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2015年12月

2015年12月26日 (土)

2016年1月例会開催内容

Ⅰ.2016年1月例会は以下のように開催いたします。 

開催日 2016年1月19日(火)・・・文化会館メンテナンス休館につき曜日変更
場所  東京文化会館・中会議室1
発表  次の三氏からご発表いただきます

1. 北村豊洋氏
 この度、高山市ご出身の北村豊洋氏が出版されました「山岡鉄舟と飛騨」についてご発表いただきます。
鉄舟の生き様に深く影響を与えた高山の地、今までの鉄舟関係史料で検討されてこなかった内容であり、高山の地が持つ独自性を鋭く分析考察されたもので、鉄舟研究分野に新たなる一石を投じる労作です。ご期待ください。

2.蓮沼裕二氏
蓮沼氏からは、東条英機ら「A級戦犯」7人処刑に、日本人でただ一人立ち会った教誨師の花山信勝の生家で、7人が最期に残した署名などを保管している金沢市の宗林寺を訪問した内容と、金沢市東山ひがし茶屋街で偶然出あった鉄舟書についても触れていただきます。

2. 山本紀久雄
 天田愚庵へ鉄舟が肩入れした背景と理由について、今まで鉄舟研究分野で語られていない新事実の最終発表をいたします。               

Ⅱ.2016年2月例会は次のように開催いたします。

開催日 2016年2月17日(水)
場所  東京文化会館・中会議室1
発表者 水野靖夫氏
      (内容)  
             従来、多くの幕末史学者・研究者が主張している通説・多数説ともいえる

      江戸無血開城に関わる 「アー ネスト・サトウ日記」の解釈に問題があることを、

      水野さんが解明されました。

      皆さんにも、是非、その検討結果をご案内いただきたく、2月例会でご発表を

      お願いいたしました。あっと驚く解明結果にご期待願います。

鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その三

愚庵は「十五歳で戊辰の役に出陣中、父母妹行方不明となり、爾後その所在を探して全国を遍歴すること二十年」と、いわき市松が丘公園にある愚庵・庵門前の伝碑に刻まれるような半生を送った。

父母妹の所在を探し求めるための行動、これは親孝行からであるが、現代の親孝行概念と当時は異なっていたことを理解しないと、愚庵の長期捜索という動きを十分には認識できないので、この背景について前号で解説した。

しかし、愚庵心理にもう一歩踏み込み分析してみるならば、親孝行に加えて、何か別の要因もあったのではないかと推察できる。
それは「慚愧(ざんぎ)」ではないかと思う。「慚愧」とは罪を恥じ、罪を怖れる。つまり、反省して深く恥じ入る概念である。

「大般(だいはつ)涅槃経(ねはんぎょう)」(巻第19)に
「慚とは人に羞(は)ぢ、愧とは天に羞づ。是を慚愧と名(なづ)く。慚愧無き者は、名けて人と為さず、名けて畜生と為す。慚愧有るが故に即ち能く父母、師長を恭(く)敬(ぎょう)し、慚愧有るが故に父母・兄弟・姉妹有り」

要するに、慚愧あるところ、自らを省み、人と為り、そして親への敬を生ず、すなわち人間本来の親子の情がここに生まれる、ということであろうか。(「歌僧 天田愚庵『巡礼日記』を読む 松尾心空」)

明治元年(1868)7月、14歳の甘田久五郎(愚庵幼名)は、まだ元服前だから行くなと反対する父母に対し、悍馬のような勢いで強引に押し切り説得、兄善蔵に続いて戦場に向かった。だが、平藩陥落、仙台へ落ち延びし、会津藩降伏により、兵乱が治まって、平藩で謹慎を命じられ、戻ってみると疎開先にいるはずの父母妹が行方不明となっていた。

皮肉にも、戦場に向かった兄弟は命を拾い、故郷に残った父母妹は行方不明。その不幸の種をまいたのは自分である。あの時、父母の言う通り家にいれば、自分が両親を守れたはず。その慚愧懺悔(ざんげ)が直情径行型の愚庵心理を厳しく苦しめたはず。それが親孝行の気持ちに加えて、長期間の捜索に向かわせたのだろう。

慚愧懺悔と言えば、最近、身近な知人の奥さんが亡くなった。すい臓がんであるが、手術を受けて開腹した時は、既に他臓器に転移しており、まだ若いのに残念な結果であった。
知人は、癌が早期発見に尽きるということは当然に熟知していた。したがって、一年一回の健康診断を受診するよう勧め、その他さまざまな健康に関する項目も取り入れ、体調管理に万全を尽くすようにしていたが、すい臓がんは健康診断項目から外れているので、結果として見逃していたことになる。

