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« 江戸無血開城」論考 (1)山岡鉄舟は、勝海舟の使いだったのか | トップページ | 2016年5月例会開催結果 »

2016年5月24日 (火)

鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その八

山岡鉄舟研究会は、毎月第三水曜日に上野の東京文化会館で例会を開催している。

2015年3月の例会では、「遥かなり三宅島−吉田松陰『留魂録』外伝」(東洋図書出版)の著者・永冨明郎氏から、同氏がyab山口朝日放送にて解説された「都内の松陰ゆかりの地」の映像について説明をいただいたが、最後に「戊辰戦争白河口の戦い記念碑」建立について協力依頼がなされた。

山口県・長州出身の永冨氏と、福島県白河の関係は「白河踊り」をめぐる交流が縁である。実は、山口県では今でも「白河踊り」が72の地区で踊り継がれているという。この踊り「白河踊り」「白川踊り」ともいうように「河」と「川」との違いがあって、地域により歌詞(口説き)やメロディーもテンポも踊りも異なるが、いずれも慶応4年(1868)の夏、東軍西軍が奥州白河の地で戦い、亡くなった双方の兵士達や、巻き添えで亡くなられた一般庶民の方々の供養の為にと、見様見真似で踊った「盆踊り」を山口県各地に持ち帰り、地元の盆踊りの中に地域長老の理解を得て根付けていったものだといわれている。(参照「人民の星5898号」中原正男)

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白河の記念碑建設委員会から小峰城(白河城)の写真と共に以下の協力依頼文が届いた。
「白河は『白河関』が置かれたことでも分かるように、古来より奥州の玄関口として要衝の地でした。幕末においてもその地理的重要性は変わらず、戊辰戦争が北上すると、およそ百日間に亘って攻防戦が繰り返されました。一年半に及ぶ戊辰戦争の中で、『白河口の戦い』は東北における重要な戦いであり、会津戦争をはじめとするその後の東北全土に及んでいく戦いの帰趨を決した大きな意義を持つものでした。

白河の住民は、東西両軍を分け隔てなく埋葬し、数多くの墓や慰霊碑を建てるとともに、現在まで香華を手向けてまいりました。記念碑は、全戦死者を刻銘し主戦場となった稲荷山に建立します。5,000円以上ご寄付をいただいた方のお名前も刻ませていただきます。ご賛同いただける方をお待ちしております。どうぞ宜しくお願い致します」。

そこで、この機会に白河口の戦いを調べてみると、この戦いが会津落城の引き金につながる拙い戦い方をしており、その背景に戦略的敗因が潜んでいることがわかってきた。

既に述べたが、本稿の目的は鉄舟が何故に愚庵へ深く肩入れした背景究明と、鉄舟が駿府駆けによって西郷との談判を成功させたような使者を、何故に会津藩は立てなかったのか、という疑問解明であるが、それを白河口の戦いから解き明かしていきたいと思う。
この白河、実は、戊辰東北戦争時には藩は所在していなかった。白河の地は、古代においては白河の関が設けられ、奥羽地方への出入り口として要衝の地となっていた。江戸時代になっても白河藩の占める地位は奥羽地方の外様大名の「抑え」の役割を担い、初代の丹羽氏を除いては有力な親藩・譜代大名が頻繁に入れ替わった。中でも著名な藩主は、老中首座に進み寛政の改革を行なった第3代藩主松平定信である。

松平家は定信の次、定永の文政6年(1823)に、旧領の伊勢国桑名藩に転封となり、替わって武蔵国忍藩より阿部正権が10万石で入部し、以後、幕末まで阿部家が8代44年間在封した。

阿部家の第7代藩主となった正外は老中となり、攘夷派の反対を押し切って兵庫開港を決定したが、結果的にこれが仇となって老中を罷免され、4万石減封され、慶応2年(1866)第8代藩主正静のとき棚倉藩に転封、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなった。

江戸無血開城後、白河城は新政府軍の管理下におかれたが、慶応4年(1868)閏4月20日、会津藩が出兵占拠し、新選組などを含む諸藩が集結した。その際、城郭が焼失したという。(参照「戊辰としらかわ」福島県県南地方振興局制作)

