先日、静岡市清水区と京都を回ってきた。いずれも鉄舟関連である。
清水区は同区に居住する山岡鉄舟研究家の若杉昌敬氏が「山岡鉄舟 空白の二日間『望嶽亭・藤屋』と清水次郎長」を出版(㈱春風発行・私家版)されたので、そのお祝い会への出席である。
若杉氏は鉄舟に関する博識家をもって知られる人物で、2004年(平成16年)3月に「明治維新の功労者山岡鉄舟の『危機を救った藤屋・望嶽亭』」を小冊子として出されたが、今回はその後の研究成果をおり込み、鉄舟と西郷の駿府会談、及びその前後動静について詳細に分析し加筆されたものである。
2004年の小冊子「危機を救った藤屋・望嶽亭」については、既に本誌2005年12月号にて紹介しているが、それを搔い摘むと以下のとおりである。
「静岡県庵原郡由比町西倉沢『藤屋・望嶽亭』に伝わる秘話があり、語るのは松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人・松永さだよ(故人)さん。
慶応4年(1868)3月7日深夜、藤屋・望嶽亭の玄関の大戸を密かに叩く一人の侍がいた、ということから始まる。大戸をそーと開けかかったその瞬間に、鉄舟がすべり込む。大戸を開けたのは望嶽亭20代松永七郎平の女房『かく』であった。
『駿府の大総督府に行かねばならぬ大事な身である。官軍に捕まるわけにはいかない。匿ってもらいたい』と低く重い声で、一途に頼み込む鉄舟をみた七郎平は『これは深い訳のある人だ』と瞬時に判断、母屋と切り離された15畳の蔵座敷に通し、厚く重い漆喰つくりの扉を閉めた。
鉄舟から事の次第を聞いた七郎平は『それならば陸路は危ない。海路しかない』と、鉄舟を漁師姿に着替えさせ、船の手配と共に、清水の侠客次郎長に『この方は、大事なお方だから無事駿府の大総督府に届けてもらいたい』と手紙を書いた。
蔵座敷から海に抜ける階段を駆け降り、櫓舟に乗り込み、江尻湊に漕ぎ着き、鉄舟は次郎長のところへ向った。七郎平の手紙を読み終えた次郎長は『倉沢の望嶽亭・七郎平の頼みとありゃこの次郎長、命に懸けて守りやしょう』と子分に家の周りを警戒させ、鉄舟を座敷に上げる。翌3月8日、鉄舟は、はやる気持ちを抑えて次郎長宅で休息した。
いよいよ9日、鉄舟は次郎長と子分に守られ、清水から駿府の西郷が宿泊していた伝馬町・松崎屋源兵衛宅に向かい、そこで西郷と会見した」というものである。
しかし、この秘話について根拠が薄いという反論とともに、その信憑性が従来から論じられてきた。そこで若杉氏は、今回の出版でかねてよりの疑問点に対して明確に解説を述べ、かつ、鉄舟と西郷駿府会談の3月9日前後の状況についても詳細分析検討されているので、是非、皆さんにご参考にしてもらいたいと思う。
なお、お祝い会で筆者は「秘話に反論する人達に共通していることは、お元気だった頃の松永さだよさんが語る内容について、ご本人から先入観なく聞くという取材の原点行動をしていない」と述べたが、これはあらゆる分野での研究にとって必要な要件ではないかと思う。
京都では天田愚庵の庵址を訪ねた。場所は伏見区桃山町泰長老で、最寄り駅はJR京都駅から奈良線で四つ目の桃山駅。各駅停車で約10分の桃山駅は、都会の郊外でよく見かける普通の駅舎と、駅前に電話ボックスがあり、フェンスの向こう側は自転車置場、バス停はないので、この駅を利用する人は歩きか自転車利用なのだろう。
ところで、伏見桃山地区は多くの歴史舞台として登場する。伏見区のホームページに、この地の歴史が語られているので紹介する。
