾の内海に侵入した際、日本側の45隻ばかりの番船が相手方の測量船を阻止しようと対峙する様子が、ペリーに同行した画家のハイネによって描かれて残っている。画の中央には測量船が描かれ、15、6人アメリカ水兵が船を漕いでいる。銃剣を向ける水兵もいる。日本側の番船では、黒の陣笠をつけ、真っ赤な陣羽織を着た役人が、扇を挙げて測量船を制止している。鑓数本も突き出され、つぎつぎに漕ぎ出す番船の列もきれいに描き出されている。(『開国と幕末変革』口絵)

遠景には富士山が浮かび、千石船の向こうに黒船の姿がある。測量船の船尾には、大きな星条旗が水面に触れそうにたなびいている。
なにかが起きても不思議ではない状況であったが、日本側が譲歩した。川越藩などの番船隊は、浦賀奉行の「けっしてお構いなされざる方よろしく」(「川越藩記録」6月6日)という指示で水路をあけたのであった。
測量船の江戸湾侵入によって、翌日、幕閣の評議は米大統領の国書受け取りを決断した。反激論もあったが「大国の中国でもついに国を挟められし程の国害」(「老中覚」六月)と、老中から浦賀奉行へ出された書取(命令書)の付属文書に明記されているように、アヘン戦争での中国の敗戦が、幕府に大きく影響を与えていた。
当時の近代国際法では、世界の国々を「文明国」「半未開国」と、国とは扱わない「未開」
の三群に区分していた。文明国とは欧米の国家群であり、半未開国とは半文明国としてトルコ、ペルシャ、シャム、タイ、中国、朝鮮と日本を指し、法律のあることは承認されていたが「文明の法」とは認知されず、主権を制限され、領事裁判権等の特例を設けられていた。これにしたがってペリーは日本に対応していたのである。
ペリーの江戸湾侵入は、シーボルト文庫やオランダの地図を参考に、測量船を先に出し、江戸に威圧を直接加える方針であって、江戸という首都の弱点を事前に十分知って練られたものといわれている。
江戸の地勢は海に近接している。その上食糧自給率は低いので、浦賀水道が閉ざされると、江戸は危機に陥ることが予測される。臨海政治都市江戸の姿は、日本が海からの防衛に不利な軍事的弱国であることを示している。
このことは異国船打払令が出された翌年の文政九年(1826)、シーボルトは「江戸参府紀行」の中で、江戸は「異常に大きい人口」を持っており、江戸への海上輸送が一週間途絶えれば「大名屋敷にいちじるしい圧迫を及ぼし、貧困な庶民階級は飢餓に苦しむ」と記し、海上輸送のストップが江戸を窮地に陥れることを見抜いていた。この指摘内容を理解していた幕閣は、ペリーの強攻策によって国書受け取りとなったのであった。
安政元年(1854)1月、ペリーは、予告通り、再び浦賀沖に姿を現した。
その際、仙台藩主の命により、大槻磐渓は横浜の応接所に赴き、ペリー一行の様子をつぶさに観察、報告し、作成したものが『金海奇観』で早稲田大学図書館に所蔵されている。
その復刻版(雄松堂)が昨年出版され、その解説を担当した岩下哲典明海大学教授から、先日、実際の絵図に基づき詳しくお聞きする機会を得た。
本絵巻の作成にかかわった人物は、題字を揮毫した幕府儒者林家の家塾長・河田迪斎をはじめ、松代藩医・高川文筌、膳所藩儒者・関藍梁、津山藩御用絵師・鍬形蕙斎の子である赤子等で、儒者のネットワークである。
林大学頭(復斎)と米国東インド艦隊司令長官ペリーを代表とする日米双方は、真摯な交渉により発砲交戦を避け、横浜村で日本史上初の条約、日米和親条約を平和裏に締結した。
なお、「金海」とは「金川(=神奈川)の海」の意であり、巻は乾、坤の二軸に分かれ、ペリーらの肖像はもちろん、ペリー艦隊が碇泊している本牧沖の景観、蒸気船と帆船の図、榴弾砲、乗組員の服装、蒸気機関車と客車、線路、コルト拳銃、携帯火薬入れ瓶、鉛弾の鋳型、電信機などが精密に描かれている。

