江戸時代には「情報」という語句そのものがなかったという。(参照『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』岩下哲典著)
勿論、「情報」に代わる言葉はあった。当時は「うわさ」「風聞(ふうもん)」「風説」がよく使われていた。
はじめて「情報」という言葉が使われたのは、明治9年(1876)に刊行された『仏国歩兵隊中要務実地演習軌典』であるという。「敵情を報告する」の簡略形として造語されたらしい。
慶応4年(1868)に出版された『官版陣中要務全』、これは明治新政府の軍務官が編纂したものであるが、ここにも「情報」という単語はなく、「敵ノ動静ヲ窺ハシムル」「敵ノ挙動ヲ早ク報告スル」「敵ノ動静ヲ伺ヒ直チニ之ヲ報告シ」「敵陣ノ方ヲ探索シ」「敵情ヲ捜求スル」「敵情ヲ操リ敵の動静ヲ伺ヒ」「精細ニ敵ノ動静ヲ探り」「敵ノ遠近動静ヲ報知スル」など書かれ、全て敵に関する情報を収集し報告することが、部隊前衛においては重要であることを様々な表現を使って述べている。
このように、現在の我々が日頃から使用している「情報」という単語は江戸時代にはなかったが、同じ意味を持つ言葉は数多く使われていたのであるから、「情報」が持つ意味合いと内容について大事だという意識は、武士の間で当然に認知されていたはずであろう。
ところが、白河城を閏4月25日二本松藩から奪った会津藩、その総督となった西郷頼母は「情報」の重要性を理解していないと思える指揮を採っている。
既に5月で述べたが、機密御用を預かっていた野田進が「敵地探索すると、守備は固く、交代で休みを取り、夜は山野にひそんで会津勢の夜襲に備えて袋の鼠作戦が取られていた」ので、「兵を引き締めて早く敵を撃破するか、または本陣を1里ほど離して精鋭のみを、この地に残して対処すべきである。このままでは必ず敵軍は夜襲して、わが軍は離散する恐れがある」と提言したが「身分をわきまえぬ言論」として、折角の情報を無視した。
さらに、新選組の山口次郎や純義隊の小池周吾が「同盟軍を周辺に分散し、機動性を持たせよ」と主張したが、西郷は「兵を白河に集中させ、堂々と受けて立つ」と拒絶した。
先日、一日かけて白河城と激戦地を視察して来た。白河城の石垣は東日本大震災で崩れた部分を補修中であったが、閏4月25日の戦い時に焼失した三重櫓は、激戦地の稲荷山古戦場から伐採してきた杉材を使い、平成3年に復元され、見事な美しい威容を見せている。
三重櫓の中に入って目につくのは、三重櫓を支える大黒柱の「通し柱」である。これは稲荷山の樹齢400年に及ぶ杉の大木で、伐採は民家に近接した難しい環境だったが、元会津藩士末裔の造園業者が「会津は白河に迷惑をかけた。だから難しくても引き受ける」と「南無妙法蓮華経」を唱えながら、使命感をもって作業を行ったという。
白河城は寛永9年(1632) に丹羽長重によって改修された城郭で、三重櫓は当時「三重御櫓」と呼ばれ実質的に天守の役割を持ち、三重櫓の建つ櫓台に余裕を持たせ付櫓や2階に出窓を付けた姿は、若松城天守に共通し、黒漆塗りの下見板張りで、風雨にさらされることを考慮して窓を小さく開いていた。
昭和期に各地で復元天守は多数造られたが、それらの多くは鉄筋コンクリート造りで、外観のみ元に復したもの(外観復元)であった。
白河城の三重櫓は松平定信が文化5年(1808)に城郭内の建築物を実測し作成した「白河城御櫓絵図」と、発掘された礎石等に基づき忠実に木造復元した数少ない木造復元天守閣のひとつである。写真は城内で掲示されている現在の白河城である。

写真の上の方が北で、山裾に阿武隈川が位置し、その南に位置する東西に延びた独立丘陵小峰が岡と、丘陵の南方に広がる段丘上を利用して築城されている。本丸の標高は370メートル、城の面積は54ヘクタール、約16万坪で、城郭全体形は、やや不整な五角形となっている。
