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2015年11月

2015年11月25日 (水)

2015年12月例会ご案内 「忘年会&講談お楽しみ会」

「山岡鉄舟研究会」 12月例会ご案内

「忘年会&講談お楽しみ会」

 

 

1. 概  要    このたびは、我山岡鉄舟と関わりの深い「維新の三

傑」の1人である西郷隆盛の故郷:鹿児島の郷土料理

と、朝獲れの新鮮な海鮮料理が楽しめます会場を設営

いたしました。

また、高山でもお世話になりました講談師:田辺一邑

(イチユウ)師匠をお迎えして、2017年1月より放送さ

れる予定のNHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」

のさわりの部分を講釈いただきますので、どうぞお楽

しみに多くの方のご参加を賜れば幸いです。

 

2. 開 催 日   平成27年12月15日(火)18:30~20:30

 

3. 開催場所    海鮮料理「薩摩魚鮮」(サツマウオセン) UENO3153

           台東区上野公園1-57 UENO3153ビル3F

           TEL03-5815-0870

           JR上野駅不忍口(御徒町駅寄り改札口)徒歩1分

           UENO3153(西郷さん)ビルは、上野公園の西郷さ

んの銅像前を屋上とする商業施設です。

 

4. 会  費    5,000円(宴会費、講談お楽しみ会費含む)

        会場への予約人数申し出の必要上、ご面倒でも「参加

申込書」にて出席確認をお願いいたします。

なお、会場への最終人数報告を、開催日の3日前

(11日)に行いますもので、それ以降のキャンセル

については、恐れ入りますが実費を頂戴させていただ

きますので、ご承知くださいますようにお願いしま

す。

 

 

 

5. 田辺一邑師匠  静岡県浜松市出身

プロフィール  現在は、埼玉県川口市在住

 静岡県立浜松北高校、横浜市立大学文理学部文化独語

 文学専攻を卒業。

        10年以上システムエンジニア(SE)として働いた後、

1997年8月故田辺一鶴師匠に入門、講談師となり、

現在に至る。

2009年4月真打に昇進。

故郷浜松を中心に各地の知らざれる偉人を講談に仕立

て、各方面で好評を得ています。

―講談師 田辺一邑 公式HPより―

 

6. 講談演目    来年のNHKの大河ドラマ「真田丸」です。

その主人公は真田信繁(幸村=出演者:堺雅人)で、

自身が大坂の陣で築いたとされる出城「真田丸」に由来

し、また真田家を「戦国の荒波に立ち向かう一艘の船」

に例えた掛詞としている。

その翌年、2017年1月より放送予定されている大河

ドラマ「おんな城主 直虎」(井伊直虎=出演者:柴咲

コウ)のさわりの部分を、宴席の中で講釈いただきます。

物語の概要は、

戦国時代に男の名で家督を継いだ「おんな城主」がいた。

遠江井伊谷(トオトウミ/静岡県浜松市北区引佐町)井伊家

の当主:井伊直虎(井伊直盛の一人娘:「次郎法師」と

男の名を付けた)である。

戦のたびに当主を殺され、ただ一人残された姫が、「直

虎」と勇ましい名を名乗って、乱世に立ち向かった。

駿河の今川、甲斐の武田、三河の徳川と3つの大国が虎

視眈々と領地を狙う中、資源も武力も乏しいこの土地で、

頼るべきは己の知恵と勇気。

そして直虎は、仲間と力を合わせて国を治め、幼い世継

ぎ《直親(ナオチカ)の嫡男:虎松、後の直政》の命を守って

逞しく生き延び、後に徳川四天王の一人に数えられ、彦

根藩の藩祖となった井伊直政を育て、発展の礎を築いた。

彼女の原動力となったのは、幼い頃に約束を交わした許

婚《亀之丞、後の直親⇒「強い井伊を」の誓い》への一

途な愛。

愛を貫いて自ら運命を切り開き、戦国を生き抜いた女の

激動の生涯を貫く。

NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」より―

 

7. お申込み・お問合せ

        下記の参加申込書にご記入の上、FAXにて送信して

ください。

担当:矢澤昌敏  携帯:090-6021-1519

TEL&FAX:0480-58-5732

E-mailm_yaza10@eos.ocn.ne.jp ないし

 

info@tessyuu.jp

 

