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2016年8月27日 (土)

 鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その十一

慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いに敗れ、会津藩主松平容保、桑名藩松平定敬(さだあき)らは徳川慶喜に拉致されるがごとく軍艦開陽丸にて大坂湾から江戸に戻った。
慶喜は上野寛永寺に謹慎蟄居し、静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、上野輪王寺宮公現法親王ルートで打開工作を図ったがいずれも不調、最後の奇策ともいえる鉄舟投入による駿府掛けによって、西郷隆盛と和平交渉が成功、江戸無血開城に結びつき、東海道筋の戦いは回避された。

一方、容保は江戸城登城を禁じられ、藩主を辞任、家督を喜徳に譲り、新政府軍に嘆願書を送った。それも二度、発したという.

一度目は、慶応4年2月16日、会津帰国へと、江戸を発つ際に、輪王寺宮公現法、尾張徳川家以下22藩を通じて、朝廷に恭順の嘆願書を提出した。(参照『会津落城』星亮一)

二度目は、司馬遼太郎が『王城の護衛者』で次のように書いている。
「22日、会津若松城に入った。容保にとって七年ぶりの帰国であった。帰城後、慶喜の恭順にならって謹慎屛(へい)居(きょ)し、京都の恩命を待った。が、恩命のかわりに会津討伐のうわさが聞こえてきた。やがてそれが事実となった。容保は何度か京都方へ嘆願書を送った。その嘆願書は数十通にのぼった。が、ことごとく容れられず、ついに奥羽鎮撫総督の討伐をうけることになった。容保は開戦を決意した」

Photo_2

(写真は会津若松城の司馬遼太郎文学碑)

このように二度にわたって罪を待つ姿勢を明らかにしたのであるから、戦争を回避できる可能性はあったはずだが、白河口戦いの大敗から会津籠城抗戦、9月22日落城となった。
慶喜の嘆願は受け入れられ、容保は拒否された。その違いの要因は何か。それを以下の3項目から検討してみたい。
1. 嘆願書を受け渡す相手は適切だったのか
2. 嘆願書を送り届ける人物を的確に選定したのか
3. 鉄舟に比肩しうる人物は存在したのか

1. 嘆願書を受け渡す相手は適切だったのか

これは和平を図るための、基本戦略項目である。嘆願書を受け取った人物が、新政府内でどの程度の力量能力を要しているのか。それによって嘆願書目的の効果が決まるわけで、これを誤ると無駄な嘆願書になってしまう。

鉄舟の場合はどうであったか。
上野寛永寺大慈院一室で、慶喜から直接命を受けた鉄舟、その後、どのような行動を採ったのか。それについて「西郷氏と応接之記」に次のように鉄舟が記している。
「余は、国家百万の生霊に代りて生命を捨るは素より余が欲する所なりと、心中青天白日の如く一点の曇りなき赤心を一二の重臣に謀れども、其事決して成り難しとて肯ぜず。当時軍事総裁勝安房は余素より知己ならずと雖も、曽て其胆略あるを聞く。故に往て之を安房に謀る」

一介の旗本に過ぎず、一度も政治的立場に立ったことがない者が、幕府存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受けたのである。一般的にそのような状況に立ち至ったとき、どのような行動を採るであろうか。

常識的には政治的立場の上層部に相談するであろう。鉄舟も同じであった。何人かの幕府上層部人物を訪れ、相談し指示を仰いだのであるが、皆、単独で交渉に行くなど無謀であり、不可能であるからといって相手にしてくれない。

そこで、最後に、今でいえば当時の首相の任にあった、軍事総裁としての海舟のところに向かった。

鉄舟と会った海舟は、一瞬にして鉄舟の本質を理解し、それを海舟日記に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」(慶応4年3月5日)と記し、その上、後年、海舟は次のように回想している。

「おれにことの仔細を告げて、答弁を求められたけれども、おれもこれまで山岡のことは、名だけ聞いていたけれども、いまだその心事がしれんから、即答せずにひそかに山岡の言動を察するところ、なんとなく機の失うべきでないことを悟っているふうに見えたから、おれが山岡に問いを発した。『まず、官軍の陣営に行く手段はいかにするや』と。山岡答えて、『臨機応変は胸中にある』と縷々と説明したが、毅然とした決心の固いのには感服したよ」

 海舟と相談した結果、交渉する相手は「駿府にいる西郷隆盛」であると、両者の見解は一致した。つまり、徳川側は、西郷を時の新政府軍における実権者として明断していたのである。