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ところで、仙台藩士の姉歯武之進、赤坂幸太夫らが、「奥羽鎮撫総督府」下参謀の世良修蔵を、福島の娼家で捕え斬殺したことが東北戦争のひとつの切っ掛けになったことは前号でふれた。

この世良修蔵に白河で贔屓にされていたのは「志げ」という遊女。越後生まれの志げは、幼少の頃から坂田屋に育てられ、やがて客をとるようになっていた。

戦後後の明治2年(1869)、戦争敗北を逆恨みした会津藩士が志げを殺害、その会津藩士は坂田屋の用心棒に殺されたという物語があって、志げを慰霊する碑が白河市内の国道294号と国道4号が交差する女(おんな)石(いし)にある。碑にはいつも花が手向けられていることが多いが、この碑だけではなく、白河の戊辰戦争慰霊碑には、東軍西軍かかわらず今も白河の住民が花を手向け、供養している。

記念碑建設委員会から届いた協力依頼文のとおりであり、白河の人々の戊辰戦争に対する情味と至情がよくわかる。

さて、白河口の戦いはどう展開されたか。(「会津戦争全史」星亮一著 講談社を参照)
新政府軍は閏4月18日~20日に大田原(現栃木県大田原市)に集結した。世良修蔵が殺害され、白河城を奪われたため奪回作戦に出たのである。大田原に進出したのは薩摩4番隊と長州1小隊、大垣1中隊と忍1小隊約250人と砲5門。
会津藩は白河の南5キロの白坂に関門を設け、兵を収めて警戒に当たった。

戦闘は閏4月25日暁天から始まった。この日、いまだ会津藩総督・西郷頼母と副総督・横山主税は前線に到着していなかったが、新政府軍の襲来を知った新選組の山口次郎(斉藤一)を先鋒に、遊撃隊、純義隊、朱雀隊が側面から攻撃を加え、白河の外で新政府軍を迎撃撃破、新政府軍は戦死16、負傷51を出して那須に敗走し、緒戦で大戦果をあげた。

山口次郎は歴戦の強者であり、総督がいなかったので伸び伸びと戦うことができ、これが勝利につながったという。
緒戦で勝利を収めた会津、仙台の同盟軍の士気は旺盛だった。だが、以後、敗戦が続いた。

その要因を見極めたいと思ったが、その検討資料は見当たらない。何故なら、同盟軍が新政府軍をどう分析していて、その結果どのような作戦で臨んだのかが記録として遺されていないからである。

わずかに、会津藩総督・西郷頼母と新選組山口次郎、純義隊小池周吾の意見対立を示す記録がある。
『会津戊辰戦史』によると、山口、小池らは「同盟軍を周辺に分散させ、機動性を持たせよ」と主張。対する西郷頼母は白河城を会津若松鶴ヶ城と同じと考えたのか「兵を白河に集中させ、堂々と受けて立つ」と拒絶したとある。

会津若松鶴ヶ城は蒲生氏郷が七層の天守閣を築き、石垣は「野面(のづら)積み」という自然石を組み合わせで造った名城である。

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 (野面積みに支えられている鶴ヶ城天守閣)

慶長16年(1611)8月、会津盆地の西縁を震源とするマグニチュード6.9、震度6以上と推定される大地震が発生、民家2万戸が倒壊し、多数の死者も出て、七層の天守閣も傾いたが、石垣は持ちこたえた。

この頑丈な野面積み支えられた鶴ヶ城だからこそ、新政府軍が放つアームストロング砲にある程度持ちこたえることができたのである。一方、白河城については城郭が焼失しており、砲撃戦に耐えられる代物でないことは明明白白。

西郷は実戦を知らず、山口・小池らの主張が正解であり妥当な作戦である。

ここで会津と仙台藩の布陣をみてみたい。
会津藩1500人余
総督         西郷頼母
副総督        横山主税
朱雀一番士中隊中隊頭 小森一貫斎
新選組 隊頭     山口次郎
純義隊 隊頭     小池周吾   以下省略

