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2015年9月

2015年9月25日 (金)

2015年10月「江戸における吉田松陰所縁の地を訪ねる」

「山岡鉄舟研究会」 10月例会ご案内
「江戸における吉田松陰所縁の地を訪ねる」

1. 概  要    このたびは、現在放映中のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の中でも活躍の幕末の偉大なる志士:吉田松陰の伝記《武蔵野留魂記=吉田松陰を紀行する》《遥かなり三宅島=吉田松陰「留魂録」外伝》《松陰と象山=国を護る》の「松陰三部作」を、ここに完結なされた著者である永富明郎さんにお願いいたし、永冨版の松陰像に迫るため、江戸における吉田松陰所縁の地を訪ねる運びにしました。

2. 開 催 日    平成27年10月18日(日)10:30~17:00

3. 集合場所    JR常磐線快速専用路線「南千住駅」改札口前10:30時間厳守

*改札口は、ホーム中央部分の階段を降りた1か所のみです。
*なお、JR常磐線各駅停車(千代田線直通)では、南千住駅にはお越しいただけませんので、ご注意ください。
*あとの路線として、改札口が違いますが、つくばエクスプレス「南千住駅」の利用と、東京メトロ日比谷線「南千住駅」北口改札口を出まして、常磐線方面に向かうことも出来ます。

4. 会  費    2,500円(例会費、参拝料含む)
        なお、移動に掛る交通費と昼食は、各自負担でお願いします。

5. コ ― ス    【JR常磐線快速専用路線「南千住駅」10:30集合】
コース案内説明 ⇒ ① 浄土宗「豊国山 回向院」:俗称 小塚原回向院(吉田松陰の墓、橋本左内の墓、頼三樹三郎の墓、小塚原刑場跡、観臓記念碑:杉田玄白、中川順庵、前野良沢など、高橋お伝の墓、鼠小僧の墓、吉展地蔵尊など) ⇒ ② 浄土宗「豊国山 延
命寺」(延命地蔵尊:俗称 首切り地蔵) ⇒⇒ 《 昼 食 》11:45~12:30
(参加者多数のため、恐れ入りますが小伝馬町駅周辺にて、各自めいめいに食事を摂っていただきます。)
          

 ⇒ 12:30に「十思公園」再集合 ⇒③ 十思公園(伝馬町牢屋敷跡、吉田松陰終焉の地、石町時の鐘)⇒ ④ 於玉ヶ池(お玉ヶ池種痘所跡、玄武館道場跡、お玉ヶ池跡碑、繁栄お玉稲荷神社) ⇒  

岩本町駅 ・・・・三軒茶屋駅・・・・松陰神社前駅

 ⑤ 松陰神社(御社殿正式参拝、吉田松陰先生像、石燈籠、木戸孝允寄進の鳥居、松陰先生他烈士墓所、松下村塾)⇒ (国士舘大学):国士舘大学は、大正6年[1917年]柴田徳次郎他青年有志たちにより、「活学を講ず」の宣言と共に「国士舘設立趣旨」で謳われるように、吉田松陰の精神を範とし、日々の「実践」の中から心身の鍛練と人格の陶冶を図り、国家社会に貢献する智力と胆力を備えた「国士」を養成することにありました。⇒ ③ 曹洞宗「大谿山(ダイケイザン)豪徳寺」(彦根藩井伊家墓所、井伊直弼の墓、仏殿二代直孝の娘(掃雲院)が父の菩提を弔うため、延宝5年[1677年]に建立、招き猫伝説:招き猫発祥の地とする説がある。)

 

*** 皆様、今日は丸1日、大変お疲れ様でした。 ***

♠ ♠ ♠ 此処からは、希望者のみでの懇親会 ♠ ♠ ♠

6. 懇 親 会     17:00~19:00
            「魚民 豪徳寺駅前店」
             TEL:03-3426-5688
             世田谷区豪徳寺1-23-17 豪徳寺サウス2F
             会費:4,000円

