愚庵は「十五歳で戊辰の役に出陣中、父母妹行方不明となり、爾後その所在を探して全国を遍歴すること二十年」と、いわき市松が丘公園にある愚庵・庵門前の伝碑に刻まれるような半生を送った。
父母妹の所在を探し求めるための行動、これは親孝行からであるが、現代の親孝行概念と当時は異なっていたことを理解しないと、愚庵の長期捜索という動きを十分には認識できないので、この背景について前号で解説した。
しかし、愚庵心理にもう一歩踏み込み分析してみるならば、親孝行に加えて、何か別の要因もあったのではないかと推察できる。
それは「慚愧(ざんぎ)」ではないかと思う。「慚愧」とは罪を恥じ、罪を怖れる。つまり、反省して深く恥じ入る概念である。
「大般(だいはつ)涅槃経(ねはんぎょう)」(巻第19)に
「慚とは人に羞(は)ぢ、愧とは天に羞づ。是を慚愧と名(なづ)く。慚愧無き者は、名けて人と為さず、名けて畜生と為す。慚愧有るが故に即ち能く父母、師長を恭(く)敬(ぎょう)し、慚愧有るが故に父母・兄弟・姉妹有り」
要するに、慚愧あるところ、自らを省み、人と為り、そして親への敬を生ず、すなわち人間本来の親子の情がここに生まれる、ということであろうか。(「歌僧 天田愚庵『巡礼日記』を読む 松尾心空」)
明治元年(1868)7月、14歳の甘田久五郎(愚庵幼名)は、まだ元服前だから行くなと反対する父母に対し、悍馬のような勢いで強引に押し切り説得、兄善蔵に続いて戦場に向かった。だが、平藩陥落、仙台へ落ち延びし、会津藩降伏により、兵乱が治まって、平藩で謹慎を命じられ、戻ってみると疎開先にいるはずの父母妹が行方不明となっていた。
皮肉にも、戦場に向かった兄弟は命を拾い、故郷に残った父母妹は行方不明。その不幸の種をまいたのは自分である。あの時、父母の言う通り家にいれば、自分が両親を守れたはず。その慚愧懺悔(ざんげ)が直情径行型の愚庵心理を厳しく苦しめたはず。それが親孝行の気持ちに加えて、長期間の捜索に向かわせたのだろう。
慚愧懺悔と言えば、最近、身近な知人の奥さんが亡くなった。すい臓がんであるが、手術を受けて開腹した時は、既に他臓器に転移しており、まだ若いのに残念な結果であった。
知人は、癌が早期発見に尽きるということは当然に熟知していた。したがって、一年一回の健康診断を受診するよう勧め、その他さまざまな健康に関する項目も取り入れ、体調管理に万全を尽くすようにしていたが、すい臓がんは健康診断項目から外れているので、結果として見逃していたことになる。
知人は「五・六年前にすい臓検査をしておけば、早期発見ができ、命の問題にはならなかったはず。自分の見通しが甘かったせいで奥さんを亡くしてしまった」と深く慚愧懺悔している。
奥さんは地域で様々な活動をしていたので、お通夜と葬儀・告別式には寺の住職が驚くほどご焼香の煙が絶えなかったが、いくらご会葬いただいても最愛の奥さんはかえって来ない。それも彼の心を傷つけているし、最愛の奥さんを亡くした気持ちは他人にはわからない。
先日、たまたまその知人に出会ったら、哀しみと怒りの表情を浮かべていた。というのも、奥さんが参加していた地域の生涯学級、そこの男性仲間から数人で仏壇にお線香をあげたいと電話があった。ここまではよかったのだが、その後、奥さんの思い出を数人で語り合いたいという。これに知人は「人の気持ちがわからない人達だ」と怒って、日程調整がつかないことを理由に来宅を断ったという。
大体の男は、奥さんより先にあの世に行くと思っている。それが反対になったわけで、それも最愛の奥さんの場合は、タブルパンチで気持ちを落ち込ませる。
時間が解決すると思うが、多分、それは数年を要するだろう。したがって、まだ二か月も経たないうちに、奥さんの思い出をあまり親しくない他人と語り合うのは彼にとって残酷な仕打ちになる。知人は泣くだけで終わるだろうが、その気持ちを普通の人、奥さんが健在な男どもには分からない。
多分、弔問し、ついでに慰めてあげようという親切心から発したものと考えるが、知人が深く哀しみ慚愧懺悔し、落ち込んでいる心理を理解できない。立場が違うということかもしれないが・・・。
話は愚庵に戻る。再び愚庵心理、それを脳細胞の観点から疑念を持った。20年以上も父母妹を探して歩き回ったのは、果して本当に親孝行と慚愧懺悔という二つの要因のみであったのだろうかという疑問である。