 これに対し容保が送った嘆願書宛先の人物は誰であったか。

「輪王寺宮公現法、尾張徳川家以下22藩」へ江戸から送ったとあるが、輪王寺宮公現法は慶喜から依頼受け、駿府まで向かったが不調に終わっているように、交渉力に疑問がつく。

尾張徳川藩主慶勝は容保の実兄ではあったが、尾張藩内では反幕団体である金鉄党を重く使い、外国との開港に勅許絶対必要論を唱えたので、井伊大老の逆鱗に触れ、慶勝は引退させられ弟茂徳が就封した。

その後、桜田門外の変で井伊大老が失脚、復権し、元治元年(1864)の第一次長州征討では総督となり、謝罪の意を表した長州藩に寛大な処置をとり、再征のときは将軍を諌止したように、長州の理解者だった。

鳥羽伏見の戦いの後、慶勝は金鉄党の藩士を率いて名古屋城に戻ると、直ちに佐幕派の重臣を朝命として斬首。これは問答無用の「青葉松事件」といわれる一種のクーデターで、尾張藩は勤皇討幕宣言をし、戊辰戦争にも参加したように、容保の期待に応え得る人物ではなかったはず。

このような立場にあった慶勝を、容保も十分に分かっていたはずだか、実兄という肉親の情を頼って嘆願状を送ったと思われる。だが、効果は全くなかった。人選誤りである。

広く深く情報収集活動を行って、慶勝以外の会津藩にとって味方となれる人物を定め、そこへ的を絞ることが必要であったろう。

では、新政府側で誰がその候補として考えられたのか。諸資料を検討してみると、次の二人が浮かんできた。

ひとりは薩摩藩の島津久光である。文久3年(1863)の八月十八日政変で京都を追われた、長州側は「これは孝明天皇の意志にあらず」と妨害情報を流し、攪乱戦術に出た。
その際、久光が容保に対して語った言葉から、久光が容保に対して好意を持っていた、と推測できる。(参照『会津藩VS薩摩藩』星亮一)

「薩摩の島津久光も動いた。精力的に各藩の有力者との会談に臨んだ。一橋慶喜や松平春嶽、山内容堂、伊達宗城らに上京を求め、会津藩首脳とも会談を重ね公武合体を推し進めた。

久光は今や政界のキーマンである。会津人に対する寸評もあった。会津の公用人秋月悌次郎、広沢安任を次のように評した。
『会津藩中、有志の者なり、しかれども幕(ばく)幣(へい)、消失せざる心地す』
有能な人材だが、幕府を背中に背負っている。幕府のにおいがするというものだった。
ところが、容保の印象は違っていた。
『主人は随分幕幣もなき心地する』と語った。
容保は至誠の人である。それがにじみ出ていて、百戦錬磨の久光も一目置く存在だった。
薩摩の歴史家芳即正の『島津久光と明治維新』にその記述がある」
加えて、同書で次のようにも述べている。
「会津と戦争が始まると、久光は容保のことを気にかけ、『寛典をほどこせば。戦争は早く終わるのではないか』と西郷らに書簡を送っていた。
もともと久光は討幕には批判的だった。しかし、藩論が討幕に傾くと、それはやむをえぬことだと西郷や大久保の行動を黙認した」

この主張の背景には、文久3年(1863)末から翌元治元年(1864)初頭にかけて組織化された参豫会議の存在があった。参豫は朝議参豫で以下の6名によって、京都朝廷の諮問に応じて国の最高方針を審議する役目であった。

将軍後見職  一橋慶喜
京都守護職  松平容保
前越前藩主  松平春嶽
前土佐藩主  山内容堂
前宇和島藩主 伊達宗城
薩摩藩主の父 島津久光

この参豫会議で久光と容保は出会っていたわけで、容保という人物への理解が深まったと推定する。

もうひとりは大村益次郎である。(参照『徳川社会と日本の近代化・会津戊辰戦争の戦後処理問題をめぐる一考察』岩下哲典)

「会津藩士の高嶺秀夫は、会津の母にあてて『彼の大村と申者長州人に御座候て、軍務監相務め、当時枢要の役に御座候て人物の由、我国の事ども皆彼の周旋に御座候由、彼死し候はば大に不宜候乎と存申候』と書いている。

この意味は、会津の戦後処置は大村の斡旋で行われたもので、大村が明治2年(1869)9月4日京都にて襲撃され、11月5日に死去したことを惜しんで、会津にとって大いによろしくないと書き送ったものである」