この白河築城の主目的は、東北の外様大名に対する備えとして築城されている。したがって、北側は阿武隈川という自然要害、それと白河城内最大の堀と、高く積み上げた石垣によって守られている。だが、南側は北側に比べ小さい堀で、橋もあり、比較的攻めやすい防備体制になっている。
実際に三重櫓に上り、四方の窓から見渡ししてみると、今まで述べてきたことがよくわかる。北側すぐに阿武隈川、その向こうは山並みが連なっている。南側は見晴らしよく広く開け、小高い丘陵が見えるが、その向こう側が激戦地の稲荷山、といっても実際に訪ねてみると、ここは低い丘陵地帯(下写真)であり、守備するには難しいと推察される地形である。

しかし、このような景観状況は、実際に三重櫓に上ってみないと分からないのだ。総督西郷が白河城に入った時には、天守である本丸北東部の三重櫓は、東側の谷合地に燃え崩れ落ちたので、敵陣を高いところから視察することはできない状況だった。
天守の起源としては諸説あるが、ひとつは「井楼」(物見櫓)がある。江戸時代の兵学に、天守の10の利点と目的が「天守十徳」としてあり、その中に「敵の侵攻を見渡せる」が挙げられている。
その通りで、白河城の三重櫓は地上から標高370メートルあるから、存在すれば新政府軍の動きがよく見えただろうが、総督の西郷はそれができなかった。その上、「敵ノ動静ヲ窺ハシム」活動もせず、三重櫓が焼失している城に籠って敵を待つというのであるから、その指揮ぶりは素人と断定されてもおかしくない。
西郷家は会津藩祖保科将之の縁戚に当たる名門の出で、代々家老職にあり、本来、主君容保の側近でなければならないのだが、二人はことごとくそりが合わず、長く家老職を免ぜられていた。その西郷を容保は白河口総督に起用したのであるが、その経緯を記した資料はないので、人事の真相は分からないが、人材不足と会津藩の門閥意識でなされたのではないか。
もうひとつ西郷本人の資質について大きな疑問がある。それは西郷が孫子兵法を学んでいたのかという疑惑である。
江戸時代には50を超える『孫子』注釈書が世に出たという。林羅山の『孫子諺解』や、山鹿素行の『孫子諺義』、新井白石『孫武兵法択』、荻生徂徠『孫子国字解』、佐藤一斎『孫子副註』、吉田松陰『孫子評注』らのものが代表的である。
したがって、会津藩松平家の家老を代々務める名門家柄の西郷頼母であるから、武士の教養として「孫子兵法」は熟知していたはずだと思うが、結果的には無視している。
孫子兵法第三篇「謀攻」に次の記述がある。
故用兵之法 故に用兵の法は
十則囲之 十なれば、則ち之を囲み
五則攻之 五なれば、則ち之を攻め
倍則分之 倍すれば、則ち之を分かち
敵則能戦之 敵すれば、則ち能く之と戦い
少則能逃之 少なければ、則ち能く之を逃れ
不若則能避之 若かざれば、則ち能く之を避く
故小敵之堅、大敵之擒也 故に小敵の堅は大敵の擒(とりこ)なり
意味は「実際に戦闘へ移るときは、味方が敵の十倍なら攻囲してしまい、五倍なら正面攻撃がよいだろう。二倍なら兵力を分けて二方面から攻め、対等の兵力なら全力で戦い、敵より少なければ防戦にと入り、完全に劣勢と分かったら激突を避ける。こうした場合に一か所に踏み留まることがあると、敵の大兵力に捕捉されてしまい、身動きできず捕虜となってしまうだろう」である。
このように孫子は兵力差が圧倒的なとき、かさにかかった攻撃法を説いている。
しかし、柘植久慶著『実戦 孫子の兵法』は、10倍の兵力を有しているときに敵を包囲というのは少し慎重すぎ、実際の攻城戦での兵力差と損害は三倍というのが常識の線であるといい、三倍から五倍の兵力を有していれば、包囲に取りかかってよいと述べ、その具体例として普仏戦争のメッツ攻囲戦、フランス籠城軍17万に対し、ドイツ軍は3倍以下の兵力で包囲を続け、ついに降伏させたことを挙げている。
この柘植氏の見解を採れば、新政府軍700名に対し、同盟軍は2500名であるから、約3.5倍という差があるので、同盟軍が白坂にいる新政府軍を包囲攻撃すべきであったということになる。だが、西郷は逆に防戦するがごときに城に籠ったのである。