人は本来、その人が持つ本能と言うべき性格を所有している。その本能が無意識的に行動を動かしている。その証明が我々の日常生活の仕方である。一日24時間という限られた時間の中で、睡眠、食事、仕事、移動、テレビをみて読書する等、多くのことを処理しているから無事生きていけるのである。
仮に、無意識でなく、すべていちいち確認・認知しながら行動していたら、とてもこれだけの多くを処理できない。脳が即座に意思決定する仕組みが、人間の中に備わっていないと無意識的動きはとれない。
例えば、車の運転をしているときに、道路上にボールを追いかけて子供が飛び出してきたとしよう。咄嗟にブレーキを踏み、子供を避けようとする。このとき、ブレーキを踏むのと「あっ、危ない」と気づくのと、どちらが先だろうか。それはブレーキを踏む方が先である。脳は視覚から入ってきた子供の姿情報に、危ない、避けようとして脳がまず先に足に指令を出し、ブレーキを踏ませるのである。その後に、危ない、という認知意識が起きるのである。
このように無意識的行動によって我々の生活は営まれているわけだから、その無意識行動の背景にある脳の構造性質、その一つが性格であるから、その人の性格によって、日常行動が変わっていくし、24時間の中身が違っていくことになる。
では、その性格は脳のどこに所在しているのか。脳の三層で構造されている。

爬虫類脳とは、反射脳ともいわれ、呼吸、心拍等の生物として生きていく基本的な機能を自動調節し、反射的な運動の命令をさまざまな筋肉に送っている。
旧哺乳類脳は、情動脳ともいわれ、本能、情動を司る。食欲、性欲、快、不快、怒り、不安等の情動、学習・記憶に関係している。
新哺乳類脳は、理性脳ともいわれ、四つの領域に分かれ、行動、意識、認識、記憶等を司り、様々な情報を基に高度で複雑な処理や判断を行っている。もっとも人間らしさを担う脳部位である。
性格は明らかに旧哺乳類脳に所属する。新哺乳類脳に属する理性ではない。このことを脳科学者は「私たちの認知活動の95%は無意識に行われており、意識しているのはわずか5%である」(ハーバート大名誉教授ジェラルド・ザルトマン博士 「脳科学がビジネスを変える」萩原一平著)としている。
ということは圧倒的に無意識で意思決定をおこなっており、意識しているのは5%に過ぎないのだから、その人間の行動本質を探ろうとしたら、その旧哺乳類脳・情動脳を検討しなければならないわけになる。
しかし、脳の中身は外部から分からないのであるから、結果として、その人の行動を見て、あの人はあのような性格・情動脳なのかと判断することになる。
因みに、これは現代のマーケティングの問題点も教えてくれる。ある新商品を発売しようとして、事前にアンケートを多数とったとする。結果は発売OKとなって、実際に店頭に並んだところが、売れないということは度々ある。
これはアンケートが間違っていたのでなく、アンケートには表面評価としての5%しか意識を探っていないのであるから、実際の商品を目の当たりにした消費者は、95%の本音としての無意識脳で購買するのであって、そこにアンケートとは異なる結果が生ずるのである。
ここまで検討してきて、ハタと気づいたことがある。それは「大悟」悟りについてである。
鉄舟が「剣・禅二道において悟るところがあって、諸法はみなその揆を一にするものだと自覚してからは、書もその筆意が全くガラリと一変するに至った」(書法において)と述べていること、これを理解しないと鉄舟という人物と悟りがわからない。
文久三年(1863)浅利又七郎との立合に敗れて以来、明治十三年(1880)三月十三日まで修行を続けた結果、大悟に至った。
悟という文字は、心と吾によって結ばれているように、大悟とは心と吾がひとつになる、吾と心がひとつになることである。
平たく言いかえれば、自分の心が持つ素晴らしい存在を、自由自在に引き出せる自分になるということであるから、脳の三層構造図でいうならば、少なくとも5%だけの意識ではなく、残りの95%の分野に入り込んでおり、爬虫類脳までは無理としても、旧哺乳類脳についてはコントロールできるまでに至ったのではないか・・・。
