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2016年8月

2016年8月27日 (土)

 鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その十一

慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いに敗れ、会津藩主松平容保、桑名藩松平定敬(さだあき)らは徳川慶喜に拉致されるがごとく軍艦開陽丸にて大坂湾から江戸に戻った。
慶喜は上野寛永寺に謹慎蟄居し、静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、上野輪王寺宮公現法親王ルートで打開工作を図ったがいずれも不調、最後の奇策ともいえる鉄舟投入による駿府掛けによって、西郷隆盛と和平交渉が成功、江戸無血開城に結びつき、東海道筋の戦いは回避された。

一方、容保は江戸城登城を禁じられ、藩主を辞任、家督を喜徳に譲り、新政府軍に嘆願書を送った。それも二度、発したという.

一度目は、慶応4年2月16日、会津帰国へと、江戸を発つ際に、輪王寺宮公現法、尾張徳川家以下22藩を通じて、朝廷に恭順の嘆願書を提出した。(参照『会津落城』星亮一)

二度目は、司馬遼太郎が『王城の護衛者』で次のように書いている。
「22日、会津若松城に入った。容保にとって七年ぶりの帰国であった。帰城後、慶喜の恭順にならって謹慎屛(へい)居(きょ)し、京都の恩命を待った。が、恩命のかわりに会津討伐のうわさが聞こえてきた。やがてそれが事実となった。容保は何度か京都方へ嘆願書を送った。その嘆願書は数十通にのぼった。が、ことごとく容れられず、ついに奥羽鎮撫総督の討伐をうけることになった。容保は開戦を決意した」

Photo_2

(写真は会津若松城の司馬遼太郎文学碑)

このように二度にわたって罪を待つ姿勢を明らかにしたのであるから、戦争を回避できる可能性はあったはずだが、白河口戦いの大敗から会津籠城抗戦、9月22日落城となった。
慶喜の嘆願は受け入れられ、容保は拒否された。その違いの要因は何か。それを以下の3項目から検討してみたい。
1. 嘆願書を受け渡す相手は適切だったのか
2. 嘆願書を送り届ける人物を的確に選定したのか
3. 鉄舟に比肩しうる人物は存在したのか

1. 嘆願書を受け渡す相手は適切だったのか

これは和平を図るための、基本戦略項目である。嘆願書を受け取った人物が、新政府内でどの程度の力量能力を要しているのか。それによって嘆願書目的の効果が決まるわけで、これを誤ると無駄な嘆願書になってしまう。

鉄舟の場合はどうであったか。
上野寛永寺大慈院一室で、慶喜から直接命を受けた鉄舟、その後、どのような行動を採ったのか。それについて「西郷氏と応接之記」に次のように鉄舟が記している。
「余は、国家百万の生霊に代りて生命を捨るは素より余が欲する所なりと、心中青天白日の如く一点の曇りなき赤心を一二の重臣に謀れども、其事決して成り難しとて肯ぜず。当時軍事総裁勝安房は余素より知己ならずと雖も、曽て其胆略あるを聞く。故に往て之を安房に謀る」

一介の旗本に過ぎず、一度も政治的立場に立ったことがない者が、幕府存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受けたのである。一般的にそのような状況に立ち至ったとき、どのような行動を採るであろうか。

常識的には政治的立場の上層部に相談するであろう。鉄舟も同じであった。何人かの幕府上層部人物を訪れ、相談し指示を仰いだのであるが、皆、単独で交渉に行くなど無謀であり、不可能であるからといって相手にしてくれない。

そこで、最後に、今でいえば当時の首相の任にあった、軍事総裁としての海舟のところに向かった。

鉄舟と会った海舟は、一瞬にして鉄舟の本質を理解し、それを海舟日記に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」(慶応4年3月5日)と記し、その上、後年、海舟は次のように回想している。

「おれにことの仔細を告げて、答弁を求められたけれども、おれもこれまで山岡のことは、名だけ聞いていたけれども、いまだその心事がしれんから、即答せずにひそかに山岡の言動を察するところ、なんとなく機の失うべきでないことを悟っているふうに見えたから、おれが山岡に問いを発した。『まず、官軍の陣営に行く手段はいかにするや』と。山岡答えて、『臨機応変は胸中にある』と縷々と説明したが、毅然とした決心の固いのには感服したよ」

 海舟と相談した結果、交渉する相手は「駿府にいる西郷隆盛」であると、両者の見解は一致した。つまり、徳川側は、西郷を時の新政府軍における実権者として明断していたのである。

 これに対し容保が送った嘆願書宛先の人物は誰であったか。

「輪王寺宮公現法、尾張徳川家以下22藩」へ江戸から送ったとあるが、輪王寺宮公現法は慶喜から依頼受け、駿府まで向かったが不調に終わっているように、交渉力に疑問がつく。

尾張徳川藩主慶勝は容保の実兄ではあったが、尾張藩内では反幕団体である金鉄党を重く使い、外国との開港に勅許絶対必要論を唱えたので、井伊大老の逆鱗に触れ、慶勝は引退させられ弟茂徳が就封した。

その後、桜田門外の変で井伊大老が失脚、復権し、元治元年(1864)の第一次長州征討では総督となり、謝罪の意を表した長州藩に寛大な処置をとり、再征のときは将軍を諌止したように、長州の理解者だった。

鳥羽伏見の戦いの後、慶勝は金鉄党の藩士を率いて名古屋城に戻ると、直ちに佐幕派の重臣を朝命として斬首。これは問答無用の「青葉松事件」といわれる一種のクーデターで、尾張藩は勤皇討幕宣言をし、戊辰戦争にも参加したように、容保の期待に応え得る人物ではなかったはず。

このような立場にあった慶勝を、容保も十分に分かっていたはずだか、実兄という肉親の情を頼って嘆願状を送ったと思われる。だが、効果は全くなかった。人選誤りである。

広く深く情報収集活動を行って、慶勝以外の会津藩にとって味方となれる人物を定め、そこへ的を絞ることが必要であったろう。

では、新政府側で誰がその候補として考えられたのか。諸資料を検討してみると、次の二人が浮かんできた。

ひとりは薩摩藩の島津久光である。文久3年(1863)の八月十八日政変で京都を追われた、長州側は「これは孝明天皇の意志にあらず」と妨害情報を流し、攪乱戦術に出た。
その際、久光が容保に対して語った言葉から、久光が容保に対して好意を持っていた、と推測できる。(参照『会津藩VS薩摩藩』星亮一)

「薩摩の島津久光も動いた。精力的に各藩の有力者との会談に臨んだ。一橋慶喜や松平春嶽、山内容堂、伊達宗城らに上京を求め、会津藩首脳とも会談を重ね公武合体を推し進めた。

久光は今や政界のキーマンである。会津人に対する寸評もあった。会津の公用人秋月悌次郎、広沢安任を次のように評した。
『会津藩中、有志の者なり、しかれども幕(ばく)幣(へい)、消失せざる心地す』
有能な人材だが、幕府を背中に背負っている。幕府のにおいがするというものだった。
ところが、容保の印象は違っていた。
『主人は随分幕幣もなき心地する』と語った。
容保は至誠の人である。それがにじみ出ていて、百戦錬磨の久光も一目置く存在だった。
薩摩の歴史家芳即正の『島津久光と明治維新』にその記述がある」
加えて、同書で次のようにも述べている。
「会津と戦争が始まると、久光は容保のことを気にかけ、『寛典をほどこせば。戦争は早く終わるのではないか』と西郷らに書簡を送っていた。
もともと久光は討幕には批判的だった。しかし、藩論が討幕に傾くと、それはやむをえぬことだと西郷や大久保の行動を黙認した」

この主張の背景には、文久3年(1863)末から翌元治元年(1864)初頭にかけて組織化された参豫会議の存在があった。参豫は朝議参豫で以下の6名によって、京都朝廷の諮問に応じて国の最高方針を審議する役目であった。