「『「巨椋の入江(おおくらのいりえ)と響むなり射目人(いめびと)の伏見が田居に雁渡るらし』と、万葉集第9に詠まれた風光明媚な伏見桃山(指月の丘)に 橘俊綱(平安時代中期-後期の官吏・歌人)が延久年間(1069~74)に山荘を営んだ頃から伏見の名が知られるようになり,奈良と平安京との中間点に位置するため、その後の文献にもたびたび登場しています。宇治の平等院を建立した藤原頼通を父に持ち伏見長者と呼ばれた俊綱が造営した豪壮な別荘、それが伏見山荘でした。地下鉄竹田駅の西側一帯には平安後期の院政時代に、白河法皇の壮大な鳥羽離宮が造営され、離宮は鴨川、宇治川、淀川、桂川に通じ、近くに巨椋池が湾入する水郷地でした。・・・平安時代
戦国時代を生き天下統一をとげた豊臣秀吉はその晩年に伏見城を築城しました。伏見は京都・大坂・奈良・近江の中継地にあたり、さらに、木津川・宇治川・桂川・鴨川の流れ込む、水路、陸路ともに交通の要所でした。築城に際して、まず、文禄3年(1594)建築資材を運ぶため伏見港を開き、巨椋池と宇治川を分離させるための大規模な工事をおこないました。そして、太閤堤、槙島堤、と呼ばれる堤防を築き、宇治や奈良などを結ぶ街道としました。また、淀城を破棄、文禄4年(1595)には聚楽第も破棄,天下の中心ともいえる一大拠点となりました。・・・安土桃山時代
江戸時代の伏見港は幕府公認の船で、過書船とよばれる船や三十石船、二十石船などが行き交う港町として賑わいました。瀬戸内海の鮮魚が陸揚げされた草津の湊、巨椋池・宇治川を通って淀川や木津川ともつながる六地蔵にも港がありました。慶長16年(1611)御朱印貿易により財を築いた角倉了以が、二条木屋町から東九条で鴨川と合流する高瀬川運河を築き、さらに南へと水路を掘りすすめ竹田から南浜へと延ばして淀川とつなぐことにより、京都と大坂が水路で結ばれました。中継地として水上交通の要となると,大小の船が集中するようになり,伏見港はさらに発展しました。京橋付近が伏見港の中心で,参勤交代の西国大名の発着地となり本陣や脇本陣が置かれ、宿場町として多くの旅人で賑わいました」・・・江戸時代から幕末
この説明、やはり区役所がつくったという感じであまり面白くない。
伏見桃山が歴史の舞台としてとりわけ脚光を浴びたのは幕末だろう。なかでも広く知られているのが文久二年(1862)4月23日の伏見寺田屋騒動。そのさわりを司馬遼太郎の「竜馬がゆく(3)」から紹介しよう。
「薩摩藩士有馬新七を首領とする同藩の激徒および真木和泉を盟主とする浪士団が、いま、伏見の寺田屋にあつまり、京都襲撃の戦闘準備をととのえているという。人数は寺田屋に収容できる程度だから少人数ではあったが、いずれも決死剽悍の連中で、京都の幕府機関である所司代屋敷に斬り込んで所司代を血祭りにあげ、一方では中川宮を奉じて錦旗をあげ、さらには、入京中の薩摩藩主の実父島津久光を説いて薩摩の兵を味方に入れ、京都を占領したのち、天下の勤王諸侯、諸有志によびかけて参軍せしめ、江戸の幕府を討って一挙に政権を朝廷にもどそうという壮大な『計画』である」
「京都錦小路の薩摩藩邸内の『御殿』にいる島津久光は、八人の藩士をよんだ。
『寺田屋に屯集して暴発を企てているわが家(薩摩)の者に告げい。よいか。一味の浪人どもはかまわでもよし。わが藩士にのみ告げよ。即刻、京の藩邸にきて、予の話をきけ、と申し伝えよ。予がじきじき慰留する』
『もしきかざれば、いかがとりはからいまする』
堀次郎という藩の公用人で、久光の知恵袋が、殿様に念を押した。この男は、大の勤王ぎらいである。
『臨機に。―――』
ただそれだけ、久光はいった。上意討ちという意味である。つまり、斬る」
これが、薩摩藩尊皇派が薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって鎮撫された事件「寺田屋騒動」である。
