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2016年6月

2016年6月25日 (土)

2016年7月例会案内

20167月例会案内

 

開催日 2016720()

場所  東京文化会館・中会議室1

会費  1500円

時間  1830分~20

発表者 若松謙二氏 

テーマ 「『北斎漫画』で江戸時代を読む」

若松氏は江戸時代を「関ヶ原戦後前期約90年」「元禄以降中期約90年」「天明  以降後期約90年明治維新まで」と三期に区切ったとき、江戸文化の総仕上げ的成果が結実したのは江戸後期と唱え、葛飾北斎は、まさにこの時代に生まれ、他界しましたが、画業分野での世界的業績に加えて、漫画によって江戸時代史研究の格好の理想的史料も遺したと説きます。

Photo_6
巷間
、江戸時代の一般庶民社会生活について、その評価・見解は功罪相半ばしていますが、今回は『北斎漫画』を読み解かれた若松氏から、江戸社会の実相・実態をご発表いただきます。ご期待ください。

 

. 20168月は夏休み 

 

.20169月例会

   開催日 921()

 発表者 永冨明郎氏

   テーマ NHK大河ドラマ「真田丸」に絡めて

「真田に見る戦国から江戸への移り変わり」

.201610月例会

   開催日 1015()史跡巡り・・・企画内容別紙

 内容  「幕末から未来が見える開港:横浜を巡る」

       「日野宿本陣」ガイドの松崎勇二氏に、お願いいたし、横浜野毛に見る「開港の足跡」をご案内いただきます。

以上

2016年6月例会開催結果 

Ⅰ.20166月例会開催結果 

  高山市の田中彰氏から『写真で見る金森史 壱』について解説いただきました。

 高山は鉄舟が多感な10歳から17歳まで過ごしたところで、現在、高山陣屋前広場に「少年鉄舟像」があります。

 高山市には年間400万人もの観光客が訪れますが、その背景には、高山を治めた金森氏6代107年のまちづくりがあると、田中氏は冒頭述べられました。

Photo_4 

Photo_5

確かに初代金森長近(銅像写真)が築城した城下町で、区割りを武家地、町人地、寺院群としましたが、その最大の特徴は町人地が武家地の1.2倍にも及ぶことです。全国の町人地の平均が武家地7割、町人地3割から分かるように、長近は商人の経済力を重視したわけです。加えて、長近は高山筆頭商人である旧知の矢嶋氏を、出身地の滋賀県守山市矢島町から招き、町代(後の年寄)として街づくりを任せ、その成果が、現在の「重要伝統的建造群保存地区」(写真)につながっており、世界中から観光客を呼び寄せている要因になっているのです。

 今回の『写真で見る金森史 壱』は、金森長近が織田信長に仕えた時代の歴史跡地、それは、土岐氏(岐阜市)、大畑(多治見市)、金森町(守山市)、矢島町(守山市)、桶狭間の戦い跡(名古屋市)、姉川合戦場(長浜市)、長篠合戦場(愛知県新城市・長篠市)、越前大野戌山場・大野城(大野市)、安土城(近江八幡市)、本(京都市・能がとなっているのは度重なって焼き討ちに遭い「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えた)、賤ケ岳の戦い(長浜市)等を、田中氏が直接現地に赴き、取材・撮影し解説され、そこに的確な写真描写が加わり現場臨場感を高めています。

 最後に田中氏が強調されたのは、「歴史は消え去っていく。だから、歴史事実を後世に遺さなければいけない。そのために今回の『写真で見る金森史 壱』や、記念碑、銅像などが必要なのだ」と。この見解に賛同するとともに、我々は田中氏の研究姿勢から多く学びたいと考えます。また、次回企画として秀吉に仕えた金森氏について発行を検討されておられますが、刊行後、再度ご発表をお願いしたいと思います。

ご多忙の中、高山からお出でいただいた田中氏に深く感謝申し上げます。

なお、『写真で見る金森史 壱』をご希望の方は、田中氏から数部お預かりしておりますので、ご連絡下さい。

2016年10月例会案内

「山岡鉄舟研究会」10月例会ご案内

「幕末から未来が見える開港:横浜を巡る」

 

 

