愚庵は幼名を甘田久五郎といった。父は磐城平藩の藩士で甘田平太夫、母はなみで藩医・林龍沢の次女、兄は善蔵、妹をのぶといった。
平太夫は禄高四十五石、はじめ徒士目付であったが、その実直な人柄を見込まれて勘定奉行に登用された。六十歳になって家督を善蔵にゆずり、平遊と号して近所の子供たちに算数を教えたりする隠居生活を楽しみ、善蔵も父に似て律義者であったので、山奉行にまで引きたてられ、磐城平の地で一家楽しく過ごしていた。
しかし、時代は大変動の時を迎え、江戸から遠く離れた東北も大動乱となった。いわゆる戊辰戦争が勃発したのである。
戊辰戦争の始まりは、慶應4年(1868)1月3日の鳥羽伏見の戦いである。幕府軍が敗退、薩長軍は官軍、幕府軍は賊軍となり、慶喜は大坂湾から船で脱出、江戸に1月12日に戻り、江戸城で恭順派と抗戦派に分かれ議論が紛糾したが、慶喜は恭順策を採り、その意を表すべく、上野の寛永寺一室に謹慎・蟄居した。
だが、薩摩・長州を中心とした官軍は、総勢5万人といわれる兵力を結集し、朝敵徳川慶喜の居城江戸城を攻めるべく、続々と京都を下っていた。
この状況下において、慶喜は恭順の意を正確に官軍に伝え、かつ、江戸を戦火から防ぐべく、当時、全くの無名であった幕臣山岡鐡太郎(鉄舟)に、単身、江戸から駿府に乗り込み、実質の官軍総司令官であった西郷隆盛と会見・交渉することを命じ、慶応4年3月9日に鉄舟は見事その任務を駿府にて会談し全うした。
この鉄舟の駿府駆けを受けて、官軍による正式な江戸攻撃中止は、慶応4年3月14日芝・田町の薩摩屋敷における、第二回目の幕府陸軍軍事総裁勝海舟が、鉄舟も同席した場で西郷と会談し決定した。
その会談で西郷は「いろいろむずかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします」と述べ、ここに正式に江戸無血開城が決定、4月11日の江戸城明け渡しによって天下の大勢は決まった。
ところが、江戸から遠く離れた東北の地では官軍・新政府軍に対抗する「奥羽越列藩同盟」が結成され、それに対する新政府軍による攻撃がはじまった。
特に磐城平藩は奥州東路の咽喉とも言うべき要害の地であったから、ここで新政府軍を食いとめんと、仙台、米沢、中村の諸藩から加勢の軍勢が送りこまれ、また、遊撃隊、純義隊という江戸の脱走兵馳せ加わり平城に立ち籠った。
慶応4年6月16日、勿来の関近くの平潟港に、軍艦3隻で上陸した約千人の新政府軍は、泉藩、湯長谷藩、小名浜陣屋を陥れ、平城めがけて攻め入って来た。
既にこの時、兄善蔵は戦場にあったが、戦火が城下に近づくにつれ、父平太夫は母なみ、久五郎とのぶを連れて、城下から南一里ばかり離れた中山村の親族方に避難した。
平藩士はよく戦ったが、新政府軍の火器は圧倒的で、戦闘を繰り返すうちに平藩勢の敗色は次第に深まっていった。
そのような状況下、兄善蔵が重傷を負ったとか、討死したのではないかという噂が流れてきた。
15歳の久五郎は生来激しい気性、日毎に聞こえてくる味方の敗報に切歯扼腕し、遂に父に出陣の許しを乞うた。
猛反対する父母を説き伏せ、久五郎は用意もそこそこに出立した。振り返ると母と妹が柱に倚り伸びあがるようにして見送っている。急に涙がこぼれ出た久五郎、逃げるように走り去った。これが母妹と久五郎・愚庵とが永遠の別れであった。
父平太夫とは、久五郎が新川口の関門を守っていたところに、心配で陣中見舞いに来た際に会え、ちょうどそこへ鰒
を入れたカゴを背負った人が来たので、鰒が好物の母へと三個買い、土産として父に渡したのが最後の別れとなった。
しかし、戦場で久五郎を待ち受けていたのは平城の落城であった。新政府軍の猛攻に耐えられず、7月13日の夜半過ぎ、これまでと城に火を放ち後方に退却した。
以後、他藩も同様敗退、8月末に米沢藩降伏、9月半ば仙台藩降伏、会津藩も9月22日に降伏し、ここに奥羽における戦火は鎮まったわけである。
新政府軍は、奥羽列藩同盟軍に対し、ひとまず故郷に帰り朝命を待つよう指示され、久五郎も平への道を急いだ。