知人は「五・六年前にすい臓検査をしておけば、早期発見ができ、命の問題にはならなかったはず。自分の見通しが甘かったせいで奥さんを亡くしてしまった」と深く慚愧懺悔している。

奥さんは地域で様々な活動をしていたので、お通夜と葬儀・告別式には寺の住職が驚くほどご焼香の煙が絶えなかったが、いくらご会葬いただいても最愛の奥さんはかえって来ない。それも彼の心を傷つけているし、最愛の奥さんを亡くした気持ちは他人にはわからない。

先日、たまたまその知人に出会ったら、哀しみと怒りの表情を浮かべていた。というのも、奥さんが参加していた地域の生涯学級、そこの男性仲間から数人で仏壇にお線香をあげたいと電話があった。ここまではよかったのだが、その後、奥さんの思い出を数人で語り合いたいという。これに知人は「人の気持ちがわからない人達だ」と怒って、日程調整がつかないことを理由に来宅を断ったという。

大体の男は、奥さんより先にあの世に行くと思っている。それが反対になったわけで、それも最愛の奥さんの場合は、タブルパンチで気持ちを落ち込ませる。
時間が解決すると思うが、多分、それは数年を要するだろう。したがって、まだ二か月も経たないうちに、奥さんの思い出をあまり親しくない他人と語り合うのは彼にとって残酷な仕打ちになる。知人は泣くだけで終わるだろうが、その気持ちを普通の人、奥さんが健在な男どもには分からない。
多分、弔問し、ついでに慰めてあげようという親切心から発したものと考えるが、知人が深く哀しみ慚愧懺悔し、落ち込んでいる心理を理解できない。立場が違うということかもしれないが・・・。

話は愚庵に戻る。再び愚庵心理、それを脳細胞の観点から疑念を持った。20年以上も父母妹を探して歩き回ったのは、果して本当に親孝行と慚愧懺悔という二つの要因のみであったのだろうかという疑問である。

人は本来、その人が持つ本能と言うべき性格を所有している。その本能が無意識的に行動を動かしている。その証明が我々の日常生活の仕方である。一日24時間という限られた時間の中で、睡眠、食事、仕事、移動、テレビをみて読書する等、多くのことを処理しているから無事生きていけるのである。

仮に、無意識でなく、すべていちいち確認・認知しながら行動していたら、とてもこれだけの多くを処理できない。脳が即座に意思決定する仕組みが、人間の中に備わっていないと無意識的動きはとれない。

例えば、車の運転をしているときに、道路上にボールを追いかけて子供が飛び出してきたとしよう。咄嗟にブレーキを踏み、子供を避けようとする。このとき、ブレーキを踏むのと「あっ、危ない」と気づくのと、どちらが先だろうか。それはブレーキを踏む方が先である。脳は視覚から入ってきた子供の姿情報に、危ない、避けようとして脳がまず先に足に指令を出し、ブレーキを踏ませるのである。その後に、危ない、という認知意識が起きるのである。

このように無意識的行動によって我々の生活は営まれているわけだから、その無意識行動の背景にある脳の構造性質、その一つが性格であるから、その人の性格によって、日常行動が変わっていくし、24時間の中身が違っていくことになる。

では、その性格は脳のどこに所在しているのか。脳の三層で構造されている。

Img_20151226_0001


爬虫類脳とは、反射脳ともいわれ、呼吸、心拍等の生物として生きていく基本的な機能を自動調節し、反射的な運動の命令をさまざまな筋肉に送っている。
旧哺乳類脳は、情動脳ともいわれ、本能、情動を司る。食欲、性欲、快、不快、怒り、不安等の情動、学習・記憶に関係している。
新哺乳類脳は、理性脳ともいわれ、四つの領域に分かれ、行動、意識、認識、記憶等を司り、様々な情報を基に高度で複雑な処理や判断を行っている。もっとも人間らしさを担う脳部位である。

性格は明らかに旧哺乳類脳に所属する。新哺乳類脳に属する理性ではない。このことを脳科学者は「私たちの認知活動の95%は無意識に行われており、意識しているのはわずか5%である」(ハーバート大名誉教授ジェラルド・ザルトマン博士 「脳科学がビジネスを変える」萩原一平著)としている。

ということは圧倒的に無意識で意思決定をおこなっており、意識しているのは5%に過ぎないのだから、その人間の行動本質を探ろうとしたら、その旧哺乳類脳・情動脳を検討しなければならないわけになる。