仙台藩約1000人
参謀   坂本大炊 歩兵3小隊
副参謀  今村鷲之助 砲兵1小隊 以下省略

この布陣、兵数は両藩で2500人と、新政府軍700人より多いが、問題なのは会津藩幹部の戦闘経験の乏しさである。

西郷は諱を近悳(ちかのり)。明治維新後は保科頼母と改名。号を栖雲、または酔月、晩年は八握髯翁と号した。
西郷家は代々会津藩の家老をつとめた名家で、頼母は万延元年(1860)に家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えた。容保が幕府からの京都守護職を要請された際には、辞退することを進言し、上京した容保が孝明天皇から御宸翰や御製を賜るなど、高揚されてゆくさなか、京都まで押しかけ執拗に辞任帰国を勧告し、ついに容保の逆鱗に触れ、家老職罷免となり、それから足かけ5年、若松郊外に蟄居した。
慶応4年の戊辰戦争の勃発によって、ようやく容保から家老職復帰を許された西郷は、白河口の総督に起用されたが、元々西郷頼母は非戦派であり、薩摩・長州の実態と戦法は知らない人物であって、この人事がその後致命的な結果を生む。

横山主税副総督は白河口で22歳の若さで戦死したが、この横山、存命していれば明治時代に重要な人材として活躍したのではないかと推察できる外国体験派である。
というのも横山は徳川昭武が、パリ万国博覧会に将軍慶喜の名代としてヨーロッパへ派遣された慶応3年(1867)1月、海外視察生として同行している。横浜を出発、上海、香港、シンガポールを経てマラッカ海峡を通り、マルセイユに上陸しパリに到着。
その後、パリに残る昭武と別れ、伊、独、英、蘭などの欧州先進諸国を視察し慶応3年(1867)12月に帰国した。当時としては数少ない海外渡航経験の持ち主であった。
しかし、西郷と同様、戦闘実戦経験は乏しかった。この人事、容保の失敗としか言いようがない。

容保は文久2年(1862)からまる5年間、京都にあって、幕末政争史のすべての事象に関わった。だから、薩長の出方は熟知していたはずである。
にもかかわらず、薩長が主力の新政府軍との戦いに、西郷と横山を司令官にしたのは何故か。

鳥羽伏見の戦い後、藩士を大坂城へ置き去りにして逃げ帰った弱みが容保に影響しているとしか考えられない。意志決定能力をマイナス化の方向へ向かわせたのではないか。
では、白河口での戦いにおける西郷の指揮ぶりはどうであったか。それについては記録「浮世迺夢(うきよだいむ)」が残っている。機密御用を預かっていた野田進が書きのこしたものである。(参照「幕末会津藩士銘々伝」小桧山六郎、間島勲編著 新人物往来社)

「27日、敵は白河から1里28丁ほど離れた白坂を占領した情報が入った。敵地探索のために急行すると、守備は固く、交代で休みを取り、夜は山野にひそんで会津勢の夜襲に備えて袋の鼠作戦が取られていた。
このころの会津は大軍勢に驕りたかぶっているように見え、29日に見るに見かねて西郷総督に意見と状況を申し上げようとして参上した。
『兵を引き締めて早く白坂の敵を撃破するか、または本陣を1里ほど離して精鋭のみを、この地に残して対処すべきである。このままでは必ず敵軍は夜襲して、わが軍は離散する恐れがあります』
と申し上げた。そばにいた軍事奉行鈴木多門(慶応年間200石御蔵奉行)が『身分をわきまえぬ言論』として私を怒鳴りつけた。
『会津藩の危急存亡の秋、どうして上下にこだわるのか』
と激論になったが、総督は私の意見を採りあげようとしなかった。同席していた原源三郎、井深為五郎らは嘆息して、もはやこれまでと落胆して帰りについた。
予想通り5月1日、夜明けとともに敵の大軍が三方から襲いかかり、わが軍は苦戦につぐ苦戦の連続で、とうとう横山主税副総督が壮絶な死を遂げられた。総督は長沼まで退き、私は牧の内まで退却した。総督は、この大敗で帰国して老職罷免蟄居謹慎を命じられた。代わりに内藤助右衛門が総督として派遣され、軍事奉行に小室五右衛門が赴任し、私は10日に上小屋村まで進撃して、この日に正式に会議隊隊長を命じられ、初めて平士の上席についた」

