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2016年9月26日 (月)

2016年9月例会開催結果

9月は永冨明郎氏から「NHK大河ドラマ『真田丸』に絡めて

「真田に見る戦国から江戸への移り変わり」

  をご発表いただきました。

  いつもながら体系的に検討整理された内容に、参加者一同「成る程」と納得し理解いたしましたが、この内容を記録化するのは困難のため、永冨氏にご依頼し、ご多忙の中、「要旨版」を作成お願いいたしましたので、以下、ご案内申し上げます。

「真田一族に見る戦国から江戸への移り変わり」
永冨明郎氏 2016年9月21日 山岡鉄舟研究会例会発表要旨

1) 真田三代の役割
  

 真田氏の中興の祖、幸隆(信繁の祖父)は武田軍団に加わって真田の基礎を成した。
  その息子・昌幸は戦国末期の波乱の時代に、真田の独立を成し遂げた。
  その息子に信幸(のち信之)と信繁(幸村)があったが、信幸はいわば真田の「家」を江戸期を通して残した。一方の信繁は華々しい戦場での活躍により、真田の「名」を遺した。

2) 真田一族の発祥と歴史への登場
 

 真田一族は上田市の北東部、千曲川の支流・神川が形成した扇状地一体が発祥の地である。
 

 古代から上野(現・群馬)から東信州を支配した滋野氏の下に、上田盆地周辺を領有した海野氏があり、この海野氏に仕えるのが真田家だった。
 

 天文10年(1541)、この上田盆地(海野平)に北信の村上義清が攻め込み、海野一族は滅亡する。その一武将だった真田幸隆も流浪の身となる。
 

 10年後、甲斐から武田信玄が信州攻めをする。幸隆はその動きにいち早く乗って、やがて武田軍団の一員として認められる。
 

 天文22年(1553)、幸隆は三男の昌幸(この年7歳)を人質として信玄のもとに差し出す。昌幸は以後20数年間、信玄の小姓として、後には勝頼の片腕として、帝王学、戦略戦術、人間眼を養うことになる。

3) 武田家の崩壊から独立路線へ
 

 それから20年近くの天正元年(1573)、信玄は京を目指す途上で病死する。この報に勢いづいた織田・徳川連合軍は反攻を開始する。
 

 信玄の死から2年後の天正3年(1575)、長篠で織田・徳川連合軍が武田軍を破る。以後、武田家は自壊の一途をたどる事になる。
 

 一方、真田家では、この戦いで当主の信綱以下を亡くす。急きょ、昌幸が上田に戻り、真田家を継ぐことになる。以後、上田から沼田に至る吾妻街道周辺の支配を強める。
 

 長篠の合戦以後、更に勢いを得た織田・徳川連合軍は甲斐、信濃への侵攻を強め、遂に激動の天正10年(1582)を迎える。
 

 3月に武田勝頼が自刃して武田家が滅亡するが、その3ヵ月後には織田信長が本能寺の変で落命、以後、更に混沌とするなか、真田昌幸は上田周辺の地歩を固め、次第に小さいながらも独立路線を目指す。
 

 天正11年には千曲川のほとりに上田城の築城をする。旧武田軍団のなかで唯一なびいてこない真田に対して、徳川は上田に兵を差し向ける(第一次上田合戦)。
 

 これを凌ぎきった昌幸は、中央で支配力を強めつつある羽柴秀吉に接近し、次男の信繁(この年20歳)を出仕させる。以後10数年間、信繁は秀吉の元で中央の動向を見ることになる。

4) 秀吉の天下取り
 

 羽柴秀吉は着々と地方勢力を討伐し、天正14年(1586)には朝廷より「関白」の地位を得て天下人の第一歩を踏み出す。
 

 その後、九州攻めも行った秀吉は、天正17年(1588)春の時点でふたつの課題を残すのみとなる。第一は関東の北条氏がまだ臣下の礼をとってこないこと、そして東北の雄、伊達政宗が沈黙している、その二点だった。
 