将軍後見職  一橋慶喜
京都守護職  松平容保
前越前藩主  松平春嶽
前土佐藩主  山内容堂
前宇和島藩主 伊達宗城
薩摩藩主の父 島津久光

この参豫会議で久光と容保は出会っていたわけで、容保という人物への理解が深まったと推定する。

もうひとりは大村益次郎である。(参照『徳川社会と日本の近代化・会津戊辰戦争の戦後処理問題をめぐる一考察』岩下哲典)

「会津藩士の高嶺秀夫は、会津の母にあてて『彼の大村と申者長州人に御座候て、軍務監相務め、当時枢要の役に御座候て人物の由、我国の事ども皆彼の周旋に御座候由、彼死し候はば大に不宜候乎と存申候』と書いている。

この意味は、会津の戦後処置は大村の斡旋で行われたもので、大村が明治2年(1869)9月4日京都にて襲撃され、11月5日に死去したことを惜しんで、会津にとって大いによろしくないと書き送ったものである」

また、「報国隊士加茂水穂は、大村益次郎が会津若松落城の日を予測しながら『朝敵ではあるけれど、決して一己の私の為に賊を働いたと云ふ訳でもない。併し今日落城だと思ふと、甚だ気の毒なことに思い升』と大総督府の有栖川宮熾仁親王に語ったという話を伝えている。大村は、単なる賊と近代戦争における敵軍とをきちんと区別しているのである」ともある。

以上を勘案すると、嘆願書を送る相手としては、島津久光と大村益次郎に絞る戦略を取るべきだったと考えたい。

2. 嘆願書を送り届ける人物を的確に選定したのか

次の検討は、嘆願書を送り届ける、つまり、島津久光と大村益次郎に対して対で交渉できる強力な人物、それは鉄舟と同じレベルの人材を意味するが、その選定が鍵である。
慶喜の場合、鉄舟の義兄である高橋泥舟の推薦により、鉄舟が使者として選ばれたが、これは鉄舟が類稀なる人物であると、泥舟が知り抜いていたことが大きい。

鉄舟と泥舟、お互い身近な存在、日頃から切磋琢磨し合った間柄であったから、泥舟は自信を持って慶喜に推挙、結果は大成功、江戸無血開城が成立したわけで、使者の人選が交渉を為すために、重要で大事な要件であることを教えてくれる。

では容保が、仮に久光と大村に嘆願書送り届けるとしたら、会津藩士から誰を選ぶべきだっただろうか。

それを示す資料は残念ながら見当たらない。それもそのはずで、人選したという記録がない、というより容保が「誰を送付人=交渉人」として思考したどうかも疑問であるので当然だが、会津藩には有能な人材がいたはず。

会津には「会津藩に家老なし」という言葉があった。戊辰戦争以前、会津藩の家老は世襲制で、前例を第一とする保守主義が蔓延しており、藩内の有能な人材を発掘する努力がなされていないのが実情であった。

ところが、容保が京都守護を拝命したのが文久2年(1862)閏8月、準備を経て12月24日藩兵1000名率いて、京都に入り黒谷の金戒光明寺に本陣を置き、これからまる5年間、容保は京都にあって、幕末政争史に関わっていくことになった。

この時点で容保はハタと気づく。会津藩の旧態然とした保守主義組織が京都で通用するはずがないと。

そこで新たに「公用局」を設置した。ここは渉外、政策立案、情報収集を担当する、いわば藩の外交官という役割であるから、局員は身分にとらわれず適材適所、有能な人材を登用したのである。それが以下の人物等であった。

  田中土佐(家老)   野村佐兵衛(留守居役) 小室金吾(奥番) 外島機兵衛(留守居役)
    柴秀次(公用方)   大庭恭平(後に密偵)  柿沢勇記(公用人物書之勤)
    宗像直太朗(公用人物書之勤) 秋月悌次郎(公用役)  広沢安任(公用役)

彼らが京都内外で活躍することになるが、そのような組織があったからこそ、容保は京都で5年間の任務を全うできたのである。

この公用方の中で、鉄舟に匹敵する人物がいないかどうかを、『幕末会津藩士銘々伝』(編者 小桧山六郎、間島勲)から読み解きつつ、編者の間島勲氏に会津若松でお会いしお聞きしてみた。

間島氏は外島機兵衛に注目したいと即発言された。

機兵衛は公卿や諸藩の士とも広く交友し、特に、熊本藩の上田久兵衛一徳(京都留守居役)とは親交が厚く、久兵衛の書状や日記を翻刻した『幕末京都の政局と朝廷』(宮路正人編)の解説で、宮地氏は「会津藩では外島機兵衛との接触が最も多い。会津公用方の中で第一の切れ者ではなかったろうか」と述べているように、公用方の中で、機兵衛の存在が大きかったことを間島氏が指摘された。

但し、機兵衛は、残念なことに会津藩が江戸に戻り、殆どが国元に帰った際、容保の命で江戸に留まっていた3月7日、突然、病死してしまった。43歳であった。

この3月7日という日付、これが大事である。鉄舟が駿府で西郷と会談したのが3月9日、江戸に戻って大久保一翁と海舟に報告、次いで直ちに上野寛永寺大慈院一室に謹慎・蟄居している慶喜にも報告した。慶喜が恭順の姿勢を示した謹慎・蟄居、その真意がようやく官軍に伝わったのである。慶喜の喜びは「言葉に表せない程」であった。

早速に江戸市中に高札を立てて布告した。その大意は「大総督府下参謀西郷吉之助殿へ応接がすんで、恭順謹慎の実効が相立つ上は、寛典の御処分になることになったから、市中一同動揺することなく、家業にいそしむように」であり、この高札によって江戸市民はようやく一安心できた。

この高札、機兵衛が元気であれば、直ちに食い入るように見つめ、こういう交渉方法があるのかと悟り、容保に新政府との和平交渉を進めるよう提案したのではないかと推察する。

だが、期待の機兵衛は病没、したがって、間島氏は、鉄舟の駿府がけの功績を容保は知らなかっただろうと述べられた。

この発言は、機兵衛以外の有能な江戸在勤者の可能性を否定している。容保が江戸から会津へ帰国する際、今後の展開、それは戦うにせよ、和平交渉を行うにしても、とにかく新政府の情報をくまなく集め分析することは重要であろう。だが、江戸に情報収集機能をつくらないで会津に帰ってしまう。ここにも会津藩の情報に対する感度の鈍さが表出している。
どうも会津藩全体の底流に、情報という重要で大事な要素を軽視する体質が存在していたと思わざるを得ない。

具体例として白河口に続く母成峠の戦い時の失敗を述べたい。

白河口の戦いを勝利した新政府軍は、大総督府の参謀・大村益次郎が「枝葉(会津藩を除く奥羽越列藩同盟諸藩)を刈って、根元(会津藩)を枯らす」と仙台・米沢への進攻を指示したが、現地にいる参謀・板垣退助と伊地知正治は逆に「根元を刈って、枝葉を枯らす」と会津攻めを主張し、板垣・伊地知の意見が通り、新政府軍は会津へ向かうことになった。

会津へ入るには何か所かの街道がある。その中で会津藩が特に警戒して防御を固めたのは会津西街道(日光口)と勢至堂峠(白河口)と中山峠(二本松口)であり、会津藩は新政府軍が中山峠に殺到すると予測した。

だが、新政府軍はその裏をかくかたちで、母成峠へ板垣・伊地知が率いる主力部隊1,300兵と土佐藩の谷干城が率いる約1,000兵、さらに別働隊として薩摩藩の川村純義が率いる300兵を送った。