寺田屋といえばもうひとつ。坂本龍馬襲撃事件も有名だ。慶応2年(1866)1月23日京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に薩摩人として寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行所が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。これも司馬遼太郎「「竜馬がゆく(6)」から紹介する。
「おりょうはそのままの姿で湯殿をとびだした。自分が裸でいる、などは考えもしなかった。
裏階段から夢中で二階にあがり、奥の一室にとびこむや、
『坂本様、三吉様、捕り方でございます』
と、小さく、しかし鋭く叫んだ。
竜馬はその言葉よりも、むしろおりょうの裸に驚いた。興奮しているせいか、目にまばゆいほどに、桃色に息づいている。
『おりょう、なにか着けろ』
と言いすて、三吉慎蔵をふりかえった」
と、司馬遼太郎は書いた。
この事件によって龍馬は左手の親指に傷を受け、 隣家の戸を破り小路に出て逃走、川端の材木小屋を見つけ忍び込み、三吉は龍馬をその小屋に置いて伏見薩摩藩邸に駆け込み、藩邸へはすでにおりょうが知らせていたので、藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を掲げた船を出して龍馬を無事救助した。
龍馬とおりょうは1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ヶ月後に西郷隆盛らとともに薩摩藩の蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ向かい、 傷の治療をかねて霧島温泉に向かった。これが、後に日本で最初の新婚旅行といわれている。
伏見ではほかにも幕末維新上の大事件が伏見で発生している。言わずと知れた「鳥羽伏見の戦い」だ。
戦いの舞台となったのは桃山駅より西側(左側)の近鉄京都線・桃山御領前駅と京阪本線・伏見桃山駅の周辺。慶応四年(1868)1月3日、午後4時頃、旧幕府軍と薩摩軍(新政府軍、長州藩、土佐藩)が対峙し、薩摩藩は、小枝橋から城南宮、竹田街道にかけて布陣していたところに、旧幕府軍が鴨川西岸より小枝橋へ進行し、橋を通す通さないという押し問答から戦闘になり、これから戊辰戦争・明治維新へつながっていく。
このように史跡の宝庫である伏見に、愚庵の終焉址がある。
そこへ行こうと、JR桃山駅前からまっすぐに伸びた先の丁字路を左に曲がり、緩やかな下り道を5分ほど歩くと、右側に宮内庁の掲示板が立っている。「みだりに域内に立ち入らぬこと」と書かれたこの場所は「光明天皇・大光明寺陵、崇高天皇・大光明寺陵、後伏見天皇皇玄孫・治仁王墓」である。ということは、ここは何と北朝天皇の御陵ではないか。

北朝南朝と言えば楠木正成をイメージする。元弘の乱(1331)で、後醍醐天皇に応じて赤坂城に挙兵するが落城。 翌年冬に再度挙兵、千早城で幕府の大軍を引き受け悩ませ、これらの軍功により建武政権下で河内国司、河内・和泉両国守護となり、建武3年=延元元年(1336年)関東から上洛した足利尊氏を九州へ敗走させたが、5月に尊氏の東上を摂津国湊川(現:神戸市兵庫区)で迎え討ち戦死する。43歳。今は皇居外苑に銅像で立っている。
宮内庁のホームページを見ると、北朝歴代天皇の御陵は歴代天皇陵として掲載されていない。明治時代、南朝正当論を広めることこそ日本国民の道徳教育であるとする一部の歴史家が唱えたこと等から起こった南北朝(なんぼくちょう)正閏(せいじゅん)論争(ろんそう)、日本の南北朝時代において南北のどちらを正統とするかの論争、閏はうるう年の閏と同じで「正統ではないが偽物ではない」という意味であるが、明治44年(1911)帝国議会で南朝を正統とする決議をおこない、明治天皇の裁可を得て南朝を正統と決定したことにより、北朝5代の天皇は歴代天皇からは除外された。