ここで、改めて疑問を持った。
それは、江戸無血開城が鉄舟の駿府駆けによって決まり、天下の大勢は決したのに、何故に奥羽越列藩同盟軍が結成されたのか。将軍慶喜が恭順し江戸城を明け渡したのに、東北の諸藩は幕府の命を聞かずに戦火を交えてしまったのか。または、和平の交渉が行われたはずだが、その折衝に携わった会津藩はじめ東北諸藩には、鉄舟に匹敵する人材はいなかったのか。それとも戦火を発せねばならぬ、何かやむを得ない理由と背景があったのだろうか。
鉄舟を研究している立場としては、愚庵が全国へ父母妹を探す旅に出る前に、このところを検討しなければと考える。
戊辰戦争についての資料は多くある。中でも徳富蘇峰著「近世日本国民史」の「奥羽越戦争編」が著名である。この書は、織田、豊臣時代から明治に至る歴史を独自の史観で記述した全百巻に及ぶ労作であって、大正7年(1918)から順次出版され、「奥羽越戦争編」が完結したのは昭和18年(1943)であった。この中で蘇峰は次のように書いている。
「奥羽の兵は必ずしも弱兵ではなかった。ただ大局の動きについては、彼らはまったく時勢から取り残された感があった。されば彼らは自ら何事を帰すべきかも知らず、また敵が何者であるかも知らず、ただ敵が来り攻むるに対して、これに抵抗して戦争を試みるに過ぎなかった。彼らは当初より必勝の成算もなければ、またその意気込みもなかった。これは半ば以上は地形の致すところにして、余儀なき事情とはいえ、また彼らが政局の変換に対して、敏感ならざるの致すところといわねばならぬ。
しかし大局から見ればこれが仕合せであった。もし奥羽に大人物出
来
り、奥羽各藩を撃って一丸となし、官軍に対抗したらんには、その平定を見ることは、決して容易ではなかったであろう。現に奥羽では外人の力をかりて、官軍に抵抗せんと目論見たる者もあった。もし万一かくの如きが実現したらんには、わが維新史の上に極めて不愉快な幾頁かを加えたかも知れない。しかるにそれらの事もなくして無事に平定したるは、当時の奥羽に人なく、たとえ人あってもその力を用ゆる余地なかったためといわねばならぬ」
勝海舟も次のように論じた。
「思うに奥羽のことは児戯中の児戯、何を擾々
相逢うや、更に合点参らず、戦勝は国の大あらず、人の衆にあらず、総将の如何、多節の如何によって成否判然たるべし」
大山柏
の「戊辰役戦史」、大山の父は薩摩出身の陸軍大臣大山巌であり、母は会津出身の山川捨松である。また、大山の兄浩は会津藩軍事総督をつとめた逸材であった。この大山は陸軍士官学校を卒業後、陸軍大学図書館で戦史研究に従事し、両軍を公平な目で見ることができる環境にあった(もっとも、のち先史考古学を専門とする)。
しかし列藩同盟についての見解は厳しく、
「一体何をしようとするのか、目的がたしかでない。あくまで和平解決を策しているのか、あるいは武力解決を辞さないのか明らかでない。会津と和解して朝廷に武力で対抗するのなら本末転倒も甚だしいものである」と、否定した。
徳富蘇峰が執筆したのは大正から昭和初期であり、大山柏が「戊辰役戦史」を出版したのは昭和43年である。両者の間には、大東亜戦争という大きなエポックがある。皇国史観から史的唯物論、あるいは民衆史といった新しい歴史学の台頭がある。
しかし、両者はきわめて共通した部分が多く、奥羽越に同情を寄せながらも、結論として「西軍、東軍の争は急迫派と斬新派の争いともいうべく、あるいはまた進歩派と守旧派の争いである(徳富蘇峰)、「幕府存続党と倒幕天皇制の復活論者との戦いであった」(大山柏)、とした。
だが、その後の戊辰戦争研究が進み、名城大学名誉教授の原口清は「戊辰戦争」(昭和38年刊)で「従来の戊辰戦争は皇国史観に禍いされ、狭い視野と好都合な史料によって論じられ、真実を解明するに至っていない」と問題指摘し、さらに京都大学名誉教授の佐々木克は「戊辰戦争」(昭和54年刊)で「列藩同盟は薩長政権に対する東日本政権、あるいは奥羽政権といってもよい」と大胆な踏み込みを行った。