守備は旧幕臣の大鳥圭介軍を中心にした800兵、必死に防衛したが多勢に無勢で敗走となった。

ところが、この戦いで敗れたことが、会津若松城本陣には連絡が入らず、たまたま猪苗代に出かけた藩士が急報し、半日後にやっとわかる始末だった。そのとき、軍事局の面々は、唖然呆然とし、ただただ顔を見合わせるばかりだったという。

会津の国境は広大である。情報伝達のうえで、騎兵は絶対に欠かせないものだったが、その編制はなく、連絡体制の不備は、その後の戦いに決定的な影響を与えた。(参照『会津落城』星亮一)

このように戦いの現場における情報連絡体制のお粗末さに加えて、もうひとつ大事な背景要素は、西国諸国に比べて国際情勢を含む変化時流に対する感度の鈍さ、これは会津藩だけの問題ではなく、東北諸藩に共通する欠陥といえるが、これが武器装備、兵の近代的訓練度などに影響し、敗戦につながっていく。

3. 鉄舟に比肩しうる人物は存在したのか

 鉄舟は一生涯修行を貫き、「大悟」・「無」境地へ到達した。
明治20年(1887)、四谷仲町にあった鉄舟邸において、門人たちの求めに応じ、「無」境地について、次のように語っている。(参照 『山岡鉄舟の武士道』)

 「その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境地に入り、真理を理解し開梧せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう」

 鉄舟が求めたのは、極限まで無化された状態にほかならないが、同時に、そこは創造の力にあふれる「無」の世界でもあった。

つまり、無我の境地に到達することで、ありとあらゆる場面が迫ってきても、常に創造の力にあふれる解決策を見出し、新しい方向を切り開いていく。これが修行で達した鉄舟の「大悟」であり「無」境地であり、その顕現が西郷との駿府会談であった。

 西郷との初会談・交渉で「全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さ、それは正に武士としての絶対忠誠心を理念として昇華させた強固で真摯な抵抗精神」を持って説得。
西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と、鉄舟を理解し、納得した結果が江戸無血開城となった。

鉄舟は、世にいわれる秀才・俊秀・才物レベルではない。それを超えた異次元の「無」概念帯、いわば「無という特殊性」世界に到達しているからこそ、大問題解決への「普遍性方策」を引き出し得るわけで、これは鉄舟でしかでき得ないことである。

したがって、会津藩の優れた人材がいくら和平手段に投入されたとしても、成果を得るのは難しかったであろう。東北の地に鉄舟は存在し得なかったのである。

2016年8月19日 (金)

「江戸無血開城」論考 (2)「パークスの圧力」(サトウ・ルート)

江戸城無血開城」論考(2)「パークスの圧力」(サトウ・ルート)

                                                水野靖夫

【1.パークスの圧力】

山岡鉄舟が道筋を付けた「江戸無血開城」。これに関しては、イギリス公使ハリー・パークス卿が西郷隆盛に、江戸総攻撃を止めるよう説いた、という説がある。その内容は「既に恭順(降伏)している徳川慶喜を攻めること、まして命にかかわる厳刑を課すことは、国際法(国際世論のこと)に違反している。

だから江戸総攻撃(戦争)は止めるべきである」というものである。そしてこれが慶応4年3月13・14日の西郷と勝海舟の会談において、西郷に対する「圧力」となり、「江戸無血開城」の大きな決め手となったというのである。これが「パークスの圧力」と呼ばれているものである。

この「パークスの圧力」については次の2つの経路がある。

(1)勝海舟が、13・14日の西郷との会談以前に、通訳官のアーネスト・サトウに会い、サトウを通じてパークスに工作し、西郷に圧力をかけた。(サトウ・ルート)

(2)木梨精一郎・渡辺清がイギリス公使館を訪れ、江戸城攻撃の際の負傷兵のために、病院の世話を依頼した際に、パークスから上述した内容を告げられ、これが西郷・勝会談の直前に西郷に伝えられ、西郷にとって圧力となった。(木梨・渡辺ルート)

まず(1)の「サトウ・ルート」を考察する。すなわち、勝は西郷との会談(13・14日)以前にサトウに会い、パークスから西郷に圧力を加えるよう依頼したのであろうか。勝がこの工作をしたとするならば、勝は西郷・勝会談前にサトウに会っていなければならない。

そこで勝がこの会談前にサトウに会ったか否かを検討する訳であるが、結論だけを述べたのでは、本論考が諸説の中の一見解になってしまう。そこで世間に流布されている諸説を点検し、なぜそのような説が流布しているのかを解明しておきたい。
【2.「江戸無血開城」のテレビ放映】
まず前回5月20日の「(1)山岡鉄舟は、勝海舟の使いだったのか」と同様、テレビ番組の放映内容を見てみたい。
(1)THE歴史列伝」BS-TBS 2015年11月13日「江戸無血開城 勝海舟」
(2)「片岡愛之助の歴史捜査」BS-日本テレビ 2015年12月10日「幕末のネゴシエーター勝海舟」

の2つである。

まず(1)の「THE 歴史列伝」では「戦争になれば貿易が出来ない状態になり、イギリスは不利益を被るから、パークスは西郷に、江戸攻撃を中止するよう働きかけた」と言っている。ただしパークスが西郷に「いつ」働きかけたかは述べていない。また勝からの工作ではなく、パークス自らの考えであるかのように述べている。

これに対し(2)の「片岡愛之助の歴史捜査」では、サトウの著書『一外交官の見た明治維新』(岩波新書)(以下『サトウ回想録』と呼ぶ)に≪私(サトウ)の入手した情報の主な出所は勝安房守であった≫、≪私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた≫と書いてあると紹介。

また『海舟日記』に≪英吉利人来訪≫と書いてあると紹介し、「勝はサトウとたびたび会っていたようだ」「サトウと接触して、江戸無血開城という形で決着を付けたいというメッセージを、サトウを通じてパークスに伝えた」「イギリスを通じて西郷にプレッシャーをかける、これが西郷を追い詰める一手だった」と解説している。ここでは『サトウ回想録』『海舟日記』を根拠に、勝は西郷との会談前にサトウに会い、パークスを通じ西郷に圧力をかけるよう働きかけたと主張している。

【3.識者の見解】

「パークスの圧力」について、学者・作家・評論家等の識者はどのように考えているであろうか。主な説を年代順に列挙すると次のようになる。

(1)1940年 田中惣五郎 『勝海舟』 ≪山岡と西郷の表立った堂々たる会見、勝とサトウの忍びやかの會見、それが同じ日に行はれたのであった≫。田中はそう指摘しつつ、『サトウ回想録』の第31章冒頭部分を引用している。

(2)1974年 江藤淳 『海舟余波』 ≪鉄舟山岡鉄太郎が、駿府に到着して西郷吉之助と会見したのは、3月9日のことであった。……しかし、この同じ日、江戸でひそかにおこなわれていたもうひとつの重要な会談については、人は意外と知るところが少ないのである。

それは軍事取扱勝安房守義邦と、英国公使館通訳官アーネスト・サトウとの秘密会談である。サトウはそのメモアールに記している。「3月31日(和暦3月8日)に私は(以下略)」≫。(以下略)の部分は『サトウ回想録』第31章冒頭部分である。メモアールは回想録のこと。

(3)1974年 石井孝 『勝海舟』 ≪9日には江戸に出た。サトウは、江戸ではもっぱら海舟と接触している。彼は人目をひくのを避けるため、暮夜ひそかに海舟を訪問することにしていた。

このようなわけで、パークス・木梨会談の内容もただちに海舟に報告されていたであろう≫。≪おそらく、13日パークスと木梨との会談が行われるのを知っていた海舟は、西郷との本格的な会見を14日にのばしたのであろう≫。