 その北条氏は、真田昌幸が実効支配していた沼田城の扱いを巡って、勝手に兵を動かす挙に出る。秀吉は前年に発した「惣無事令」に違反したと、全国大名に小田原攻撃を命じる。つまり真田昌幸が小田原攻めの原因作りにひと役買ったのである。
 

 天正18年(1589)7月、四ヶ月の篭城で限界となった北条氏は、氏政、氏直親子の切腹で滅亡することになる。
 

 この結果、北条氏が支配していた北関東から房総までの広大な空間に、徳川家康はじめ多くの旧武田軍団を転封させる。秀吉はこれを密かに「鉢替え」と称し、領民との数世代に及ぶ信頼関係も分断させる、事実上の「兵農分離」を進めることになる。
 

 その中、真田氏だけは最大限の厚遇を得る。上田は昌幸の支配を安堵され、加えて問題となった沼田は長男・信幸に与え、信幸を独立させて大名に取り立てることになる。
 

 いまひとつの懸案であった伊達政宗も小田原包囲中に参上して臣下の礼をとり、ここに秀吉の天下統一が完成する。

5) ポスト秀吉=関が原の合戦
 

 晩年になってようやく後嗣・秀頼を得た秀吉は、五大老五奉行制を残して、慶長3年(1598)8月、63年の生涯を閉じる。
 

 その直後から、徳川家康の天下への工作が始まる。豊臣家の安泰が最優先とする石田三成はその家康の動きが許せない。
 

 遂に慶長5年(1600)6月、双方の対立が極限に達し、全国大名が東西に分かれて雌雄を決することになる。
 

 真田昌幸、信繁は西軍加担を決めて上田に立て篭もる。一方の長男・信幸はそのまま東軍に加わり、秀忠が率いる3万8千の軍団とともに中山道を西に向かうことになる。
 

 9月5日、上田城を取り囲んだ秀忠軍に対して昌幸、信繁はわずか2千5百の手勢で城を守りとおす(第二次上田合戦)。
 

 攻めきれない秀忠軍はやむなく9月11日に囲みを解き、西に向かうが、関が原の大合戦は既に9月15日の一日で東軍大勝利となっており、これに5日も遅参するという失態をすることになる。

)「関が原」のIF
 

 ①もし豊臣秀頼が出陣していたら?
  (現実には、豊臣家はこの合戦を、部下の徳川と石田との争いと見ており、部下同士の戦に親が出て行くことはない、という考えだった)
 ・石田VS徳川という構図ではなく、「豊臣家VS徳川」という構図、すなわち豊臣総本家に歯向かう徳川家康、という構図となる。
 ・そうなると、多くの秀吉恩顧の大名はすべて豊臣家に付いたはず(現実には三成憎しもあって多くの武断派は家康に付いた)。
 ・そうなると、西軍が一挙に優勢となり、西軍勝利となった?
 

 ②もし西軍が勝利していたら?
 ・西軍側に、天下を治めるだけのカリスマ性を持った武将がいたか?
  (総大将となった毛利輝元も、祖父・元就の遺言「毛利家は天下を狙わず」のとおり、自ら頂点に立つほどの力量はなかった)
 ・その結果、更なる戦乱の世が続いた?
 

 ③それでも、もし東軍が勝利したら?
 ・豊臣家はこの段階で滅ぶ、もしくはなんらかの措置を受け、その結果「大坂の陣」はなかった?

7) 大坂の陣

 慶長8年(1603)2月、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、ここに江戸幕府が開かれる。

 しかし家康はわずか2年で、将軍職を秀忠に譲り、自らは駿府に下がって大御所政治を執ることになる。

 豊臣家はそもそも、天下人は秀頼である、しかしまだ幼いため、筆頭家老の家康に(一時的に)政治を任せているに過ぎない、いずれ秀頼が成人すれば、政権は戻ってくるはず、という感覚を失っていない。その視線を知っていた家康が、それを否定する意味で、早々に将軍職を秀忠に継がせたのである。

 同時にこの知らせは、紀州九度山で蟄居している真田昌幸、信繁親子に失望をもたらす。いずれは何かの折(たとえば将軍の代替わり)に特赦が出ることを期待していたが、なんと継いだのが他ならぬ秀忠であるなら、まず自分たちへは特赦も出るはずがない、と。

 その失意のまま、昌幸は九度山で慶長16年(1611)6月、65年の波乱の生涯を閉じる。

 ちなみに信繁はこの間、3人の妻女を連れてきており、九度山でも合わせて6名の子作りに励んでいた!