7. お申込み・お問合せ
         下記の参加申込書にご記入の上、FAXにて送信してください。
         担当:矢澤昌敏  携帯:090-6021-1519
         TEL&FAX:0480-58-5732
         E-mail:m_yaza10@eos.ocn.ne.jp ないしinfo@tessyuu.jp
                                    

参加申込書      

 

「江戸における吉田松陰所縁の地を訪ねる」(平成27年10月18日開催)に

 

出席します

 

           
 

お  名  前

 
 

 

 
 

緊急のご連絡先(携帯電話など)

 
 

 

 
 

懇親会へのご参加

 
 

参加します    参加しません

 

 

申込締切:10月10日(土) FAX送信先:0480-58-5732(矢澤)

 

 

 

        以 上

 

2015年11月例会開催内容

以下のように開催いたします。 

開催日 20151118()

場所  東京文化会館・中会議室1

発表  次の方からご発表いただきます

 永冨明郎氏

「慶応元年兵庫開港要求事件 関連文書」について

所蔵 木下雄次郎氏、解読・解説 永冨明郎氏。

併せて、永冨氏から「幕末維新の過程と著名人の生涯」と「幕末に於ける佐幕派/反幕派の相互作用」、これは永冨氏が創作された幕末維新の大きな流れを体系化したもので、今までどの歴史書籍資料にも掲載されていないオリジナルなものです。ご期待ください。

 山本紀久雄

        ●鉄舟が天田愚庵を再生させた理由として、通説は「鉄舟が愚庵の性格特性と、父母妹との別れに身をつまされ、愚庵心中を思い遣って、肩入れした」と述べている。だが、果して、鉄舟がそのようなナイーブな心情のみで愚庵に対応したのか疑問が残る。新事実を発表いたします。

 

        ●鉄舟の銅像を建立する計画につきまして、皆さんから率直なご見解を伺いたく議題といたします。

時間  18:3020:00

会費  1500

2015年9月16日(水) 例会開催結果

9月例会は以下の4名の方からご発表いただきました。

1. 高橋育郎氏「終戦70周年 私の空襲体験」

昭和16年、国民学校入学。国民学校は私が卒業した年22年に終わったので、まさに私は生粋の国民学校生。

16128日。真珠湾攻撃によって、大東亜戦争が勃発し、翌174月、新学期の始業式の日。学校が早く終え帰宅。当時、北区赤羽町に住んでいたが、聴き慣れない爆音が低空で接近してきた。驚いて見上げると米軍機で、操縦士と私は眼と眼が合ってしまった。驚いた私は、そのことを母へ知らせに行った。母は「そんなこないよ。アメリカの飛行機が飛んでくるなんて」という。

そのはずで、日本は各地で勝利を続け占領地拡大、勝ち戦に湧いていた情勢だったからである。

(補足。米軍機による本土初空襲は昭和17418日のドーリットル空襲で航空母艦「ホーネット」から陸上機16B-25中型爆撃機を発進させ、東京、川崎、名古屋、四日市、神戸などへの空爆に成功)

814日敗戦の前日は、父の実家である埼玉県北吉見村(いまは町)にいたが、突如、空襲の叫びと共に防空壕へ飛び込み避難したが、米軍機が土手に時限爆弾を落としていき、そこを通ることになったときの恐怖は今でも鮮明だ。

このように、本土初空襲の米兵と顔を見合わせ、本土最後の空襲に合い、時限爆弾の恐怖にさらされた、という稀有な体験をしている。

 

2. 木下雄次郎氏

最近入手された以下の古文書をご持参賜り、概要をご説明いただきました。

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「久坂玄瑞建白書」「幕府より長州藩への責任者処罰命令の受領承り書」「長州城内内紛を連絡する密書」「戊辰戦争時、勅諭を受けた藩主の心情と対応」「日米修交条約の為ペリーを遣わす事の事前報告書」「ペリー来航の幕府の毎日のどたばたした報告日記」「オランダ国、アメリカ国貢ぎ物と返礼」「桜田門外事件と始末の事」「坂下門外の変、江戸から仙台藩への報告」「仙台藩の建白書と会津攻めの本意」等

