山岡鉄舟を尊敬し、鉄舟に感化された人物は数多くいる。そのことを小倉鐡樹が「俺の師匠」で以下のように述べている。
「おれは谷中の全生庵にいって師匠の墓を参詣をする度に、言ふに言われぬ感懐にうたれる。偉大な師匠の温容を象徴するかのやうな落ち着いた大墓碑をとりまいて、安らかに眠ってゐる石坂・松岡・村上・千葉・圓朝・中村・棚橋・荒尾・粟津・松原・東條・依田・鈴木・桑原・三神・宮本・内田・はては車夫忠兵衛等同門の人達のさゝやかな墓碑にぬかずくと、死んでまで師匠の側を離れたがらなかった是等の人達の純情が思い出されて思わず涙にくれて仕舞ふのだ。」

(鉄舟墓碑の左に石坂周造の墓もある)
「兎に角師匠の感化は偉大なもので、其の葬儀には殉死のおそれある者が幾人も出来て、四谷警察に保護を頼んだ程であると云ふから門下生としての情も決して通り一邊のものではなかった」
「鐡門より出でて国家有用の材になった者には、四天王(筆者注 村上正忠・松岡萬・中野信成・石坂周造)をはじめ、中條金之助・北垣筆次・籠手田安定・河村善益・古荘嘉門、等がある。
天田鐡眼・平沼専蔵・千葉立蔵・三遊亭圓朝、等も鐡舟によって一廉の人物たるを得た人々である。鉄舟に直接大感化を受けた者には、清水次郎長、九代目團十郎、角力の高砂浦五郎等がゐる」
小倉鐡樹はそう述べたうえで、
「然し鐡門の中で、師匠から受ける感化も深く、全く師匠によって人間になったとも云ふべき二三の人について次に話そう」と、
天田愚庵・平沼専蔵・千葉立蔵を取り上げ説明している。
今号からは、この天田愚庵について考察し、併せて鉄舟という人物の本質にも迫りたい。
福島県いわき市の松ヶ丘公園に天田愚庵の庵・いおりがある。JRいわき駅から約1200m、普通に歩くと15分程度だが、松ヶ丘公園に入る入り口の選び方では、時間が随分変わるし、安藤対馬守信正公銅像が立つ丘への急坂を上る道筋を選ぶと、一気に汗が噴き出す。
この松ヶ丘公園にある天田愚庵の庵は、明治37年に愚庵が京都で没した際に居住していた庵を、昭和41年に公園の北側平地に移籍したものである。
天田愚庵の略伝を、松ヶ丘公園の庵門前伝碑が語る。
「愚庵は安政元年七月二十日平藩主安藤信正の家臣甘田平太夫の五男として平城下に生まれた。初めの名は甘田久五郎、後に天田五郎と改めた。十五歳で戊辰の役に出陣中父母妹行方不明となり、爾後その所在を探して全国を遍歴すること二十年。その間山岡鉄舟の知遇を受け、また一時清水次郎長の養子となった。明治二十年滴水禅師に依って得度し鉄眼と号し、その後京都清水に庵を結んで愚庵を名乗った。漢詩の外に万葉調の和歌を能くし正岡子規に多くの影響をあたえた。明治三十七年一月十七日五十一歳をもって伏見桃山にその数奇な一生を終わった。 中柴光泰撰 高萩尊風書」
いわき市には「愚庵会」という集まりがある。昭和五十四年一月十七日、愚庵七十五回忌に結成されたもので、現在、会長は野木安氏である。この野木会長が近代詩の詩人である山村暮鳥の言葉を引用し、次のように愚庵を語っている。(愚庵会会報・第29号)
「此の土地にゐて安藤対馬守を知らぬものはなかろうが、愚庵和尚を知らぬものは多い。ところが、日本近代の歌壇では、安藤対馬守を知るものは稀であっても、愚庵を知らぬものはあるまい」と。
このように出身地のいわき市民からも、あまり関心を持たれていないということであるから、日本全体としても知名度はそれほどでもない。だが、鉄舟という人物を考察するためには、愚庵が鉄舟によってどのように変化していったか、という経緯の検討は欠かせない。
愚庵と鉄舟の関係を、愚庵研究家の第一人者である中柴光泰氏が著書「愚庵とその周辺」で次のように述べている。
「明治五年、天田五郎は小池祥敬の紹介で、再生の恩人山岡鉄舟にはじめて知られた。相馬御風は『山岡鉄舟がなかったならば、今日私達が愛慕している僧愚庵というような一個の人物は此の世に在り得なかったかも知れない』と言っているが、まさにその通り。当時の鉄舟は『明治の和気清麻呂』(勝海舟の言)として、明治天皇の側近にあった。五郎の行動に手を焼くこともあった鉄舟も、五郎の顔を見ていると、その大きな眼がしぜんに細くなってくるから仕方ない。それほど鉄舟は彼を愛した」
中柴氏が語るように、鉄舟は愚庵を愛し、愚庵という人物改造に影響を与えたのであるが、その過程を述べる前に、まずは愚庵の名前と職業の変遷を示してみたい。愚庵の数奇な生き方の一端が推測できる。
安政元年(1854)-----甘田久五郎