参加申込書      

「忘年会&講談お楽しみ会」(平成27年12月15日開催)に

出席します

   
 

お  名  前

 
 

 

 

申込締切:12月8日(火) FAX送信先:0480-58-5732(矢澤)

 

        以 上

鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その二

西郷隆盛が「南洲翁遺訓」で鉄舟について「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」と評したことは、これまで何度も述べてきた。この西郷の評からも明らかなように、鉄舟は自ら名利を求める人物ではなかったが、明治に入って、期せずして自ら名を成し、今日に至っている。

テレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に、時折、鉄舟が登場する。201499日は落札価格5万円のインターネットオークションで入手した、鉄舟が清水次郎長に送った手紙である。果して鑑定価格は如何に、と興味深く見つめていると、鑑定人が120万円と言うではないか。依頼人は飛び上がって喜んだが、鑑定人が語る金額鑑定の背景、それは鉄舟と次郎長が知り合った事件と、その後の師弟関係までを簡潔ではあるが妥当に述べた。鉄舟をよく理解しているわけで、鉄舟が世の中で知られている証左といえる。

愚庵も鉄舟同様、名利に埒外の生涯を過ごしたが、コインの表裏というべきか、愚庵への評価は狭い範囲にとどまっている。

愚庵の出身地である福島県いわき市には、愚庵会という集まりがある。会長の野木安氏は近代詩の詩人・山村暮鳥の言葉を引用しながらこう語っている。

「此の土地にゐて安藤対馬守を知らぬものはなかろうが、愚庵和尚を知らぬものは多い」

ご当地でさえ知らぬものが多いというのだから、全国レベルではなおさら低いであろう。

とはいえ、愚庵も鉄舟同様、多くの優れた人材との交流があり、彼自身の声望もかつては高いものがあった。河井酔茗は「日本立志物語」で、新井白石、一茶、歌川広重、伊能忠敬などと同列に並べて評価しているほどである。(「歌僧 天田愚庵『巡礼日記』を読む 松尾心空」)

にもかかわらず、現在、その評価が野木会長の発言のように限定されているのはなぜか。

それは、多分、愚庵という人物に起因しているのではなく、鉄舟という人物に真因があると考えるが、時代認識の違いというところにもあるのではないか。

愚庵は「十五歳で戊辰の役に出陣中、父母妹行方不明となり、爾後その所在を探して全国を遍歴すること二十年」(いわき市松が丘公園にある愚庵の庵門前の伝碑)という半生を送っている。

父母妹の所在を探し求めるための行動、これは親孝行の観点からよく理解できる。しかし、二十年、愚庵研究者によっては二十五年も探し続けたというが、この年数の長さへの受けとめ方が、今と昔では異なるのではないか。

現在では全国に警察の捜査網が整備され、さまざまな情報が瞬時に伝達される時代に生きる現代人には、やや理解し難い行動といえるかもしれない。

だが、愚庵が生きた時代の人々は、この長期に渡る捜索活動を高く評価した。

父母妹の所在を探し求めるという行為は「親孝行」の一種である。したがって、捜索という行為の元にある心情は、現代人にも当然理解できるものである。

ただ、ここで筆者が素朴な疑問として感じるのは、親孝行の概念が今と昔では異なっているのではないか、とうことである。

日本人は、長い歴史のなかで醸成された共通の「道徳概念」を持っている。たとえば「困ったときには互いに助け合う」というのもその一つだろう。それが表れた顕著な例が、東日本大震災が発生ししたときの日本人の行動で、世界中から賞賛されたのは記憶に新しい。

親孝行についても昔から日本人に共通する概念が根底にあり、その部分は何ら変わっていないはずである。

ただし、時代によって、その概念には微妙な違いが生じているのではないか。

愚庵をより正確に理解しようとするならば、愚庵が生きた時代まで時計の針を巻き返し、当時の時代感覚立ち返ったうえで、愚庵の行動を分析する必要があるのではないか。時代が変転してきた様相をつかまず、現代感覚だけで愚庵の生き様を判断してしまうことは、結果として認識を誤ることになるのではないか。それが野木会長発言の背景にある意味ではないだろうか。

