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2016年5月

2016年5月24日 (火)

2016年6月例会開催

1.2016年6月例会は次のように開催いたします。

開催日 2016年6月15日(水)
場所  東京文化会館・中会議室2(5月会場と同じ)
会費  1500円 
時間  18時30分~20時
発表者 高山市の田中彰氏
内容  「飛騨国主・金森公史」発刊記念解説
Photo


2.2016年7月例会

開催日 7月20日(水)
発表者 若松謙二氏 
場所  東京文化会館・中会議室1
会費  1500円 
時間  18時30分~20時
内容  「『北斎漫画』で江戸時代を読む」

3.2016年8月は夏休み

4.2016年9月例会

 開催日 9月21日(水)
  発表者 永冨明郎氏
 内容  NHK大河ドラマ「真田丸」の実相解読
 
  

2016年5月例会開催結果

2016年5月例会開催結果 

清水 明氏

「白井音次郎を追え! -山岡鐵舟駿府行きの謎の鍵を握る男  その調査途中報告-」

 例会ご発表初登場の清水氏は、白井音次郎に関わる史料を分析・再検され、その動向究明から山岡鉄舟の駿府行についての推論を、第1回報告として以下のように熱演しました。
①白井音次郎の出自・・・武州足立郡深作村(現さいたま市見沼区深作)の名主にして、紀州徳川家の鳥見の家に生まれた。

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(東京大学史料編纂所蔵「幕府徒目付中林八太夫家記録十五)

②白井音次郎と山岡鉄舟の出会い。その仲介者として推測する二人の人物の可能性について。

推理A:根岸友山・・・浪士組一番隊小頭。武州大里郡甲山村名主にして鷹場野廻役の根岸友山(11代目根岸伴七(ばんしち))は甲源一刀流免許だが、玄武館にも学び、千葉周作と交流があった。山岡鉄舟とも元々知己であった可能性は高かろう。

推理B:窪田治部右衛門・・・浪士組や新徴組の関係資料に必ず漏れている大物がいる。それは最後の西国郡代となった窪田治部右衛門(諱:鎮勝(しげかつ))。鉄舟ファンには清河暗殺の具申者として知られる人物。浪士組取締役だが、上洛しなかった。

③白井音次郎等の履歴や動向から推測される 山岡鉄舟駿府行プロジェクトの探求として、●プロジェクトの全体像、●音次郎の役割、●プロジェクトの指揮命令系統、以上の三項目を追及し、以下の推理を続けられた。

推理C:白井が浪士組参加後神奈川奉所支配定番となっていることから、浪士組時代は
          窪田の部下だったのではないか。

推理D:白井音次郎が別手組として京都に行って慶喜と接点を持った、とは考えない。

推理E:維新後の慶喜の信頼は非常に大きかった・・・慶喜の側近として立場を確立。ここで山本紀久雄が2009年8月9日に、音次郎の子孫である井出日南子さんと、と会った際に「慶喜の実の娘・シゲを養女にした」という発言を引用。

推理F:白井は武術が苦手だったと考え、だからこそ水戸藩士の士籍を購入したと推理。

推理G:益満休之助を請け出したのは、鉄舟ないし泥舟ではないか。

推理H:3月5日深夜、鉄舟を中心とした駿府行プロジェクト作戦会議あったと考える。

推理I:鉄舟の駿府行きは、大久保一翁も知った上でプロジェクトではないか。

 以上の各項目に見られるように、新鮮で鋭い切り口によって、今までに語られていない
項目について新たなる考察を試みられました。

 特に、推理Gにおける「益満休之助を 誰が駿府行に巻き込んだのか」については、歴
史書の多くが、12月25日の薩摩藩邸焼討の際、益満休之助が庄内藩士に捕縛され、伝馬
町の牢から勝海舟に引き取られたとしているが、これは誤りと指摘された。
 事実は、上記手紙と解読文に記されているように、「会津藩下屋敷の板塀を乗り越えて
侵入して会津藩士に捕まり、慶應4年正月上旬に美作勝山藩江戸藩邸預かりになり、これ
を持て余した留守居役・鳩山十右衛門(政治家の鳩山兄弟の先祖)は、2月26日徳川家に対し嘆願書を提出。
そして、鉄舟が慶喜と会った2月末日深夜(3月1日早朝に上野寛永寺を出た)直後の2
日、益満は勝邸に引き渡されると論究された。

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4

(参照資料『跡見学園女子大学文学部紀要』掲載「『復古記』不採録の諸記録から探る江戸情勢(二)(三))。

以上の史料が示すことは、「海舟日記」(慶応4年3月2日)に記された内容と異なるものであり、「海舟日記」記述そのものに疑義を呈する史実であり、大変興味深く、清水氏によってさらに補強究明され、まとめられることをお願いいたしました。

