愚庵は安政元年(1854)に磐城平藩・安藤対馬守藩中の甘田平太夫を父、母は浪、その五男として生まれ、幼名を久五郎といった。
この磐城平藩、現在は福島県いわき市にあたる。このいわき市で愚庵忌が毎年行われており、2015年は111回忌、1月11日に松が丘公園にある愚庵の庵で法要が営まれた。
蘭秀寺のご住職による読経と参拝後、会員による卓話があり、その延長でいろいろ鉄舟について質問を受けたが、さすがに愚庵会のメンバー、鉄舟についても詳しい。
愚庵忌の後は平藩城跡を、愚庵会幹部の方に案内いただいた。この辺りが城跡です、という説明に絶句した。何とも声が出ない。城跡には一般民家が立ち並んでいて、それが城内の曲がりくねった道にそって建てられ、城跡とのイメージはない。

各地で城跡を訪ねるが、この平藩城跡ほど無造作に消えているところはないのではないか。通常、城跡にはかつての雄姿を書き示す案内板があり、加えて城山公園とか、記念館とか、歴史博物館等がある。ここにも一部が丹後沢公園として遺り、その前に戦国大名・岩城氏以来の歴史遺産を展示する龍ヶ城美術館がある。しかし、美術館は休業中で、公園も入り口が固く閉ざされ、中に入れない。これがさらにわびしさを増す。
城址にはわずかに石垣が遺っている場所があり、それだけが唯一幕府老中・安藤信正の威信を示しているかのようだ。このような実態になっている背景には、様々な理由があるだろうが、誠に残念である。
さて、現在のいわき市が全国に名を知られたのは、日本で最も広い地域を擁する市としてであって、長年不動の地位を保っていた。しかし、平成15年(2003)4月1日に静岡県の静岡市と清水市の合併で日本最大面積市の座を明け渡し、その後平成17年(2005)2月1日に合併した岐阜県高山市が、静岡市を抜いて1位となって、今ではいわき市は15位の面積となっている。平成の大合併を物語る順位の激しい入れ替わりである。
いわき市と清水市・高山市といえば、いずれも鉄舟と因縁がある。ご存知のように高山は鉄舟が10歳から17歳まで過ごしたところ。かつての清水市(現在は静岡市清水区)は鉄舟と深い関係の次郎長本拠地で、いわき市は愚庵の生まれ故郷。この三市が地域面積で一位を争ったとは面白く縁だろう。
毎月の山岡鉄舟研究会例会で愚庵がいわき市の出身だと伝えると、会員の女性から「先日、いわき市でコンサートを開いてきました」との発言があった。
実は彼女は歌手。福島第一原子力発電所から20km圏ラインのすぐ外に位置する双葉郡広野町の人たちが避難されている「いわき市高久第4応急仮設住宅・集会所」で、もう一人の男性歌手とピアニストの三人でコンサートを開いたのだった。
広野町は、2012年3月31日に避難指示が解除され、帰還を促しているが、戻ってきたのは町人口5,163人のうち1,796人(平成26年11月25日現在)、多くはいわき市の仮設住宅で暮らしている。
この仮設住宅の集会所で、歌手二人で14曲、会場の皆さんと一緒に7曲。加えて、彼女は美空ひばりの「川の流れのように」「愛燦燦」も歌い、最後に全員で「花は咲く」を合唱して終了したが、会場の方々の表情が変わり、92歳の女性からは「30年寿命がのびた」と感謝されたという。
仮設住宅が位置するのはいわき市中央台の「いわきニュータウン」で、ここを日経新聞の「ふるさと再訪1」(2014.10.4)で次のように述べている。
「ニュータウンは地域振興整備公団(現都市再生機構)が開発した広さ530haの高級住宅地。1982年から分譲を始めたが、バブル崩壊後、290区画が売れ残った。震災後は中古物件や新居を求める人が殺到し、翌年にはほぼ完売。約1万4000人が住む一帯には、同じいわき市の被災者や双葉郡の楢葉町・広野町から避難した約2000人(9月末時点)が公園内も含め10ヵ所ほどの仮設住宅で暮らす」
さらに、「ふるさと再訪9」(2014.11.29)では「いわきニュータウン」内の「いわき市暮らしの伝承郷」をとりあげ、広野町について以下のように解説している。
