2023年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2016年5月例会案内 | トップページ | 鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その八 »

2016年5月20日 (金)

江戸無血開城」論考 (1)山岡鉄舟は、勝海舟の使いだったのか

「江戸無血開城」論考
(1) 山岡鉄舟は、勝海舟の使いだったのか

                                                                                                水野靖夫

【1.「江戸無血開城」勝海舟功績論の原因】

「江戸無血開城」は、江戸の薩摩藩邸において、江戸総攻撃を目指して進撃して来る新政府軍の参謀・西郷隆盛と、旧幕府の軍事取扱・勝海舟とが会談を行い実現したと言われている。もちろん会談が行われたのは事実であるが、この会談によって全てが決した訳ではない。にもかかわらず、一般にこの会談が過当に評価されている原因は次の3点にあるのではないだろうか。

(1))明治14年、政府の賞勲局が、維新の際の功績を調査した際、鉄舟は、勝との手柄争いになるのを嫌い、「江戸無血開城」の功績を勝に譲り、報告書を提出しなかった。

(2)「江戸無血開城」の関係者がほとんど亡くなった後に書かれた(明治31年)、勝の口述筆記である『氷川清話』が流布し、これに「江戸無血開城」が西郷と勝の談笑の間に決まったように書かれている。「西郷は、おれが出したわずか一本の手紙で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやってくるとは…」「さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった」と、鉄舟の西郷説得の模様などには一言も触れていない。なお、別の談話筆記である『海舟余波』では「ナアニ、維新のことは、おれと西郷とでやったのサ」と、自分ひとりの手柄の如く述べている。

(3)昭和10年に結城素明が描いた、西郷と勝の2人が対座している「江戸開城談判」(明治神宮の聖徳記念絵画館)が、教科書にも載るほど有名になっている。この絵には、会談に参加した鉄舟が描かれていない。これは飽くまで絵であって写真ではない。

実はこの西郷・勝会談に先立って、幕臣山岡鉄舟が直接徳川慶喜の命令を受け、進撃して来る新政府軍の中を突破して駿府まで出向き、西郷と直談判したのである。慶喜の恭順の真(まこと)を説き、慶喜の処分の譲歩を確約した上で、西郷・勝会談のお膳立てをしたのである。

新政府軍の主な指導者たちは、慶喜の恭順が真実であるならば助命することは合意していた。しかし官軍に対する旧幕府側の抵抗もあり、静閑院宮(和宮)などの徳川家からの嘆願も要領を得ず、慶喜の恭順が本物であるか確信が持てなかった。一方旧幕府側も、慶喜の助命嘆願など色々手は尽くすが、新政府軍は江戸を目指して進軍して来るため、手詰まり状態で、勝も途方に暮れていた。そこに突然、直接慶喜の命を受けた鉄舟がやって来て、駿府に談判に出掛けると告げたのである。そして勝が身柄を預かっていた薩摩藩士の益満休之助を連れて駿府へ向かったのである。

【2.勝海舟の指示・命令ではない根拠】

 それでは、鉄舟が「勝海舟の指示・命令」で駿府の西郷に談判に行ったことが、歴史的事実ではないことは、なぜ分かるのか。それは、慶応4年3月5日、鉄舟が駿府に行く前に勝のところを訪ねたとき、両者はお互いを知らなかったからである。そのことは鉄舟も勝も共に述べている。以下の3書にそのことが書かれているので、その触りを紹介する。

 『海舟日記』5日 旗下山岡鉄太郎に逢ふ。一見、其為人(そのひととなり)に感ず。同人申旨あり、益満生を同伴して駿府に行き、参謀西郷氏江談ぜむと云。我れ是を良とし、言上を経て、其事を執せしむ。西郷氏江一書を寄す。

 『氷川清話』……花々しく最後の一戦をやるばかりだと、こう決心した。それで山岡鉄太
郎が静岡へ行って、西郷に会うというから、おれは一通の手紙をあずけて西郷へ送った。山岡という男は、名前ばかりはかねて聞いたが、会ったのはこの時が初めてだった。それも大久保一翁などが、山岡はおれを殺す考えだから用心せよといって、ちょっとも会わせなかったのだが、……