いずれにしても、今回が白井音次郎の動向究明第1回目報告ということでありますから、
近い将来に第二回目の探求考察結果をご発表いただきたく、大いなるご期待をもってお待ちしたいと思っております。

清水氏の深い洞察力に感銘し、ご力演のご発表に感謝申し上げます。

鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その八

山岡鉄舟研究会は、毎月第三水曜日に上野の東京文化会館で例会を開催している。

2015年3月の例会では、「遥かなり三宅島−吉田松陰『留魂録』外伝」(東洋図書出版)の著者・永冨明郎氏から、同氏がyab山口朝日放送にて解説された「都内の松陰ゆかりの地」の映像について説明をいただいたが、最後に「戊辰戦争白河口の戦い記念碑」建立について協力依頼がなされた。

山口県・長州出身の永冨氏と、福島県白河の関係は「白河踊り」をめぐる交流が縁である。実は、山口県では今でも「白河踊り」が72の地区で踊り継がれているという。この踊り「白河踊り」「白川踊り」ともいうように「河」と「川」との違いがあって、地域により歌詞(口説き)やメロディーもテンポも踊りも異なるが、いずれも慶応4年(1868)の夏、東軍西軍が奥州白河の地で戦い、亡くなった双方の兵士達や、巻き添えで亡くなられた一般庶民の方々の供養の為にと、見様見真似で踊った「盆踊り」を山口県各地に持ち帰り、地元の盆踊りの中に地域長老の理解を得て根付けていったものだといわれている。(参照「人民の星5898号」中原正男)

1

白河の記念碑建設委員会から小峰城(白河城)の写真と共に以下の協力依頼文が届いた。
「白河は『白河関』が置かれたことでも分かるように、古来より奥州の玄関口として要衝の地でした。幕末においてもその地理的重要性は変わらず、戊辰戦争が北上すると、およそ百日間に亘って攻防戦が繰り返されました。一年半に及ぶ戊辰戦争の中で、『白河口の戦い』は東北における重要な戦いであり、会津戦争をはじめとするその後の東北全土に及んでいく戦いの帰趨を決した大きな意義を持つものでした。

白河の住民は、東西両軍を分け隔てなく埋葬し、数多くの墓や慰霊碑を建てるとともに、現在まで香華を手向けてまいりました。記念碑は、全戦死者を刻銘し主戦場となった稲荷山に建立します。5,000円以上ご寄付をいただいた方のお名前も刻ませていただきます。ご賛同いただける方をお待ちしております。どうぞ宜しくお願い致します」。

そこで、この機会に白河口の戦いを調べてみると、この戦いが会津落城の引き金につながる拙い戦い方をしており、その背景に戦略的敗因が潜んでいることがわかってきた。

既に述べたが、本稿の目的は鉄舟が何故に愚庵へ深く肩入れした背景究明と、鉄舟が駿府駆けによって西郷との談判を成功させたような使者を、何故に会津藩は立てなかったのか、という疑問解明であるが、それを白河口の戦いから解き明かしていきたいと思う。
この白河、実は、戊辰東北戦争時には藩は所在していなかった。白河の地は、古代においては白河の関が設けられ、奥羽地方への出入り口として要衝の地となっていた。江戸時代になっても白河藩の占める地位は奥羽地方の外様大名の「抑え」の役割を担い、初代の丹羽氏を除いては有力な親藩・譜代大名が頻繁に入れ替わった。中でも著名な藩主は、老中首座に進み寛政の改革を行なった第3代藩主松平定信である。

松平家は定信の次、定永の文政6年(1823)に、旧領の伊勢国桑名藩に転封となり、替わって武蔵国忍藩より阿部正権が10万石で入部し、以後、幕末まで阿部家が8代44年間在封した。

阿部家の第7代藩主となった正外は老中となり、攘夷派の反対を押し切って兵庫開港を決定したが、結果的にこれが仇となって老中を罷免され、4万石減封され、慶応2年(1866)第8代藩主正静のとき棚倉藩に転封、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなった。

江戸無血開城後、白河城は新政府軍の管理下におかれたが、慶応4年(1868)閏4月20日、会津藩が出兵占拠し、新選組などを含む諸藩が集結した。その際、城郭が焼失したという。(参照「戊辰としらかわ」福島県県南地方振興局制作)

2

ところで、仙台藩士の姉歯武之進、赤坂幸太夫らが、「奥羽鎮撫総督府」下参謀の世良修蔵を、福島の娼家で捕え斬殺したことが東北戦争のひとつの切っ掛けになったことは前号でふれた。