1975年 石井孝 『明治維新の舞台裏』 ≪パークスに同行して兵庫から横浜に帰った翌日の3月9日、サトウは江戸に出て来たそれ以来彼は、暮夜ひそかに勝を訪れていたという。そういうわけで、サトウを介して勝とパークスの間には、意思の疎通があったと思われる≫。

(4)1987年 海音寺潮五郎 『江戸開城』 ≪こんな時、サトウは主として勝から情報を得ることにしていたと、『維新日本外交秘録』(※)に書いているが、この時は当座勝の家には行かなかったようである。勝からもらったと思われるような情報も全然書いていない。

この時点で、サトウが勝のところへ行ったのは、彼が3月20日から3日がかりでまた江戸に出た時からであったようだ。それはすでに勝と西郷との間に2回の会見があってからである≫。海音寺は前出3氏とは異なり、西郷・勝会談以前の勝・サトウの面会を否定している。(※)『一外交官の見た明治維新』の前身。昭和13年に文部省の維新史料編纂事務局で翻訳。

(5)1989年 高野きよし
 『勝海舟』 ≪西郷はこのことを海舟に知らせてはいないが、おそらく海舟のほうは、パークスの書記官アーネスト・サトウを通じて知っていたであろう≫。高野氏は勝とサトウの間に事前の面会・情報交換があったことを肯定的に捉えている。

(6)1992年 勝部長(みたけ

『勝海舟』 ≪勝のほうも、西郷との会談前には、まだパークスとは会っていないし、パークスが慶喜助命に有利な発言を第三者にしていることは知らずにいたようである。勝がイギリス公使館側と連絡が取れたのは、21日になってからである。

通訳のアーネスト・サトウがやってきて話しこんだ≫と、勝部も、勝は西郷との会談以前にはサトウと会っていないとしている。なお文中に萩原延壽の『遠い崖』(7巻「江戸開城」)(これについては【9.萩原延壽の『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』】で説明する)に触れている部分がある。

(7)1998年 加来耕三 『勝海舟 行蔵は我にあり』 ≪一説には、西郷はこの一件をひた隠しにしていたものの、一方の海舟はこの話を、かねて親交のあったアーネスト・サトウ(英国公使館員)を通じて聞いていたという≫。

ここでいう「この一件」とは別途論考する「木梨・渡辺ルート」のことであるが、それを勝がサトウから聞いていたということは、サトウが1回目の江戸派遣時に勝に会っていなければあり得ない話である。加来氏は「一説には」と断りながらも、勝が西郷との会談前にサトウと会っていたことを否定はしていない。

それどころか≪とすれば、海舟、西郷ともそんなことは素知らぬ顔の大芝居ということになる≫と自説の補強の一助にしている。

(8)2003年 津本陽 『勝海舟 私に帰せず』 ≪麟太郎は、横浜のイギリス公使パークスの意向を伝える通訳アーネスト・サトウとしばしば会っていた『一外交官の見た明治維新』に、サトウは次のように述べている≫。ここで津本氏は『サトウ回想録』第31章冒頭部分を引用している。麟太郎は勝海舟のこと。

(9)2010年 松浦玲 『勝海舟』 ≪パークスのところに勝安房の工作が届いていたのではないかという憶測もあった。勝安房守工作説は『江戸開城』(萩原延壽『遠い崖』7)で明瞭に否定された。パークスはサトウを江戸に送って情報収集に努めさせたにも拘わらず、この時点では勝安房守に接触できていない

したがって逆の接触もあり得ない≫。ここでいう「この時点」とは、サトウの1回目の江戸派遣時、西郷・勝会談前のことである。

(10)2011年 星亮一 『勝海舟と明治維新の舞台裏』 ≪早速、駐日英国公使ハリー・パークスに働きかけ、江戸攻撃をやめさせることをしなければならない。パークスを訪ね、同意を得た。……こうしておいて海舟は、西郷に書簡を送ったとされる≫。星氏は、勝が西郷との会談前に、サトウどころか直接パークスに会い、江戸攻撃中止を働きかけたと言っている。

以上のように、(1)田中惣五郎、(2)江藤淳の両氏は、『サトウ回想録』第31章冒頭を引いて、サトウの1回目の江戸派遣日の3月9日に、すぐに勝を訪ねたと書いている。

(3)石井孝、(5)高野澄、(7)加来耕三、(8)津本陽の各氏はいずれも、勝は西郷との会談以前にサトウに会い、パークスの意向を知っていたと記している。(10)星亮一氏に至っては、勝が西郷との会談以前にパークスに会って江戸攻撃中止を働きかけたとまで書いている。

これに対し(4)海音寺潮五郎、(6)勝部真長、(9)松浦玲の3氏は、西郷・勝会談以前の勝・サトウの面会を否定している。海音寺は、両者が会ったのは20日以降、勝部も21日以降と述べている。勝部と松浦両氏は、萩原延壽の『遠い崖』に触れている。

 【4.『サトウ回想録』の記述】

それでは『サトウ回想録』にはどのように書かれているのであろうか。少し長いが、第31章冒頭を引用する(資料②190頁)。(日付は西暦で書いてあるが、煩雑さを避けるためすべて和暦で表示する。以下同じ)。

≪3月8日に私は長官と一緒に横浜に帰着し、3月9日には江戸へ出て、同地の情勢を探ったのである。

私は野口と日本人護衛6名を江戸へ連れて行き、護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた。私の入手した情報の主な出所は、従来徳川海軍の首領株であった勝安房守であった。私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた。

官軍の先鋒はすでに江戸の近郊に達し、前衛部隊は品川、新宿、板橋などに入っていた。(以下略)≫。いうまでもなく勝安房守とは勝海舟のことである。

この記述から、ほとんどの学者・作家・評論家等の識者は3月9日にサトウが江戸に派遣されてすぐに勝に会ったと解釈したのである。

『サトウ回想録』は≪これが16日の情報であった≫(資料②191頁)として、その後に2回目の江戸派遣がおこなわれたことを記す。

20日に、3日泊まりでまた江戸へ出かけて見ると、慶喜に申し渡される条件は受諾可能なものと思われたせいか、市中は前よりも平静になっていた。(以下略)≫

そして西郷・勝会談の内容などが詳しく述べられている。

サトウは2回江戸に派遣されている。そしてパークス公使に対する報告書(Memorandum(以下Mと略す)の1回目を16日に出し、その後22日に2回目の報告書を提出しているのだが、後者についての記載は『サトウ回想録』にはない。

横浜開港資料館で入手した1回目の報告書(手書き)が資料①である。最後に西暦1868年4月8日(慶応4年3月16日)の日付とサトウの名前が記されている。ただし「手書き」と言っても、複写機のない時代であり、必ず控えを取るため公使館員が筆写するであろうから、必ずしも「自筆」とは限らない。

この筆跡もサトウの日記の筆跡とは違うようである。署名の左に(Signed)とわざわざ書いてあるのは、原本はここにサトウの署名があることを表しているものと思われる。

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〔資料① サトウの手書きの報告書(Memorandum)1頁と4頁〕

ここでポイントは、西郷・勝会談がおこなわれた13・14日以前に、サトウと勝は本当に会っていたかどうかである。もし会っていなければ、勝はサトウに「パークスの圧力」をかけてもらうよう依頼することは不可能だからである。

『サトウ回想録』の読者がほとんど皆、この会談前にサトウと勝が会ったと勘違いしたのは、サトウの1回目の江戸派遣の箇所に「情報源は勝安房守」「暗くなってから勝を訪問」と書かれているからである。

実は『サトウ回想録』は飽くまでも「回想録」であって「日記」ではない。サトウは同書の序文で≪日記のほとんどを写したが、パークス卿あての手紙などを書き足した≫と記している。そしてさらに重要なことは、サトウ自身が言っているように、この重要な時期に日記を付けていなかったことである。