1. 概  要    このたびも、「日野宿本陣」ガイドの松崎勇二さんに、

お願いいたし、横浜野毛に見る「開港の足跡」をご案内

いただきます。

 徳川泰平の時代に突如、黒船が現れ威嚇射撃を背景に

幕府へ開港を迫った。鎖国か開国か二分する意見に国内

が騒然とする中、力の弱まった幕府は国論を統一する力

を失っていた。

 安政6年(1889年)、これまで門戸を閉ざされてい

た日本が欧米各国と結ばれた≪修好通商条約≫で開港地

として、横浜を選び、新しい時代を迎える。

 国内の反対を押し切って、開港を推し進めたのは、彦

根藩の井伊掃部頭直弼であったが尊王攘夷の過激派浪士

により、討たれる。

 その井伊が開港の功績者の1人として、銅像が同地に

建っている。

 開港当時、外国人要人に対する襲撃テロの多発する中

で、居留民保護のため、大量の外国人部隊が駐屯した。

こうしたテロリストの取り締まりや防衛上の要となる

「神奈川奉行所」など、横浜野毛は幕末史を飾る史跡や

開港に関わる人物の像や碑などが多数残されている。

 文明開化で光を浴び、今なお、観光地として人気の港:

横浜の影で、開港を支えた史跡を追って見たいと計画し

ました。

 

  *今回の横浜野毛周辺は、かなりのキツイ丘陵地のため、足元のシッカリ

としたご準備を、宜しくお願いいたします。

 

 

2. 開 催 日   平成28年10月15日(土)10:30~16:00

予定

 

3. 集合場所   JR京浜東北線・根岸線「桜木町駅」北改札口前

10:30時間厳守

 

4. 会  費   3,000円(例会費、昼食代、横浜外国人墓地維持保存

募金など含む)

       なお、移動に掛かる交通費は、各自負担でお願いします。

 

5. コ ー ス   【JR京浜東北線・根岸線「桜木町駅」10:30集合】

       コース案内説明 ⇒ 紅葉坂 ⇒ ①神奈川奉行所跡 

       ⇒ ②掃部山(カモンヤマ)公園(大老:井伊掃部頭直弼の銅像)

       ⇒ 野毛の切通し ⇒ ③野毛山軍陣病院跡【官軍病院

 →十全病院】(現:老松中学校 → 益満休之助逝去 

④野毛山公園(佐久間象山顕彰碑) ⇒ ⑤吉田橋

(関門跡)

≪昼  食≫

関内:馬車道にある周富輝(シュウトミテル)の広東料理「生香園」

(セイコウエン)新館にて、全員《海鮮やきそば》を注文したい。

   13:00~13:50

みなとみらい線「馬車道駅」■□2ッ目:180円■□

「元町・中華街駅」

⑥フランス山(フランス領事館跡)⇒ ⑦港の見える丘

公園 ⇒ ⑧イギリス館 ⇒ ⑨横浜外国人墓地(生麦

事件のチャールズ・リチャードソンの墓他) ⇒⑩元町

商店街(パンの発祥地:ヨコハマベーカリウチキ商店)

⇒ JR京浜東北線・根岸線「石川町駅」

 

*** 皆様、今日は丸1日、大変お疲れさまでした。 ***

 

 ★ ★ 此処からは、希望者のみでの懇親会 ★ ★ ★

 

 

6. 懇 親 会   16:00~18:00

       「だんまや水産」横浜元町店

       TEL:045-663-8432

       横浜市中区石川町1-14 阿部ビル2F

 会 費:3,000円

 

7. お申し込み・お問合せ

          下記の参加申込書にご記入の上、FAXにて送信

してください。

担当:矢澤昌敏   携帯:090-6021-1519

TEL&FAX:0480-58-5732

-mailm_yaza10@eos.ocn.ne.jp

 info@tessyuu.jp

                                    

参加申込書

「幕末から未来が見える開港:横浜を巡る」(平成28年10月15日開催)に

参加します。

   
 

 

 

お   名   前

 

 

 
 

 

 
       
 

 

 

緊急のご連絡先(携帯電話など)

 

 

 
 

 

 
 

 

 

懇親会へのご参加

 

 

 
 

参加します    参加しません

 

申込締切:10月8日(土)  FAX:0480-58-5732(矢澤)