また、「報国隊士加茂水穂は、大村益次郎が会津若松落城の日を予測しながら『朝敵ではあるけれど、決して一己の私の為に賊を働いたと云ふ訳でもない。併し今日落城だと思ふと、甚だ気の毒なことに思い升』と大総督府の有栖川宮熾仁親王に語ったという話を伝えている。大村は、単なる賊と近代戦争における敵軍とをきちんと区別しているのである」ともある。

以上を勘案すると、嘆願書を送る相手としては、島津久光と大村益次郎に絞る戦略を取るべきだったと考えたい。

2. 嘆願書を送り届ける人物を的確に選定したのか

次の検討は、嘆願書を送り届ける、つまり、島津久光と大村益次郎に対して対で交渉できる強力な人物、それは鉄舟と同じレベルの人材を意味するが、その選定が鍵である。
慶喜の場合、鉄舟の義兄である高橋泥舟の推薦により、鉄舟が使者として選ばれたが、これは鉄舟が類稀なる人物であると、泥舟が知り抜いていたことが大きい。

鉄舟と泥舟、お互い身近な存在、日頃から切磋琢磨し合った間柄であったから、泥舟は自信を持って慶喜に推挙、結果は大成功、江戸無血開城が成立したわけで、使者の人選が交渉を為すために、重要で大事な要件であることを教えてくれる。

では容保が、仮に久光と大村に嘆願書送り届けるとしたら、会津藩士から誰を選ぶべきだっただろうか。

それを示す資料は残念ながら見当たらない。それもそのはずで、人選したという記録がない、というより容保が「誰を送付人=交渉人」として思考したどうかも疑問であるので当然だが、会津藩には有能な人材がいたはず。

会津には「会津藩に家老なし」という言葉があった。戊辰戦争以前、会津藩の家老は世襲制で、前例を第一とする保守主義が蔓延しており、藩内の有能な人材を発掘する努力がなされていないのが実情であった。

ところが、容保が京都守護を拝命したのが文久2年(1862)閏8月、準備を経て12月24日藩兵1000名率いて、京都に入り黒谷の金戒光明寺に本陣を置き、これからまる5年間、容保は京都にあって、幕末政争史に関わっていくことになった。

この時点で容保はハタと気づく。会津藩の旧態然とした保守主義組織が京都で通用するはずがないと。

そこで新たに「公用局」を設置した。ここは渉外、政策立案、情報収集を担当する、いわば藩の外交官という役割であるから、局員は身分にとらわれず適材適所、有能な人材を登用したのである。それが以下の人物等であった。

  田中土佐(家老)   野村佐兵衛(留守居役) 小室金吾(奥番) 外島機兵衛(留守居役)
    柴秀次(公用方)   大庭恭平(後に密偵)  柿沢勇記(公用人物書之勤)
    宗像直太朗(公用人物書之勤) 秋月悌次郎(公用役)  広沢安任(公用役)

彼らが京都内外で活躍することになるが、そのような組織があったからこそ、容保は京都で5年間の任務を全うできたのである。

この公用方の中で、鉄舟に匹敵する人物がいないかどうかを、『幕末会津藩士銘々伝』(編者 小桧山六郎、間島勲)から読み解きつつ、編者の間島勲氏に会津若松でお会いしお聞きしてみた。

間島氏は外島機兵衛に注目したいと即発言された。

機兵衛は公卿や諸藩の士とも広く交友し、特に、熊本藩の上田久兵衛一徳(京都留守居役)とは親交が厚く、久兵衛の書状や日記を翻刻した『幕末京都の政局と朝廷』(宮路正人編)の解説で、宮地氏は「会津藩では外島機兵衛との接触が最も多い。会津公用方の中で第一の切れ者ではなかったろうか」と述べているように、公用方の中で、機兵衛の存在が大きかったことを間島氏が指摘された。

但し、機兵衛は、残念なことに会津藩が江戸に戻り、殆どが国元に帰った際、容保の命で江戸に留まっていた3月7日、突然、病死してしまった。43歳であった。

この3月7日という日付、これが大事である。鉄舟が駿府で西郷と会談したのが3月9日、江戸に戻って大久保一翁と海舟に報告、次いで直ちに上野寛永寺大慈院一室に謹慎・蟄居している慶喜にも報告した。慶喜が恭順の姿勢を示した謹慎・蟄居、その真意がようやく官軍に伝わったのである。慶喜の喜びは「言葉に表せない程」であった。

早速に江戸市中に高札を立てて布告した。その大意は「大総督府下参謀西郷吉之助殿へ応接がすんで、恭順謹慎の実効が相立つ上は、寛典の御処分になることになったから、市中一同動揺することなく、家業にいそしむように」であり、この高札によって江戸市民はようやく一安心できた。