この世良修蔵に白河で贔屓にされていたのは「志げ」という遊女。越後生まれの志げは、幼少の頃から坂田屋に育てられ、やがて客をとるようになっていた。

戦後後の明治2年(1869)、戦争敗北を逆恨みした会津藩士が志げを殺害、その会津藩士は坂田屋の用心棒に殺されたという物語があって、志げを慰霊する碑が白河市内の国道294号と国道4号が交差する女(おんな)石(いし)にある。碑にはいつも花が手向けられていることが多いが、この碑だけではなく、白河の戊辰戦争慰霊碑には、東軍西軍かかわらず今も白河の住民が花を手向け、供養している。

記念碑建設委員会から届いた協力依頼文のとおりであり、白河の人々の戊辰戦争に対する情味と至情がよくわかる。

さて、白河口の戦いはどう展開されたか。(「会津戦争全史」星亮一著 講談社を参照)
新政府軍は閏4月18日~20日に大田原(現栃木県大田原市)に集結した。世良修蔵が殺害され、白河城を奪われたため奪回作戦に出たのである。大田原に進出したのは薩摩4番隊と長州1小隊、大垣1中隊と忍1小隊約250人と砲5門。
会津藩は白河の南5キロの白坂に関門を設け、兵を収めて警戒に当たった。

戦闘は閏4月25日暁天から始まった。この日、いまだ会津藩総督・西郷頼母と副総督・横山主税は前線に到着していなかったが、新政府軍の襲来を知った新選組の山口次郎(斉藤一)を先鋒に、遊撃隊、純義隊、朱雀隊が側面から攻撃を加え、白河の外で新政府軍を迎撃撃破、新政府軍は戦死16、負傷51を出して那須に敗走し、緒戦で大戦果をあげた。

山口次郎は歴戦の強者であり、総督がいなかったので伸び伸びと戦うことができ、これが勝利につながったという。
緒戦で勝利を収めた会津、仙台の同盟軍の士気は旺盛だった。だが、以後、敗戦が続いた。

その要因を見極めたいと思ったが、その検討資料は見当たらない。何故なら、同盟軍が新政府軍をどう分析していて、その結果どのような作戦で臨んだのかが記録として遺されていないからである。

わずかに、会津藩総督・西郷頼母と新選組山口次郎、純義隊小池周吾の意見対立を示す記録がある。
『会津戊辰戦史』によると、山口、小池らは「同盟軍を周辺に分散させ、機動性を持たせよ」と主張。対する西郷頼母は白河城を会津若松鶴ヶ城と同じと考えたのか「兵を白河に集中させ、堂々と受けて立つ」と拒絶したとある。

会津若松鶴ヶ城は蒲生氏郷が七層の天守閣を築き、石垣は「野面(のづら)積み」という自然石を組み合わせで造った名城である。

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 (野面積みに支えられている鶴ヶ城天守閣)

慶長16年(1611)8月、会津盆地の西縁を震源とするマグニチュード6.9、震度6以上と推定される大地震が発生、民家2万戸が倒壊し、多数の死者も出て、七層の天守閣も傾いたが、石垣は持ちこたえた。

この頑丈な野面積み支えられた鶴ヶ城だからこそ、新政府軍が放つアームストロング砲にある程度持ちこたえることができたのである。一方、白河城については城郭が焼失しており、砲撃戦に耐えられる代物でないことは明明白白。

西郷は実戦を知らず、山口・小池らの主張が正解であり妥当な作戦である。

ここで会津と仙台藩の布陣をみてみたい。
会津藩1500人余
総督         西郷頼母
副総督        横山主税
朱雀一番士中隊中隊頭 小森一貫斎
新選組 隊頭     山口次郎
純義隊 隊頭     小池周吾   以下省略

仙台藩約1000人
参謀   坂本大炊 歩兵3小隊
副参謀  今村鷲之助 砲兵1小隊 以下省略

この布陣、兵数は両藩で2500人と、新政府軍700人より多いが、問題なのは会津藩幹部の戦闘経験の乏しさである。

西郷は諱を近悳(ちかのり)。明治維新後は保科頼母と改名。号を栖雲、または酔月、晩年は八握髯翁と号した。
西郷家は代々会津藩の家老をつとめた名家で、頼母は万延元年(1860)に家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えた。容保が幕府からの京都守護職を要請された際には、辞退することを進言し、上京した容保が孝明天皇から御宸翰や御製を賜るなど、高揚されてゆくさなか、京都まで押しかけ執拗に辞任帰国を勧告し、ついに容保の逆鱗に触れ、家老職罷免となり、それから足かけ5年、若松郊外に蟄居した。
慶応4年の戊辰戦争の勃発によって、ようやく容保から家老職復帰を許された西郷は、白河口の総督に起用されたが、元々西郷頼母は非戦派であり、薩摩・長州の実態と戦法は知らない人物であって、この人事がその後致命的な結果を生む。