 『談判筆記』……1,2の重臣に謀れども、其事決して成り難しとて肯(がえん)ぜず。当時軍事総裁、勝安房は、余素より知己ならずと雖も、曾て其胆力あるを聞く。故に往て之を安房に謀る。安房は余が粗暴の聞こえあるを以て、少しく不信の色あり。

『海舟日記』は正に勝自身が書いたものである。未だ「江戸無血開城」の歴史的評価も固まらない時点の日記であるから、そこで述べられたことの信憑性は高い。

『氷川清話』は前述のように、『海舟日記』に比べればその信頼度は低いが、それでも鉄舟ではなく、勝自身が述べているのである。しかも大久保一翁が「鉄舟は勝を殺す考えだ」とまで言っている。勝がうっかり口を滑らせて、「初対面」であり大久保一翁が注意したことなどを調子に乗って喋ってしまったのかもしれない。しかしすでに世に出ている『海舟日記』に「初対面」であることを書いてしまっているので、今さら「おれが、鉄舟の胆力・交渉能力を見込んで、使いにやったのサ」などと言えなくなってしまったのかもしれない。

『談判筆記』とは『慶應戊辰駿府に於いて西郷隆盛氏と談判筆記』のことで、鉄舟の直筆の書である。前述の通り、鉄舟が賞勲局の求めに応じず、報告書を提出しなかったため、岩倉具視が「手柄は勝に譲るとしても、正しい歴史の記録は残しておくのが責任であるから」と言って、岩倉個人に提出するよう求めた。それに応じて鉄舟自身が書いたのが、ここに言う『談判筆記』である。これが書かれた経緯については『正宗鍛刀記』に書かれている。

これらを見れば、鉄舟と勝とはこの時点では、互いに相手を知らなかったことは明白である。もちろん同じ旗本であるから、名前や顔くらいは知っていたかもしれないが、慶応4年の頃は身分も相当違い、話をしたこともなかったであろう。まして『氷川清話』で言うように、勝は「鉄舟はおれを殺す考えだ」と聞かされていたので、用心していたことであろう。このころの勝は、主戦派の幕臣から薩長の回し者・裏切者として暗殺される危険が大いにあったからである。

【3.「江戸無血開城」テレビ放映】

さて、「江戸無血開城」の話には、一般に、また俗論では、この鉄舟が全く出てこないか、出てきても、せいぜい勝海舟の命令で駿府に出掛けた、もしくは西郷・勝会談の露払いとして、である。

昨年、「江戸無血開城」について、たまたま2ヵ月連続で2つのテレビ放映があった。
(1)TBS(BS) 2015年11月13日 THE歴史列伝 江戸無血開城 勝海舟
(2)日本テレビ(BS) 2015年12月10日 片岡愛之助の歴史捜査 幕末のネゴシエーター勝海舟

である。

何か新しい発見があるとか、新しい切り口から論ぜられるのかと思ったが、いずれも全く期待外れであった。誤った、もしくは根拠に乏しい俗論を、さも目新しい論点ででもあるかの如く語っている。大学教授や評論家のコメントを交えているが、何とも情けない話だ。本考察は、これらテレビ番組の批判が目的ではないが、いわゆる俗論の代表的な内容なので、折に触れ参考にしながら検討を加えようと思う。

(1)TBSの「THE歴史列伝」では、「勝は益満を介して信頼する旧幕臣山岡鉄舟を西郷の下に使わせることにする」と説明している。この説明では、勝が鉄舟に命令して西郷との談判に行かせたことになる。どこのどんな史料に、この時点で勝が鉄舟を「信頼していた」などと書いてあるのだろうか。鉄舟は自分を「殺しに来るかもしれない」と思っていたのに。鉄舟は慶喜の命令を直接受けて駿府に行ったのであるから、このTBSの説明は誤りである。
 また、
(2)日本テレビの「片岡愛之助の歴史捜査」でも、「勝は静岡・駿府にいる西郷に使者を送った。勝の代理人に立ったのは幕臣で剣術の達人山岡鉄太郎こと山岡鉄舟」と、鉄舟を使者にしたのは勝であると誤った解説をしている。鉄舟は勝の「代理人」として西郷のところに行ったのではない。当初徳川慶喜は、高橋泥舟に駿府に行くことを命じたが、泥舟が行ってしまうと、謹慎している慶喜を護り、かつ旗本の暴発を抑える者がいなくなってしまう。そこで泥舟は義弟の鉄舟を慶喜に推薦したのである。
 いずれにしても勝はこの時点で手詰まり状態に陥っており、途方に暮れていたのである。そこに偶然、降って湧いたかのように、慶喜の命を受けた鉄舟がやって来たのである。
 この点を両テレビ局に質問したが、回答はない。