同じことは、たとえば外国の事象を理解する場合にもいえると思う。日本人の常識や感性だけで、また、日本のメディアが伝える情報だけで外国を理解しようとしても、本当に理解できたことにはならない。現地に足を運び、現地の人たちと触れあい、さらに、その国の歴史を把握しなければ、正確な理解はできないはずである。

愚庵のケースもそれに通じるものがあるのではないか。

そこで、親孝行概念が江戸時代と、戦前と、そして現代とどう違うのかを検討してみたい。

最初は、今の子供たちがどのような親孝行教育を受けているかで、それを教科書から確認したい。取り上げる教科書は育鵬社の「はじめての道徳教科書」と「13歳からの道徳教科書」である。

ここで少し横道にそれるが、育鵬社の道徳教科書を取り上げた背景・因縁について、最初にお伝えしたい。

筆者はかねてより、子供たちも山岡鉄舟という人物が存在したことを知ってほしいと強く願っている。そのために教科書が鉄舟を取り上げてくれるのが一番だと思っていた。

そんな折、文部科学省が全国の国公私立小中学校に無償配布する道徳教材「私たちの道徳」の中学二年生教科書に鉄舟を採り上げてくれたので、早速にお礼の挨拶に文部科学省に訪れたことは20144月号の本稿でお伝えしたとおりである。

さらに、これも同号で記したことだが、筆者は某教科書出版社に出向き、江戸無血開城は西郷隆盛と勝海舟の会談だけで実現したわけでなく、鉄舟が実質的に西郷との駿府会談で成し遂げたことを史実に基づき丁重に説明した(同出版社の江戸無血開城の説明は鉄舟の関与を省略していた)

すると、その出版社は次回印刷分の教科書から、鉄舟が実質的に無血開城を成し遂げたという史実を書き加えることを約束してくれたのである。

実はその某教科書出版社が育鵬社であるので、その関係で同社の道徳教科書から親孝行のところを開いてみると、以下のように記述されている。

「はじめての道徳教科書」・・・「27 あかぎれ-----中江藤樹とその母」

  中江藤樹は、江戸時代はじめの学者です。(中略) 人を愛し敬うこと、親に孝行することの大切さをたくさんの人々に説き、自分もそのように生きました。

とあり、中江藤樹の少年時代の話として、昔から伝わっている物語を掲載している。

  藤樹が九歳のとき父が亡くなり、伊予の祖父母に預けられたが、近江の母からの手紙がきて、冬の寒さがひどくあかぎれができた、との知らせに、祖父母の反対を押し切って、よく効くという薬を入手し、近江の母に届けに行く。その旅の過程で、出会った人から「親孝行だ」と助けてもらい、とうとう母のもとへ。

  しかし、母は「一人前になるまで決して戻ってはならないと約束したはず」と家には入れず、伊予へ戻るよう伝える母の眼に涙があふれていた。

  これが概略のストーリーだが、コメントとして「父母、祖父母を敬愛し、家族の幸せを求めて、進んで役に立つことをしましょう」とある。

13歳からの道徳教科書」・・・「29 オフクロへの小遣い<ビートたけし>

  ビートたけしが舞台で成功したことを知った母が、よく電話してきて「小遣いをくれ」という。オフクロというのは、何だ、相変わらず金なのかなって、少し寂しい感じだった。軽井沢の病院にオフクロが入院したので、見舞いに行くと、姉が母に頼まれたと言って袋を渡された。帰りの列車の中で袋を開けてみると、今まで小遣いだと言って渡した額が、そのまま郵便貯金通帳に記載され一千万円にもなって、それを見て、車窓の外の街に目を移すと灯りがにじんでみえた。

  コメントは「父母、祖父母に敬愛の念を深め、家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築きましょう」とある。

  最後に「道徳のキーワード 親子の絆」とあり、四篇の短歌が掲載されている。そのひとつ石川啄木の「たわむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず」が紹介されている。

この二つの親孝行を主題とした「読み物」、ストレートに「親孝行をしなさい」とは決めつけてはいない。

今の教育は、教える側が与えるのではなく、子供たちが「読み物」を読んで、感じたこと、考えたことを記録したり、友達と話し合ったりすることを通じ学ぶというスタイルで、これが現代の文部科学省の方針である。

 

