2021年9月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その七 | トップページ | 2016年5月例会案内 »

2016年4月25日 (月)

2016年4月例会開催結果

20164月例会開催結果 

 1.末松正二氏から「乃木希典」について、以下の4項目にわたってご発表されました。

 何故、乃木希典か?

 乃木希典とは

 日露戦争

 乃木の評価

  多角度からの検討と、実際に203高地を訪れられた体験を織り交ぜられ、具なる見解をお伝えいただき、司馬遼太郎による乃木大将論に一石を投じられました。

 

 最後に述べられた「乃木希典の最近の評価」を以下記述いたします。

 

 「乃木に対する最近の評価は『司馬の酷評は事実では無い。乃木はやはり名将であった』との評価が大勢となっています。

  乃木は司令官であり、作戦は当初伊地知に任せていました。旅順要塞が難攻不落であることを、伊地知と共に確認した乃木は、参謀の井上幾太郎の意見を取り入れ、要塞爆破の為のトンネル堀削を伊地知に命じます。そして、203高地を126日に占領した後、約1カ月かけて、旅順の永久要塞を次々と陥落させました。

 

  これ以降、永久要塞の攻撃はトンネル堀作戦が定番となります。クロパトキンは旅順要塞が3カ年は陥落しないと見ていたのに、半年もかからず陥落したので、乃木軍を極端に恐れ、その結果、奉天会戦で敗北したのです。

 

  また、乃木は降伏してきたステッセル将軍を武士道精神で遇し、世界に感銘を与えました。かつ、明治帝に殉死し、ますます日本武人の鏡とされました。

 

  総合的に捉えると、旅順での大量な戦死者を出したのは、乃木の所為ではなく、日本海軍の作戦失敗のつけをとらされたこと、乃木達は攻撃が無理であることを熟知していたが、大本営と満州軍参謀本部からの強い攻撃命令があり、軍隊では上司の命令は絶対的なものであるとする軍規に徹底していた乃木は、無理攻めをせざるを得なかった。

 

  また、203高地に主攻撃拠点を変更するよう命じたのは乃木であった。(勿論、203高地を攻撃するよう意見具申したのは海軍)

  203高地を観測点として旅順艦隊が殲滅されたのはその通りであるが、実は海軍が旅順港の外側から砲撃を続けていて、この時までに、艦隊は使いものにならないほど破壊され、203高地が決め手になったわけではなかったのです。

  決め手となったのは、乃木が進めたトンネル工作により、永久要塞が破壊されたことでありました。

 

  この見方より海外で乃木は絶賛されます。イギリス、ドイツ、フランス、チリ、ルーマニア等から勲章を授与されました。国内でも凱旋将軍として、乃木と東郷は神様となり、神社がつくられました。最も、顔をつぶされた参謀本部、満州軍総参謀本部の若き将兵は反発し、日露戦争史等で乃木策戦を酷評します。これを資料として司馬が『坂の上の雲』を書いたことで、乃木愚将論が定着しました。

 

  外国で乃木の高い評価の一例として、マッカーサーがいます。彼は連合軍総司令官として、東京大空襲に際しては、乃木邸を焼かないよう指示しています。また、来日時、家族で乃木神社を参拝し、その後もしばしば乃木神社を訪ねています。さらに、帰国後、自宅に乃木の掛け軸を飾っていたそうです。乃木神社にあるハナミズキ木はマッカーサーの植樹と言われています。果して、乃木は名将であったか、愚将であったのか?

 

 私は、名将の条件は

 兵がこの人の為なら死んでもかまわないと思わせる人格があるかどうか?

 結果がどうか?

2つだと思います。

乃木は6万名殺しました。大山巌は20万名殺しました。でも、大山は何もしないのに

名将と言われています。大山の20万名は仕方がなかった。乃木の6万名は、他にやりようがあったということなのでしょう。

 山岡鉄舟に対しては、福沢諭吉も批判していません。誰も批判していません。

 何故でしょうか?

●改めて、乃木大将について考えるよい機会を与えていただき感謝申し上げます。

 

2.  山本紀久雄から「鉄舟と三遊亭円朝」の第1回目をお伝えしました。

 

 円朝が逝去したのは明治33(1900)62歳。現在、円朝を名乗る噺家はいない。名跡を藤原家(現・藤原家当主は藤原敦氏)が預かっている。

 

 円朝墓は全生庵にある。

 

 円朝の作品として代表的な31作品を羅列紹介。

 

 山田風太郎が警視庁草子「明治牡丹燈籠」と円朝作と同名の小説を書いている。

 

 その山田風太郎に、森まゆみがインタビューして『風々院風々風々居士』「山田風太郎」を出版。

 

 森まゆみは「円朝ざんまい」を2006年に出版し、「円朝こそ明治文学史の筆頭に据えるべきである」と主張。

 

 円朝⇒山田風太郎⇒森まゆみ、この流れに何か意味があるだろうと推測するが、この解明は次回以降の課題。

 

 明治5年、円朝は突如、それまでの「芝居噺」(落語の中に芝居がかりで演じたりする)から「素噺」へ転向。その背景には時務(その時局に応じて第一にしなければならない務め)があったものと推測するが、それが何であったかは次回以降の課題。

 

« 鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その七 | トップページ | 2016年5月例会案内 »

例会の報告」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 2016年4月例会開催結果:

« 鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その七 | トップページ | 2016年5月例会案内 »