「10月下旬、伝承郷へいわき市の北隣、広野町の小学校の生徒が遠足で訪れた。休憩時が小野さん(館長)の出番だ。3年生のいる古民家に入り、「みんな“汽車”の唄を知ってるな」と声をかけ、「今は山中 今は浜……」と合唱。「闇を通って」で一呼吸おき「広野原」を大声で歌う。JR広野駅に歌碑もあり、発車メロディーにも使われているとは、私は知らなかった」と。
当然筆者も知らない。そこで広野町のホームページを見ると、
「『今は山中、今は浜、今は・・・トンネルの闇を通って広野原』と明治以来 愛唱されてきた小学校唱歌「汽車」の歌碑が常磐線 開通の際に、南の現在のいわき市 久ノ浜から広野町の間の景観を大和田 建樹氏が作詞したと言われています。昭和57年、作詞地を記念してJR広野駅構内にその歌碑が建立されました」と書かれている。
この「ふるさと再訪」は13回シリーズで、その掲載意図を1で述べている。
「JRいわき駅前のビジネスホテル。深夜12時、朝4時の2回、作業着を着た人々がマイクロバスで出掛けていく。福島原発へ赴く作業員だ。いわき駅や近隣駅周辺のホテルもアパートもほぼ満杯。付近を車で走ると、ホテルや作業員住宅の建設ラッシュで、コンビニやコインランドリーも急増している。東日本大震災から3年半が過ぎたが、被災者向けの団地・住宅建設に加え、福島第1原発の廃炉・除染工事に携わる人々の増加が、東北で最も日照時間が長いのどかな地方都市の空気を変えた。9月に発表された基準地価(7月1日時点)。福島県は22年ぶりに上昇に転じ、全国の住宅地の地価上昇率ランキングでは上位10位のうち5地点をいわき市が占めた」
この記事状況はよくわかる。上野駅から特急列車終点のいわきに降りると、改札口出たところから活気が漂ってくる。駅前ホテルに宿泊しようと、ネット予約したが、ずっと満室で予約はとれない。街中も賑わっており、体格の良い人も多く見かける。他の地方都市とは全然違う。
もう一つ感じたことがある。若い女性に、愚庵の取材で何回かいわき市に行くと話すと「新幹線のどこで降りるのですか」と聞かれた。
いわき市には当然に新幹線が走っていると思い込んでいるのだ。常磐線の在来特急で行くのですよと答えたところ、「ふーん」と少しばかり不審気な顔をする。
このいぶかる感覚もよくわかる。東京都圏内から出発する新幹線が走っていないところは常磐線と中央線である。中央線はリニア中央新幹線が計画されているから、いずれ在来線のみになるのは常磐線だけとなる。
常磐線のいわき駅までの開業は明治30年(1897)である。日本の鉄道は明治5年(1872)に、新橋駅と横浜駅間で開業し、その後東海道線として西へ伸びていった。
高崎線は明治16年(1883)に上野駅と熊谷駅間を開業。明治24年(1891)に、東北本線の上野駅・大宮駅・仙台駅・青森駅間を全通させた。
中央本線は、前身の私鉄・甲武鉄道が建設し明治22年(1889)年に新宿と立川間を開業した。
したがって、常磐線の開業は最も遅れている。いわき市の名誉のために先に触れるが、常磐線開業が遅れ、新幹線が走っていないのは、いわき市のせいではなく、それは鉄舟が初代知事を務めた茨城県に起因するのではないかと思っている。
ここで江戸時代のいわき市について簡単に触れておこう。(参照 磐城平藩政史 鈴木光四郎著 磐城平藩政史刊行会)
磐城の地は、中世以来岩城氏が領していたが、岩城貞隆のとき、関ヶ原の戦いで態度不明確であったことを理由に、慶長6年(1601)江戸に謹慎を命ぜられた。翌7年(1602)、鳥居忠政が下総国から移り10万石を領し、その後元和8年(1622)に出羽国へ移転した。
同年、上総国から内藤政長が入部、延享4年(1747)に日向国・延岡へ移転するまで125年もの長き治世で、この内藤氏の代に、岩城藩内に「泉」「湯長谷」両藩が分封された。
内藤氏の後は常陸国・笠間から井上正経であったが、在封10年足らずで大坂城代になって浜松に去り、美濃国・加納から安藤信成が宝暦6年(1756)に入り5万石を領した。
安藤氏の五代目が弘化4年(1847)に封を継いだ信正で、翌年奏者番(大名、旗本が将軍に謁見する際に、その姓名を奏上し、進物を披露または下賜物を伝達する役目)となり、寺社奉行を経て万延元年(1860)老中となり、外国御用取扱を命ぜられ、内外執務出精のゆえをもって、翌年に1万石加増された。