次に戦前の「親孝行教育」をみてみよう。

一言で結論付ければ「教育勅語」が施行される前と後で、親孝行の概念が変化していることである。

それを事例で紹介する。以下は明治八年(1875)の修身教科書「近世孝子伝」には、親孝行の見本として「下総二童」という例話が載っている。

「下総の一農家に二人の子供がいた。兄は十三歳、弟は八歳。その継母は里人と姦通し、姦夫と一緒に父を酔わせて刺殺した。ことの次第を知った兄は、姦夫が兄弟を殺そうとしていることを察し、弟とともに父の仇を討とうと図る。二人は姦夫の靴を隠しておき、姦夫が靴を探しているすきに脇と背を真刀で刺した。継母は捕えられ獄につながれた」

これは江戸時代の実話を基にしたものだが、今日の感覚では、親孝行というにはあまりに凄惨である。しかし、「近世孝子伝」の著者は兄弟の「知略」に富んでいるとしたうえで、これを美談として取り上げている。

「近世孝子伝」には母を殺そうとする娘の話も載っている。

「同心某の妻は姦夫ともに夫を殺す計画を立てる。二人の話を聞いた娘は、悩んだ末に『父重くして母軽し、寧ろ不義の母を殺さん』と父に話す。娘から聞いた父は、怒って母と姦夫を殺し、娘は幕府の命により尼になることが認められる」

この事例も、娘の「果断は天地神明の暗賛冥助(カゲデタスク)」として賛美している。

この二例はいずれも敵討ちに類するが、当時は「父兄ノ為ニ讐ヲ復スルヲ子孫ノ義務トナス風習」があったことを示している。

しかし、明治六年(1873)に太政官布告によって、仇討は「畢竟私憤ヲ以テ大禁破リ私義ヲ以テ公権ヲ犯ス者」として禁じられる。そのため、し仇討を禁じたことによって、仇討は「法令ニ反スル」行為として否定され、以後二例のような事例は見られなくなった。

次に登場したのが「教育勅語」である。明治二十三年に定められた「教育に関する勅語」で「爾臣民父母ニ考ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ・・・」と記されている。

「教育勅語」は紀元節(211日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(113日)および11日(元日、四方節)の四大節と呼ばれた祝祭日には、学校で儀式が行われ、全校生徒に向けて校長が教育勅語を厳粛に読み上げ、その写しは御真影(天皇・皇后の写真)とともに奉安殿に納められて、丁重に扱われた。

「教育勅語」には十二の徳目が掲げられていて、それを明治神宮のホームページから拾うと次のようになっている。

  孝行     親に孝養をつくしましょう

友愛     兄弟・姉妹は仲良くしましょう

夫婦の和   夫婦はいつも仲むつまじくしましょう

朋友の信   友だちはお互いに信じあって付き合いましょう

謙遜     自分の言動をつつしみましょう

博愛     広く全ての人に愛の手をさしのべましょう

修学習業   勉学に励み職業を身につけましょう

智能啓発   知識を養い才能を伸ばしましょう

徳器成就   人格の向上につとめましょう

公益世務   広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう

遵法     法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう

義勇     正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう

 とあるように「孝行」がトップに挙げられていた。

しかし、昭和二十年(1945)の終戦により、GHQの占領下に入り昭和二十一年(1946)には、「勅語及び詔書等の取扱いについて」通達により「教育勅語」を教育の根本規範とみなすことをやめ、四大節の儀式で教育勅語を読み上げることも廃止された。

翌昭和二十二年(1947)には教育基本法(旧教育基本法)が公布・施行されて教育の基本に据えられ、学校教育から「教育勅語」は排除された。さらに、昭和二十三年(1948)には、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ決議され「教育勅語」は学校教育から排除・失効されたことが確認された。

以上が戦前の親孝行教育概念である。

 

次に、愚庵が生まれた江戸時代の親孝行とはどのような内容であったか。

作家で江戸時代に関する評論の多い永井義男氏がネット上に公開している「江戸の醜聞愚行」の第255話「娘の親孝行」は、当時の日本人の道徳概念を知るのに格好の例話だと思うので、引用する。

「ある武士が病死したあと、妻のお蕗は、おいの、お安という娘ふたりを連子にして、駒込の世尊院門前に住む林蔵という町人と再婚した。林蔵には二男一女の子供がいた。ところが、林蔵も病気がちであり、子供が合わせて五人もいてはとうてい生活が成り立たない。