横山主税副総督は白河口で22歳の若さで戦死したが、この横山、存命していれば明治時代に重要な人材として活躍したのではないかと推察できる外国体験派である。
というのも横山は徳川昭武が、パリ万国博覧会に将軍慶喜の名代としてヨーロッパへ派遣された慶応3年(1867)1月、海外視察生として同行している。横浜を出発、上海、香港、シンガポールを経てマラッカ海峡を通り、マルセイユに上陸しパリに到着。
その後、パリに残る昭武と別れ、伊、独、英、蘭などの欧州先進諸国を視察し慶応3年(1867)12月に帰国した。当時としては数少ない海外渡航経験の持ち主であった。
しかし、西郷と同様、戦闘実戦経験は乏しかった。この人事、容保の失敗としか言いようがない。

容保は文久2年(1862)からまる5年間、京都にあって、幕末政争史のすべての事象に関わった。だから、薩長の出方は熟知していたはずである。
にもかかわらず、薩長が主力の新政府軍との戦いに、西郷と横山を司令官にしたのは何故か。

鳥羽伏見の戦い後、藩士を大坂城へ置き去りにして逃げ帰った弱みが容保に影響しているとしか考えられない。意志決定能力をマイナス化の方向へ向かわせたのではないか。
では、白河口での戦いにおける西郷の指揮ぶりはどうであったか。それについては記録「浮世迺夢(うきよだいむ)」が残っている。機密御用を預かっていた野田進が書きのこしたものである。(参照「幕末会津藩士銘々伝」小桧山六郎、間島勲編著 新人物往来社)

「27日、敵は白河から1里28丁ほど離れた白坂を占領した情報が入った。敵地探索のために急行すると、守備は固く、交代で休みを取り、夜は山野にひそんで会津勢の夜襲に備えて袋の鼠作戦が取られていた。
このころの会津は大軍勢に驕りたかぶっているように見え、29日に見るに見かねて西郷総督に意見と状況を申し上げようとして参上した。
『兵を引き締めて早く白坂の敵を撃破するか、または本陣を1里ほど離して精鋭のみを、この地に残して対処すべきである。このままでは必ず敵軍は夜襲して、わが軍は離散する恐れがあります』
と申し上げた。そばにいた軍事奉行鈴木多門(慶応年間200石御蔵奉行)が『身分をわきまえぬ言論』として私を怒鳴りつけた。
『会津藩の危急存亡の秋、どうして上下にこだわるのか』
と激論になったが、総督は私の意見を採りあげようとしなかった。同席していた原源三郎、井深為五郎らは嘆息して、もはやこれまでと落胆して帰りについた。
予想通り5月1日、夜明けとともに敵の大軍が三方から襲いかかり、わが軍は苦戦につぐ苦戦の連続で、とうとう横山主税副総督が壮絶な死を遂げられた。総督は長沼まで退き、私は牧の内まで退却した。総督は、この大敗で帰国して老職罷免蟄居謹慎を命じられた。代わりに内藤助右衛門が総督として派遣され、軍事奉行に小室五右衛門が赴任し、私は10日に上小屋村まで進撃して、この日に正式に会議隊隊長を命じられ、初めて平士の上席についた」

この野田進が書きのこした最後のところ、「初めて平士の上席についた」という自らの慶事であるがごとき書き方、ここに会津藩の敗因が内在しているのでないか。

戦争とは勝つことが最大目的。ならば指揮官には最も優れ有能な人物を配するのが鉄則なのに、それを容保は怠った。
必勝を期するならば、越後から佐川官兵衛、日光口から山川大蔵を至急呼び寄せ、山川を総督、佐川を副総督にすべき(「会津戦争全史」)なのに、門閥人事で決めてしまった。ここに会津藩が根底に持っていた「時代との乖離」という大きな問題が存在している。
会津藩では藩士の階級を上士(士中)・中士(寄合)・下士(足軽)と分け、上士・中士は羽織紐の色によって7階級に、足軽は半襟の色によって4階級、計11に区別した。

例えば、白虎隊といっても父兄の身分で上士・中士・下士と分けられていた。つまり、戦うために同じ組織に属しても身分制度が徹底しており、この身分制度を超えて下級武士が出世することは極めて稀で、家禄の高い藩士が力量にかかわらず職務についていた。

「浮世迺夢」の記録は、白河口の敗戦という非常時にも関わらず、「初めて平士の上席についた」と記しているように、門閥体制が会津藩に深く定着し、その支配下で政治が行われていたことの証明である。