明治四年(1871)-----天田五郎
一時清水次郎長の養子となって------山本五郎(鉄眉)
出家して------天田鉄眼
京都清水に庵を結んで------天田愚庵
職業も随分変えている。
明治元年(1868)------14歳 奥羽越列藩同盟として出征
明治二年(1869)------15歳 平藩の藩校・祐賢堂に入校
明治四年(1871)------17歳 神田駿河台ニコライ神学校に入る
明治六年(1873)------19歳 仙台志波神社権禰宜となる
明治七年(1874)------20歳 台湾征討軍に加わる。帰国し壮士として活動
明治十一年(1878)---24歳 板垣退助創立の自由民権運動の結社愛国社に参加。
鉄舟によって次郎長と出会う
明治十二年(1879)—25歳 東海遊侠伝を書く。写真師となる
明治十三年(1880)—26歳 小田原で写真店開業
明治十四年(1881)---27歳 清水次郎長の養子となる
明治十七年(1884)---30歳 有栖川宮家に奉職
明治十九年(1886)---32歳 大阪内外新報社へ幹事として入社
明治二十年(1887)---33歳 禅僧となる
明治二十五年(1892)-38歳 京都清水産寧坂の庵に移る
いかがでしょうか。愚庵の職業変遷、侍として戊辰戦争に出征し敗北、その後は藩校とニコライ神学校に学びながら、一転し神社の権禰宜となり、台湾出兵に参加し、帰国し壮士として活動、自由民権運動に身を投じ、次に写真師となり、次郎長の養子となって、富士裾野の開墾事業に加わり、養子離縁後有栖川宮家に奉職、その次は新聞記者となって、最後は禅僧として終えた。
この職業遍歴、通常の生き方ではない。さらに、正岡子規とも交友関係が深かったように歌人としても活躍した。
それを証明するかのごとく、愚庵の歌碑が、仏足石とともに、昭和五十六年いわき市小名浜安養院に建立された。
この彫られた歌体も一風変わっていて、歌碑に刻まれた和歌が普通ではない。
三十余(みそあまり) 二つの相(すがた) ふだらくの 光あまねく 度(わた)し給はな 済(すく)ひたまはな
和歌は通常、五七五七七の三十一音であるが、これに七文字・七音が追加されている。
中柴氏は次のように解説している。
「この歌体は非常に珍しく、奈良の薬師寺の仏足石歌碑に二十一首、『古事記』『万葉集』に各一首あるのみで、その後の歌集にはほとんど見られない。それが愚庵の『順礼日記』に二首ある。他の一首は、『三十余三の御山に御仏に仕えまつらく父母のため衆人(もろびと)のために』。
愚庵は『万葉集』の持つ五種の歌体-----長歌、短歌、旋頭歌、蓮歌、仏足石歌------を全部一人で詠作していることになる。
このことは、奈良朝以後一千余年の和歌史のうち、愚庵以外にはないことで、愚庵の実験精神の旺盛さにおどろく」(「愚庵とその周辺」)
筆者は和歌について専門外であるので、中柴氏解説の重要性を正しく認識できないが、愚庵が尋常でない人物であることは理解できる。
歌人としての愚庵については、後日の検討事項とするが、愚庵と言えば「東海遊侠伝」だろう。
博徒であった清水次郎長が「海道一の親分」として、今日広く知られているのは、山岡鉄舟の知遇を得、鉄舟を師と仰ぎ、自らの生き方を変えたこともあるが、それよりも愚庵によって書かれた「次郎長物語 東海遊侠伝」による影響の方が大きい。
今まで清水次郎長をテーマとして取り上げたもので、東海遊侠伝を参考にしないものは皆無で、これを種本にさまざまなメディアで、さまざまなモチーフで次郎長像をつくりあげてきた。
あの当時、博徒世界を描く作家はいなかった。誰も博徒が文学作品になるとは思わなかったし、もともと無宿者は世間を憚る存在であるから、真っ当な立場で社会に臨めなく、社会的地位は極めて低い。博徒が文書化したのは、御上の支配秩序を乱し違反した犯罪者・集団として取り締まられる法令下の記録しかなかった。
ところが、愚庵の書く東海遊侠伝は、博徒の親分としての次郎長を恣意的に美化している部分もあるが、愚庵がかつて愛読した「水滸伝」に倣った筆力と構成力、加えて、身近に見る次郎長の実態を巧みに描写し織り交ぜ、一般人が知らない世界を伝えるという、愚庵ならではという内容になっていて、そこが多くの人々をひきつけた。
それも明治十一年に次郎長と出会い、次郎長が語る昔話を一代記として、翌年に書き上げている。(刊行は明治17年)次郎長に頼まれて書いたわけではないだろうが、誠に速い。それだけ愚庵には次郎長の語りを特異な体験として受け止め、文書化したいという強い欲求を持ったのだろう。