見かねたお安は自分が身売りをして家族の生活を助けることにした。吉原の江戸町一丁目の妓楼に十八両で身売りをし、『このお金を使ってください』と、両親に渡した。

嘉永六年(1853)、林蔵が病死した。お蕗は子供たちを連れて根津の裏長屋に移り住み、自分が賃仕事をして生計を立てていたが、安政二年(1855)の大地震で長屋が潰れてしまった。そこで千駄木の裏長屋に移り住んだが、安政三年の八月、雨と強風で長屋が倒壊した。その後は、菰張りの小屋に親子で住むまでに追い込まれた。

身売りをしたお安は花岡という源氏名で遊女をしていたが、母と兄弟姉妹の生活を案じ、客からもらった祝儀は自分の飲み食いやぜいたくにはいっさい使わず、毎月、金二分とか三分を送金し続けた。総額は五十二両にも及んだ。また、お安は先輩の遊女を立て、楼主夫婦の言いつけも守るなど、吉原でもはなはだ評判がよかった。

この評判を聞きつけ、北町奉行所は安政四年(1857)『遊女の身にて母へ孝養を尽し、兄弟共へ慈愛を加え候段、別して奇特の義に付き』として、花岡ことお安に銀三枚の褒美にあたえた。この顕彰に、つぎのような落首が出まわった。『孝行でつらき流れに沈むとも今は朽ちずに開く花岡』」

筆者の永井氏は、こうコメントしている。

「町奉行所が遊女を親孝行で表彰し、金一封を贈ったわけで、親孝行を顕彰すること自体はけっして悪いことではないが、これを美談とすべきだろうか。何となく釈然としないのではないか。というより、お安があまりに哀れで、お安は遊女の境遇から脱したわけではない。あくまで『感心な遊女』として表彰されたのである。

当時は貧しい家の娘が身売りをして遊女になるのはごく普通のことだったし、人々はそんな娘を、「親孝行をした」「親孝行な女だ」と、ほめそやしたわけで、江戸時代はそういう社会だったことを理解しないと、このお安の行為を受けとめられない。

町奉行所は人身売買を取り締まるどころか「親孝行」として表彰した。結果として人身売買を助長しているといえまいか」

永井氏が指摘するように、江戸時代はそういう社会だったのだ。

愚庵が生まれたのは安政元年(1854)、正にお安の悲話が顕彰される時代、まして敵討ちも討たれた側の義務として社会にまだ根づいていた時、当然に行方不明の親を探すことは正常で真っ当な常識的な行為であったから、愚庵が探し求めて全国を歩く姿に同情し協力する人々は多かっただろう。

その上、捜索期間が二十年から二十五年もなると、特別な人間でしかできない行為として受けとめられ、それほどまでに親孝行する愚庵に共鳴する人々は多々いたであろうことは想像に難くない。

ということで、このような時代親孝行概念を理解しないと、愚庵が生涯かけて親を探し求めたという至情は分からないのではないかと思うし、結果的に愚庵という人物判定を誤る可能性があるのではないか。

明治時代の愚庵に対する社会からの評価は高かったはず。そうでなければ新井白石、一茶、広重、伊能忠敬と並べられるまでにはならないだろう。

次に補足として、作曲家遠藤実が平成十五年七月、NHK「こころの時代」で語った内容を紹介したい。

「昭和七年(1932)生まれの遠藤実、生まれた家は電気がなく、小屋掛けで、板を敷き、筵を載せ、ランプ生活だったという。

楽団に加わって吹雪の中を歩いていたとき、冷たさにたまりかねて、小便をその手にかけてぬくめた、という。

そして思う。貧しいけれど自分の身体にはまだこんな暖かいものがあるのだ、負けてはならない、と。これが寒中での少年の決意であった。間もなく、雪が収まり、澄み切った寒空を仰いだとき、見事に星がきらめいていた。この心のワン・シャッターが、後年の名曲「星影のワルツ」を生むのである」(「歌僧 天田愚庵『巡礼日記』を読む 松尾心空著」)

大ヒット曲の背景には、遠藤実の生活体験、一般人とは違うものがあったことがわかる。

愚庵の生き様も、当時の一般人ができ得ないものであったからこそ、高く評価されたのではないか。

 そのところを現代人である我々も理解していきたい。次号に続く。

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