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2015年12月19日 (土)

2015年11月18日(水)例会開催結果

11月は永冨明郎氏と山本紀久雄が発表いたしました。

1. 永冨明郎氏

永冨氏は「幕末に於ける佐幕派/反幕派の相互作用」と「幕末維新の過程と著名人の生涯」という二枚の大作図解を作成され、これに基づき解説されました。
この図解は、永冨氏が創作された幕末維新の大きな流れを体系化したもので、今までどの歴史書籍資料にも掲載されていないオリジナルなものです。
その貴重で重要な図解を皆さんにご報告したいのですが、スキャンしたとしても十分にお伝えできないと思われますので、図解をご希望の方には別途送付申し上げますのでご連絡お願いいたします。
永冨氏の解説、膨大、且つ緻密で、久しぶりに大河ドラマストーリーを目の当たりにした気持ちになりましたが、これを文言化するのは至難です。

したがつて、以下、概要をお伝えすることでご了解賜りたいと思います。

① 幕末動乱の時期はどのタイミングからであるか、それは天保の改革から、または、ペリー来航からという説があるが「例会ではペリー来航を基点とした」解説を採られた。
② また、時代の動きを掴み理解し整理する前提としては、「人間関係の相互作用」の繰り返しから社会が成立していると考え、それを「反幕府活動」「外的要素」「佐幕活動」の三分野からとらえる。
③ 嘉永6年のペリー来航によって、時の老中阿部正弘は「全国に対応意見を聴取」するという国民に政治参加を求めた。国民が政治に意見を述べられるという画期的事件であった。
④ 日米和親条約の際は、政治全権を委嘱されているとの従来からの判断で勅許も得ることなく締結していたが、通商条約の際はわざわざ朝廷に勅許を求め、それに対して不許可の反応となったため、勅許を得られないままに締結した。その結果、朝廷の反対を押し切って締結したという幕府批判が高まり、井伊大老の就任から大老批判派への弾圧、安政の大獄がはじまる。この際には、徳川慶喜は大老批判派=反幕府活動派に位置づけられていた。
⑤ 桜田門外の変で井伊大老が暗殺され、安政の大獄への反省から公武合体論へ傾くが、坂下門外の変、皇女和宮の降嫁、尊王攘夷派によるテロ事件多発、新選組による取り締まり闘い、禁門の変、第一次長州征伐、第二次長州征伐における幕府軍敗退、孝明天皇崩御、薩長芸三藩倒幕の密約、慶喜大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へとつながっていく。

我々は歴史に興味と関心を持つとき、歴史をある事件、ある人物から採り上げ、説き起こそうとする傾向が強いと思いますが、その場合、個別の歴史に詳しくはなるが、それが大きな歴史過程の中でどのように位置付けられるのかについて、ともすれば見失いがちになる傾向に陥る危険があります。

そのところを永冨氏の図解解説が補ってくれ、歴史過程を大局からの相互作用として理解するよう、我々の脳細胞を整理させてくれたわけです。

 さすが幕末維新博士と称される永冨氏の語りに、成程と納得させられた例会であり、考え抜かれた二枚のオリジナル大作図解を称賛し、解説に深く感謝申し上げます。

2. 山本紀久雄

鉄舟が天田愚庵に特別に肩入れした背景について考察いたしました。

① 福島県いわき市松ヶ丘公園にある愚庵の庵門前伝碑に「甘田久五郎、後に天田五郎と改め、十五歳で戊辰の役に出陣中父母妹行方不明となり、爾後その所在を探して全国を遍歴すること二十年。その間山岡鉄舟の知遇を受け、また一時清水次郎長の養子となった。明治二十年滴水禅師に依って得度し鉄眼と号し、その後京都清水に庵を結んで愚庵を名乗った。漢詩の外に万葉調の和歌を能くし正岡子規に多くの影響をあたえた」とある。
② 著名な愚庵研究家は「鉄舟が愚庵の性格特性と、父母妹との別れに身をつまされ、愚庵の心中を思い遣って、肩入れした」と述べている。だが、果して、鉄舟がそのようなナイーブな心情のみで対応したのか疑問。
③ この検討を始めていくうちに、徐々に全体像が浮かんできたので、その前半のさわりとして以下をお伝えした。後半は2016年1月例会でお伝えいたします。
1. 愚庵は15歳で戊辰戦争に出陣中、父母妹行方不明となる。
2. 戊辰戦争は東北越で激しい戦いが行われたが、東海道筋では鉄舟の働きで江戸無血開城。東北越の地には鉄舟に比肩する人物は存在し得なかったのか⇒鉄舟は「無」概念帯の世界に到達。一般人ではでき得ない大問題解決力を所有⇒9月例会報告済み
3. これらの検討経緯から東北越の戊辰戦争の実態を振り返る⇒白河口の戦い。母成峠の戦い。会津若松城の攻防。
4. いずれも新政府軍の圧倒的勝利。
5. 同様に愚庵が出陣した磐城の地での戦いでも新政府軍が勝利。
6. 東北勢の敗戦理由としてあげられる大要因のひとつが東北の盟主「仙台藩」の弱兵ぶ
り⇒各地で弱い実態を聞く。
7. 仙台藩の過半を占める兵士は、地方知行という制度、これは管内各地にそれぞれの殿がいる小幕府の状態で、軍備・兵器と弾丸・訓練がなされず、勿論、洋式化などできていなく、さらに、通常は農業が主であるから、いざ戦場へと出陣しても、鉄砲の撃ち方を知らなく、戦場では味方の足を引っ張るばかり。
8. 一例が磐城での仙台兵。宮城の地からわざわざ平潟へ守備固めとして派兵されていたが、新政府軍が上陸すると戦わずして退却。
9. 磐城の仙台藩兵と磐城平藩前藩主安藤信正は、磐城の地に来た幕府から脱走遊撃隊に対し「軍の指揮を執るよう要請」⇒ここが鉄舟と愚庵の関係起因。
10. 幕府が慶応2年(1866)に新設した遊撃隊は、一種のエリート集団で中核をなしたのは、幕府が安政3年(1856)4月に開設した講武所で刀槍柔術を教授した旗本御家人たち。この中から14代将軍家茂の奥詰衆(親衛隊)に選抜された60人と、旗本御家人の次男以下から武芸抜群の者たちを合体させて編成したのが幕府の遊撃隊。結成直後の隊士数は390人。頭取ないし頭取並には、心形刀流の達人伊庭軍兵衛、剣聖男谷精一郎の直弟子で直心影流の剣豪榊原鍵吉、鉄舟の義兄で槍術天下無双の高橋泥舟、鏡心明智流士学館道場主桃井春蔵など、錚々たる武芸者が顔を並べていた。
11. この遊撃隊、鳥羽伏見の戦いで新選組とともに最前線で戦ったため、死傷率が高く、4月11日早朝、上野寛永寺から水戸に向かった慶喜を千住まで護衛した際には100人ばかり。
12. その中の人見勝太郎、伊庭八郎は見送り後脱走。紆余曲折を経て磐城の地へ⇒鉄舟による遊撃隊への説得失敗⇒「微衷・義」と「大義」の違い。

● 鉄舟銅像の建立についてご提案し、皆さんからのご見解を後日お聞きすることにいたしました。

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