新政府軍の司令官は薩摩藩の伊地知正治であった。
伊地知は、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由。剣術を薬丸自顕流の薬丸兼義に、合伝流兵学を伊敷村の法亢宇左衛門に学んで奥義を極めた。若くして藩校造士館の教官となり多くの志士を育成した。合伝流の弟子に西郷従道、高崎五六、淵辺群平、三島通庸がいる。西郷隆盛・大久保利通・海江田信義・吉井友実らが結成した精忠組に参加。文久2年、島津久光の上洛に従って京都に上った功績により軍奉行となる。

伊地知は類稀な軍略家といわれ、禁門の変や戊辰東北戦争で功績を挙げた。伊地知の兵法の特徴は、徹底した少数精鋭主義(薩摩藩兵では城下士の部隊、長州藩兵では奇兵隊系の部隊を選抜して率いた)で、合伝流の伝統である火力絶対主義、そして時に拙速ともいえる速戦主義にあった。

この新政府軍の作戦については、大山柏の『補訂戊辰役戦史』(上官)に詳しい記述がある。伊地知は、綿密に白河の地形調査を行い、それを図面に書き、作戦を練った。集めた情報を総合すると「会津と仙台の連携は不十分で、機動力に欠ける」との結論に達した。これに基づき攻撃隊を次のように右翼、中央、左翼の3隊に分けた。総勢700名。
右翼隊 薩摩2番、4番隊、砲1門、棚倉口に向かい敵を奇襲し、砲台のある雷神山を攻略する。占領した際はすぐ狼煙をあげる。
中央隊 砲兵団(砲5門)を中心に長州1小隊、大垣2小隊、忍1小隊で編制、敵を正面に誘い込み、稲荷山を攻略する。
左翼隊 薩摩5番隊(砲2門)、長州1中隊、大垣1中隊(火箭砲1門)で編制、立石山を攻撃する。
左右2隊の進撃は間道を進むことにし、地元民を道案内に採用した。
5月1日御前4時、最初に右翼隊が出動、ついで左翼隊が午前6時、最後に中央隊が午前8時に白坂を出た。

この作戦、大村益次郎が採った上野彰義隊攻撃に似ている。上野黒門口正面には薩摩兵、不忍池畔と切通坂には肥後兵と因州兵、根津・谷中には長州、肥前、筑後、大村の兵を配置した。正面と側面を押さえた作戦である。

伊地知の作戦を評価したい。緻密である。中央隊を遅く出す意味は、左右の兵を樹林の中にいち早く展開させ、敵を包み込む作戦。作戦の鍵は、敵に知られず白河城下に迫ることだった。

結果は新政府軍の大勝利。その内容分析は次回となる。

2016年5月20日 (金)

江戸無血開城」論考 (1)山岡鉄舟は、勝海舟の使いだったのか

「江戸無血開城」論考
(1) 山岡鉄舟は、勝海舟の使いだったのか

                                                                                                水野靖夫

【1.「江戸無血開城」勝海舟功績論の原因】

「江戸無血開城」は、江戸の薩摩藩邸において、江戸総攻撃を目指して進撃して来る新政府軍の参謀・西郷隆盛と、旧幕府の軍事取扱・勝海舟とが会談を行い実現したと言われている。もちろん会談が行われたのは事実であるが、この会談によって全てが決した訳ではない。にもかかわらず、一般にこの会談が過当に評価されている原因は次の3点にあるのではないだろうか。

(1))明治14年、政府の賞勲局が、維新の際の功績を調査した際、鉄舟は、勝との手柄争いになるのを嫌い、「江戸無血開城」の功績を勝に譲り、報告書を提出しなかった。

(2)「江戸無血開城」の関係者がほとんど亡くなった後に書かれた(明治31年)、勝の口述筆記である『氷川清話』が流布し、これに「江戸無血開城」が西郷と勝の談笑の間に決まったように書かれている。「西郷は、おれが出したわずか一本の手紙で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやってくるとは…」「さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった」と、鉄舟の西郷説得の模様などには一言も触れていない。なお、別の談話筆記である『海舟余波』では「ナアニ、維新のことは、おれと西郷とでやったのサ」と、自分ひとりの手柄の如く述べている。

(3)昭和10年に結城素明が描いた、西郷と勝の2人が対座している「江戸開城談判」(明治神宮の聖徳記念絵画館)が、教科書にも載るほど有名になっている。この絵には、会談に参加した鉄舟が描かれていない。これは飽くまで絵であって写真ではない。

実はこの西郷・勝会談に先立って、幕臣山岡鉄舟が直接徳川慶喜の命令を受け、進撃して来る新政府軍の中を突破して駿府まで出向き、西郷と直談判したのである。慶喜の恭順の真(まこと)を説き、慶喜の処分の譲歩を確約した上で、西郷・勝会談のお膳立てをしたのである。

