長いこと清水次郎長について検討してきたが、最終回のまとめを行いたい。
まとめのポイントは次郎長の後半生、何故に正業の人生を歩めたかである。
天保十三年(1842) 二十三歳、故郷清水を出奔した際の次郎長の目標は「侠客として身を立てる」、即ち「海道一の親分」になることであったが、その目標がほぼ達した慶応四年(1868)三月、静岡県庵原郡由比町西倉沢の望嶽亭・松永七郎平から「この方は、公方様の特別なお使い。駿府の大総督府に届けてもらいたい」と手紙が届いた。
次郎長は「公方様の大事なお使者とは。次郎長、命に懸けてお届けします」と、鉄舟を駿府の西郷隆盛が宿泊していた伝馬町・松崎屋源兵衛宅へ送り届けたが、その際、次郎長の胸中に何かが走った。
それは何か。自分は海道一の親分が目標だった。ところが、望嶽亭から預かった鉄舟という旗本は、談判の内容はよくわからないが、徳川幕府の帰趨を背負っているらしく、官軍参謀西郷との会見を求め松崎屋源兵衛宅へ入っていく。それもたった一人で。今まで接してきた世界の人間とは違うし、自分とも大きく次元が異なる。こういう人物が世の中にはいるのだ。鉄舟の後ろ姿を見送りつつ、人一倍感覚が鋭い次郎長、鉄舟について西郷が海舟に語った内容を直感的に感じ取っていたのかもしれない。
慶応四年三月十三日、江戸薩摩屋敷の第一回海舟・西郷会談後、二人は愛宕山に登った。そのとき西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と海舟に語った。
この内容が、後年西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記されたが、その背景には鉄舟が慶喜を救うために発する鋭い気合と論説、それにうなずきつつも別の感覚が西郷の心情を強く打ったからこそ、愛宕山での賛辞の言葉となったと考える。
それは西郷が持つ、人の価値を認める信条・判断基準、人とはこうであらねばならないという思惟規準に鉄舟が適ったからで、だからこそ「然らば徳川慶喜殿の事に於ては吉之助屹と引受取計ふ可し、先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」(西郷氏と応接之記)となったと推察する。
一般的には五箇条のうちの「慶喜を備前に預けること」について、薩摩藩島津候と慶喜の立場を入れ替えた鉄舟の説得論理によって、西郷が納得したといわれているが、そのような論理力だけでは、真のところで西郷は動かされなかったと思う。西郷という人物は特別で、別の判断基準が存在した。
では、西郷の人物判定観とは、どのようなものであったのであろうか。
西郷の人生で島暮らしが二度ある。大島と徳之島である。最初の大島のときは僧月照と入水自殺した責任をとって大島に流された。徳之島のときは島津久光の逆鱗にふれ配流された。
大島での西郷は読書のかたわら、山に猟銃に行ったり、海に漁に行ったりして日を送ったが、ある時頼まれ島民の子を教育することになった。この頃の西郷の教育ぶりとして、島に伝承されている話がある。ある日、西郷は子どもらに聞いた。
「一家が仲よく暮らせる方法は何じゃと思うか。皆、よく考えて、言うてみよ」子どもらはそれぞれ意見を述べたが「もっと身近なところにあるはずじゃ。さあ、何だ」と西郷が訊ねる。子どもらは更に考えたが、分からないという。西郷が言った。
「欲を忘れることだ。ここに一つの菓子があるとせよ。たいへんおいしい菓子だ。皆食べたい。そこを、皆ががまんして、兄は弟にゆずり、弟は兄にゆずり、子は父母にゆずり、父母は祖父母にゆずるというように、皆が欲を忘れてゆずれば、一家は必ず仲よくなる」
西郷の教育のやり方は、こんな風であったが、この欲を忘れるということは、西郷が生涯の目標にしたことであり「南州翁遺訓」として遺されている。