 家康にとって唯一の懸念事項は、大阪城に豊臣一族が現存していることである。どうしても自身の目が黒い内に、これを排除しておきたい。

 言いがかりは何でもよかった。そこで方広寺落成に供される釣鐘の銘文に、家康を呪う文言ありとクレームをつけ、結果として豊臣家に謀反の意思ありと、全国大名に大坂攻めを命じる。これが大坂の陣である。

 豊臣家は依然として、秀吉恩顧の大名たちが加勢に来ると思っているが、既に徳川の世になって10数年。恩顧の大名も代替わりが進んでおり、大名はすべて徳川将軍の命に従う。

 やむを得ず豊臣家は、関が原浪人を金で集めるしかなかった。九度山に蟄居する真田信繁にも声がかかり、いよいよ大阪城入りする。

 大坂の陣は慶長19年(1614)秋の「冬の陣」、翌年5月の「夏の陣」の二度の戦となる。

 しかし、所詮は豊臣家の勝ち目はない戦だった。つまり「散り行く者の美学」しかない。後の幸村伝説がこうして生まれることになる。

 慶長20年(1615、この年7月に元和に改元)5月7日、最終決戦が天王寺南の平野で行われ、豊臣側は敗退。その夜、大坂城に火が掛けられ、秀頼、淀殿など自刃して豊臣家は滅びる。

 結果として、多くの(おそらく10万人以上の)関が原浪人のほとんどがこの陣で世をさることになる。これは以後の江戸幕府の統治の上で、大きな意味を持った。

8) 大坂の陣に思うこと;250年後の「江戸城無血開城」との対比

・慶応4年(1868)の江戸城無血開城は、慶喜の意を踏まえた山岡鉄舟、勝海舟らの尽力により、内乱の防止、江戸市中の保全、徳川家の存続が守られた。

・一方、その250年前のこと、豊臣家は大坂城に立て篭もることで、遂に大坂市中を火の海とし、豊臣家は消滅することとなった。そこには、豊臣家(つまりは淀殿?)の「そもそも天下は豊臣家のもの」という時代錯誤の思いが、そのような結果をもたらしたと言える。

・陣の途中、徳川側より再三、和睦条件が提示されていた。

①大坂城を出て大和か伊勢に領地替え、

②雇い入れている多くの浪人の解雇、

がその条件だった。つまり豊臣側には、十分にお家存続のチャンスはあったはずであり、大坂の町を焦土とすることもなかった。

・250年を挟んだこのふたつの事例の違いを、我々はどう理解すればよいのだろうか?

9) 新たな秩序の事態へ=信幸(信之)の苦労

 大坂の陣が集結すると、いよいよ長い戦乱の世から文治の時代に移った。
陣の翌々月から「一国一城制」、「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、「諸宗諸本山諸法度」など江戸期を通して根幹となる制度を次々に発すると、家康は翌年元和2年(1616)4月、75年の生涯を閉じる。

 以後、長く朱子学を柱とした文治の世になる。

 そのなか、上田(約6万石)の信之は松代10万石に転封となる。遂に真田一族が永く親しんだ地を離れることになった。

 しかしその新領地は常に幕府隠密の眼が光っていた。それを承知で信之は領民統治に尽力する。万治元年(1658)、孫を三代目に就けることまで仕上げて、ようやく世を去る。享年93歳。将軍家は既に四代目(家綱)の世になっていた。

 信之の築いた松代真田藩は、その苦労のおかげで江戸期を通して存続し、幕末には稀代の傑物、佐久間象山を輩出することになる。                

 

                                 了

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