新政府軍の主な指導者たちは、慶喜の恭順が真実であるならば助命することは合意していた。しかし官軍に対する旧幕府側の抵抗もあり、静閑院宮(和宮)などの徳川家からの嘆願も要領を得ず、慶喜の恭順が本物であるか確信が持てなかった。一方旧幕府側も、慶喜の助命嘆願など色々手は尽くすが、新政府軍は江戸を目指して進軍して来るため、手詰まり状態で、勝も途方に暮れていた。そこに突然、直接慶喜の命を受けた鉄舟がやって来て、駿府に談判に出掛けると告げたのである。そして勝が身柄を預かっていた薩摩藩士の益満休之助を連れて駿府へ向かったのである。

【2.勝海舟の指示・命令ではない根拠】

 それでは、鉄舟が「勝海舟の指示・命令」で駿府の西郷に談判に行ったことが、歴史的事実ではないことは、なぜ分かるのか。それは、慶応4年3月5日、鉄舟が駿府に行く前に勝のところを訪ねたとき、両者はお互いを知らなかったからである。そのことは鉄舟も勝も共に述べている。以下の3書にそのことが書かれているので、その触りを紹介する。

 『海舟日記』5日 旗下山岡鉄太郎に逢ふ。一見、其為人(そのひととなり)に感ず。同人申旨あり、益満生を同伴して駿府に行き、参謀西郷氏江談ぜむと云。我れ是を良とし、言上を経て、其事を執せしむ。西郷氏江一書を寄す。

 『氷川清話』……花々しく最後の一戦をやるばかりだと、こう決心した。それで山岡鉄太
郎が静岡へ行って、西郷に会うというから、おれは一通の手紙をあずけて西郷へ送った。山岡という男は、名前ばかりはかねて聞いたが、会ったのはこの時が初めてだった。それも大久保一翁などが、山岡はおれを殺す考えだから用心せよといって、ちょっとも会わせなかったのだが、……

 『談判筆記』……1,2の重臣に謀れども、其事決して成り難しとて肯(がえん)ぜず。当時軍事総裁、勝安房は、余素より知己ならずと雖も、曾て其胆力あるを聞く。故に往て之を安房に謀る。安房は余が粗暴の聞こえあるを以て、少しく不信の色あり。

『海舟日記』は正に勝自身が書いたものである。未だ「江戸無血開城」の歴史的評価も固まらない時点の日記であるから、そこで述べられたことの信憑性は高い。

『氷川清話』は前述のように、『海舟日記』に比べればその信頼度は低いが、それでも鉄舟ではなく、勝自身が述べているのである。しかも大久保一翁が「鉄舟は勝を殺す考えだ」とまで言っている。勝がうっかり口を滑らせて、「初対面」であり大久保一翁が注意したことなどを調子に乗って喋ってしまったのかもしれない。しかしすでに世に出ている『海舟日記』に「初対面」であることを書いてしまっているので、今さら「おれが、鉄舟の胆力・交渉能力を見込んで、使いにやったのサ」などと言えなくなってしまったのかもしれない。

『談判筆記』とは『慶應戊辰駿府に於いて西郷隆盛氏と談判筆記』のことで、鉄舟の直筆の書である。前述の通り、鉄舟が賞勲局の求めに応じず、報告書を提出しなかったため、岩倉具視が「手柄は勝に譲るとしても、正しい歴史の記録は残しておくのが責任であるから」と言って、岩倉個人に提出するよう求めた。それに応じて鉄舟自身が書いたのが、ここに言う『談判筆記』である。これが書かれた経緯については『正宗鍛刀記』に書かれている。

これらを見れば、鉄舟と勝とはこの時点では、互いに相手を知らなかったことは明白である。もちろん同じ旗本であるから、名前や顔くらいは知っていたかもしれないが、慶応4年の頃は身分も相当違い、話をしたこともなかったであろう。まして『氷川清話』で言うように、勝は「鉄舟はおれを殺す考えだ」と聞かされていたので、用心していたことであろう。このころの勝は、主戦派の幕臣から薩長の回し者・裏切者として暗殺される危険が大いにあったからである。

【3.「江戸無血開城」テレビ放映】

さて、「江戸無血開城」の話には、一般に、また俗論では、この鉄舟が全く出てこないか、出てきても、せいぜい勝海舟の命令で駿府に出掛けた、もしくは西郷・勝会談の露払いとして、である。

昨年、「江戸無血開城」について、たまたま2ヵ月連続で2つのテレビ放映があった。
(1)TBS(BS) 2015年11月13日 THE歴史列伝 江戸無血開城 勝海舟
(2)日本テレビ(BS) 2015年12月10日 片岡愛之助の歴史捜査 幕末のネゴシエーター勝海舟