 

以 上

鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その九

時折、山岡鉄舟研究会のホームページにご連絡が届く。先日も次の問い合わせをいただいた。
「鉄舟県知事就任・其の四(2011年10月掲載)の中で『鉄舟が水戸に入ったのは、茨城県が設立された日であった。明治四年(1871)7月14日の廃藩置県によって成立した「水戸県」「笠間県」「宍戸県」「下館県」「下妻県」「松岡県」の6県が、同年11月13日に合併して「茨城県」となり、各県の旧石高から考え茨城県の中心は旧水戸藩領であって、県庁は水戸におかれた』とあるが、『法令全書』等によれば茨城県が設置されたのは11月14日ですので『鉄舟が着任したのは茨城県が設立される前日であった』とされることが正しいと思います」と。

 この茨城県設置日の問い合わせ、当会より先に茨城県に対して行われ、茨城県庁は11月13日の「県民の日」を茨城県が設置された日と認識していた誤りに気づいた。
 このような指摘、歴史事実の誤りであるから、当然に訂正する必要がある。そこで、参考までに気づくまでの経緯をご教示願いたいとお尋ねしたところ、以下のご連絡をいただいた。

 「茨城県民の日の由来に誤りがあることに気づいた最初のきっかけは、茨城県立高校入試問題をサイトで見て、その後、貴会のサイトやその他の文献で11月13日、11月14日の2つが記されていることを知り、さらに茨城県と埼玉県における県民の日が1日違っている一方で、その由来については県が設置された日としていることに疑問を感じ、最終的には『法令全書』から誤りを確認しました」と。
 

そこで茨城県立高校入試の社会問題4(7)を見ると以下のようになっている。
Photo
茨城県高校教育課は4月20日にお詫び訂正文書を公開している。
いずれにしても、このような事実関係の指摘は重要で大事な要件であり、ご連絡された読者に改めてお礼申し上げた次第である。

このように事実確認へのスタートは、歴史認識への疑問から発する。現在、白河城について疑問を持っていることがある。前月号で以下のように記した。
「江戸無血開城後、白河城は新政府軍の管理下におかれたが、慶応4年(1868)閏4月20日、会津藩が出兵占拠、その際に城郭が焼失したという」(福島県県南地方振興局『戊辰としらかわ』を参照)

会津藩の白河口総督は西郷頼母、その西郷は「兵を白河に集中させ、堂々と受けて立つ」という作戦であった。城郭が焼失している白河城に立ち籠るとは、どういう頭脳なのか全く理解できないが、そのことより誰が城郭を焼失させたのか、というところに疑問をもった。
まさか会津藩が行ったのではないだろう。もし会津藩が焼失させたのなら、「堂々と受けて立つ」作戦の頼母は城郭がないほうが勝てると踏んだのか。ちょっと考えられないが、事実はどうなのか。

上妻又四郎著「磐城三藩の戊辰戦争」、この本は綿密な史料調査をもとに磐城3藩が奥羽列藩同盟にくみし、結果的に平城落城にいたった過程を克明に述べたものであるが、これを参照にして検討してみたい。

「『会津戊辰戦史』によると、閏4月20日早朝、会津藩徴募兵部隊の小池周吾率いる純義隊と、野田進の会義隊が白河城を攻撃。城内にいた二本松藩兵は敗走し、平藩兵が城内に火をつけ退却したとある。

平藩側の史料『磐城平藩戊辰實戦記・藩士16人の覺書・平安会発行』によれば、この日の平藩は白河城の北東、阿武隈川の対岸である向寺町関門が持ち場であり、城内にいたという記録はなく、諸藩勢が引き上げるのをみて平勢も引き上げたのであるから、放火は平藩ではなくなる。

『二本松藩政史』に次の記載がある。
『会藩は閏四月二十日急に白河城を襲うて之を略取せり。城は我が藩の守る所、会津口たる道場小路は平・三春両藩の守備する所なりしが、衆寡敵せず、会兵城下に殺到せり。是より先総督府参謀世良修蔵亦城中に在りしが、十八日を以て出で去り、参謀付属野村十郎猶在り、命じて城を焼かしめ横町口より逃る』