西郷が生涯の目標とした「欲を忘れる」ということ、そのことを徳川の一家臣として「命も、名も、金も」すべてを捨て去って、慶喜に対する「赤誠」のみを持って迫り訴えかけてくる姿、そこに西郷は自らが生涯目標とした理想の体現者として、鉄舟を理解し受け入れたのであろう。
そうでなければ、いくら全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さがあっても、大総督府下参謀の立場であるものの、すべての権限を握っているわけではない西郷が、敵将慶喜の身柄を「吉之助屹と引受取計ふ可し」と断言し、戦略転換することはなかったであろう。
人は自らの価値観と同じ人物を認めるものである。特に西郷は生涯を通じて求道者的側面が強く、剣・禅・書で鍛えあげた鉄舟の見事な人柄に、心から感心し「ほれた」のであった。これが駿府会談・交渉の真の成功要因であったと考える。
同様の感覚を次郎長も鉄舟から得たと思う。斬った張ったの博徒世界で鍛え、人を見抜くことに特異な才能を持つ次郎長が感じないわけがない。次郎長は己の中に「隠れていた次元」を、今まで気がつかなかった「閾値」ともいえるもの、それを鉄舟と出会うことで引き出し得たのではないか。
それが顕現したのが東海道筋と清水港警護の役への就任である。
取り締まられる無宿者博徒から一転し、取り締まる側になるという戦略転換は通常考えられない。しかし、その転身は突然やってきた。
慶応四年三月末日、駿府町差配裁判伏谷(ふせや)如(じょ)水(すい)に突然呼び出された。
伏谷如水とは何者か。伏谷は浜松藩の家老であった。浜松城は家康が在城したこともあり、小藩ながら出世城と称され、ここの城主になることが老中への登竜門とされていたように、最後の藩主井上正直も老中を都合二期務めたが、いち早く官軍総督府に恭順した。
その浜松藩家老の伏谷が駿府町差配役になり、町奉行の機能を預かったが、その伏谷から直々の呼び出しが次郎長に届いた。
大政や子分たちが危険を感じ「ここはひとつ、わらじをはいておくんなせえ」に対し、「おれも考えてみると無宿になって二十六年、渡世の世界で罪も重ねてきた。もう逃げ隠れはしねえ」と覚悟を決め駿府代官屋敷に向かった。
伏谷は次郎長に会うなり、次のように申し渡した。
「方今軍国漸ク多事、名ヲ士人ニ籍(か)リ、或ハ官吏ニ擬シ、所在不良ヲ為ス者アリ、且ツ夫レ幕士ノ府中ニ在ル者、其論一ナラズ。動(やや)モスレバ方向ヲ誤リ、以テ上司ニ抗ス。実ニ憂フベシト為ス。如今汝ヲ挙ゲ、道路ノ事ヲ探索セシム。故態ヲ竣(あらた)メテ以テ奉公ニ勉メヨ」(東海遊侠伝)
(いまや維新の多事に追われ、混乱に乗じ不良不逞を為す者あり。まして駿府は旧幕ゆかりの地、ここに止まる幕臣は恭順ひとつにまとまっておらず、反乱する恐れあり。目下は実に憂慮すべき状況にある。今から汝次郎長を登用して東海道筋の探索を命じる。無宿で博徒であった過去ときれいさっぱり断絶して、公人となって職務に勉励せよ)
つまり、無警察状態を立てなおすために、次郎長を自分の手足として抜擢したのである。
思いがけない登用の命に次郎長は戸惑う。
「微賤(びせん)無頼(ぶらい)、如何ゾ之ニ任(た)ヘン。冀(ねがわ)クバ更ニ他人ヲ撰ベ」(無宿者の博徒に務まるはずはありません。他の適任者を選んでください)と固辞する。
すると伏谷は配下を呼ぶ。入ってきた男を見ると、最近、頻繁に次郎長のところを訪れていた行商人ではないか。それが次郎長の前に立ち、小池文作と名乗り、自分を知っているだろうと言いながら、調べ抜いた次郎長の旧悪罪状内容をとうとうと読み上げる。
伏谷は「お前のことはすべて知っていて頼んでいるのだ」という細工である。次郎長は「お調べに間違いはありませんが、二件だけは誤聞です」と抗弁するのが精いっぱい。
「いいか、次郎長。時代は変わって、これからは天子様の世の中になったのだ。拙者もお前も新しい時代にご奉公したいものだ」