だが、それまで明治政府(宮内省)は基本的には北朝正統説を採っていたので、大光明寺御陵は他の天皇と同じく立派である。光明・崇光両天皇の火葬された遺骨は大光明寺、京都市上京区にある臨済宗大本山相国寺の塔頭寺院であるが、この寺に納骨されたという一部の古記録から、明治時代にかつての大光明寺のあった付近に円丘の御陵を整備した。
今は住宅地の中に位置しているが、松並木の参道も長く開放感を感じる陵墓で、ここ桃山町泰長老一帯は、指月の岡(指月の森)といわれる高台になっており、南に崖地があり眼下に宇治川がある。御陵の北東にJR奈良線を挟んで「桓武天皇の伏見桃山陵」があり、さらに、秀吉が築いた伏見城の本丸跡地には「明治天皇御陵」、そのすぐ東には「昭憲皇太后の伏見(ふしみ)桃(もも)山東(やまのひがし)陵(みささぎ)」がある。
愚庵の終焉址あたりの地名の泰長老とは、臨済宗の僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)(1548-1608)のことをいい、秀吉の指月城の時代に、この付近に西笑の屋敷があったとされることから呼ばれている。指月城とは、秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)開始後の文禄元年(1592)に秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月に築城したもの。
愚庵が伏見区桃山町泰長老に庵を建て移転したのは明治33年(1900)46歳、その前は京都市東山区産寧坂に明治25年(1892)38歳から居住していた。産寧坂に住みだした理由については後日述べたいが、産寧坂はご存知の通り東山の観光地として有名である。

産寧坂は、狭義には清水寺の参道である清水坂から北へ石段で降りる坂道をいうが、公式には北に二年坂までの緩い起伏の石畳の道も含み、二年坂を介して北にある八坂神社、円山公園、高台寺、法観寺(八坂の塔)と南にある清水寺を結んでいるため、観光客が絶えなく、沿道は土産物店、陶磁器店、料亭などが並ぶ。
今回の京都、京都駅に降り立ったホームから、改札口、ホテルまでの道路、ホテルフロント、駅前のバス乗車口とバス内、それと著名観光地は外国人観光客に占拠されていると言っても過言でないほどの混雑ぶりである。
先日、ミャンマーのヤンゴンに行ったが、ここで見たバスのすし詰め満員乗車と全く同じ光景が、日本を代表する京都駅前を発するバスで見られるほど。特に、文化財保護法に基づき重要伝統的建造物群保存地区として選定されている産寧坂では、外国人が溢れている。

だが、愚庵が居住した当時の明治時代は外国人がすくなかったが、愚庵が語る「血写経」によれば産寧坂居宅は、
「四條三條方面から、清水観世音へ参詣する近道なので、参詣者の足音が石高い道に絶えることがない。殊に東山見物路に當る為め、京見物の人々の中、新聞などで愚庵の名を見知るものは、足序でに立寄って一見を乞ふものも少からぬやうになった。且つ都市の発達につれ、初め百円足らずで買い入れた地所も、可なり高価を呼ぶようになった。それで、他から売って呉れぬかといふ交渉を受けるに至った。
和尚は、願ふ所だといふので、売払って他へ移ることに決心した。其年の二月末に品川彌次郎が桃山の御陵を定める為め入洛し、和尚と共に桃山を見分した。土地の人の話では、桃山は京都より、数度も暖いといふので、和尚は乗気になり、伏見桃山へさるべき地所を探したが、荒井氏の世話で伏見桃山の南麓、指月の杜の下、江戸町の空地を買入れ、此処へ移ることとした」