これにより白河城放火を命じたのは、世良下参謀付属の野村十郎であったことになる」

しかし、ここで意外な事実が判明する。「磐城三藩の戊辰戦争」の記述を続ける。
「『会津戊辰戦史』の記事に『我が兵城に入るや、偶々二本松の兵士一人馳せ来たりて曰く、貴藩とは密に約する所あり、然るに今火を放つとは何ぞ(火を放ちたるは我が兵にあらず発砲にあらざるか)吾等之を質さずして退くは部門の道にあらずと頑然として動かず、我が兵答えて曰く、嫌疑を避けんが為故に攻撃の態度を示したるに過ぎず、請ふ之を諒とせよと』」

割注で『会津戊辰戦史』の著者は、放火でなく発砲ではなかろうかとしているが、二本松藩兵は会津勢の城内放火を問責している。これによれば白河城の放火は会津勢となる。だが、常識的に考え、攻撃し乗っ取るはずの会津が放火するというのは無理があり、既にみたように長州藩参謀の手になると判断できるだろう。

ところで会津藩と二本松藩の間には密約ができていたわけで、二本松藩は形の上で抵抗しても、直ちに場外へ脱出するというものだったが、二本松藩兵への現場指揮権は18日までは奥羽鎮撫総督府下参謀の長州藩世良修蔵が、世良が去った後は下参謀付属の野村十郎が握っていた。ということは、前述の『戊辰としらかわ』に書かれた「江戸無血開城後、白河城は新政府軍の管理下におかれた」との記述が正しいことがわかる。

この事実から推定すると、閏4月11日に仙台藩が奥羽列藩に参集を呼びかけ、列藩の力で会津の嘆願を認めさせるため、白石城の一角に25藩を参集させ奥羽列藩会議所を設置したが、実際は閏4月20日の白河城への会津攻撃までの二本松藩は、新政府軍の指揮下で動いていたことになる。

「磐城三藩の戊辰戦争」によると平藩も長州藩の指揮下にあった。閏4月20日平藩は白河城の北東向寺町関門にいて、苦戦もあり諸藩勢が引き上げるのを見て、平藩も引きあげようとしたが、大砲一門の運送に滞っているところに、長州藩の野村十郎が来て、速やかに進撃するよう要求された。平藩大砲方の尾形善右衛門は隊長が不在で進撃できない旨答えると、尾形が隊長となり進撃するよう野村十郎から指示されたので、仕方なく進撃したと記述されている。

平藩が引き上げようとしたのには背景がある。閏4月19日に平藩、泉藩、相馬藩、棚倉藩、三春藩は会津謝罪状が総督府に提出されたので、白河出兵中の藩兵は戦闘になったなら参戦するのを控えたい旨の書を総督府へ提出していたのである。

これらの状況をどのように考えたらよいのか。白河城における戦い現場では、敵味方の振り分けが明確になっていないのである。二本松藩は新政府軍の指示で白河城を守っていたが、会津藩とは密約があり、すぐに城を渡す手配になっていたし、平藩は新政府軍の言われるままに白河城近辺に出張ったが、参戦を避けるようにしている。

つまり、各藩は新政府軍の指示を受けて、戦わざるを得ない状況だったが、会津藩を敵としてしっかり、明確に認識していないのである。

そもそも戦争とは軍事力を用いて様々な政治目的を達成しようとする行為である。しかし、白河の戦に参加した各藩は、その目的が不明確なまま、新政府軍という新たに勃興した権力に従って行動しただけだった。

主体的な戦争論理、誰がどのような理由で敵なのか、それとも味方なのか、それが曖昧のまま白河で戦いが行われたのである。

ここで再び思い起こすのは徳富蘇峰著「近世日本国民史」の「奥羽越戦争編」での記載である。
「奥羽の兵は必ずしも弱兵ではなかった。ただ大局の動きについては、彼らはまったく時勢から取り残された感があった。されば彼らは自ら何事を帰すべきかも知らず、また敵が何者であるかも知らず、ただ敵が来り攻むるに対して、これに抵抗して戦争を試みるに過ぎなかった。彼らは当初より必勝の成算もなければ、またその意気込みもなかった。これは半ば以上は地形の致すところにして、余儀なき事情とはいえ、また彼らが政局の変換に対して、敏感ならざるの致すところといわねばならぬ」

