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2016年3月25日 (金)

鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その六

前号でお伝えした磐城平藩の城跡、ここに一般民家が建ち並んでいる状況、どうしてこのような実態になってしまったのか、これがとても気になる。

愚庵会の幹部にお聞きすると廃藩置県当時に「民間に払い下げ」されたとのこと。廃藩置県によって平藩から平県、続いて

磐前

(

いわさき

)

県になった際に、何らかの理由があったのだろう。

その理由とは何か。すぐに思いつくのは、当時の平藩に多額の借金があり、その債務返済のために「民間に払い下げ」したのではないかということ。

幕末時の磐城平藩七代安藤

(

のぶ

)

(

たけ

)

の石高は3
万石で藩士299名。この石高と藩士数では藩経営は苦しいだろうと想像できる。だが、本当に借金(藩債)があったのか、それを検討するためには、歴代藩主の石高変遷から検討する必要がある。

徳川家康は関ヶ原合戦後、西軍大名から石高を没収し、東軍大名には恩賞として石高を加増させた。福島正則、池田輝政、田中吉政、山内一豊ら東軍に参加した東海地域の豊臣系大名については大幅に加増したうえで西国に移す一方、徳川譜代の大名要所に配備した。 

磐城平は北方への押さえとして重要視され鳥居忠政に託される(ほかにも館林に榊原康正、宇都宮に奥平家昌と有力譜代が配された)

磐城平藩領は、豊臣秀吉の太閤検地当時は岩城氏が領し12万石といわれ、鳥居忠政入封したときも12万石であったが、上総国から内藤政長が入封した際は分家の石高を加え実質10万石であった。

しかし、その後、常陸国・笠間から井上正経の入封時は6万石、宝暦6(1756)に美濃国・加納(現・岐阜市)から安藤信成が入った際は5万石である。

信成は幕府の寺社奉行、若年寄、寛政5(1793)に老中となり、老中在任すること17年間に及び、将軍家斉の信任が厚かったが、徳川幕府の大名に対する政策は、家康公以来「禄ある者は任うすく」「任ある者は禄うすく」に基づき5万石であった。

信成から五代目が安藤信正である。信正も奏者番、寺社奉行、老中、外国御用取扱という重責を担ったが「任ある者は禄うすく」政策通り、5万石のままであつたが、さらに、坂下門外の変の責任を問われ、2万石の減領を受け3万石となったのでいっそう財政は厳しくなったはず。

この安藤氏、実は前任地美濃国・加納において6.5万石を領していたが、当時、既に70万両の藩債を背負っていた。理由は宝暦5(1755)、時の城主・安藤信尹が奢侈であり、また、家老や家臣に不謹慎な行為があったので、信尹は隠居を命じられ、1.5万石を減じられ5万石となったためである。

その信尹の後を継いだのが磐城平藩に入封した信成、その5代目の信正、両者とも老中としての体面維持費、交際費、それと天災による減収などもあったので支出がさらに膨らみ、そこに、坂下門外の変2万石減領もあり、さらに厳しい財政状況に陥った。

だが、信正は藩政改革を果敢に推し進めた。まず、用度を減じ、藩臣の「一藩面扶持の制」、即ち、本職以外に臨時に務める役を合理化して人員の整理を行い、名目的には一定の俸禄を与えるが、実質的には俸禄の切り下げを行い、切り下げた俸禄(現米)を換金して藩債を返していくという地道な改革を、信正から次の信民へ続け、その成果が文久3(1863)から明治4(1871)まで藩主だった信勇の時代になって実り、見事完済している。(参照 磐城平藩政史 鈴木光四郎著 磐城平藩政史刊行会)

この改革の成果を考えると、廃藩置県当時の「民間に払い下げ」は、財政の問題とはいえない。

そこで、背景を調べるには、いわき市教育委員会の文化課文化財係に尋ねるしかなく、お送りいただいた平市教育委員会編「平市史」を見ると次のように書かれている。

「維新当時の平は、兵火に焼かれ暗い城下町となったが、三階櫓をはじめとし、追手門、六間門は兵火を免れて残存していた。然し安藤氏の居城を残すことは、日尚浅い明治政府には邪魔物であったので、平城の破壊を命ぜられた。先ず三階櫓は破壊され尾形善右衛門に僅か五円五十銭で払下げられた。石垣も切り売りされた」

もう一つお送りいただいた「城と館 福島民報 2007年」には、

「城は御殿や米蔵を除いて残り、廃藩置県で成立した平、磐前県へと引き継がれた。しかし明治五(1872)年春までには民間へ払い下げられ、二百八十年余の歴史を閉じた」

とある。この二つの資料から推測すると、城の破壊は明治新政府への気遣い、または命令があったからともとれる。

しかし、他県の城跡が歴史館や美術館・公園として存在していることを考えると、城跡が殆ど遺っていないという磐城平藩の惨状は、明治政府への気遣いや命令とも異なる、もっと別の要因があったのでないか。

そこで、福島県歴史資料館ならわかるのではないかとお尋ねすると、磐前県の資料はあまり残されていないとのこと。磐前県とは平県が明治4年(1871年)11月に改名された県名で、明治9年(1876年)8月の 第2次府県統合により、磐前県は廃止され、現在の福島県となった。福島県歴史資料館には会津や白河の資料は残されているが、理由は分からないが磐前県のものはないので不明という。

という経緯で、磐城平城の「民間に払い下げ」については明確にはわからない結果で終わった。

だが、磐城平藩について検討していると妙なことに気づく。それは磐城藩に対する官軍・新政府の厚遇ともいえる処置である。

新政府軍は戊辰戦争後、奥羽越同盟に加わり、抗戦した東北諸藩の責任を問い、処分を行った。

仙台藩は 28万石に減封(元62万石)され、藩主・伊達慶邦は死一等を減じられ謹慎。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。