そのことを第30章(下巻185~186頁)で次のように述べている。

≪私の日記には、これから5月半ばまで少しも記入がない。(中略)私は長官と日本高官との間の通訳や文書の翻訳にきわめて多忙な日を送ったので、日記の方にはとんと手がまわらなかった≫。ここでサトウの言う「これから5月半ば」は西暦であり、和暦に換算すると、日記の空白3月1日から4月22日となる。

 この間に、「5日の東征軍大総督有栖川宮駿府到着、9日の鉄舟・西郷談判、13・14日の西郷・勝会談、4月11日の江戸城明け渡し、徳川慶喜水戸へ出立」という明治維新の大きな出来事があったのだが、サトウは日記に書いていないのだ。

サトウは日記という記録なしで、自分が書いたパークスへの報告書などを基に、54年前のことを思い出しながら『サトウ回想録』を書いたことになる。『サトウ回想録』は慶応4年(1868)から54年後の大正10年(1921)に執筆された。

1回目の江戸派遣時に勝がサトウと会ってパークスに協力を依頼したか否かを解明するには、サトウのパークスへの1回目の報告書に、そのことが書いてあるかを調べればよい。

ほとんどの識者は「3月9日にサトウが江戸に派遣されてすぐに勝に会ったと解釈している」と書いたが、その理由は第31章冒頭の部分が「日記」をもとにした記述であると勘違いし、報告書(M)の文章とも同じだと思い込んだからであろう。

そこでこの部分を、サトウのパークスへの報告書(M)転記部分と、サトウの記憶による地の記述部分とに分けて考えてみたいと思う。

〔1〕1回目の江戸派遣(慶応4年3月9日)

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〔資料② 『サトウ回想録』第31章冒頭(下巻190~191頁)〕

推理を働かせると、資料②190頁1行目の≪私は長官と一緒に横浜に帰着し≫」という書き方は、パークスへの報告書(M)としての文章表現ではではない。それに続く≪護衛6名≫云々も報告書(M)に書くような内容とは思われない。

そして肝心の≪情報源は勝安房守≫はまだしも、≪暗くなってから訪問≫は、どちらかと言えば報告書(M)に書くような内容とは思われず、もし勝に会っていたなら、いつ会ったか、どのような情報を得たかを書くはずである。

したがってこれも報告書(M)の記載内容ではないと思われる。この点は極めて重要なポイントである。

その後の≪官軍の先鋒は……≫(実線で囲んだ部分)は明らかに報告内容と思われる。191頁の1回目報告(M)の最後と思われる≪大砲をおろして、官軍の手に引き渡された≫はいかにも報告書的書き方である。

その後(実線で囲んだ部分の次)の≪これが16日の情報であった≫は報告書の文章らしくない。

ここまで、すなわち1回目の江戸派遣の記述で推測されるのは次の4点である。

(1)≪情報源は勝安房守≫≪暗くなって訪問≫は報告書の文章ではなく、サトウの回顧による地の文である。

(2)≪官軍の先鋒は……≫から≪大砲をおろして、官軍の手に引き渡された≫までが、1回目の報告書の内容である(実線で囲んだ部分)。

(3)1回目の報告書(M)は3月16日に書かれた。

(4)1回目の報告書(M)には、西郷・勝会談の内容や、江戸攻撃中止などが書かれていない。ましてや「パークスの圧力」と思われる内容については全く記載がない。

(5)以上とは少々異なるが、「小さい方の薩摩屋敷は2月14日(原文は西暦3月7日)に同藩の少数兵士の手に返り、薩摩と長州の小部隊が大手を振って江戸市中を闊歩していた」といる部分は、この時点ではまだ官軍は江戸を闊歩していなかったこと、またこの前後の文が3月上旬の事実であることから、違和感のある文章である。しかし煩雑になるのでこの件は本節の最終部分で述べることにする。

以上から分かるのは、サトウは1回目の派遣時には勝に会っていないということである。会っていれば、必ず報告書に書くはずである。13・14日の西郷・勝会談についても把握していなかった。把握していれば、最低限会談が行われたことぐらいは書くはずである。

以上は『サトウ回想録』を、少し注意深く読めば分かることである。

 これらのことから、勝は13・14日の西郷との会談前にサトウには会っておらず、パークスへの工作はしていないことが分かる。

 

〔2〕2回目の江戸派遣(慶応4年3月20日〔正しくは19日〕)

 資料②『サトウ回想録』191頁の≪これが3月16日の情報であった。20日に、3日泊まりでまた江戸へ出かけて見ると……≫という表現も報告書(M)の文章とは思えない。ただこれに続く≪今や徳川軍の総裁となった勝は……≫以降は明らかに報告書(M)の文章表現である。

その中には、勝と大久保一翁とが官軍との談判に当たることになった、と勝がサトウに語ったと書いている。つまりサトウは≪3月20日に3日泊まりで出かけた≫2回目の江戸派遣時に勝と会っているのである。その際に勝から聞いた西郷との会談内容も詳しく書かれている。

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〔資料③ 『サトウ回想録』第31章冒頭(下巻192~193頁)〕

さらに、いわゆる「パークスの圧力」もこの2回目の派遣時のくだりに記載されている。しかも報告書(M)の記述(実線で囲った部分)と地の文の両方にまたがって記されている。すなわち資料③192頁に≪勝はまたハリー・パークス卿に、天皇の政府に対する卿の勢力を利用して、こうした災いを未然に防いでもらいたいと頼み、長官も再三この件で尽力した。

特に、西郷が4月6日にパークス卿を横浜にたずねた時には、卿は西郷に向かって、慶喜とその一派に対して過酷な処分、特に体刑を持って(ママ)むならば、ヨーロッパ諸国の輿論はその非を鳴らして、新政府の評判を傷つけることになろうと警告した。西郷は……と語った≫とある。

ここで注意したいのは長官も再三この件で尽力したというのは、サトウが長官に対して書く文章の表現ではないということである≪未然に防いでもらいたいと頼み≫までが報告書(M)の記述であり、≪長官も再三この件で尽力した≫からが地の文である。

もう一つ分かることは、この部分は報告書の内容どころか、サトウが江戸を去り横浜に帰った後の内容である。なぜならサトウは「20日に3日泊まりで江戸に出た」と書いている。ということは23日に横浜に帰っていることになる。

ところが、192頁には4月6日(3月28日の間違い)に西郷がパークスを訪ねてきたことも記載されている。4月6日が間違いであることは、『海舟日記』やこの時期の西郷の動向から判明できる。いずれにしても、サトウの横浜帰還後のことである。

それではもうすでに報告書の内容記載は終わっているのかと思うと、そうではない。実はどこまでが2回目の報告書の記載内容であるのか判然としないのである。しかしこれに続く段落で≪勝が話した中で≫≪大体勝の意見では≫(資料③193頁太線部分)といった表現を含む部分があり、これは明らかに報告書の記述と思われ、この辺りまでが2回目の報告書と推測される。

ここまでで分かることは以下の6点である。

(1)2回目の江戸派遣は3月20日(※)である。

(2)3月21日にサトウは勝に会っている。

(3)この時、サトウは西郷・勝会談の情報を得た。

(4)江戸には3泊したので、23日(※)に横浜に帰り、パークスに報告したことになる。

(5)いわゆる「パークスの圧力」は、2回目の江戸派遣時の出来事である。

(6)パークスが西郷に会ったのは、4月6日(正しくは3月28日)である。いずれにしても、サトウが横浜に戻った後である。

 (※)について解説したい。サトウの2回目の派遣日は実は3月20日ではない。それはパークスの本国スタンレー外相への報告書作成日から推察できる。サトウ報告書(M)と、パークスから本国への報告書(いずれも横浜開港資料館史料)作成日付は、資料④で分かる通り、いずれも3月22日(西暦4月14日)である。

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〔資料④ 左は2回目のサトウの報告書(M)、右は2回目のパークスの報告書。いずれも4月14日付〕