である。

何か新しい発見があるとか、新しい切り口から論ぜられるのかと思ったが、いずれも全く期待外れであった。誤った、もしくは根拠に乏しい俗論を、さも目新しい論点ででもあるかの如く語っている。大学教授や評論家のコメントを交えているが、何とも情けない話だ。本考察は、これらテレビ番組の批判が目的ではないが、いわゆる俗論の代表的な内容なので、折に触れ参考にしながら検討を加えようと思う。

(1)TBSの「THE歴史列伝」では、「勝は益満を介して信頼する旧幕臣山岡鉄舟を西郷の下に使わせることにする」と説明している。この説明では、勝が鉄舟に命令して西郷との談判に行かせたことになる。どこのどんな史料に、この時点で勝が鉄舟を「信頼していた」などと書いてあるのだろうか。鉄舟は自分を「殺しに来るかもしれない」と思っていたのに。鉄舟は慶喜の命令を直接受けて駿府に行ったのであるから、このTBSの説明は誤りである。
 また、
(2)日本テレビの「片岡愛之助の歴史捜査」でも、「勝は静岡・駿府にいる西郷に使者を送った。勝の代理人に立ったのは幕臣で剣術の達人山岡鉄太郎こと山岡鉄舟」と、鉄舟を使者にしたのは勝であると誤った解説をしている。鉄舟は勝の「代理人」として西郷のところに行ったのではない。当初徳川慶喜は、高橋泥舟に駿府に行くことを命じたが、泥舟が行ってしまうと、謹慎している慶喜を護り、かつ旗本の暴発を抑える者がいなくなってしまう。そこで泥舟は義弟の鉄舟を慶喜に推薦したのである。
 いずれにしても勝はこの時点で手詰まり状態に陥っており、途方に暮れていたのである。そこに偶然、降って湧いたかのように、慶喜の命を受けた鉄舟がやって来たのである。
 この点を両テレビ局に質問したが、回答はない。

【4.識者の解釈】

 識者はその著書にどのように書いているであろうか。

(1)田中惣五郎 『勝海舟』  ≪輪王寺宮にすすめて、使者とする運動をしたのも彼(鉄舟)であり、いよいよたまり兼ねて、自ら使者に立つ気になったのである≫。≪勝が行けぬときまった時から、勝の頭には、益満とこれに配すべき人物が去来して居たであらうし、大慈院守護の精鋭隊頭山岡の申出が、この期待の人物と合致して、直ちに使者として出発することとなり≫。駿府への使者は、鉄舟自身の発案であり、勝への申出である、と述べている。田中の説は、輪王寺宮の件はさておき、使者は鉄舟からの申出であって、勝の指示・命令ではない。

(2)江藤淳 『海舟余波』  『海舟日記』の≪旗本山岡鉄太郎に逢ふ。一見その人と為りに感ず≫。≪また後年彼(勝)は回想して「おれもこれまで山岡のことは、名だけは聞いてゐたけれども、いまだその心事がしれんから」と述べている≫。つまりこのとき鉄舟と勝とは初対面であった、と言っている。

(3)石井孝 『勝海舟』(吉川弘文館) ≪徳川政権の実権者となった海舟がやった第一の大きな仕事は、山岡鉄太郎(鉄舟)の駿府派遣である≫。それに続く文で≪3月5日、海舟山岡に会い、「一見、其の人と為りに感」じた。山岡は「益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむ」といったので≫と、鉄舟を派遣したと言いながら、両者は初対面で、鉄舟の方が勝を訪ねてきたと解釈している。しかし『明治維新の舞台裏』(岩波新書75年)では≪徳川政権の「軍事取扱」として軍事上の実権を掌握した勝は、駿府の西郷のもとへ使者として山岡鉄太郎(鉄舟)を派遣した≫と、勝の意思で派遣したかのような言い回しをしている。

(4)海音寺潮五郎 『江戸開城』 鉄舟が勝を訪ねて行ったときのことを≪勝の人物の評判はかねてから聞いているが、面識はない。面会を乞うと、勝家の人々は不安がって取次ごうとしない≫と表現している。

(5)高野澄(きよし) 『勝海舟』 ≪はじめて見る山岡の顔だが、名前ぐらいは知っていた≫。

(6)勝部真長(みたけ) 『勝海舟』(PHP研究所) ≪3月5日、旗本・山岡鉄太郎(号・鉄舟)が訪ねてきた。初対面である。 「一見、その人となりに感ず」と勝が「日記」に書いている≫。そして鉄舟が西郷隆盛と談判した経緯が、鉄舟の自書である前述の『談判筆記』をそのまま引用して詳しく述べている。さらに児童用の『勝海舟 世界伝記文庫22』(国土社)には≪3月5日、山岡鉄太郎が訪ねてきて、3人の中の一人、益満休之助を貸してほしいといった≫、≪このとき、山岡と海舟は初対面でした≫と記しており、益満を駿府に同行したいと申し出たのは鉄舟の方であると言っている。