さらに近年、各地の市町村史の編纂が進み、戊辰戦争についても新しい資料が数多く発掘され、特に民衆史の観点から記述されるようになって、多角的に捉えることができるようになった。東北正義論が客観性を持ち始めている。(以上参照 星亮一著「奥羽越列藩同盟」)
慶應4年3月14日の江戸無血開城により、徳川幕府は降伏した。その後、3月18日、奥羽鎮撫総督府に左大臣九条道孝、副総督は公卿の沢為量、参謀は公卿の醍醐忠敬、下参謀に薩摩藩士大山格之助、長州藩士世良修蔵、一行5百余名が仙台・松島湾に投錨した。
要職についた公卿3人は戦いの経験なども無く、奥羽鎮撫総督府の実権を実質的に握るのは、下参謀の大山格之助と世良修蔵であった。
3月23日仙台に入り、藩校養賢堂を宿舎とした総督府は、新政府が2月後半の京都にて会津征討の方針を固めており、仙台藩へ会津国境への出兵命令を発していたことの実行を厳しく詰問した。
その背景としては、奥羽鎮撫総督府の兵力はわずか5百余名、単独で会津藩・庄内藩を攻略することは不可能だった。そこで、奥羽鎮撫総督府は東北の雄藩・仙台藩に強く出兵を迫ったのである。
会津藩に同情的な仙台藩は、奥羽鎮撫総督府に、会津藩の降伏を受け入れる条件を尋ねた。
これに対して世良修蔵が突き付けた条件は、松平容保の斬首に加え、松平喜徳の監禁と若松城の開城という厳しい内容だった。会津藩がこのような条件を飲むはずがなかった。
仙台藩内では、会津を救済するか、あるいは討つのか、意見が分かれていた。協議の結果、仙台藩が選んだ道は「とりあえず会津国境に出兵、会津に圧力をかけながら降伏を求め、和平の道を探る」というものであった。
会津に向かった仙台藩は、第一に領土の削減、第二に主君の謹慎、第三に首謀者の首を出すという三条件で降伏するよう説得した。
会津藩は当初は頑強に降伏を拒んだが、結局、仙台藩にすべてを委任することを表明し国境の七ヶ宿で談判することになった。
七ヶ宿に会津藩は使者として家老の梶原平馬、その他重臣が4名、立会人に米沢藩から3名。談判は難航したが、最後に「首謀者の首を出すことに同意。但し、誠意を示したところで薩長二藩の参謀が難題を出すだろう」と疑念を伝えたが「謝罪悔悟すれば必ず聞き届けられよう」と仙台藩は会津藩から謝罪嘆願書を受け取った。
仙台藩は、奥羽列藩に参集を呼びかけ、列藩の力で会津の嘆願を認めさせる戦略をとり、閏4月11日白石城の一角に奥羽列藩会議所設置した。これに参加したのは25藩に及んだ。
翌日、世良修蔵と大山格之助が他藩へ出向いている留守を狙って、仙台・米沢藩主は総督九条道孝に恩赦嘆願書を提出した。九条道孝は嘆願書の受け取りを拒んだが、奥羽鎮撫総督府の兵力はわずかで、仙台藩に攻められれば一溜まりも無いため、最終的には仙台藩の圧力に屈して「ともかく嘆願書は受納する」と受け取ったが、その談判は8時間に及んだという。
奥羽鎮撫総督府に戻った世良修蔵は、九条道孝が受け取った嘆願書を見て臍をかんだ。まさか、留守を狙われるとは。
参謀世良修蔵は、周防大島の漁師の倅で、高杉晋作の奇兵隊に参加し功をあげ、軍監となり、奥羽鎮撫総督の参謀にまで出世したが、成り上がり者によく見られる傲慢不遜のところがあって、仙台・米沢藩士に対しての対応にも問題が多々あった。
「仙台戊辰史」に次のような記述がある。
「戊辰三月世良修蔵大坂の旅館にあり、米沢の使臣来り謁す。修蔵時に芸妓の膝を枕にして寝ながら公用書を足にして使臣に蹴遣りぬ」
このような世良であるから、仙台・米沢藩からは憎まれていた。そのような経緯の中、福島藩にある宿屋「金沢屋」に宿泊していた世良修蔵は、大山格之助に宛てた密書をしたため、福島藩士に大山へ密書を届けるように命じた。
だが、福島藩士は密書を福島藩に提出。密書の内容に驚いた福島藩は、それを仙台藩に届けたのである。内容は、
「この度の嘆願書がもし朝廷にて聴許されるようになれば、一・二年の内には奥羽は朝廷のためにならぬ状態になるだろう。かの米・仙の俗は朝廷を軽んずる心底にて、片時も安心できぬ・・・。自分としてはあくまで奥羽はすべて敵と見て追討すべきであると確信する。とは言え、今のわれらの兵力では何一つ為し得ぬ状態ゆえ、自分は急ぎ江戸に行き西郷様に相談し、なお京都に飛んで陸奥の状態を訴え、大軍をひきいて攻めのぼるようにしたい・・・」