この高札、機兵衛が元気であれば、直ちに食い入るように見つめ、こういう交渉方法があるのかと悟り、容保に新政府との和平交渉を進めるよう提案したのではないかと推察する。

だが、期待の機兵衛は病没、したがって、間島氏は、鉄舟の駿府がけの功績を容保は知らなかっただろうと述べられた。

この発言は、機兵衛以外の有能な江戸在勤者の可能性を否定している。容保が江戸から会津へ帰国する際、今後の展開、それは戦うにせよ、和平交渉を行うにしても、とにかく新政府の情報をくまなく集め分析することは重要であろう。だが、江戸に情報収集機能をつくらないで会津に帰ってしまう。ここにも会津藩の情報に対する感度の鈍さが表出している。
どうも会津藩全体の底流に、情報という重要で大事な要素を軽視する体質が存在していたと思わざるを得ない。

具体例として白河口に続く母成峠の戦い時の失敗を述べたい。

白河口の戦いを勝利した新政府軍は、大総督府の参謀・大村益次郎が「枝葉(会津藩を除く奥羽越列藩同盟諸藩)を刈って、根元(会津藩)を枯らす」と仙台・米沢への進攻を指示したが、現地にいる参謀・板垣退助と伊地知正治は逆に「根元を刈って、枝葉を枯らす」と会津攻めを主張し、板垣・伊地知の意見が通り、新政府軍は会津へ向かうことになった。

会津へ入るには何か所かの街道がある。その中で会津藩が特に警戒して防御を固めたのは会津西街道(日光口)と勢至堂峠(白河口)と中山峠(二本松口)であり、会津藩は新政府軍が中山峠に殺到すると予測した。

だが、新政府軍はその裏をかくかたちで、母成峠へ板垣・伊地知が率いる主力部隊1,300兵と土佐藩の谷干城が率いる約1,000兵、さらに別働隊として薩摩藩の川村純義が率いる300兵を送った。

守備は旧幕臣の大鳥圭介軍を中心にした800兵、必死に防衛したが多勢に無勢で敗走となった。

ところが、この戦いで敗れたことが、会津若松城本陣には連絡が入らず、たまたま猪苗代に出かけた藩士が急報し、半日後にやっとわかる始末だった。そのとき、軍事局の面々は、唖然呆然とし、ただただ顔を見合わせるばかりだったという。

会津の国境は広大である。情報伝達のうえで、騎兵は絶対に欠かせないものだったが、その編制はなく、連絡体制の不備は、その後の戦いに決定的な影響を与えた。(参照『会津落城』星亮一)

このように戦いの現場における情報連絡体制のお粗末さに加えて、もうひとつ大事な背景要素は、西国諸国に比べて国際情勢を含む変化時流に対する感度の鈍さ、これは会津藩だけの問題ではなく、東北諸藩に共通する欠陥といえるが、これが武器装備、兵の近代的訓練度などに影響し、敗戦につながっていく。

3. 鉄舟に比肩しうる人物は存在したのか

 鉄舟は一生涯修行を貫き、「大悟」・「無」境地へ到達した。
明治20年(1887)、四谷仲町にあった鉄舟邸において、門人たちの求めに応じ、「無」境地について、次のように語っている。(参照 『山岡鉄舟の武士道』)

 「その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境地に入り、真理を理解し開梧せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう」

 鉄舟が求めたのは、極限まで無化された状態にほかならないが、同時に、そこは創造の力にあふれる「無」の世界でもあった。

つまり、無我の境地に到達することで、ありとあらゆる場面が迫ってきても、常に創造の力にあふれる解決策を見出し、新しい方向を切り開いていく。これが修行で達した鉄舟の「大悟」であり「無」境地であり、その顕現が西郷との駿府会談であった。

 西郷との初会談・交渉で「全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さ、それは正に武士としての絶対忠誠心を理念として昇華させた強固で真摯な抵抗精神」を持って説得。
西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と、鉄舟を理解し、納得した結果が江戸無血開城となった。

鉄舟は、世にいわれる秀才・俊秀・才物レベルではない。それを超えた異次元の「無」概念帯、いわば「無という特殊性」世界に到達しているからこそ、大問題解決への「普遍性方策」を引き出し得るわけで、これは鉄舟でしかでき得ないことである。

したがって、会津藩の優れた人材がいくら和平手段に投入されたとしても、成果を得るのは難しかったであろう。東北の地に鉄舟は存在し得なかったのである。

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