改めて、「東海遊侠伝」を読み込めば、愚庵は相当の文の人であり、読書の人であり、侍の世界と大きく離れた異次元体験談をシャープに受け止めて、水滸伝調で描いたのであるから、作家としての力量才能もあると認識せざるを得ない。
ところで先日オリヴァー・スタットラーが書いた「東海道の宿 水口屋ものがたりJAPANESE INN」を開いてみた。東海道五十三次の十七番目の宿場町興津にあった水口屋、現在は鈴与グループ研修所で通称「水口屋ギャラリー」になっている旅館である。
著者オリヴァー・スタットラーは、第二次世界大戦終了後まもなく、進駐軍の一員として来日。あるとき占領軍のあった東京から興津に避暑に出かけた著者は、一軒の日本旅館・水口屋を知り、その接遇に魅了され、それ以来しばしばこの宿を訪れることになる。宿の女主人の父親から宿のルーツを聞き、それをもとに水口屋という宿の変遷と歴史上の事件をからめた歴史読み物「Japanese Inn(日本の宿)」を執筆した。
この本はアメリカにおいてベストセラーになり、その後の日本ブームのさきがけともなるのだが、その日本語版が「東海道の宿 水口屋ものがたり」で、歴史読み物といっても通り一遍の歴史逸話の羅列ではなく、時代時代の精緻な風俗描写には、つい引き込まれてしまうが、その中で第十二章に「東海道一の親分」として清水次郎長について詳しく述べている。
筆者が昨年来本連載に記してきたこと、わんぱく時代、清水出奔、森の石松、西郷と鉄舟の会見、咸臨丸事件、明治時代の次郎長をほぼ妥当に書いている。
この中で愚庵については、前半部分で「当時売り出しの作家に語ることによって伝記をのこした」と書き、後半で「次郎長には実子がなかったので、鉄舟はかれを口説いて養子を迎えさせることにした。養子として侍の出の天田という青年を推挙した。それはある意味で奇妙な決め方であった。天田の趣味は学問文学であったが、ある点でこれはうまく行った。次郎長の口述に基いてその伝記を書いたのはこの天田だったからである」と述べている。
アメリカでベストセラーになった本に、鉄舟、次郎長、愚庵が登場しているとは楽しい。
さて、この愚庵、明治三十七年(1904)一月十七日逝去したが、それが大阪朝日新聞に大きく写真入りで報道され、その後も連日のように愚庵についての記事が大阪朝日新聞に載った。
作家の島本久恵(1893~1985)は愚庵に関する記事を一生懸命読み漁ったと述べているように、亡くなった当時の愚庵は社会的に著名な人物となっていた。
亡くなる三日前の一月十四日には覚書を書いている。
一. 金銀米穀に不足なければ今日より一切贈物を受け不申候
一.御見舞の御方は一面の後直ちに御引取被下候が第一の御心切と存候
一.死後は遁世者の儀に付葬式を為すを許さず
一.又塔を立つるを得ず
一.学術に補益ありとせば解剖するも不妨
一.遺骸はニ三の法弟にて荼毗せしめ、近親と雖も埋葬するを許さず
右の箇条何人も容喙するを得ず
明治三十七年一月十四日 愚庵主人自記
この遺書、尋常一様の僧侶などが書けるものではないだろう。”境地”に達していると判断する。
翌十五日からは薬餌を絶ち、二十名ばかりの看護人や見舞いの人にいちいち手を握って挨拶し謝辞を述べた。
十六日には身体を拭かせ、滴水禅師の遺贈の浄衣を着けた。その夜、時々脈が絶えた。医者がカンフル注射すると、正気づいて「また注射したな。いつまでおれを苦しませるのだ」と法弟に叱った。深更目を開いて、一人一人に謝辞を述べ、「いつまでも逝かぬなぁ、みんなに迷惑かけてすまぬことじゃ」と言って目を閉じる。
翌十七日の朝、法弟をうながし経を読ませ、その経が終らぬうちに息絶えた。享年五十一歳。
十四歳で奥羽越列藩同盟として出征し、その後は様々な職業変遷し、鉄舟の感化を受けたとしても、最後の迎え方は見事である。
一体、このような人生を送ることができた背景に何が要因として存在し、どのようにして、見事な最後を遂げるまでに自らを鍛え得たのか。
多分、愚庵は自らの中にある「素晴らしい何か」を引きずり出すことに成功したのではないかと考えるが、それはどのようなプロセスでなされたのか。
次号以降で、愚庵の生き方を検討し、鉄舟の素晴らしさについてもお伝えしていきたい。
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