『金海奇観』に描かれた蒸気軍艦3隻は、超大国イギリスにもない世界最大・最先端・最新鋭であり、うちポーハタン号は1851年就航の新造船で、対メキシコ戦争(米墨戦争 1846~48年)に伴い米海軍が発注したもので2415トン・フリゲートである。
ただし、強力な破壊力を有する巨大蒸気軍艦は石炭食いで、補給を断たれれば「粗大ごみ」同然となることを、大槻磐渓が早くも見抜き林大学頭(健)に「彼らに交戦の意図なし、彼らには補給線がないため戦争にはならない」と上申している。さすが大槻磐渓だと思う。
この際、軍事力を示したばかりでなく、献上物として「蒸気機関車」「電信機」などもあった。

(上は献上物の古文書)
「機関車」には、河田迪斎が乗り「火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く、旋転数匝極めて快し」と日記に記した蒸気機関車。河田はこの時締結された日米和親条約の草案起草者の一人であり、『金海奇観』の題字を揮毫している。後にこの機関車は江戸に送られ、江川太郎左衛門が運転。開成所から神戸海軍操練所に移されたが、元治元年(1864)の火災によって焼失し、現存しない。」と復刻版パンフに記されている。
『ペリー日本遠征日記』には「この美しい小さな模型の機械は、円環状の線路をぐるぐる回り、かん高い汽笛の音で大気を満たしたが、この行事は、呼び集められた莫大な数の人びとの群れを驚かせ、かつ喜ばせた」とある。

上図はエンボッシング・モールス電信機。送信側の電信機でモールス符号を打つと、受信側の電信機の紙テープがエンボス(凹凸)されて信号を送ることができる。ペリーは電線や電池など装置一式を持参し、横浜の応接所から約1キロの間に電線を架して通信実験を行った。実物は平成9(1997)年に国の重要文化財に指定され、郵政博物館に収蔵されている。
『ペリー日本遠征随行記』には、日本人通訳の手を借りて日本語を送信し、日本人が「この実験に満足し、どんな作用をする仕組なのかわからないなりにも、おおよその概念は理解した風である」と記されている。
さて、松平容保が京都守護職として京に入ったのは、ペリー再来航から9年後の文久2年(1862)である。
当然にペリー来航の件は承知しており、近代的軍備力の必要性は認識していた。これは東北諸藩も同様であろうが、当時、日本で最も勇猛であると評価されていたのは会津藩で
あった。会津の強さについて司馬遼太郎はつぎのように述べている。
「会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える」(『歴史を紀行する』1968年)
「京都守護職松平容保が、藩兵千人をひきいて京に入ったのは、文久2年(1862)12月24日であった。三条大橋の東詰についたのは、午前10時過ぎである。
(これが世にやかましい鴨川か)
と、容保は馬上から目をそばめてその両岸の風景を見た。容保だけではなかった。会津藩兵のたれもがはじめて京に来、物語できく王城の地をはじめて見た。無言の感動が隊列のなかでおこったが、しかしかれらはたれも私語する者がなかった。
それが多年訓練してきた長沼流の行軍心得であった。歩武はみごとにそろっている。騎乗の将も、歩行の士卒も、前方を凝視し、視線を動かす者もなかった。
これが、都の士民を驚かせた。かねて会津藩が王城の守護につくという噂があり、たれもがその軍容を見ることを楽しみにしていた。日本第一の勇猛の藩であるということはほとんどこの日まで巷間の常識になっている」(『王城の護衛者』)
会津藩の兵法は長沼流である。長沼流とは信濃松本藩士・長沼澹(たん)斎(さい)によって、寛文6年(1666)に「長沼流兵法兵要録」が発表されたもので、当時、山鹿素行による山鹿流と並ぶ兵法の双璧であった。
だが、幕末時から200年も昔の兵法であるので、武士と武士による個の戦いには効果的だが、訓練された武装集団による近代戦では時代遅れであった。
対する、後に官軍・新政府軍として攻める薩摩は、ペリー来航から10年後の文久3年(1863)に薩英戦争、長州は11年後の元治元年(1864)に四国艦隊下関砲撃事件で苦渋を嘗め、これを機に軍備の近代化を進め、洋式軍隊として装備も新しく、かつ訓練度も格段に整えた。
ところが、会津藩では戊辰戦争まで、藩校日新館において依然として長沼流兵法の講義が続けられていたのである。
そこで、急遽、会津藩は軍制を洋式化したが、実戦には間に合わず、軍備近代化の遅れ、武器弾薬の不足、結果として「死して武士道を守る」という収束敗戦となったわけで、いかにも時代・時流に遅れている。これでは武士道会津魂をもってしても近代戦には勝てない。
これで会津戦争について終わりたい。
次号からは「何故に鉄舟は愚案をあれほどまでに肩入れしたか」について検討する。
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