要するに「奥羽皆敵、逆襲の大策に致したい」というのであって、俄然、仙台藩は悲憤慷慨、沸騰した。
血気の仙台藩は世良の周辺をうかがい、閏4月20日、福島の娼家で泥酔している世良を捕え斬殺してしまった。
世良がいかなる者であったにせよ、かりにも奥羽鎮撫総督府の参謀である。その人物の首を斬るということは仙台藩が朝敵となることで、これより局面は急展開する。
確かに会津討伐は大義名分を欠く。しかし、会津藩に同情はしても、所詮は他人事である。東北諸藩の中にも勤王派もおり、諸藩が最も恐れていたのは、戦争に巻き込まれることだった。
謝罪嘆願が認められれば戦争は避けられるため、東北諸藩は会津嘆願運動に参加していたが、仙台藩士が世良修蔵を暗殺したことにより、事態は急変した。
世良修蔵を暗殺して後へ引けなくなった仙台藩は、会津救済運動を軍事同盟にすり替え、圧倒的な軍事力を背景に、恭順派の三春藩などを脅し、軍事同盟への参加を迫ったのである。
こうして、東北諸藩は奥羽列藩同盟が成立し、その戦略は新政府の軍門に下り、会津攻撃に向かうか、列藩同盟の名において新政府に宣戦布告するかの二つに一つとなった。
ここに奥羽列藩同盟の戦略立案に重要な役割を示す、仙台藩参謀の玉虫左太夫が登場する。玉虫左太夫は万延元年、米国海軍のポーターハン号で渡米した俊英であり、その玉虫が太政官に対する建白書と、列藩同盟の盟約書を書いた。
その中には、世良、大山両参謀を手厳しく弾劾しており「酒食ニ荒淫、醜聞聞クニ堪
ザル事件、枚挙仕リ兼
」と激しく非難、討会、討庄は薩長の私怨であり、天皇の意志によるものでないと断じている。
この前後、米沢藩の動向はどうだったか。米沢藩は宮島誠一郎を京都に派遣し、会津藩の謝罪をもって降伏させることで戦争を回避する方策を探り、新政府指導者三条実美や木戸孝允らとの話し合いを求めて京・大阪間を奔走する中、長州藩の広沢真臣と面会した。
広沢は「会津と話し合う用意がある」、加えて「会津を倒すか、薩長が倒されるか、どちらかである」との現状認識と、そうなれば国内統一はできない。そこで今日の急務は「姦も忠にし、邪も正」とし、「内地鎮静、万民楽土、王制綱挙」が第一と主張し、会津藩の処置は奥羽列藩に任せるので、返すがえすも深慮遠算されたしと述べた。
この発言に驚いた宮島は、閏4月10日に京都を発ち、18日に米沢に到着、家老の千坂太郎左衛門に報告。千坂は歓喜感動し、戦争が回避できると即日宮島を白石に派遣した。
閏4月23日、白石で列藩重臣会議が開かれ、ここで宮島は広沢の言を伝え、戦争は回避できると力説したが、しかし、「甘人
怠人
の策」に乗せられたにすぎないと一笑に付され、そこへ世良誅殺の報が入り、この報が入るや皆万歳を唱えた。
宮島は「嗚呼京摂数旬ノ辛労モ一瞬水泡ト相成リ」と嘆息。ここに米沢藩の和平策は消えたのである。
これによって奥羽列藩同盟は、やがて長岡、新発田、村上、村松、三根山、黒川の6藩を加え、奥羽越列藩31藩の大同盟が結成され、新政府と全面戦争に踏み切ることになって、その結果として磐城平城は落城、甘田久五郎(愚庵)が父母妹を探し求める旅へとつながったのである。
ここまで奥羽列藩の情勢を整理してみて、不可解なのは会津藩の動向である。官軍・新政府にとっての敵は仙台でも米沢でもない会津である。会津を叩けばこの戦争は終結する。
それだけ京都における会津の強さは際立っていた。会津を潰すのが新政府軍参謀大村益次郎の戦略である。それは会津藩主・松平容保にもわかっていたはず。
ならば容保はどのような和平工作を行ったのか。慶喜は最後に奇策というべき鉄舟の投入によって危機を打開した。会津には鉄舟に代わるべき人材が存在し得なかったのか。
そのところを検討しないと、鉄舟が愚案に肩入れした背景の謎が解けない。次号へ続く。
最近のコメント