【4.識者の解釈】

 識者はその著書にどのように書いているであろうか。

(1)田中惣五郎 『勝海舟』  ≪輪王寺宮にすすめて、使者とする運動をしたのも彼(鉄舟)であり、いよいよたまり兼ねて、自ら使者に立つ気になったのである≫。≪勝が行けぬときまった時から、勝の頭には、益満とこれに配すべき人物が去来して居たであらうし、大慈院守護の精鋭隊頭山岡の申出が、この期待の人物と合致して、直ちに使者として出発することとなり≫。駿府への使者は、鉄舟自身の発案であり、勝への申出である、と述べている。田中の説は、輪王寺宮の件はさておき、使者は鉄舟からの申出であって、勝の指示・命令ではない。

(2)江藤淳 『海舟余波』  『海舟日記』の≪旗本山岡鉄太郎に逢ふ。一見その人と為りに感ず≫。≪また後年彼(勝)は回想して「おれもこれまで山岡のことは、名だけは聞いてゐたけれども、いまだその心事がしれんから」と述べている≫。つまりこのとき鉄舟と勝とは初対面であった、と言っている。

(3)石井孝 『勝海舟』(吉川弘文館) ≪徳川政権の実権者となった海舟がやった第一の大きな仕事は、山岡鉄太郎(鉄舟)の駿府派遣である≫。それに続く文で≪3月5日、海舟山岡に会い、「一見、其の人と為りに感」じた。山岡は「益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむ」といったので≫と、鉄舟を派遣したと言いながら、両者は初対面で、鉄舟の方が勝を訪ねてきたと解釈している。しかし『明治維新の舞台裏』(岩波新書75年)では≪徳川政権の「軍事取扱」として軍事上の実権を掌握した勝は、駿府の西郷のもとへ使者として山岡鉄太郎(鉄舟)を派遣した≫と、勝の意思で派遣したかのような言い回しをしている。

(4)海音寺潮五郎 『江戸開城』 鉄舟が勝を訪ねて行ったときのことを≪勝の人物の評判はかねてから聞いているが、面識はない。面会を乞うと、勝家の人々は不安がって取次ごうとしない≫と表現している。

(5)高野澄(きよし) 『勝海舟』 ≪はじめて見る山岡の顔だが、名前ぐらいは知っていた≫。

(6)勝部真長(みたけ) 『勝海舟』(PHP研究所) ≪3月5日、旗本・山岡鉄太郎(号・鉄舟)が訪ねてきた。初対面である。 「一見、その人となりに感ず」と勝が「日記」に書いている≫。そして鉄舟が西郷隆盛と談判した経緯が、鉄舟の自書である前述の『談判筆記』をそのまま引用して詳しく述べている。さらに児童用の『勝海舟 世界伝記文庫22』(国土社)には≪3月5日、山岡鉄太郎が訪ねてきて、3人の中の一人、益満休之助を貸してほしいといった≫、≪このとき、山岡と海舟は初対面でした≫と記しており、益満を駿府に同行したいと申し出たのは鉄舟の方であると言っている。

(7)加来耕三 『勝海舟 行蔵は我にあり』 「豪胆・山岡鉄舟」の章の副題に『海舟日記』の≪旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人と為りに感ず。同人申す旨あり、益満(休之助)生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷(隆盛)に談ぜんという≫を書いている。にもかかわらず、≪海舟は山岡に益満休之助をつけて駿府に派遣し、西郷隆盛に面会を求めることとした≫と副題の『海舟日記』とは矛盾した内容を述べている。益満同伴については、鉄舟の依頼と勝の提案との両説があるものの、駿府行きは鉄舟からの事前連絡であり、勝の指図ではない。加来氏の企画・構成・監修による児童マンガ『コミック版 日本の歴史34 勝海舟』には、何の前置きもなく、いきなり勝が鉄舟と対坐し≪山岡さんよ、慶喜公に仕える者同士、いっしょにこの難局を乗り越えちゃあくれねぇかね?≫≪俺の手紙を駿府にいる西郷さんに渡して欲しいんだ≫と言うコマがある。完全に勝が鉄舟に駿府行きを依頼している。