とあるが、これを読み、意外感を持つ。移転理由は要するに「人通りが多い繁華街から、静かな郊外へ」である。
当時、愚庵は、鉄舟から指示され天龍寺派管長と林丘寺住職を兼ねていた滴水禅師の許で、明治20年(1887)に剃髪得度を受け禅僧となり、林丘寺で修行し、産寧坂に移ったころは、滴水禅師から林丘寺の後住に擬されたほどの人物になっていたのに、「血写経」の産寧坂から桃山への移住経緯は、あまりにも一般的ではないか。普通の人が通常転居する際に検討するプロセスと同じではないか。禅僧として特別の何かの背景があってもよいのではと思ってしまう。
愚庵が求めた桃山の地は、JR奈良線桃山駅から歩いて約10分。当時は閑静な山林に覆われたところであったろう。その当時の面影が山林としていまでも残っている。

愚庵の庵址には数件の家が現在建ち住んでいる。ちょうど訪れたとき、庵址の一軒から若い奥さんが幼稚園へ通う男の子をバス停に連れて出てきたので「ここは天田愚庵の庵址ですがご存知ですか」と聞くと「知りませんが、時折、写真撮りに来る人がいますね」と、迷惑そうな顔して、小雨の中足早に自宅に戻って行った。関心がないのである。

(愚庵終焉之地石標)

(愚庵終焉之地に建つ家)
中柴光泰著「アルバム愚庵とその周辺」(はましん企画)には「桃山の愚庵址には、庵の元の所有者木村喜一郎によって『愚庵終焉の地』の石標が建てられた。書は超人的な千日回峰行を達成した『大行満』の葉上照澄。師は歌人としても知られる」とある。
石標の隣に立つ説明板、そこには「愚庵宅址碑の由来」とあり、最初から7行目まで墨が薄汚れて判読が難しいが、7行目の最後のところから「桃山の風光に惹かれて明治33年当地に草庵を結び37年に没した。享年51歳。数奇な運命の中に生抜いた文人禅僧天田愚庵の静かな示寂(しじゃく)(注・僧が死ぬこと)であった」と読める。
この愚庵石標の前に立ち、回りを見回していると、再び、先ほどの疑念とともに「何故に故郷いわき市に最後の庵を持たなかったのだろうか」という思いを持った。
いわき市松ヶ丘公園にある、桃山から移設された愚庵の庵門前伝碑に「愚庵は安政元年七月二十日平藩主安藤信正の家臣甘田平太夫の五男として平城下に生まれた。初めの名は甘田久五郎、後に天田五郎と改めた。十五歳で戊辰の役に出陣中父母妹行方不明となり、爾後その所在を探して全国を遍歴すること二十年」とあるように、故郷の父母妹を探す旅を長く続けた人物である。
また、その長期間にわたる肉親を捜す親孝行行動が、既に検討したように現代感覚では少し異論はあるものの、愚庵が生きた時代の人々から高く評価された。
したがって、京都で禅僧として、文人として著名になった、つまり、人間として完成された域に達し、桃山の地に移住した段階で、父母妹を探し始めた元の心理に立ち戻る心境になってもおかしくないのではないだろうか。
愚庵が京都に居着き、林丘寺で参禅修行を始めるまでは、戊辰戦争で生き別れとなった父母妹を探すことが目標であった。
禅僧として厳しい修行を続けた結果、世に認められるようになったが、仮に、そうでなかったならば、一生涯、父母妹を探すという情念を貫き通していたはず。
ならば、禅僧としてひとつの区切りをつけた段階において、原点回帰、父母妹と住んだいわきに庵を設けるという選択肢もあり、最期はいわきの地で示寂するという道もあったのではないか。その方が全国を遍歴した愚庵の最期としてはふさわしいのではないか。
伏見桃山を訪ねて、このような考えに至ったが、これについては愚庵という人物検討をさらに進め、愚庵心理を追求したい。
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