白河城での二本松藩、平藩の戦いぶりをみると、蘇峰の言葉もうなずける。

さて、前号で述べた薩摩藩伊地知正治の作戦による新政府軍の大勝利をお伝えしたい。(参照『会津戦争全史』星亮一著)

攻撃を右翼隊、中央隊、左翼隊の3隊に分け、進撃にあたって左右2隊は間道を進み、地元民を道案内に採用した。作戦成功のカギは、悟られないように敵を包み込めるかどうかであった。

5月1日午前4時、最初に右翼隊が出動。次いで左翼隊が午前6時、最後に中央隊が午前8時に白坂を出た。

この日は天候が悪く、朝のうち土砂降りの雨というのも有利な条件だった。会津・仙台同盟軍の武器は全般で見ると火縄銃が多く、雨になれば作戦に支障を来すことはまちがいなかった。

白河城側は斥候を出していない。総督の西郷頼母から指示がないからである。しかし、歴戦の強者である新選組の山口次郎(斉藤一)や、純義隊の小池周吾が自分の判断で前線に兵を配置すべきだったが何故か怠っている。伊地知はそこを突いた。

白河城 の前方には中央に稲荷山 、向かって右に雷神山、  左に立石山 が位置している。白坂の郷士大平八郎を道案内とした右翼隊は、地元民しか知らない丘陵の小径を縫って前進し、白河の南東2キロに迫った。先頭は斥候兵とともに進ん

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(福島県県南地方振興局『戊辰としらかわ』より引用)

だ四番隊長の川村純義である。敵の哨兵に会うことなく、標高349メートルの合戦坂に近づくことに成功。雷神山の峰続きにある敵陣地に突入した。

雷神山とその周辺を守備していたのは、会津藩2小隊と仙台藩瀬上主善の大隊。山頂には僅かの兵しか配置していなかったので、たちまち苦戦に陥り、占領されてしまった。雷神山占領の狼煙が高々とあがり、会仙同盟軍の兵士は仰天した。

左翼隊も敵兵の姿を見ることなく黒川、原中を経て上新田に迫り、右翼から聞こえる銃砲声に勇み立ち、勇躍その正面立石山に向かった。

立石山は、会津の日向茂太郎が2小隊と砲2門で守っていた。ここには独立丘陵を中心に7つの堡塁があり、本来なら難攻不落だった。

日向は二門の砲で対応したが、左右からじりじり包囲され、日向が敵に向い、真先に一人離れ進み、兵ども続けと山腹を攀じると狙い撃ちに遭い即死。指揮官を失って砲台混乱に陥ったところに、薩摩5番隊の野津鎮雄が、大刀を抜いて真っ先に躍り込む。これに会津兵が圧倒され逃走。新政府軍は立石山にも高々と狼煙をあげた。

中央の稲荷山には山口次郎、一柳四朗左衛門、今泉伝之助ら新選組と会津、仙台の精鋭がいた。突然、前方の樹林に新政府軍が現れ、大砲、小銃を乱射してきた。山麓にいた会津副総督横山主税が、自ら采配を振るい、兵を励ましながら稲荷山に登ろうとして弾を浴びて斃れた。激しい銃撃のために遺骸を収容できず、従者がようやく首を切断して退くありさまだった。

会津の兵は我先にと稲荷山に登ったので、新政府軍の狙撃兵の餌食になり、山麓に50余の死屍を遺して撃退され、携臼砲の砲弾が炸裂、混乱がはなはだしく、収拾つかなく、完全に白河は新政府軍の手に落ちた。