江戸時代、武士にとって四書五経に続く重要な古典である孫子兵法、西郷が学んでいないはずはないが、「論語読みの論語知らず」ということなのか。
いずれにしても、会津藩存亡をかける戦いに「自らの教養」を発揮させることができなかった罪は大きい。
ということで、閏5月1日の戦において同盟軍が負けたのは、様々な要因があると思うが、結論的には「同盟軍を総括する将の欠如であった」と断定せざるを得ない。松平容保の任命責任でもあるが・・・。
しかし、白河口戦争はこれで終わったわけでない。しばらく続いた。(参照『会津戦争全史』星亮一著)
5月25日、列藩諸将議して白河城の回復を謀り、全軍須賀川を発して矢吹に翌26日、列藩の兵各その塁壁によりて砲戦す。我が砲兵2番隊、朱雀4番寄合隊中隊、誠志隊、義集隊、仙台藩の各隊と進んで白河城の近傍金勝寺に登り城中を砲撃す。
5月27日、東軍さらに勇を鼓し、一挙白河城を抜かんとして金勝寺山の連山六反山を砲撃す。西軍、沈黙して応ぜず。しばらくして西兵、大谷地の渓谷を経て我が兵の背後を衝く。我が兵、腹背敵を受け、ほとんど死地に陥る。
この日、若松城において喜(のぶ)徳(のり)公出て三軍の士気を鼓舞せんと欲す。藩相内藤介右衛門および南方より帰休せる1番砲兵隊小原宇右衛門、兵を率いて従う。午後、喜徳公プロシャ人エドワーズ・スネル献ずるところの戎(じゅう)衣(い)(軍服)を来て馬に騎り、金采配を執り、鶴城を出て酉の刻(午後6時)、原駅(北会津郡湊村)に宿陣、29日福良(白河街道の駅)次す。6月5日、隊士の撤兵訓練を見る。
白河口の督戦のために、会津藩の幼君喜徳が福良まで出て激励したことが『会津戊辰戦史』にある。喜徳は水戸藩主・徳川斉昭の十九男として生まれ、幼名を余九麿、初名は昭則。後実兄の徳川慶喜から偏諱(へんき)を与えられ喜徳に改名。慶応3年(1867年)3月、会津藩第9代藩主・松平容保の養子となった。
6月12 日にも、会津藩は一大決戦を挑んだ。純義隊小池周吾、朱雀1番士中隊中隊頭小森一貫斎、青龍1番寄合組中隊頭木村兵庫ら惨敗の責任者が、雪辱を期して戦ったが、今回も白河城に迫れなかった。大平口の総督原田対馬も白坂に迫った。しかし、それ以上は攻めきれなかった。
同盟軍の攻撃は7月14日が最後となった。何回攻撃がなされたのか。都合7回以上、10回とも言われている。
立寄った史料館「白河戊辰見聞館」に白河口の戦いパネルがあり、そこには第七次攻撃までが描かれていたが、実際はもっと多かったと地元歴史研究家の方がポツリと語る。
10回も攻撃がなされても勝利しない。地元の利があるのに成功しない。何故なのだろうか。

理由は明確である。
大きい要因のひとつは武器の優劣差である。戦史家大山柏がいくつか指摘している。その中のひとつに会津・仙台兵は多くは火縄銃と丸玉のヤーゲル銃であった。
ヤーゲル銃とは、ドイツ製の前装式(先込め)旋条小銃で、弾丸は銃身内に施されたこの螺旋状の溝によって高速回転して飛び出し直進性能が高く、また、弾の形は先端が尖がった椎実形となり、弾の直進性と貫通力を向上させた。しかし、弾込め作業に手間がかかり、銃身内で弾丸が回転するために銃身が極度の高温となるため、弾込め作業は困難をきわめた。加えて、100メートル以上になると弾着が著しく悪くなる。
その上、兵は銃の性能特徴を把握せずに、遠くからやたらと撃ってしまうので、味方の陣地を敵に知らしめて、肝心の射程に入る前に大砲で壊滅されてしまう。特に、仙台兵にこの傾向が目立ったという。さらに、指揮官にもばらつきがあり、これも仙台藩に目立った現象とも言われている。
もうひとつは兵の訓練度である。軍隊として鍛えられた薩長軍中心の新政府軍。対するは、まだ武士集団から抜けきれない会津・仙台藩中心の東北諸藩兵。その差は大きい。
夜間行軍の場合は無灯火が大原則だが、仙台兵の中には堂々と龕(がん)灯(どう)をつけて歩き、狙撃されたこともあった。