もしサトウが23日に横浜に帰りパークスに報告したとすると、パークスは22日付のスタンレー外相当ての報告書を書くことはできない。サトウは22日に横浜に帰り報告したのである。江戸に3泊した後、22日に横浜に戻ったことから逆算すると、江戸に来たのは19日ということになる。サトウは江戸滞在期間を1日思い違いしたものであろう。

後述の【7.ハモンド外務次官当て半公信】で詳しく述べるが、パークスがハモンド外務次官に送った4月14日(和暦3月22日)付報告書に、“I sent Satow back to Yedo on 11th ……”(私は11日〔和暦3月19日〕サトウを再び江戸に派遣した)と書かれている資料⑧。このことからもサトウは、20日ではなく19日に江戸に派遣されたことが確認できる。

 以上から、サトウは1回目の江戸派遣時、つまり西郷・勝会談の前には、勝と会っておらず、この会談の情報を得ていなかったこと、「パークスの圧力」も存在しなかったことが一層明らかである。

 ここで、「〔1〕1回目の江戸派遣」で煩雑になるため敢えて後回しにした、(5)の「2月14日(原文は西暦3月7日)」について説明する。

英語の原文を見ないと解明できない記述が『サトウ回想録』にある。その記述とは≪イギリス公使館の間近にある、小さい方の薩摩屋敷は、2月14日に同藩の少数兵士の手に返り、薩摩と長州の小部隊が大手を振って江戸市中を闊歩(かっぽ)していた≫という部分である(資料②190頁実線枠内)

2月14日には、まだ薩摩・長州の官軍は江戸に到着しておらず、江戸市中を闊歩などしていなかった。この僅か2行ほどの短い1文だけが2月中旬のことで、その前後の文(官軍先鋒が品川・新宿・板橋に到着したこと、大総督有栖川宮が沼津に滞在していること)が3月前半の内容というのも文脈として不自然である。しかしこの部分をいくら読んでもこの不自然さは解けない。

この謎は、サトウの報告書原文“Memorandum”を読んで初めて解けたのである。実はこの「2月14日」は原文では“yesterday”となっている(資料⑤左)。この「昨日」とは、報告書作成日(3月16日)の前日、「3月15日」である。3月15日であれば、西郷・勝会談(13,14日)の翌日であり、話の辻褄(つじつま)が合う。

このたった2行の短文には、3月15日の薩摩藩邸近辺の状況が書いてあるにもかかわらず、その直前の13、14日に行われた勝・西郷会談のことが全く書かれていないのである。

サトウがこの近辺に居なかったのかというとそうではない。≪イギリス公使館の間近にある、小さい方の薩摩屋敷≫とあるように、公使館と薩摩屋敷は至近距離にあった。そして≪護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた≫とあるように、サトウは江戸に住む家を持っており、それは当然公使館のそばであったであろうから、薩摩藩邸の近くでもあったと思われる。

そしてその薩摩藩邸で西郷・勝の会談が行われたのである。会談は秘密裏に行われ気付かなかったのかというとそうではない。薩摩屋敷の近傍には官軍の兵が屯集して殺気陰々としており、会談後勝が門を出ようとしたときどっと押し寄せてきた、と勝は言っている。

また会談中に徳川軍の脱走兵とおぼしき50人程の軍装した者が、藩邸の後ろの海に小舟7~8艘で近付いて来て、藩邸内が一時騒然となった、と鉄舟は書いている。こうしてみると、会談はひっそりと隠密裏に静寂の中で行われた訳ではない。

もしマル秘会談なので、勝がサトウに会談のことを伝えなかったとするなら、それこそこの会談前に勝がサトウに「パークスの圧力」を依頼したなどという話はあり得ないことになる。

こうしたことを考え合わせると、このたった2行の短文からも、勝・西郷会談前には「パークスの圧力」(サトウ・ルート)が存在しなかったことが分かる。

実はサトウの報告書(M)(資料⑤左側)に書かれた“yesterday”が『サトウ回想録』に「昨日」ではなく「3月7日」(和暦2月14日)と書かれているのは(資料②190頁)、訳者の間違いかと思ったのであるが、そうではなくサトウ自身の記憶違いであった。

それは『サトウ回想録』の原文“A Diplomat in Japan”には“on March 7”と書いてあるからである(資料⑤右側)。“yesterday”は3月15日、西暦4月7日であるから、サトウは“on April 7”と書くべきであったのだが、何を勘違いしたのか“on March 7”と1か月間違えてかいてしまった。

後述する萩原延壽の『遠い崖』を見てみると「昨日(4月7日・陰暦3月15日)」と書かれている。萩原は“Memorandum”の“yesterday”を見て一応「昨日」と書いたが、これを正しく解釈し、サトウの記憶違いを正していると思われる。

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〔資料⑤ 左コピーがサトウ報告書(M)の“yesterday”。右は“A Diplomat In Japan”の“on March 7と書かれた部分〕

【5.サトウの報告書“Memorandum”と『サトウ回想録』の比較】

こんなクイズを解く様な七面倒臭い遠回りを敢えてしたのには理由がある。それは前にも書いたように、多くの識者が「勝は西郷との会談の前にサトウに会い、『パークスの圧力』を工作した」と誤認している原因を究明したかったからである。

サトウのパークスへの報告書(M)と『サトウ回想録』とを比較してみると、以下のことが分かる。

(1)『サトウ回想録』190頁冒頭部分の、地の分であると推測した部分は、サトウの報告書に書かれていない。≪情報源は勝安房守≫≪暗くなってから訪問≫も同様で、報告書(M)に書かれていない。

(2)3月16日に書かれた1回目の報告書(M)には、サトウと勝が会ったことは書かれていない。西郷・勝会談の内容はおろか、会談のあったことすら書かれていない。「パークスの圧力」の記載もない。

(3)些細な点であるが、191頁中程の≪これが16日の情報であった≫は、サトウの報告書()の最後の署名のところに書かれた作成日で、ここまでが1回目の報告書()の内容である(資料①)。

(4)2回目の報告書(M)に、サトウが勝に会ったこと、西郷・勝会談の詳しい内容が書かれている。

(5)いわゆる「パークスの圧力」についても具体的に書かれている。しかも既に指摘した通り、≪長官も再三この件で尽力した。……西郷は……と語った≫は地の文である。

(6)『サトウ回想録』のどこまでが2回目の報告書()の内容であるかが分かる。それは、資料③193頁の直線で囲った部分の最後の3行に≪大体勝の意見では、自分と大久保一翁とが二人の生命をねらう徳川方の激情家の凶手を免れることさえできれば、事態を円満にまとめることができるだろうというのであった≫という文言があり、これが2回目の報告書(M)の最後である。かつ確かに勝から情報を収集したことが分かる。

『サトウ回想録』の直線で囲った枠の中が、サトウの報告書(M)の転記部分である。

サトウの報告書(M)と『サトウ回想録』とを比較して見てきたが、実は第31章冒頭の1回目江戸派遣時のくだりには、サトウが勝を「訪問した」とは書いてない。「訪問することにしていた」と書いてある(資料②190頁)。『サトウ回想録』の原本“A Diplomat In Japan”には“used to visit”と書いてある(資料⑤右側)。

used to”は過去の習慣(よく……したものだ)を表す用法である。つまりここに書かれている「訪問」は、1回目の派遣時に訪問したというような特定の事実ではなく、この時期にサトウがおこなっていた情報収集の方針・やり方一般を言っているのである。

重要なポイントなので、敢えて繰り返すと、多くの読者はこの「訪問することにしていた」という表現をあまり頓着せず、単に「訪問した」と読んで、サトウは1回目の派遣時に勝を訪問したと思い込んでしまったのである。

 