譜代中の譜代といわれる井上家の家老職家に生まれ、関ヶ原以来、徳川家に忠誠を誓った家柄の伏谷から諭され、次郎長はその言葉の重みを噛みしめ、うなずくしかなかった。
東海道筋と清水港警護の役を引き受けた見返りに、伏谷から「積年ノ罪過ヲ免除シ、之ニ加ルニ平民得ベカラザルノ帯刀ヲ許サレ」と、二十六年に及ぶ博徒稼業で犯した罪、すべてを帳消しされ、しかも博徒として隠れて差していた長脇差から武士格の二本差しの帯刀の特権を与えられ上に、山本長五郎と姓氏を名乗ることを許されたのである。
明治維新になって百姓町民に姓氏が許されたのは明治三年(1870)であるから破格の待遇である。天保十三年出奔依頼、旅から旅への逃げ隠れ人生から、一躍、社会の表舞台に立つことになったわけで、次郎長の喜び感動は大きい。
だが、戸惑いもある。博徒として目指してきた「海道一の親分」は、警察権側に立つことで消えた。四九歳で生き方を変えられてしまったのだ。それに大勢の子分もいる。これから清水一家をどう持っていくのか。
その時、ふと浮かんだのは、西郷と会見すべく松崎屋源兵衛宅へ入った鉄舟の後ろ姿だった。あのお方は天下の体制を決める交渉ごとに一人で乗り込んだ。世の中の安定のために身を捨て、腹を据え、官軍の実質司令官の西郷に正面からぶち当たり、それが成功し江戸城無血開城となって時代が変わり、自分も立場と身分が大変身した。
難しいことは分からないが、鉄舟という侍は、時代の流れ、行く末というものを身につけていたのではないか。だからこそ、時の権力者である西郷を説き伏せられたのではないか。しかし、仮にそうだとしても、俺にそのような流れをつかむ能力はない。自分のことはよくわかっている。博徒渡世で生きてきただけだから、時代なんぞをつかむことは小難しい。
だがまてよ、伏谷様が俺に役を与えたのは、時代の流れに乗れよという指示であり、機会を与えてくれたのかもしれない。そうならここは覚悟を決めて乗るしかねえ。
ようやく心底から次郎長は考え方を変え、アウトローの生活から脱皮し、世のため人のために生きようと改心したのはこの時であった。
この日から浜松藩家老と清水港の親分という変わったコンビによって駿府周辺の治安維持に当たることになった。
さらに、時代は激しく動いていく。彰義隊が壊滅された慶応四年五月十五日から九日後に、徳川宗家を継いだ田安家の亀之助(後の徳川家(いえ)達(さと))に、駿河国一円と、遠江国・陸奥国を含めて七十万石と命がくだされた。だが、与えられた陸奥国は戦争中であって、徳川藩への引き渡しは事実上できず、そこで改めて遠江国諸侯領と駿河国久能山領、三河国御領と旗本領を加え七十万石とし、浜松藩が上総鶴舞(千葉県市原市)に移封され伏谷とのコンビは解消となったが、新たに駿府藩役職として鉄舟が着任した。
明治二年(1869)正月新刻「駿藩・役名便覧」(静岡市史第二巻・静岡市役所版)によると、鉄舟は海舟と並んで幹事役に就いている。鉄舟が海舟と同様の幹事役として、政治に関与する立場になっている。
さて、伏谷が上総に移った後、巷間、次郎長が広く世に出て、鉄舟との関係がつながり深まったといわれている咸臨丸事件が勃発した。
咸臨丸を改めて思い起こせば、この艦はまことに数奇な運命にもてあそばれている。長崎の海軍伝習所で訓練を始めた幕府は、嘉永六年(1853)にオランダに軍艦を発注した。当時、ロシアとトルコの戦争のため、中立国のオランダは外国向けの建艦を控えていたため、四年後の安政七年(1860)にようやく長崎港に現れた。
この咸臨丸を有名にしたのは、幕府の船として初の太平洋横断を成し遂げたことで、その後は幕府の軍艦として活動していた。
明治元年(1868)榎本武揚は、徳川慶喜を水戸から清水港に護衛搬送したが、その翌月の八月、新政府軍(官軍)に引き渡すことになっていた幕府軍艦八隻をもって、陸奥に向かって脱走した。これは、榎本が徳川家の成行き、慶喜の駿府への移転を見届けてから脱走を図ったものであるが、この艦隊に咸臨丸が含まれていた。