しかし、脳の中身は外部から分からないのであるから、結果として、その人の行動を見て、あの人はあのような性格・情動脳なのかと判断することになる。

因みに、これは現代のマーケティングの問題点も教えてくれる。ある新商品を発売しようとして、事前にアンケートを多数とったとする。結果は発売OKとなって、実際に店頭に並んだところが、売れないということは度々ある。

これはアンケートが間違っていたのでなく、アンケートには表面評価としての5%しか意識を探っていないのであるから、実際の商品を目の当たりにした消費者は、95%の本音としての無意識脳で購買するのであって、そこにアンケートとは異なる結果が生ずるのである。
ここまで検討してきて、ハタと気づいたことがある。それは「大悟」悟りについてである。

鉄舟が「剣・禅二道において悟るところがあって、諸法はみなその揆を一にするものだと自覚してからは、書もその筆意が全くガラリと一変するに至った」(書法において)と述べていること、これを理解しないと鉄舟という人物と悟りがわからない。

文久三年(1863)浅利又七郎との立合に敗れて以来、明治十三年(1880)三月十三日まで修行を続けた結果、大悟に至った。

悟という文字は、心と吾によって結ばれているように、大悟とは心と吾がひとつになる、吾と心がひとつになることである。

平たく言いかえれば、自分の心が持つ素晴らしい存在を、自由自在に引き出せる自分になるということであるから、脳の三層構造図でいうならば、少なくとも5%だけの意識ではなく、残りの95%の分野に入り込んでおり、爬虫類脳までは無理としても、旧哺乳類脳についてはコントロールできるまでに至ったのではないか・・・。

そのように考えると「心と吾がひとつになる、吾と心がひとつになる」ということが理解できる。一般人は物事への認識を5%という表面意識下で行っているが、鉄舟はその壁を破って、旧哺乳類脳まで自らがコントロールできる、つまり、無意識化まで意識下に置いたと言えるのではないかと推察する。

だからこそ「その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まいご)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう」(山岡鉄舟の武士道)

鉄舟研究家でこのような見解を持つのは、多分、初めてであろうが、愚庵を検討していくとこのような見解にたどり着く。

再び愚庵に戻って考えると、愚庵の性格はどうであったのかが鍵と思われる。

明治11年(1878)、明治天皇の北陸・東海道巡幸に鉄舟が伴奉していた。この時、愚庵は壮士活動で東京を飛び出し大阪方面に向かっていた。この年は五月に大久保利通が暗殺され、八月には竹橋事件、近衛砲兵大隊の兵士が、大砲を引いて大蔵卿大隈重信邸宅を襲撃し、赤坂の仮皇居前で宮中に嘆願するという事件が起きていた。

愚庵は明治八年(1875)、反政府的暗躍の嫌疑により禁獄30日の刑に服している。したがって、危険分子人物として警察からマークされていたので、それを鉄舟が心配し、一書を愚庵に渡すよう三宅某に託した結果、ようやく静岡にいる鉄舟の許に愚庵が到着したが、会った瞬間、鉄舟が発言したのは、愚庵への厳しい叱責だった。

「この尻軽猿め。何故、わしに一言の挨拶もなく東京を飛び出したのだ」と。
この事例から推察できるのは愚庵の全国を渡り歩く放浪癖である。
冬の北海道で肺病になり、東京浅草で写真術を習い、旅回りの写真屋になり、清水次郎長の食客となり、やくざ者と茶碗酒を飲み合う仲になり、富士裾野の開墾、徳光狐と称する巫女の話を信じ、山形へ行くが見当違い、この他に沖縄から九州、台湾まで行くという20年間の行動、これはどうみても純真な父母妹への親孝行と慚愧懺悔だけとはいえない。
当初は父母妹への無垢な気持ちからスタートしたが、いつの頃からか自らの内部に持つ本能としての放浪癖という性格が芽を吹き出し、そこに愚庵の才気と直情径行型が加わって、各地で活動しつづけ、鉄舟から「尻軽猿め」と怒鳴りつけられる羽目に至ったと考える。

だが、ようやく愚案の放浪癖に転機が訪れる。明治19年(1886)内外新報社の幹事となって大阪へ行くことになったが、この際、鉄舟から天龍寺の滴水禅師への紹介状を受け、次のように言われた。