【6.パークスのスタンレー外相当て報告書】

1回目のサトウの報告書()(資料①)を添付したパークスのスタンレー外相あての報告書(1868年4月9日、慶応4年3月17日)(資料⑥)の内容からも、勝が西郷との会談前にサトウに会っていないことが確認できる。

これには、“I have just been informed on reliable authority”「私が信頼できる筋から入手した情報」として、慶喜への降伏条件7項目が書かれている。萩原延壽は後述する『遠い崖』(7巻「江戸開城」)で、≪サトウが報告書を書き終えたのちに何処かで聞き込みそれをパークスに伝えたのであろう≫(54)と推測しているが、そうではあるまい。

もしそうであれば、パークスは「サトウが信頼できる筋から得た情報」と書くであろう。報告書の文面から判断する限り、これはパークスがサトウ以外の者から聞いた情報であり、かなり正確だが、なぜか肝心の慶喜の処分内容が実際と異なっている。

慶喜への降伏条件の1つとして“surrender of the Taikun into the hands of four daimios named by the Mikado”と記されており、御門の指名する「4大名」へ預ける、と訳せる。しかし実際に示された条件、勝にもたらされた条件は「備前藩」へのお預けである。

パークスがどこから入手したか、なぜ慶喜の処分内容が異なるのかは不明であるが、もし勝からの情報であれば、「4大名」ではなく「備前藩」のはずであるから、いずれにしてもこれはサトウが勝から得てパークスに報告した情報でないことは明らかである。

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〔資料⑥ パークス公使のスタンレー外相当て報告書慶応4年3月17日1頁と2頁〕

【7.ハモンド外務次官当て半公信】

「パークス公使がハモンド外務次官当てに送った半公信」(以下「ハモンド・ペーパー」と呼ぶ)から、勝海舟がサトウに「パークスの圧力」を工作した事実のないことを証明する。取り上げるのは「慶応4年3月17日(1868年4月9日)付と慶応4年3月22日(1868年4月14日)付の「ハモンド・ペーパー」である。

ちなみに当時、駐日イギリス公使館とイギリス外務省の間でやり取りされる外交文書は、横浜と欧州を結ぶ定期航路によって運ばれていた。その航路にはイギリス便(P&O社)と、フランス便(帝国郵船MIMsessageries Imperial〕)があり、イギリス便(P&O)が月2回、フランス便(MI)が月1回航行していた。つまり平均月3回の定期便があったことになる。

上記「ハモンド・ペーパー」はそれぞれ3月17日のイギリス便、3月22日のフランス便で送られたものである

〔資料⑦「ハモンド・ペーパー」 慶応4年3月17日(1868年4月9日)〕

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〔資料⑦-1 冒頭部分〕 〔資料⑦-2 最後の部分 〕

発信地“Yokohama”、半公信“Private”     “Harry S. Park”の署名がある。

そして発信日“April 9.1868”が見られる。

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〔資料⑦-3 触りの部分 〕                       〔資料⑦-4 触りの部分⑦-3の続き〕 

【触りの部分】

We have, I think, secured the safety of Yokohama and can afford to watch the progress of events at Yedo.  It is very desirable, however, we should have responsible Japanese authorities to communicate with. And those probably only exist on the Mikado’s side. All the men of the old administration appear to have suffered an entire collapse.

我々は、横浜の安全が確保されたことにより、江戸における事態の進展を見守る余裕ができた、と考えます。しかし、我々が連絡を取る日本当局の責任者とのパイプを持っておくことが非常に望ましいのですが、それは多分御門の側にしかいないでしょう。旧政権(幕府)の当局者は皆、全面的崩壊に苦しんでいるように見えます。

 〔資料⑧ 「ハモンド・ペーパー」 慶応4年3月22日(1868年4月9日)〕

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〔資料⑧-1 1頁目 発信日April 14 〔資料⑧-2 2頁目 〕(和暦3月22日)〕

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〔資料⑧-3 最終5頁目(パークスの署名)〕

Private

Yokohama

April 14, 1868

Dear Sir

 I send this note by the French Mail, but our own will follow in from days time. And there is no change whatsoever in the situation since I wrote you last on the 9th Inst.

While a negotiation is being nominally conducted with a high Mikado’s Envoy

and the Ex-Tycoon, the real business is being carried on by men in the less prominent position.

I have found out who these are, Kats Awano Kami on the part of the latter & Saigo on the part of the Mikado. I know both men rather intimately, and I sent Satow back to Yedo on the 11th to open communication with Katzs. 

半公信

                              横浜

                              1868年4月14日

親愛なる閣下(ハモンド外務次官のこと)

私はこの報告書をフランス便(*)で送りますが、数日後には我がイギリス便(*)が続いて出るでしょう。

名目上の交渉は、御門の側のしかるべき高官と前将軍との間で行われるものでありますが、実質的な交渉は、その下の地位にある人物によって行われます

①私は、その人物が誰であるか、後者の側は勝安房守(勝海舟)であり、御門の側は西郷(隆盛)であることが分かりました。私はこの両者をかなりよく知っております。そこで私は②11日(和暦3月19日)に、③勝と情報交換を開始するため④サトウを再度江戸へ送り返しました

 この2通の「ハモンド・ペーパー」から以下のことが明らかになる。

 実質的な交渉の責任者が誰であるかが分かった

「ハモンド・ペーパー」(3月17日付)には、連絡を取る日本当局の責任者について、≪それは多分御門の側にしかいないであろう≫と書いてある。つまり317日時点では、パークスは、旧幕府側には連絡を取るべき相手はいない、と思っていたのである。言葉を変えれば、勝は未だ交渉の相手とは見做されていなかったということである。

ところがその次の「ハモンド・ペーパー」(3月22日付)には、旧幕府側にも連絡を取るべき相手がいて、それが勝安房守(勝海舟)であることが分かったと言っている。

 2回目のサトウの江戸派遣日はやはり19日だった

そして旧幕府側の交渉相手が勝ということが分かったので、サトウを再度19日に江戸に派遣したのである。すなわち旧幕府側の交渉相手が勝だと分かったのは、17以降19日以前ということが分かる。

なお、サトウの2回目の江戸派遣が、実は『サトウ回想録』に書かれている3月20日ではなく、その前日の19日“on the 11th(西暦4月11日)”であることは、すでに【4.『サトウ回想録』〔2〕2回目江戸派遣】で述べた。

 勝との情報交換を「開始」するためサトウを派遣した

to open communication with Katzs”「勝との情報交換を開始するため」という表現は、今回の江戸派遣で初めて勝と接触することを意味している。もちろんパークスは勝を(西郷も)よく知っているとは言っているが、それは以前勝がもっと下の地位のときのことであり、交渉の責任者、キーマンとしての勝ではない。

ここでの“open”は文字通り「開始する」という意味である。サトウが1回目の派遣時に勝と会っていれば、“open”「開始する」などという表現は使わない。「勝を再度訪問するため」“to visit again”や「西郷・勝会談の情報を聞き出すために」“get the information”というような言い方をするはずである。萩原も『遠い崖』(7巻「江戸開城」)で≪勝とイギリス側との接触が始まるのは、このときからである≫(56)と述べている。

④ サトウを再度江戸に「送り返した」

また“sent Satow back to Yedo”と“again”ではなく“back”を使っている点も見逃せない。この当時イギリス公使館は横浜と高輪泉岳寺前とにあった。後者は、横浜では江戸の情報を入手するには不便なため設置された第二義的なものであり、サトウは江戸に住居を持ってはいたが、常駐場所は飽くまでも横浜であった。となれば、サトウは江戸へ「再度送り出される」のであって、「送り返される」のではないはずである。

パークスは、1回目の派遣時にサトウが、西郷・勝会談がおこなわれていたにもかかわらず、その情報を掴んでこなかったため、敢えて「江戸へ送り返した」という表現を使ったのではないだろうか。サトウは1回目の派遣時には情報収集に失敗したのである。そのことについてパークスは不満があったと思われる。