暦では八月でも閏年なので、もう秋に入っていて、台風に遭遇し、咸臨丸は観音﨑で暗礁に乗り上げ、それまで回天丸に曳航(えいこう)されていたが、曳綱を断って、風浪のままに漂流し大マストも切り倒すまでになり、常州那珂港沖から三宅島近くを流され、二十九日にようやく下田港にたどりついたのである。
下田港の名主と小田原藩は、咸臨丸が港に入ったことを新政府に届け出た。新政府は肥前藩海軍に「徳川の脱艦、下田港漂着につき、処置すべし」との命を下し、追捕のために軍艦三隻と柳川藩士他数十名乗せて、咸臨丸逮捕に向かった。
咸臨丸は新政府が追捕に向かっているとは知らず、下田から清水港に入り、艦長の小林文次郎から、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届けがあり、器材が陸揚げされ、咸臨丸は港内に停泊し、乗員は三保の民家などに宿泊した。
これは困ったことだと駿府藩が思案に暮れているところに、清水港を血染めにする大惨劇が勃発した。
九月十八日、新政府が追捕のため派遣した軍艦富士山・飛竜丸・武蔵丸の三隻が、柳川藩士他数十名乗せて、午後二時ごろ清水港に入ってきたのである。
この日、艦長の小林は駿府藩に出向き留守、咸臨丸には副長の春山弁蔵と弟の鉱平、長谷川徳蔵ら少人数が留まっていた。
新政府追捕隊は咸臨丸を確認すると、10間(18メートル)の至近距離から各艦5~6発撃ちはなった。咸臨丸は駿府藩からの命もあって、戦うつもりはなく、降伏のしるしに白旗を上げた。それを見た追捕隊士達は、小艇に乗り移り小銃を撃ちながら漕ぎよせ、抜刀し咸臨丸に上ると、まず、長谷川徳蔵を血祭りに上げ、春山兄弟に銃を向けた。
「待たれい。駿府藩からこの咸臨丸を大総督府に献上するよう厳命を受けております」
副長の春山弁蔵は穏やかに対応しようとしたが、
「何を申す。この大泥棒め!!。朝廷の軍艦を盗むとは不埒千万、罰は万死に値する」
と猛り立つ追捕隊士の暴言に怒った弟の鉱平が抜刀、乱戦となって春山兄弟が斬られる。
それを見た原秀郎は艦を爆沈させ追捕隊士達を道連れにしようと、同様に考えた加藤常次郎と一緒に火薬艙へ降り向かった。だが、火薬艙の鍵は艦長の小林が持っていて、仕方なく二人は散らばっている火薬を集め、扉の下隙へ入れて点火したが失敗。中の火薬まで火が届かない。
火薬庫が爆発することを怖れて、いったんは本船に逃げた追捕隊士が、火が出ないことを見て、また戻って咸臨丸の甲板に上がった。
そこに駿府で用事を終えた艦長の小林が、何事かと小舟で咸臨丸まで来て名乗ると、甲板に引き上げ、両手を縛って殴る蹴る踏みつける乱暴狼藉。小林は倒れ気絶し、十数人とともに捕らわれ追捕軍艦に運ばれた。
だが、春山弁蔵は首を打ち落され、他の死骸と一緒に海に投げ捨てられ、新政府追捕軍艦飛竜丸が咸臨丸を曳き清水港を出ていったのが午後五時であった。
この惨劇については海舟も「幕末日記」の九月二十一日に記している。
「駿州より早追にて御目付来る。咸臨丸を取巻たる官兵、肥前、土佐、柳川藩士、甚手荒く、風聞にては、春山弁蔵刃傷に及び、切害に逢ふ。経雄殿(中老服部綾雄であろう)、目付等、散々罵られ、既に害に逢はむとするの勢也と。是、去月己来(いらい)、脱艦御届も遅々、亦修覆に取掛等、其他種々不都合を御咎めこれ有という。嗚呼、諸役因循(いんじゅん)、身を致さずして私営に苦しむ。我輩百方之を言うといえども、内破かくの如し。また如何せむ」
新政府追捕隊による一方的な惨劇の一部始終を、清水の人々は陸からみていたが、終った海には血潮と死屍が漂う凄惨な状態で、船の出入りも途絶え、漁に出るものもない。
また、賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされる。だから後難を恐れて誰も始末をしない。
この状況を見ていた次郎長が一大決断をした。