「お前は大阪に行ったなら、京都の天龍寺の滴水禅師の許に参禅して心力を練るがよい。滴水禅師は今の世には稀な大徳である。この人の感化によってお前が大悟することができたならば、そのときこそお前の父母妹にも居ながらして対面することができよう。お前は今日まで苦労に苦労を重ねて父母妹の行方を尋ねた。だが、今日、お前の希望は達せられないと思わねばならぬ。そこで残された唯一の道は、お前が今まで辿ってきたような外部に向かっての捜索は止めにして、自分の内部に向かって探す旅をすることだ」と。

この鉄舟の言葉が愚庵を救い、愚庵が変身するのであるが、それをお伝える前に、相馬(そうま)御風(ぎょふう)(歌人で評論家。早稲田大学の校歌「都の西北」の作者としても知られる)の、愚庵について次のように綴っているので紹介する。

「愚庵は世の所謂豪傑たる素質を持ってゐたと云われる。しかも、彼はつひに謂うところの豪傑にならなかった。愚庵はまた出家剃髪の身であった。しかも、彼はつひに謂ふところの名僧にならなかった。彼はまた詩もつくり、歌もよみ、書をも能くした。しかも、彼は詩人でも、歌人でも、亦書家でもなかった。彼みづからも亦凡てさうしたものにはならうともしなかったし、なりたくもなかった事は明らかである。然らば結局愚庵は何者であったらうか」「人及び歌人としての天田愚庵」から紹介する。(「歌僧 天田愚庵『巡礼日記』を読む 松尾心空」)

次号以下で「血写経」、これは、愚庵の半生を記したもので、愚庵自らが筆を執り、親交のあった陸(くが)羯南(かつなん)に送った原稿がもととなっている。それを饗庭篁(あえばこう)村(そん)が書き改め、羯南の主宰する新聞「日本」に連載したもの。これに基づきお伝えする。

2015年12月19日 (土)

2015年11月18日(水)例会開催結果

11月は永冨明郎氏と山本紀久雄が発表いたしました。

1. 永冨明郎氏

永冨氏は「幕末に於ける佐幕派/反幕派の相互作用」と「幕末維新の過程と著名人の生涯」という二枚の大作図解を作成され、これに基づき解説されました。
この図解は、永冨氏が創作された幕末維新の大きな流れを体系化したもので、今までどの歴史書籍資料にも掲載されていないオリジナルなものです。
その貴重で重要な図解を皆さんにご報告したいのですが、スキャンしたとしても十分にお伝えできないと思われますので、図解をご希望の方には別途送付申し上げますのでご連絡お願いいたします。
永冨氏の解説、膨大、且つ緻密で、久しぶりに大河ドラマストーリーを目の当たりにした気持ちになりましたが、これを文言化するのは至難です。

したがつて、以下、概要をお伝えすることでご了解賜りたいと思います。

① 幕末動乱の時期はどのタイミングからであるか、それは天保の改革から、または、ペリー来航からという説があるが「例会ではペリー来航を基点とした」解説を採られた。
② また、時代の動きを掴み理解し整理する前提としては、「人間関係の相互作用」の繰り返しから社会が成立していると考え、それを「反幕府活動」「外的要素」「佐幕活動」の三分野からとらえる。
③ 嘉永6年のペリー来航によって、時の老中阿部正弘は「全国に対応意見を聴取」するという国民に政治参加を求めた。国民が政治に意見を述べられるという画期的事件であった。
④ 日米和親条約の際は、政治全権を委嘱されているとの従来からの判断で勅許も得ることなく締結していたが、通商条約の際はわざわざ朝廷に勅許を求め、それに対して不許可の反応となったため、勅許を得られないままに締結した。その結果、朝廷の反対を押し切って締結したという幕府批判が高まり、井伊大老の就任から大老批判派への弾圧、安政の大獄がはじまる。この際には、徳川慶喜は大老批判派=反幕府活動派に位置づけられていた。
⑤ 桜田門外の変で井伊大老が暗殺され、安政の大獄への反省から公武合体論へ傾くが、坂下門外の変、皇女和宮の降嫁、尊王攘夷派によるテロ事件多発、新選組による取り締まり闘い、禁門の変、第一次長州征伐、第二次長州征伐における幕府軍敗退、孝明天皇崩御、薩長芸三藩倒幕の密約、慶喜大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へとつながっていく。

我々は歴史に興味と関心を持つとき、歴史をある事件、ある人物から採り上げ、説き起こそうとする傾向が強いと思いますが、その場合、個別の歴史に詳しくはなるが、それが大きな歴史過程の中でどのように位置付けられるのかについて、ともすれば見失いがちになる傾向に陥る危険があります。