(8)津本陽 『勝海舟 私に帰せず』 ≪そこで鉄太郎は思いついた。「当時軍事総裁勝安房は、いままで会ったことはないが、胆略ある人物と聞いていたので、さっそく赤坂元氷川の勝宅に至り、事の急を告げ、面会を求めた……」。さらに山岡鉄太郎は、勝との会見につき、つぎのように記す。「安房は余と初面識で、疑心を抱いているのか、容易に答えようとしない」≫。

(9)松浦玲 『勝海舟 維新前夜の群像3』(中公新書) ≪海舟は山岡とは初対面であったが、一見しただけで感心し、使者の役をまかせた≫。

(10)星亮一 『勝海舟と明治維新の舞台裏』 ≪山岡が、海舟の書簡をたずさえ、薩摩藩士・益満休之助を同伴して江戸を出発したのは、3月6日である≫。勝の指示か否かには触れていない。

 以上、(10)星亮一氏だけが、勝の命令による派遣か否か不明で、他は全て鉄舟と勝は初対面だと言っている。(1)田中惣五郎は、鉄舟自らの発案で駿府に出掛けたと解釈している。(3)石井孝と(7)加来耕三の両氏だけは、勝の派遣と言っている。初対面の者に、しかも危険人物で自分を殺しに来るかもしれないと注意されている人間に、どうしてこのような重要な任務を託せると言うのであろうか。

【5.結論】

鉄舟は勝海舟の命令で、その使いとして駿府の西郷に談判に行ったのではない。そのことは、鉄舟と勝は、お互いに相手を知らなかったという、確実な複数の史料から明らかである。このような大役を見ず知らずの、ましてや自分を殺しに来るかもしれない人物に託すはずがない。

勝は、自分の考えで鉄舟を駿府に派遣したのではない。鉄舟の方からの申出に対し、賛同・容認をしたのである。もし、鉄舟は権限もなく、ただ頼まれて西郷との談判に行っただけである、と言うなら、鉄舟に命令を下したのは徳川慶喜である。したがって「江戸無血開城」は徳川慶喜の功績ということになる。まして抗戦か恭順か紛糾したとき恭順の断を下したのは慶喜である。

これは解釈の問題ではなく、歴史の真実である。もし勝が命じて鉄舟を派遣したとするなら、以前より両者が知己であった、もしくは誰かが鉄舟を勝に紹介した、そして勝が西郷との交渉役は鉄舟が適任だとして鉄舟に会い駿府行きを命じた、という史料が必要である。にもかかわらず、学者等の識者の中には、そうした根拠も示さず、勝が鉄舟を派遣したと主張する者がいるのは理解に苦しむ。テレビ番組に至っては、もう無神経というか、杜撰としか言いようがない。

それでは改めて、勝海舟は何をしたのか。慶喜の備前藩お預けの撤回・処分保留、条件受諾による江戸攻撃中止・徳川家名存続という、鉄舟と西郷の重要な交渉結果を「追認」したのである。では勝は、西郷との会談で何を交渉したのか。西郷が処分留保とした慶喜の水戸謹慎、城明け渡し、軍艦・武器の引き渡し、城中の幕臣の撤退等に関し、「条件交渉」を行ったのである。基本的な「重要事項」は鉄舟・西郷の交渉で合意しており、勝は少しでも徳川方に有利となるよう「条件緩和」の交渉をしたのである。西郷としても、一介の旗本鉄舟との合意だけでは、また軍事取扱という最高責任者勝との面会・確認なしでは、京都の朝廷を説得は出来なかったのである。

                                                    以上

« 2016年5月例会案内 | トップページ | 鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その八 »

江戸無血開城」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 2016年5月例会案内 | トップページ | 鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その八 »