萩原は、1回目の派遣を終えサトウが帰った後、2回目の派遣をする前の状況を、≪サトウにしては物足りない感をいだかせる江戸での情報探索をおえて≫(53)、≪パークスにしてみれば、旧知の西郷と勝のふたりが和戦の鍵をにぎっていることを、なぜもっと早く知りえなかったかと言う悔いがあったかもしれない≫(56)と表現している。 

この“back”という単語には、パークスが、多分サトウもそうであろうが、1回目の江戸派遣時には勝がキーマンであることを知らず、それゆえ、勝に会わず重大な情報を得られなかった無念さが滲み出ているように思えるのである。

さて以上から、「2回目の派遣時に初めて会った」ということと、「1回目の派遣時には会わなかった」ということは、事実は同じであっても、意味合いが違う。後者は、だからパークスは無念であったのであり、そしてなお重要なことだが、勝はサトウに「パークスの圧力」を工作することができなかった、ことを証明しているのである。

 

【8.『海舟日記』のサトウ訪問日】

【2.「江戸無血開城」のテレビ放映】で触れたように、『海舟日記』(慶応四戊辰日記)に≪廿一日 英吉利(いぎりす)人来訪。我が心裡を話す。彼義(よしと称すと書かれている。別の『海舟日記』(幕末日記)には≪廿一日 英人サトウ来訪≫とサトウの名が明記されている。もし勝が21日以前にサトウに会っていれば、日記にそのことが載っているはずであるが、この時期の『海舟日記』には、これ以前にサトウと会ったという記述はない。このことからも勝がサトウに会ったのは21日が初めてであることが分かる。

ところがBS-日本テレビの「片岡愛之助の歴史捜査」では、『海舟日記』の「英吉利人来訪」の記述にスポットライトを当て、勝はサトウと接触し、「パークスの圧力」工作により西郷にプレッシャーをかけた、と解説している。しかし「廿一日」のところにはスポットライトを当てず、これには言及しなかった。これに気付かなかったのであれば、杜撰としか言いようがない。

しかし、もしここにスポットライトを当てると、視聴者がサトウと勝の密会が西郷・勝会談の後であることに気付き、勝が西郷に対し工作をしたという論理構成が破綻してしまうことを懸念したのであれば、これは歴史を歪曲して伝えようとしたとしか思えない。この点をテレビ局にメールで質問したが、回答はない。

 

【9.萩原延壽の『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』】

実はこの辺りの事情は歴史家の萩原延壽が記した『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の第7巻「江戸開城」に詳しく書かれている。萩原は、サトウがパークスに提出した3月16日の報告書には、西郷・勝会談のことも、江戸攻撃の延期のことも書かれていないと明確に指摘している。

この『遠い崖』は、萩原が1976年から90年まで14年の歳月をかけ、アーネスト・サトウの生涯を追いかけ、朝日新聞に連載した労作である。現在では全14巻の文庫本として容易に入手できる。にもかかわらず『サトウ回想録』に比べるとあまり読まれていないようである。萩原が『遠い崖』の「江戸開城」を朝日新聞に書いたのは1981年8月6日~9月17日である。

したがって【3.識者の見解】の著作で朝日新聞に「江戸開城」が掲載される以前に書かれたものは、『遠い崖』を参照できなかったと同情はする。87年に『江戸開城』を著した海音寺潮五郎は、萩原の連載を読んでいたかどうかは不明だが、『サトウ回想録』をきちんと解読して妥当な判断を下している。

「パークスの圧力」を論じる識者の多くは、『サトウ回想録』第31章冒頭部分を基に見解を述べているが、その読み方は浅いと言わざるを得ない。これだけでもじっくり読めば、勝が西郷との会談前に「パークスの圧力」を工作したとは推測できないはずである。少なくとも勝の工作に疑問を持つのが自然であろう。

にもかかわらず、なぜかいとも安易に工作したと論じている。『遠い崖』を読めば、サトウのパークスへの報告書の現物を調べずとも、勝が西郷との会談以前に「パークスの圧力」工作をしなかったことは容易に判断できるはずである。

 

【10.「パークスの圧力」――サトウ2回目の江戸派遣以降】

以上より、西郷・勝会談以前には「パークスの圧力」はなかったことが判明したが、それでは会談以降はどうであったか考察しておきたい。

先ず時系列的に一覧を見て頂きたい。

   9日  鉄舟・西郷会談(駿府) 基本合意(慶喜の備前藩お預けは撤回、

                   処分は保留し西郷に一任)

  13日  西郷・勝会談(第1回) 静閑院宮(和宮)の件のみ

  14日  西郷・勝会談(第2回) 正式合意。嘆願(慶喜は水戸で謹慎。

                          その他条件の緩和交渉)

  20日  西郷、京都着。評議。  最終決定

  21日  サトウ・勝 面談

  27日  パークス・勝 面談

  28日  パークス・西郷 面談

確かに、いわゆる「パークスの圧力」という事実はあったが、勝が働きかけた「サトウ・ルート」という内容の圧力は、勝・西郷会談以降のことである。降伏条件合意後も、朝廷の最終決定を仰ぐまでは確定しない。旧幕府側の嘆願とは、新政府側の条件の緩和であり、正に条件交渉である。いかに西郷が最高実力者であっても、勝手に決める訳にはいかない。

そこで勝との会談で旧幕府側の嘆願内容を確認し、急ぎそれを京都に持ち帰り朝廷の裁可を得たのである。結果4月11日江戸城明け渡し、慶喜の水戸出立となった。

この間、いかなる不測の事態が起こらぬとも限らず、条件交渉中の旧幕府側としては、少しでも客観情勢を有利にしておきたい、と考えたのは当然である。その過程で、いわゆる「パークスの圧力」を利用しようとした事実はあった。

一方西郷も、自派内の強硬派を説得するのに「パークスの圧力」を利用した事実はある(『遠い崖』)。またパークスの側にも戦争は回避したい、という希望があった。

ただ、前記の時期的な流れを見れば、20日に朝議が決した時点で結論は出ており、したがっていわゆる「パークスの圧力」は効力を失っている。3月21日以降に勝や西郷がサトウやパークスに会う以前に、既に事は決していた訳である。

11.結論】

『サトウ回想録』を丹念に読めば、サトウが最初に江戸に派遣された時には勝に会っていないことが分かる。少なくとも疑念が湧くはずである。さらにサトウのパークスへの報告書()、パークスのスタンレー外相当ての報告書、ハモンド事務次官当ての半公信で確認すればなお確実である。さらに『海舟日記』からも裏が取れる。萩原延壽の『遠い崖』(7巻「江戸開城」)を読めばそれが一層明確に理解できる。

サトウが『サトウ回想録』で「情報源は勝安房」「暗くなって訪問」を、第31章の冒頭の3月9日に江戸に出たという部分に書かず、20日に再度江戸に派遣された際の部分に書けば、多くの人がこのような錯覚をせずに済んだのである。サトウにすればそんなことは些細なことで、どうでもよいことであったであろうが……。

いずれにしても、勝は、西郷・勝会談以前にアーネスト・サトウに会ってはおらず、したがって西郷との会談において、サトウを介してイギリス公使パークスから西郷に、慶喜の助命、江戸総攻撃中止の圧力をかけてもらうという工作はできなかった。すなわち勝は、西郷との会談において「パークスの圧力」を利用することはできなかった、というのが結論である。

横浜開港資料館で入手した史料は、外国人特有のクセのある手書きであり、しかも黒ずんでほとんど判読困難な部分を含むコピーあったが、この解読と翻訳には、語学が堪能な我が畏友・相原正和氏に多大なるご協力を頂いた。ここに改めて深甚の謝意を表したい。

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