そのところを永冨氏の図解解説が補ってくれ、歴史過程を大局からの相互作用として理解するよう、我々の脳細胞を整理させてくれたわけです。

 さすが幕末維新博士と称される永冨氏の語りに、成程と納得させられた例会であり、考え抜かれた二枚のオリジナル大作図解を称賛し、解説に深く感謝申し上げます。

2. 山本紀久雄

鉄舟が天田愚庵に特別に肩入れした背景について考察いたしました。

① 福島県いわき市松ヶ丘公園にある愚庵の庵門前伝碑に「甘田久五郎、後に天田五郎と改め、十五歳で戊辰の役に出陣中父母妹行方不明となり、爾後その所在を探して全国を遍歴すること二十年。その間山岡鉄舟の知遇を受け、また一時清水次郎長の養子となった。明治二十年滴水禅師に依って得度し鉄眼と号し、その後京都清水に庵を結んで愚庵を名乗った。漢詩の外に万葉調の和歌を能くし正岡子規に多くの影響をあたえた」とある。
② 著名な愚庵研究家は「鉄舟が愚庵の性格特性と、父母妹との別れに身をつまされ、愚庵の心中を思い遣って、肩入れした」と述べている。だが、果して、鉄舟がそのようなナイーブな心情のみで対応したのか疑問。
③ この検討を始めていくうちに、徐々に全体像が浮かんできたので、その前半のさわりとして以下をお伝えした。後半は2016年1月例会でお伝えいたします。
1. 愚庵は15歳で戊辰戦争に出陣中、父母妹行方不明となる。
2. 戊辰戦争は東北越で激しい戦いが行われたが、東海道筋では鉄舟の働きで江戸無血開城。東北越の地には鉄舟に比肩する人物は存在し得なかったのか⇒鉄舟は「無」概念帯の世界に到達。一般人ではでき得ない大問題解決力を所有⇒9月例会報告済み
3. これらの検討経緯から東北越の戊辰戦争の実態を振り返る⇒白河口の戦い。母成峠の戦い。会津若松城の攻防。
4. いずれも新政府軍の圧倒的勝利。
5. 同様に愚庵が出陣した磐城の地での戦いでも新政府軍が勝利。
6. 東北勢の敗戦理由としてあげられる大要因のひとつが東北の盟主「仙台藩」の弱兵ぶ
り⇒各地で弱い実態を聞く。
7. 仙台藩の過半を占める兵士は、地方知行という制度、これは管内各地にそれぞれの殿がいる小幕府の状態で、軍備・兵器と弾丸・訓練がなされず、勿論、洋式化などできていなく、さらに、通常は農業が主であるから、いざ戦場へと出陣しても、鉄砲の撃ち方を知らなく、戦場では味方の足を引っ張るばかり。
8. 一例が磐城での仙台兵。宮城の地からわざわざ平潟へ守備固めとして派兵されていたが、新政府軍が上陸すると戦わずして退却。
9. 磐城の仙台藩兵と磐城平藩前藩主安藤信正は、磐城の地に来た幕府から脱走遊撃隊に対し「軍の指揮を執るよう要請」⇒ここが鉄舟と愚庵の関係起因。
10. 幕府が慶応2年(1866)に新設した遊撃隊は、一種のエリート集団で中核をなしたのは、幕府が安政3年(1856)4月に開設した講武所で刀槍柔術を教授した旗本御家人たち。この中から14代将軍家茂の奥詰衆(親衛隊)に選抜された60人と、旗本御家人の次男以下から武芸抜群の者たちを合体させて編成したのが幕府の遊撃隊。結成直後の隊士数は390人。頭取ないし頭取並には、心形刀流の達人伊庭軍兵衛、剣聖男谷精一郎の直弟子で直心影流の剣豪榊原鍵吉、鉄舟の義兄で槍術天下無双の高橋泥舟、鏡心明智流士学館道場主桃井春蔵など、錚々たる武芸者が顔を並べていた。
11. この遊撃隊、鳥羽伏見の戦いで新選組とともに最前線で戦ったため、死傷率が高く、4月11日早朝、上野寛永寺から水戸に向かった慶喜を千住まで護衛した際には100人ばかり。
12. その中の人見勝太郎、伊庭八郎は見送り後脱走。紆余曲折を経て磐城の地へ⇒鉄舟による遊撃隊への説得失敗⇒「微衷・義」と「大義」の違い。

● 鉄舟銅像の建立についてご提案し、皆さんからのご見解を後日お聞きすることにいたしました。

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