この安藤信正、自らの城郭があった城跡ではなく、少し離れた松ヶ丘公園の一角に銅像がある。信正銅像が立つ地は古来薬王寺台と呼ばれ、戊辰戦争では平藩の砲台が置かれ、西軍に抗戦した拠点として知られる。また、美濃国加納より移住した安藤家家中の者が、はるか西方を望んで旧地を憶い偲んだ「望郷の山」でもある。
この安藤信正については、少し触れないといけない。近代詩の詩人である山村暮鳥が次のように愚庵を語っている。
「此の土地にゐて安藤対馬守を知らぬものはなかろうが、愚庵和尚を知らぬものは多い。ところが、日本近代の歌壇では、安藤対馬守を知るものは稀であっても、愚庵を知らぬものはあるまい」と。
このように愚庵は出身地のいわき市民からも、あまり関心を持たれていないということだが、信正は抜群の知名度をもっている。
桜田門外の変の後は、安藤信正と関宿藩主久世大和守による安藤・久世政権となった。この政権が行ったことは、皇女和宮と第十四代将軍家茂との婚儀を整えることで、いわゆる公武合体政策の推進であったが、この結果は尊攘志士から狙われることになり、文久二年一月の坂下門外の変となった。
かねてから、この事あろうと安藤側では屈強な藩士を警護に当てていたので、襲撃した水戸浪士六人全員斬り伏せられ、安藤の生命に別状なかった。だが、警護の一瞬の隙から駕籠の外から刀で貫かれ、頭部と背部に傷を負った。
その後、この傷は思いのほか日がたつにつれて深くなっていった。まず、第一の傷は非難する声の高まりである。安藤が武士にあるまじき、後ろ傷を負ったということである。駕籠の後ろから刺されたので、後ろ傷を負うのは当然であるが、戦わずして背後から斬られたように聞える非難である。
次の傷は、三月になって全快したので、再登城しようとしたところ、幕府大目付、目付衆がこぞって反対したことであり、これらの雰囲気を感知した安藤は、自ら願い出て老中を辞任してしまった。
なお、これら動きには薩摩藩も同調した。薩摩藩主島津忠義の父久光が一千余の藩兵をひきいて、京都に乗りこみ朝廷に差し出した建白書には、安政の大獄で処分された公卿や一橋(慶喜)、尾張(慶勝)、越前(慶永)等の謹慎を解くべきというものから、安藤老中を速やかに辞めさせるようにとも、書き込んであったほどである。
このように述べてくると、安藤の評判はいたって悪いということになりそうだが、実はかなりの有能な人物であったらしい。
そのことを述べているのが福地桜痴である。福地は天保12年(1841)生れの幕臣、明治になってからはジャーナリストとして活躍し、その著書に幕末政治家(岩波文庫)がある。そこに安藤について次のように書いている。
「英国オールコック公使を説きて、英国が五ヶ年間の開市延期を承諾し、これに対する報酬は、輸入物品中幾分の減額に止まらん事を談判し、その坂下御門の変に、頭部および背部に負傷して病牀にあるを顧みず、創を包み傷みを忍びて英公使を引見し頻りにその尽力を望みたりしかば、英公使も安藤が憂国心の厚きに感じて、しからば自ら英国に請暇帰朝して、事情を詳細に外務大臣に具陳し、日本のために竹内等(筆者注 欧州使節として派遣された竹内下野守)を助け、以てこの談判を都合よく帰着せしむべしと請合い、果してまず英国をして、第一に延期承諾の覚書に調印するに至らしめたり。これ実に安藤が特別の功労あらずや」と書き、このような外国との交渉成果は、明治時代であるならば、勲一等に叙せられるほどだと高く評価しているし、その他多くの識者も安藤を認めている例は多いから、確かに有能であったのだろう。
話は常磐線開業が遅れ、新幹線が何故走っていないかに戻るが、そのためには幕末の水戸藩と、鉄舟が茨城県初代県知事にならざるを得なかった状況についても触れないといけないだろう。
それらを説明しているのが、茨城県発行(昭和四十九年)の「茨城県史料・近代政治社会編Ⅰ」であり、同資料から引用する。
「明治初年の茨城は、政府-県当局側にとっても、また民衆の眼からみても激動と波瀾がたえずくりかえされていた」