 いずれも貴重な歴史事実を示す内容で、じっくり検討したい逸品ですが、時間制約のため概要の解説に留まった事、残念で、今後の機会をお願いしたいと思います。

 

3. 永冨明郎氏

木下雄次郎氏所有の古文書「和勢行幸」(下の額装)について解説されました。

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 本書は、文久三年(1863)八月に起きた「八・一八政変」を引き起こした「大和行幸策に関するものである。一般には「大和行幸策」と呼ばれるが、内容からすれば「和勢行幸」即ち大和と伊勢への天皇行幸策であり、適切なタイトルである。「和勢行幸」は、天皇(孝明帝)自ら攘夷祈願のために、神武帝御陵(奈良県=大和)に参拝し、更に伊勢神宮にまで足を延ばしてここで幕府親征を宣言する、という壮大な計画である。八月十三日に宣下され、八月二十日を持って実行に移す計画であった。これより先、賀茂神社、石清水八幡宮には既に行幸が行われており、本計画を仕上げとする策である。

冒頭に「左羽林郎處」とある。羽林郎とは、中国故事によると、皇帝側近の部隊で、文久二年当時、一部の尊皇攘夷派が朝廷に働きかけ、朝命で諸藩に兵を拠出させて朝廷直属の部隊を結成した。最盛期には三千人とも言われ、その総帥となったのが肥後藩・宮部鼎蔵であった。これを指すものと思われる。

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この中で「学習院御用掛」と列記された者14名が、本策の実行メンバーであったと思われ、

真木和泉守、桂小五郎、久坂義助(玄瑞)、宮部鼎蔵、土方楠左衛門、平野次郎(正臣)などである。

このように、過激尊攘派が将軍(幕府)を追い詰めて幕府に攘夷を迫る、それができない

なら倒幕する、というロジックでの攻勢の最大の策が「和勢行幸」であった。わけで、これを察知した薩摩は、急遽会津(京都守護職)に接近し、事前にこれを防ごうとしたのが、「八・一八政変」であった。

この時点では、長州の突出を警戒した薩摩であったが、二度の長州征伐などにより、幕府依存では難しいとの判断に傾き、密かに薩長同盟を結び(慶応二年1866一月)倒幕に動くことになるが、この「和勢行幸」が大きな転機となった歴史プロセスを証明する古文書であり、貴重な史料である。

 

4. 山本紀久雄

「江戸無血開城が鉄舟の駿府駆けによって決まり、天下の大勢は決したのに、奥羽越列藩同盟軍が結成され戦火を交えた。和平の交渉が行われたはずだが、その折衝に携わった会津藩はじめ東北諸藩には、鉄舟に匹敵する人材はいなかったのか」

という疑問を検討した結果、東北の地には鉄舟レベルの人材はいなかったと結論づけし、その検討結果を以下のようにお伝えしました。

 鉄舟は一生涯修行を貫き、「大悟」・「無」境地へ到達した。

 それは極限まで無化された状態であり、創造の力にあふれる「無」の世界でもあった。

 つまり、無我の境地に到達することで、ありとあらゆる場面が迫ってきても、常に創造の力にあふれる解決策を見出し、新しい方向を切り開いていく。

 これが修行で達した鉄舟の「大悟」であり「無」境地であり、その顕現が西郷との駿府会談であった。

 鉄舟という人物のすごさは、誰も見通しをつけられなかった幕末維新の歴史的課題に、徒手空拳で立ち向うという天晴れな豪胆武勇さと、西郷との会見でみせた政治外交力、それらを併せ持ったところにある。

 鉄舟は、世にいわれる秀才・俊秀・才物レベルではない。それを超えた異次元の「無」概念帯、いわば「無という特殊性」世界に到達しているからこそ、大問題解決への「普遍性方策」を引き出し得るわけで、これは鉄舟でしかでき得ないことである。

 したがって、会津藩にいくら優れた人材がいて、和平手段に投入されたとしても、成果を得るのは難しかったであろう。東北の地に鉄舟は存在し得なかったのである。

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