会津藩は陸奥斗南藩3万石に転封(元23万石)され、藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。

盛岡藩は旧仙台領の白石13万石に転封(元20万石)され、家老1名が処刑された。米沢藩は14万石に減封(元18万石)され、庄内藩は12万石に減封(元17万石)されたように多くの藩が処分を受けた。

その中で磐城三藩の処分はどうであったか。

明治元年10月、泉藩は、2万石から1.8万石へ減封。湯長谷藩は、1.5万石から1.4万石へ減封となった。

しかし、平藩主安藤信勇は、謹慎処分になったが、所領は3万石のまま。坂下門外の変の責任を問われ、2万石減領受けていたことによる情状酌量があったのかどうかは不明だが、石高は減封されていない。他藩とは明らかに異なる処分である。

 

何か特別な理由があったと推察するが、それは次の事例から特別な処分となったのではないか。

2か月後の明治元年12月、突如として平藩は陸中国東磐井郡3.4万石(岩手県一関あたり)へ転封を命ぜられ、平藩には庄内藩主酒井徳之助(12万石)が予定された。

この命令を受け平藩が転封したとすると、陸奥斗南に移った会津藩士達が陥ったと同様の、厳しさを極めた悲惨な苦しい生活となったであろうが、信勇は必死に転封取り消しを朝廷に嘆願した。当時の願書が残っている。要点のみ書きだしてみる。

「去辰十二月中転封被仰付陸中国東磐井郡・・・旧磐城平の儀は宝暦年間より百年来住居仕候間乍不行届是迄撫育仕りし人民故人情風俗熟知罷在且一藩の墳墓も有之候間一且相離磐井郡え相移り候儀は割愛仕兼候情も御座候間若他家之支配被仰付候儀に御座候はば何共自由ヶ間敷不勝恐懼奉存候得共私配地被仰付置候様奉嘆願候・・・・」

 明治二年七月二十九日               安藤従五位(信勇)

要するに、平の地に百年以上も居住しており、居宅や先祖代々の墓もあり、移転は大変なので何とか勘弁してほしい、という嘆願書である。

この平藩の嘆願書は、明治28月に採り上げられた。その結果、磐城平に留まれることになったわけだが、このような一片の嘆願書で平藩士たちの生活変化は守られたのであるから特別な処分であろう。

ただし、この所領安堵処置を獲得するために、信勇の工作で7万両の償金をもって免れたという説もある。(江戸300藩最後の藩主 光文社新書)

いずれにしても、磐城平藩は転封せずに廃藩置県を迎えたのであるから、信勇による必死の転封取り消し嘆願が功を奏したと言える。

だが、この程度の嘆願書提出は、奥羽越同盟に加わり抗戦した東北諸藩においても、数多く行われたはず。

ならばどうして磐城平藩の嘆願が受け入れられたのか。

これについては信勇の官軍に対する考え方が背景にあったと推察できる。奥羽越同盟の議論が沸騰していたころ、信濃岩村藩内藤家から養子に来ていた信勇は京都にあって、官軍の大義名分を唱えていた。つまり、官軍側に立とうとしていたのである。

また、戊辰戦争勃発時には、信勇は京都からの帰途、美濃国の飛び地に滞在していたため、実戦に参加していない。

一方、磐城平藩城内では、当時どのような議論がなされていたか。ここに儒者・真木光が登場する。

真木光は幼少の頃、家禄が三十三俵二人扶持という赤貧洗うがごとくの貧乏だったが、努力し学を修め、藩校施政堂にはいり、助教頭取となり、子弟の教育に当たった。嘉永3(1850)江戸に出て諸学問を学び、文久2(1862)に御徒目付・兵学師範を命じられた。

奥羽越同盟の議論がなされてとき、真木光は平藩の軍事掛に抜擢され、和平交渉をすべく白河総督府において、官軍参謀の世良修蔵と会見して戦意のなきことを伝えていた。

ところが、会津藩の田中佐内と、幕府の大鳥圭介が突如白河へ夜襲をかけてきたので、会見の成果を確認するまでもなく、真木は平に戻らざるを得なかった。

次に真木は磐城平城にいた信正、この当時は隠居して鶴翁と称していたが、この鶴翁に天下の大勢、将軍慶喜の恭順、藩主信勇の立場、それと藩士299名という少数軍勢では勝ち目がないことを説いたが、信正は老中であったこと、徳川譜代大名であることを名分に、奥羽越同盟に参加し、会津と共に戦う覚悟を決めたので、真木の説得は通らず抗戦となった。

そして磐城平藩は戦に敗れたが、前述のとおり新政府の処分は寛大なものだった。これは信勇の京都における一連行動を、新政府軍が勘案し配慮したのではないかと推察する。これが平藩に対する厚遇のひとつである。

もうひとつは信正・鶴翁の処分である。戦いに敗れた鶴翁も謝罪状を書き、奥羽鎮撫使参謀と会見し降伏した。その際の降伏文書が「磐城平藩戊辰實戦記・藩士十六人の覺書(平安会発行)」に掲載されている。この「磐城平藩戊辰實戦記」は、儒者・真木光の後裔に当たる現当主・真木秀明氏の土蔵に長らく保管されていたものである。

真木秀明氏は、いわき市松が丘公園の愚庵の庵で開催された1月11日の愚庵忌でお会いし、城跡をご案内していただき、ご自宅で「磐城平藩戊辰實戦記」についてご説明をいただいた。その降伏文は以下のとおりである。

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