(7)加来耕三 『勝海舟 行蔵は我にあり』 「豪胆・山岡鉄舟」の章の副題に『海舟日記』の≪旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人と為りに感ず。同人申す旨あり、益満(休之助)生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷(隆盛)に談ぜんという≫を書いている。にもかかわらず、≪海舟は山岡に益満休之助をつけて駿府に派遣し、西郷隆盛に面会を求めることとした≫と副題の『海舟日記』とは矛盾した内容を述べている。益満同伴については、鉄舟の依頼と勝の提案との両説があるものの、駿府行きは鉄舟からの事前連絡であり、勝の指図ではない。加来氏の企画・構成・監修による児童マンガ『コミック版 日本の歴史34 勝海舟』には、何の前置きもなく、いきなり勝が鉄舟と対坐し≪山岡さんよ、慶喜公に仕える者同士、いっしょにこの難局を乗り越えちゃあくれねぇかね?≫≪俺の手紙を駿府にいる西郷さんに渡して欲しいんだ≫と言うコマがある。完全に勝が鉄舟に駿府行きを依頼している。

(8)津本陽 『勝海舟 私に帰せず』 ≪そこで鉄太郎は思いついた。「当時軍事総裁勝安房は、いままで会ったことはないが、胆略ある人物と聞いていたので、さっそく赤坂元氷川の勝宅に至り、事の急を告げ、面会を求めた……」。さらに山岡鉄太郎は、勝との会見につき、つぎのように記す。「安房は余と初面識で、疑心を抱いているのか、容易に答えようとしない」≫。

(9)松浦玲 『勝海舟 維新前夜の群像3』(中公新書) ≪海舟は山岡とは初対面であったが、一見しただけで感心し、使者の役をまかせた≫。

(10)星亮一 『勝海舟と明治維新の舞台裏』 ≪山岡が、海舟の書簡をたずさえ、薩摩藩士・益満休之助を同伴して江戸を出発したのは、3月6日である≫。勝の指示か否かには触れていない。

 以上、(10)星亮一氏だけが、勝の命令による派遣か否か不明で、他は全て鉄舟と勝は初対面だと言っている。(1)田中惣五郎は、鉄舟自らの発案で駿府に出掛けたと解釈している。(3)石井孝と(7)加来耕三の両氏だけは、勝の派遣と言っている。初対面の者に、しかも危険人物で自分を殺しに来るかもしれないと注意されている人間に、どうしてこのような重要な任務を託せると言うのであろうか。

【5.結論】

鉄舟は勝海舟の命令で、その使いとして駿府の西郷に談判に行ったのではない。そのことは、鉄舟と勝は、お互いに相手を知らなかったという、確実な複数の史料から明らかである。このような大役を見ず知らずの、ましてや自分を殺しに来るかもしれない人物に託すはずがない。

勝は、自分の考えで鉄舟を駿府に派遣したのではない。鉄舟の方からの申出に対し、賛同・容認をしたのである。もし、鉄舟は権限もなく、ただ頼まれて西郷との談判に行っただけである、と言うなら、鉄舟に命令を下したのは徳川慶喜である。したがって「江戸無血開城」は徳川慶喜の功績ということになる。まして抗戦か恭順か紛糾したとき恭順の断を下したのは慶喜である。

これは解釈の問題ではなく、歴史の真実である。もし勝が命じて鉄舟を派遣したとするなら、以前より両者が知己であった、もしくは誰かが鉄舟を勝に紹介した、そして勝が西郷との交渉役は鉄舟が適任だとして鉄舟に会い駿府行きを命じた、という史料が必要である。にもかかわらず、学者等の識者の中には、そうした根拠も示さず、勝が鉄舟を派遣したと主張する者がいるのは理解に苦しむ。テレビ番組に至っては、もう無神経というか、杜撰としか言いようがない。

それでは改めて、勝海舟は何をしたのか。慶喜の備前藩お預けの撤回・処分保留、条件受諾による江戸攻撃中止・徳川家名存続という、鉄舟と西郷の重要な交渉結果を「追認」したのである。では勝は、西郷との会談で何を交渉したのか。西郷が処分留保とした慶喜の水戸謹慎、城明け渡し、軍艦・武器の引き渡し、城中の幕臣の撤退等に関し、「条件交渉」を行ったのである。基本的な「重要事項」は鉄舟・西郷の交渉で合意しており、勝は少しでも徳川方に有利となるよう「条件緩和」の交渉をしたのである。西郷としても、一介の旗本鉄舟との合意だけでは、また軍事取扱という最高責任者勝との面会・確認なしでは、京都の朝廷を説得は出来なかったのである。

                                                    以上

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