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2015年6月

2015年6月25日 (木)

2015年7月~9月例会開催

1.20157月は鉄舟命日に併せ、岐阜県高山市で718()19()に「第二回全国大会IN飛騨高山」を開催いたします。

 

2.20158月は夏休みで休会です。

 

3.20159月例会は916()に、東京文化会館にて18時30分から20時まで開催します。テーマは後日のご案内となります。

2015年6月17日(水) 例会開催結果

2015年6月17日(水) 例会開催結果

1.木下雄次郎氏から「摩訶般若波羅蜜多心経」、「国泰寺由縁鉄舟印」、「田原坂顕彰攻帖屏風」についてご発表いただきました。
「摩訶般若波羅蜜多心経」、摩訶は優れた、般若は迷いを去って悟りを拓く知恵。波羅密は生死に囚われている境地を脱して彼岸に達し悟りを拓く。多は有難いと思う。心経は精神、愛国の道理。
観自在菩薩は自分を菩薩としてみなさい。菩薩とは悟りを開いて衆生を救済する修業者であり、鉄舟の写経は、写すことではなく心体に刻み込んでそらんじるもので、鉄舟の生きざまの原点がここにある。と述べられました。

Photo

次いで、「国泰寺由縁鉄舟印」については「座水月道場修空華萬行」と読み解かれ、「月は水に映り、水は月に映る。水月道場に座して空華の萬行を修す」。「空華の萬行」とは「心に何も残っていないこと。相手を曇りなく映し出し、鏡のような心を持って、総ての行いを積んで行こう」、つまり、鉄舟のこころの規範を印に示したものと解説され、茨城県知事時代に書いたと推定される「四海人民頌泰平」掛け軸を紹介されました。

最後に「田原坂顕彰攻帖」屏風、現物は田原坂資料館に寄付されましたので、コピーで解説いただきました。

木下氏の語りにはいつも共感します。鉄舟が求めていた次元を追求されているからです。ご発表に感謝申し上げます。

2. 安田芳雄氏から「人生を変えた二冊の本」についてご発表いただきました。

まずは自己紹介から入られました。先天性心臓弁膜症で生まれ、顔色が悪く色白で、好き嫌いも多かった所為もあり虚弱体質で、過激な運動ができなかった。打ち身による化膿が原因で入院中「宮沢賢治物語」の「雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ」に心を動かされ、丈夫な体を作ろうと嫌いな野菜も、鼻をつまんで食べているうちに、いつか何でも食べられるようになり、丈夫になれた。

 50歳を過ぎたころ、このままでいいのか。何のために生きているのか。悶々と問う毎日となった。その時「致知」を知り購読しているうちに、二冊目の「中崎辰九郎の語録に学ぶ自己維新のすすめ」に出あい、そこに「良い本を持つのは幸せだ。良い本は自分を育てる」とあり、目から鱗が出たように感激し、その時から自分を高める為に興味のある本を、手当りしだい読み始めまた。

その頃、台湾から来た親子を知り、その子にぬりえをあげようとネットで探したら山岡鉄舟の世界へたどり着き、これも縁と思い自分を高める為に山岡鉄舟研究会に入会した。今では池袋の淑徳大学講座に通い、幕末史に興味持つようになった。

次に60歳の手習いで俳句を始め、現在、鉄舟が15歳で定めた「修身二十則」を座右の銘としている。

昨年、カテーテル治療をして心臓の穴をふさぎ健康になり、高尾山へ休憩なしで登山できるまでになった。

自らの生き様を淡々と、気負いなく、率直に語られる安田さんに、全員の胸がじいんとなり、感動の拍手がわき起こりました。ありがとうございました。

3.山本紀久雄からは「白河口の戦い現場視察報告」をいたしました。

①白河築城の主目的は、東北の外様大名に対する備え。したがって、北側は阿武隈川という自然要害、それと白河城内最大の堀と、高く積み上げた石垣によって守られている。だが、南側は北側に比べ小さい堀で、橋もあり、比較的攻めやすい防備体制になっている。本丸の標高は370メートル、城の面積は54ヘクタール、約16万坪で、城郭全体形は、やや不整な五角形となっている。西郷頼母総督が白河城に立ち籠った際は、この三重櫓は焼失していたので、新政府軍の動きを高い天守から見渡すことができなかった。だから「敵陣情勢を探るべく探索行動」が重要で大事だったが、何故かしていない。敗戦は将の器の差といえる。
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②「孫子兵法」は武士の基礎的素養のはずだが、会津藩総督西郷頼母はこれも無視。孫子兵法第三篇「謀攻」に次の記述がある。
故用兵之法        故に用兵の法は
十則囲之         十なれば、則ち之を囲み
五則攻之         五なれば、則ち之を攻め
倍則分之         倍すれば、則ち之を分かち

意味は「実際に戦闘へ移るときは、味方が敵の十倍なら攻囲してしまい、五倍なら正面攻撃がよいだろう。二倍なら兵力を分けて二方面から攻め、対等の兵力なら全力で戦う」であり、孫子は兵力差が圧倒的なとき、かさにかかった攻撃法を説いている。

しかし、柘植久慶著『実戦 孫子の兵法』は、10倍の兵力を有しているときに敵を包囲というのは少し慎重すぎ、実際の攻城戦での兵力差と損害は三倍というのが常識の線であるという。
この柘植氏の見解を採れば、新政府軍700名に対し、同盟軍は2500名であるから、約3.5倍という差があるので、同盟軍が白坂にいる新政府軍を包囲攻撃すべきであったということになる。

だが、西郷は逆に防戦するがごときに城に籠った。江戸時代、武士にとって四書五経に続く重要な古典である孫子兵法、西郷が学んでいないはずはないが、「論語読みの論語知らず」ということなのか。

③ 閏5月1日の大敗以後7回以上10回は奪還攻撃したが成功せず。その要因は「武器の優劣差」と「兵の訓練度」であった。

④ 鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸から会津に戻った容保、慶喜にならって謹慎屛居し、嘆願書を数十通送ったが、戦争回避できず、会津若松城籠城抗戦、9月22日落城降伏。

⑤ 容保の嘆願書を鉄舟が預かっていたらどうなっていただろうか。「流石は徳川公だけあって、エライ宝をおもちだ」と西郷隆盛が高く評価した鉄舟、何とかしたはず。しかし、現実は鉄舟という型破りの人材は東北には居なかった。何故、いなかったのか、という検討は、鉄舟人間力の再分析へつながり、愚庵へ肩入れした理由にもつながる。9月例会で解明する。

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