この野田進が書きのこした最後のところ、「初めて平士の上席についた」という自らの慶事であるがごとき書き方、ここに会津藩の敗因が内在しているのでないか。

戦争とは勝つことが最大目的。ならば指揮官には最も優れ有能な人物を配するのが鉄則なのに、それを容保は怠った。
必勝を期するならば、越後から佐川官兵衛、日光口から山川大蔵を至急呼び寄せ、山川を総督、佐川を副総督にすべき(「会津戦争全史」)なのに、門閥人事で決めてしまった。ここに会津藩が根底に持っていた「時代との乖離」という大きな問題が存在している。
会津藩では藩士の階級を上士(士中)・中士(寄合)・下士(足軽)と分け、上士・中士は羽織紐の色によって7階級に、足軽は半襟の色によって4階級、計11に区別した。

例えば、白虎隊といっても父兄の身分で上士・中士・下士と分けられていた。つまり、戦うために同じ組織に属しても身分制度が徹底しており、この身分制度を超えて下級武士が出世することは極めて稀で、家禄の高い藩士が力量にかかわらず職務についていた。

「浮世迺夢」の記録は、白河口の敗戦という非常時にも関わらず、「初めて平士の上席についた」と記しているように、門閥体制が会津藩に深く定着し、その支配下で政治が行われていたことの証明である。

新政府軍の司令官は薩摩藩の伊地知正治であった。
伊地知は、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由。剣術を薬丸自顕流の薬丸兼義に、合伝流兵学を伊敷村の法亢宇左衛門に学んで奥義を極めた。若くして藩校造士館の教官となり多くの志士を育成した。合伝流の弟子に西郷従道、高崎五六、淵辺群平、三島通庸がいる。西郷隆盛・大久保利通・海江田信義・吉井友実らが結成した精忠組に参加。文久2年、島津久光の上洛に従って京都に上った功績により軍奉行となる。

伊地知は類稀な軍略家といわれ、禁門の変や戊辰東北戦争で功績を挙げた。伊地知の兵法の特徴は、徹底した少数精鋭主義(薩摩藩兵では城下士の部隊、長州藩兵では奇兵隊系の部隊を選抜して率いた)で、合伝流の伝統である火力絶対主義、そして時に拙速ともいえる速戦主義にあった。

この新政府軍の作戦については、大山柏の『補訂戊辰役戦史』(上官)に詳しい記述がある。伊地知は、綿密に白河の地形調査を行い、それを図面に書き、作戦を練った。集めた情報を総合すると「会津と仙台の連携は不十分で、機動力に欠ける」との結論に達した。これに基づき攻撃隊を次のように右翼、中央、左翼の3隊に分けた。総勢700名。
右翼隊 薩摩2番、4番隊、砲1門、棚倉口に向かい敵を奇襲し、砲台のある雷神山を攻略する。占領した際はすぐ狼煙をあげる。
中央隊 砲兵団(砲5門)を中心に長州1小隊、大垣2小隊、忍1小隊で編制、敵を正面に誘い込み、稲荷山を攻略する。
左翼隊 薩摩5番隊(砲2門)、長州1中隊、大垣1中隊(火箭砲1門)で編制、立石山を攻撃する。
左右2隊の進撃は間道を進むことにし、地元民を道案内に採用した。
5月1日御前4時、最初に右翼隊が出動、ついで左翼隊が午前6時、最後に中央隊が午前8時に白坂を出た。

この作戦、大村益次郎が採った上野彰義隊攻撃に似ている。上野黒門口正面には薩摩兵、不忍池畔と切通坂には肥後兵と因州兵、根津・谷中には長州、肥前、筑後、大村の兵を配置した。正面と側面を押さえた作戦である。

伊地知の作戦を評価したい。緻密である。中央隊を遅く出す意味は、左右の兵を樹林の中にいち早く展開させ、敵を包み込む作戦。作戦の鍵は、敵に知られず白河城下に迫ることだった。

結果は新政府軍の大勝利。その内容分析は次回となる。

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