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2015年9月25日 (金)

2015年9月16日(水) 例会開催結果

9月例会は以下の4名の方からご発表いただきました。

1. 高橋育郎氏「終戦70周年 私の空襲体験」

昭和16年、国民学校入学。国民学校は私が卒業した年22年に終わったので、まさに私は生粋の国民学校生。

16128日。真珠湾攻撃によって、大東亜戦争が勃発し、翌174月、新学期の始業式の日。学校が早く終え帰宅。当時、北区赤羽町に住んでいたが、聴き慣れない爆音が低空で接近してきた。驚いて見上げると米軍機で、操縦士と私は眼と眼が合ってしまった。驚いた私は、そのことを母へ知らせに行った。母は「そんなこないよ。アメリカの飛行機が飛んでくるなんて」という。

そのはずで、日本は各地で勝利を続け占領地拡大、勝ち戦に湧いていた情勢だったからである。

(補足。米軍機による本土初空襲は昭和17418日のドーリットル空襲で航空母艦「ホーネット」から陸上機16B-25中型爆撃機を発進させ、東京、川崎、名古屋、四日市、神戸などへの空爆に成功)

814日敗戦の前日は、父の実家である埼玉県北吉見村(いまは町)にいたが、突如、空襲の叫びと共に防空壕へ飛び込み避難したが、米軍機が土手に時限爆弾を落としていき、そこを通ることになったときの恐怖は今でも鮮明だ。

このように、本土初空襲の米兵と顔を見合わせ、本土最後の空襲に合い、時限爆弾の恐怖にさらされた、という稀有な体験をしている。

 

2. 木下雄次郎氏

最近入手された以下の古文書をご持参賜り、概要をご説明いただきました。

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「久坂玄瑞建白書」「幕府より長州藩への責任者処罰命令の受領承り書」「長州城内内紛を連絡する密書」「戊辰戦争時、勅諭を受けた藩主の心情と対応」「日米修交条約の為ペリーを遣わす事の事前報告書」「ペリー来航の幕府の毎日のどたばたした報告日記」「オランダ国、アメリカ国貢ぎ物と返礼」「桜田門外事件と始末の事」「坂下門外の変、江戸から仙台藩への報告」「仙台藩の建白書と会津攻めの本意」等

 いずれも貴重な歴史事実を示す内容で、じっくり検討したい逸品ですが、時間制約のため概要の解説に留まった事、残念で、今後の機会をお願いしたいと思います。

 

3. 永冨明郎氏

木下雄次郎氏所有の古文書「和勢行幸」(下の額装)について解説されました。

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 本書は、文久三年(1863)八月に起きた「八・一八政変」を引き起こした「大和行幸策に関するものである。一般には「大和行幸策」と呼ばれるが、内容からすれば「和勢行幸」即ち大和と伊勢への天皇行幸策であり、適切なタイトルである。「和勢行幸」は、天皇(孝明帝)自ら攘夷祈願のために、神武帝御陵(奈良県=大和)に参拝し、更に伊勢神宮にまで足を延ばしてここで幕府親征を宣言する、という壮大な計画である。八月十三日に宣下され、八月二十日を持って実行に移す計画であった。これより先、賀茂神社、石清水八幡宮には既に行幸が行われており、本計画を仕上げとする策である。

冒頭に「左羽林郎處」とある。羽林郎とは、中国故事によると、皇帝側近の部隊で、文久二年当時、一部の尊皇攘夷派が朝廷に働きかけ、朝命で諸藩に兵を拠出させて朝廷直属の部隊を結成した。最盛期には三千人とも言われ、その総帥となったのが肥後藩・宮部鼎蔵であった。これを指すものと思われる。

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この中で「学習院御用掛」と列記された者14名が、本策の実行メンバーであったと思われ、

真木和泉守、桂小五郎、久坂義助(玄瑞)、宮部鼎蔵、土方楠左衛門、平野次郎(正臣)などである。

このように、過激尊攘派が将軍(幕府)を追い詰めて幕府に攘夷を迫る、それができない

なら倒幕する、というロジックでの攻勢の最大の策が「和勢行幸」であった。わけで、これを察知した薩摩は、急遽会津(京都守護職)に接近し、事前にこれを防ごうとしたのが、「八・一八政変」であった。

この時点では、長州の突出を警戒した薩摩であったが、二度の長州征伐などにより、幕府依存では難しいとの判断に傾き、密かに薩長同盟を結び(慶応二年1866一月)倒幕に動くことになるが、この「和勢行幸」が大きな転機となった歴史プロセスを証明する古文書であり、貴重な史料である。

 

4. 山本紀久雄

「江戸無血開城が鉄舟の駿府駆けによって決まり、天下の大勢は決したのに、奥羽越列藩同盟軍が結成され戦火を交えた。和平の交渉が行われたはずだが、その折衝に携わった会津藩はじめ東北諸藩には、鉄舟に匹敵する人材はいなかったのか」

という疑問を検討した結果、東北の地には鉄舟レベルの人材はいなかったと結論づけし、その検討結果を以下のようにお伝えしました。

 鉄舟は一生涯修行を貫き、「大悟」・「無」境地へ到達した。

 それは極限まで無化された状態であり、創造の力にあふれる「無」の世界でもあった。

 つまり、無我の境地に到達することで、ありとあらゆる場面が迫ってきても、常に創造の力にあふれる解決策を見出し、新しい方向を切り開いていく。

 これが修行で達した鉄舟の「大悟」であり「無」境地であり、その顕現が西郷との駿府会談であった。

 鉄舟という人物のすごさは、誰も見通しをつけられなかった幕末維新の歴史的課題に、徒手空拳で立ち向うという天晴れな豪胆武勇さと、西郷との会見でみせた政治外交力、それらを併せ持ったところにある。

 鉄舟は、世にいわれる秀才・俊秀・才物レベルではない。それを超えた異次元の「無」概念帯、いわば「無という特殊性」世界に到達しているからこそ、大問題解決への「普遍性方策」を引き出し得るわけで、これは鉄舟でしかでき得ないことである。

 したがって、会津藩にいくら優れた人材がいて、和平手段に投入されたとしても、成果を得るのは難しかったであろう。東北の地に鉄舟は存在し得なかったのである。

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