新政府軍は白河町内に残る同盟軍の兵士を掃蕩し、正午過ぎには白河城に乗り込み、本丸に高々と錦旗を立てて凱歌をあげた。

同盟軍は完敗だった。『会津戊辰史』は包み隠さず惨敗の模様を伝えている。
「午前6時、西軍棚倉口、桜町方面より大砲、小銃を発する事、すこぶる激しく、純義隊以下の諸隊ほとんど危うし。
棚倉桜町方面は遠山伊右衛門、鈴木作右衛門、小森一貫斎、平田弾右衛門ら諸将、珠死(しゆし)して戦うといえどもついに利あらず。
仙台兵は小田川の方面に退き、その他は白河の市街に退きしが、混乱状態に陥りて、収拾すべからず。
東軍敗続す。寄合組中隊一柳四朗左衛門、軍事奉行海老名衛門、軍事方小松十太夫、士中組半隊頭鈴木覚弥、足軽組小隊頭上田源之丞らの諸将皆前後して死し、その他死傷はなはだ多し。総督西郷頼母馬を馳せて叱咤、衆を激励するも潰乱(かいらん)制すべからず。頼母決死進んで敵軍を衝かんとす。朱雀一番中隊小隊頭飯沼時衛、轡をとっていさめていわく。総督はいまここに死する時にあらず。退いて後図をはかるべしと。頼母聞かず。時衛馬首を北にしてこれを鞭つ」

西郷は北の郊外に逃れ、滑川で兵を集めたが、それはわずかに3小隊にすぎなかった。白河の会津軍は壊滅した。

大山柏の『補訂戊辰役戦史』は次のように述べている。
「会津側では横山副総督をはじめ、一柳、海老名、鈴木、日向等の諸将が戦死、仙台藩では主将坂本大炊、軍監姉歯武之進が戦死、随所に多数の戦死者を出した。それにしても七百内外の兵力をもって二千五、六百名の敵を討ち、敵屍約七百を数える戦果をあげたのは、全戊辰戦役を通じて唯一の出来事であり、花は白河とうたわれた一大戦勝であった。古今の戦史においても稀に見る戦捷(せんしょう)である」

この責任はだれにあったか。「戦闘に敗れた指揮官を許すことはできても、警戒を怠った指揮官は許すことができない」という言葉があるように、敵情を十分に調べず、ただ漫然と白河城で待ち受けた会津藩上級指揮官と、その指揮官人事を成した松平容保にあるだろう。
白河口の戦はこれで終わったわけでない。その後もしばらく続くが、その状況は次号とし、世良修蔵殺害について少し補足したい。

福島藩の宿屋「金沢屋」に宿泊していた奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵は、大山格之助に宛てた密書をしたため、福島藩士に大山へ密書を届けるように命じたが、福島藩士は密書を福島藩に提出。密書の内容に驚いた福島藩は、それを仙台藩に届けた。内容は「奥羽皆敵、逆襲の大策に致したい」と書されており、仙台藩は悲憤慷慨、沸騰し、閏4月20日世良を捕え斬殺してしまった。

奥羽鎮撫総督府の参謀である世良を斬って仙台藩は朝敵となり、その仙台藩が主体的に動き局面は急展開、奥羽列藩同盟成立させた。

このように世良の暗殺について述べてきたが、そうなることを見通して新政府軍が世良を下参謀にしたという説がある。それを「奇兵隊の反乱 早乙女貢著」から見てみる。

「薩長連合による倒幕、徳川幕府の大屋台は竈の灰まで吹き飛ばしてしまわねば、安心できないが、慶喜も会津桑名藩も、戦い利あらずと見ると、さっと退いた。官軍にしてみればアテ外れで、振り上げた拳のやり場に困った。あくまで朝敵殲滅を叫んで四道に東征軍を派し、東下してきたのだ。
頑迷なばかり信義に厚く剛直なのが東北人の特色である。徳川政権にとってかわり天下に号令しようという西国諸藩の狡智と野望が腹にすえかねたが、かりにも錦旗をかかげた官軍に抵抗するほど軽率ではない。それぞれの藩でこの危機に直面して、内紛は免れなかったが、おおむね服従の意志があった。
それでは困る。叩きつけ、打ち殺す理由を必要とする喧嘩上手な男は先に手を出さない。まず殴らせる。それから殺す。狡猾にして確実な正当防衛である。
奇兵隊の一軍監にすぎなかった世良修蔵を下参謀として送りこんできた大総督府参謀大村益次郎や木戸孝允ら長州藩の首脳の肚裡(はら)は、かれの思い上がりからくる、暴言暴挙によって、奥州人が堪忍袋の緒を切ることにあった」

なるほど、立場を変えてみれば、このような解説も立ちうる。結果は、その通り戦端が開いてしまった。もう少し白河口の戦を分析してから、鉄舟との関わりに入りたい。

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