そのように考えると「心と吾がひとつになる、吾と心がひとつになる」ということが理解できる。一般人は物事への認識を5%という表面意識下で行っているが、鉄舟はその壁を破って、旧哺乳類脳まで自らがコントロールできる、つまり、無意識化まで意識下に置いたと言えるのではないかと推察する。
だからこそ「その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まいご)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう」(山岡鉄舟の武士道)
鉄舟研究家でこのような見解を持つのは、多分、初めてであろうが、愚庵を検討していくとこのような見解にたどり着く。
再び愚庵に戻って考えると、愚庵の性格はどうであったのかが鍵と思われる。
明治11年(1878)、明治天皇の北陸・東海道巡幸に鉄舟が伴奉していた。この時、愚庵は壮士活動で東京を飛び出し大阪方面に向かっていた。この年は五月に大久保利通が暗殺され、八月には竹橋事件、近衛砲兵大隊の兵士が、大砲を引いて大蔵卿大隈重信邸宅を襲撃し、赤坂の仮皇居前で宮中に嘆願するという事件が起きていた。
愚庵は明治八年(1875)、反政府的暗躍の嫌疑により禁獄30日の刑に服している。したがって、危険分子人物として警察からマークされていたので、それを鉄舟が心配し、一書を愚庵に渡すよう三宅某に託した結果、ようやく静岡にいる鉄舟の許に愚庵が到着したが、会った瞬間、鉄舟が発言したのは、愚庵への厳しい叱責だった。
「この尻軽猿め。何故、わしに一言の挨拶もなく東京を飛び出したのだ」と。
この事例から推察できるのは愚庵の全国を渡り歩く放浪癖である。
冬の北海道で肺病になり、東京浅草で写真術を習い、旅回りの写真屋になり、清水次郎長の食客となり、やくざ者と茶碗酒を飲み合う仲になり、富士裾野の開墾、徳光狐と称する巫女の話を信じ、山形へ行くが見当違い、この他に沖縄から九州、台湾まで行くという20年間の行動、これはどうみても純真な父母妹への親孝行と慚愧懺悔だけとはいえない。
当初は父母妹への無垢な気持ちからスタートしたが、いつの頃からか自らの内部に持つ本能としての放浪癖という性格が芽を吹き出し、そこに愚庵の才気と直情径行型が加わって、各地で活動しつづけ、鉄舟から「尻軽猿め」と怒鳴りつけられる羽目に至ったと考える。
だが、ようやく愚案の放浪癖に転機が訪れる。明治19年(1886)内外新報社の幹事となって大阪へ行くことになったが、この際、鉄舟から天龍寺の滴水禅師への紹介状を受け、次のように言われた。
「お前は大阪に行ったなら、京都の天龍寺の滴水禅師の許に参禅して心力を練るがよい。滴水禅師は今の世には稀な大徳である。この人の感化によってお前が大悟することができたならば、そのときこそお前の父母妹にも居ながらして対面することができよう。お前は今日まで苦労に苦労を重ねて父母妹の行方を尋ねた。だが、今日、お前の希望は達せられないと思わねばならぬ。そこで残された唯一の道は、お前が今まで辿ってきたような外部に向かっての捜索は止めにして、自分の内部に向かって探す旅をすることだ」と。
この鉄舟の言葉が愚庵を救い、愚庵が変身するのであるが、それをお伝える前に、相馬(そうま)御風(ぎょふう)(歌人で評論家。早稲田大学の校歌「都の西北」の作者としても知られる)の、愚庵について次のように綴っているので紹介する。
「愚庵は世の所謂豪傑たる素質を持ってゐたと云われる。しかも、彼はつひに謂うところの豪傑にならなかった。愚庵はまた出家剃髪の身であった。しかも、彼はつひに謂ふところの名僧にならなかった。彼はまた詩もつくり、歌もよみ、書をも能くした。しかも、彼は詩人でも、歌人でも、亦書家でもなかった。彼みづからも亦凡てさうしたものにはならうともしなかったし、なりたくもなかった事は明らかである。然らば結局愚庵は何者であったらうか」「人及び歌人としての天田愚庵」から紹介する。(「歌僧 天田愚庵『巡礼日記』を読む 松尾心空」)
次号以下で「血写経」、これは、愚庵の半生を記したもので、愚庵自らが筆を執り、親交のあった陸(くが)羯南(かつなん)に送った原稿がもととなっている。それを饗庭篁(あえばこう)村(そん)が書き改め、羯南の主宰する新聞「日本」に連載したもの。これに基づきお伝えする。
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