これらについても会津藩はきめ細かく指導すべきだったが、一向に勝てぬこともあって、両藩に亀裂も入っていく。
地元の歴史研究家の方は「とにかく、集団行動が出来ない。軍議で何日の何時に攻撃始めると決定しても、実際の攻撃は各藩バラバラで一斉になされない。したがって攻撃効果が減じられていく」と苦笑まじりに語る。
昨日まで異なった藩主のもとにおり、一度も会ったことのない兵同士が、一斉に同じ時間帯に同一行動をとるのは、当時の武士達にとって想像以上に難しかったのであろう。
それを見事に言い当てるのは地元の民衆である。『戊辰白河口戦争記』に両軍の比較が掲載されており、『藤田氏記録』として次の記述がある。
「官軍の出陣する時は、賊の砲声を聞くや否やただちに銃を持ち、着のみ着のままにて寝所を出て、飯も食わずに我先にと出かけたり、御飯を食してお出かけといえば、砲弾を食うから腹は減らぬ。飯はあとから握り飯にして持ち来たれりという。それゆえ官軍の戦いはいつも早かりき。奥羽勢の支度はそれぞれ身を纏め、宿舎主人に飯を炊かせ、十分腹をこしらえ握り飯を持ちて出かけたれば、官軍よりも遅れたり」
官軍と同盟軍の戦力差、訓練度を的確に表現している記述である。これでは同盟軍は勝てない。
ところで、今回の白河視察で気づいたことがある。多くの神社仏閣を回ったが、この地は寛永4年(1627)に丹羽長重が初代白河藩主となって以来、榊原、本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)、阿部と7家21代もの大名が交代、居城としたので、様々な宗派仏閣が存在する。そのひとつの曹洞宗長寿院に西軍の墓がある。

5月1日激戦時、多くの寺が避難したが、長寿院は住職が残って寺院を守っていたことから、西軍がこの寺に戦死者を埋葬したと言われている。
長州藩、土佐藩、大垣藩、佐土原藩、館林藩で61基92名の墓であるが、長州藩と土佐藩の墓には「官軍」と刻み込まれている。
本号では今まで新政府軍、西軍、官軍等と使い分けてきたが、戦った武士たちは錦旗を持つ「官軍」という名称にこだわっているのである。
官軍に対する相手への呼称は賊軍となる。明らかに正しいのは我が軍勢である。このような気負いともいえる精神が勇を奮い立たせ争闘心に檄を呼び起こす源になったはずで、それが長寿院墓碑に現れているのではないか。
いずれにしても、白河城の奪還は一度も成功しないままに終わった。
そうなると仙台藩兵の中に厭戦気分がただよい、公然と和議を唱える者も現れ、会津藩はいっそう追い込まれた。
結論をいえば白河口の戦いが、会津落城への引き金になった。
このあたりで白河口の戦いについて筆をおきたい。
本連載は山岡鉄舟について述べており、鉄舟と愚庵の関係について考察する為に、白河口の戦いを検討してきた。
最初に戻るが、鳥羽伏見の戦いに敗れ、慶喜がひそかに容保、松平定敬らを連れて軍艦開陽丸にて大阪湾から江戸に戻り、慶喜は上野寛永寺に謹慎蟄居し、3月9日の鉄舟による駿府掛けにより、西郷との和平交渉が成功、江戸無血開城に結びついた。
同様に、容保も藩主を辞任し家督を喜徳に譲り、嘆願書を差し出し、新政府軍の罪を待つ姿勢を明らかにしたのであるから、戦争を回避できた可能性はあったはず。
また、江戸から2月22日に会津へ7年ぶりに戻った容保、ここでも慶喜にならって謹慎屛(へい)居(きょ)し、嘆願書を数十通送ったという。
だが、受け入れられず、白河口の大敗から、会津籠城抗戦、9月22日の白旗となった。
容保の嘆願書を鉄舟が預かっていたらどうなっていただろうか。「流石は徳川公だけあって、エライ宝をおもちだ」と西郷隆盛が高く評価した鉄舟、何とかしたはず。
しかし、現実は鉄舟という型破りの人材は東北には居なかった。何故、いなかったのか、という検討は、鉄舟人間力の再分析へつながり、愚案へ肩入れ理由にもつながる。
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