「明治維新政権が成立し、水戸藩主徳川慶篤も慶応4年(1868)のはじめには新政府に協力する姿勢をとっていた。しかし藩内で勢力の強い家老市川三左衛門派は、水戸城を占拠し、その後会津藩の佐幕軍と手を結んで政府軍に抵抗し、さらに水戸に舞い戻り水戸城を襲って『弘道館の戦い』(明治一年十月一日水戸城三の丸内にあった水戸藩藩校・弘道館における保守派の諸生党と改革派の天狗党の戦い)をひきおこし、新しい時代の夜明けのなかで、水戸藩内の党争は激しさをくわえていたのである」
「彰孝館蔵(江戸時代に水戸藩が大日本史を編纂するために置いた修史局)『雨谷直見聞集』によると、このころは五派に分れ『五千ノ貫属(かんぞく)(水戸藩に属する者)一人此派ヲ遁ルヽ者ナシ市人村民ニ至ル迄亦其類ヲ媛(ひ)ク』というありさまであった」
「明治政府にとってみれば、茨城県は反政府的な空気が強いだけに目の上の瘤の存在であった事情も想像できる。茨城の『近代化』への歩みは、明治政府との関係からみて、まことに多難であった。『自分たちの国を他国者に支配』させないというその水戸気質と、反政府的な動きこそは、幕末、維新以来の旧水戸藩内の抗争の重い遺産としてもちこまれてきていた。その遺産がまた茨城の地域にとってみれば、明治政府から継子扱いを受けざるをえなかったひとつの原因ともなっていたのである」
「茨城県内には政府から手厚い保護を受けた企業もほとんどみあたらず、この地は工業、軍事的にも重要でない地域としてとりあつかわれてきた。事実、茨城県は国是遂行のための幹線鉄道計画の対象から長期間はずされていたありさまである」
自県を美化することなく、あくまで客観的に冷静に分析しており、県庁が発刊した史料とは思えない気もするが、明確に幹線鉄道計画の対象外であったことを認めていて、これが今日まで尾を引いて、現在の新幹線未導入につながったと推察できる。
では、どうして鉄舟は茨城県知事になったのか。それは静岡での鉄舟の業績であった。徳川藩は江戸から静岡へ配置換えになったのが慶応4年5月、それから明治4年7月の廃藩置県までの静岡藩4年間は、廃藩置県後に各県で発生する諸問題、様々な要因が複層し混線する難しい藩経営を行わざるを得なかった結果が、廃藩置県後の「難治県」対策のとしての事前実験シミュレーションとなったのであり、その実質的リーダーとして仕切ってきた鉄舟を密かに注目していた人物がいた。
それは大蔵卿の大久保利通であった。大久保の心配の種は廃藩置県によって必ず起きるだろうと予測される「難治県」での「新政府に対する反抗」に対してどういう処置をとるべきかであった。
その懸念する大久保の眼に、静岡藩における鉄舟の行政手腕と功績が映ったのである。鉄舟を廃藩置県後の「難治県」対策として登用したいと。
幕末から幕府崩壊まで、鉄舟と大久保とはあまり縁はなかった。西郷隆盛とは江戸無血開城駿府会談を機に、お互い信頼し合う間柄であったが、大久保とは接点がなかった事もあり、特に親しいという間柄ではない。
その大久保から鉄舟に直々の呼び出し状が届いたのである。呼び出される内容に心当たりはなく、用件は静岡での出来事での問い合わせ事項かなと思って、大久保の前に立った。
「静岡では大変ご苦労をおかけいたしました。おかげで無事静岡県に移管する事が出来ました。ついては山岡さん、茨城県の参事をお願いしたい」
鉄舟はビックリ仰天。鉄舟は新政府の役人になるつもりは毛頭なく、さらに剣・禅の修業をと思っていたところである。
茨城県は、水戸県等周辺6県が合併して成立することになっていた。その初代参事(知事)である。既に決定した人事であるから断れない鉄舟、辞令を受けると直ちに「難治県」の水戸に向かい、二十数日で込み入った問題の整理をつけたのであった。
鉄舟は戦略的人間である。目標を明確に定め、それを達成したら、直ちに次の戦略目標に移っていく。これが出来るからこそ、茨城の問題点であった内紛を超短期間で整理できた。県知事を長くつとめ、そこから栄進を図ろうというような気持ちは一切ない。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ」が鉄舟である。その鉄舟が愚庵に対してはどのような戦略を持って対応し、それを愚庵はどう受けとめたのか。
その分析には、愚案の生まれからを語らねばならない。それを「血写経」から見ていきたい。
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