「要するに、人は死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか、国のために死んだ屍を見棄ておくのは、俺の気持ちが許さない。その上、港の機能が止まっているのも見逃せない」と、子分を動員して浮屍を引き上げたのである。
屍は七体。春山弁蔵、春山鉱平、加藤常次郎、長谷川徳蔵、長谷川清四郎、今井幾之助、他一名。これを巴川のほとり古松の下に懇ろに埋葬した。
この経緯はたちまちのうちに駿府藩に伝わり、物議となった。そこに登場するのが鉄舟である。「おれの師匠」(小倉鉄樹著)に次のように記されている。
「藩政に参與していた師匠(鉄舟)は役目柄次郎長を呼んで糾問した。
『仮初にも朝廷に対して賊名を負うた者の死骸をどういう料簡で始末したのだ』
もとより覚悟の次郎長は悪びれた景色もなく、
『賊軍か官軍か知りませんけれども、それは生きている間の事で、死んでしまえば同じ仏じゃございませんか、仏に敵味方はござりますまい。第一死骸で港を塞がれては港の奴らが稼業に困ります。港の為と思ってやった仕事ですが、若しいけないとおっしゃるなら、どうともお咎めを受けましよう』
ときっぱり言い放った。
『そうか、よく葬ってやった奇特な志しだ』
あまり簡単に賞められてしまったので、次郎長もいささか拍子抜けだ。
『それならお咎めはございませんか』
『咎めどころか、仏に敵味方はないという其の一言が気に入った』
『有難うございます。そう承れば私も安心、仏もさぞ浮かばれましょう』
喜んで帰った次郎長は、更に港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催した。師匠は求められるままに墓標をも認めてやった。大丈夫も及ばぬ次郎長の侠骨に喜んだとは言え此の際の処置として到底小人輩の出来る芸ではない。現在清水市の中央を貫流する巴河畔に祀られてある「壮士之墓」は即ち之である」

この「おれの師匠」記述には補足が必要である。写真で分かるように「壮士墓」は石造り、建立は次郎長である。この墓碑が咸臨丸惨劇事件の屍埋葬後直ぐに建立されるはずがない。
その通りで、鉄舟から誉められ感謝された次郎長は、港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催したが、その時は次郎長の菩提寺である不二見村の梅蔭寺、現在、この寺には次郎長の墓をはじめ、妻のお蝶、子分の大政、小政の墓や遺品があり、また、侠客としては全国で唯一人、次郎長の銅像が建てられている。この梅蔭寺住職に頼んで法要を開いたのであって「壮士墓」が建立されたのは明治三年(1870)三周忌の際で、墓標は鉄舟が書いた。
なお、鉄舟と次郎長との出会いは、一般的にこの咸臨丸事件がキッカケといわれ、その後の次郎長は鉄舟の影響を受け、人間的に脱皮し明治時代の社会事業家として名を残すことになったと認識されているが、筆者は異なる。
既に述べたように望嶽亭事件による鉄舟との出会いを通じ、駿府会談に臨む姿に己の中に隠れていた次元に気づく心境変化の兆しを伏線とし、そこに伏谷如水による正業へ大転換をチャンスとした改心が重なり、伏谷が去ってからは咸臨丸事件によって鉄舟との関係が一段と深まって、以後、何かと鉄舟を頼り、相談相手にして人生を歩んだ。
だからこそ、樋口一葉「一葉日記」の明治26年(1893)6月18日に「侠客駿河の次郎長死亡。本日葬儀。会するもの千余名。上武甲の三州より博徒の頭だちたるもの会する五百名と聞えたり」と書かれるほどになり、昭和二年(1927)北原白秋が「唄はちやっきりぶし 男は次郎長」と謳い揚げられる人物になったのである、
いずれにしても次郎長のように、明治維新を契機に無宿・無頼の渡世からキッパリと足を洗い、正業で暮らしを立てようとした博徒は稀で、四十九歳から七十四歳までの後半生を大変身し得たのは、時代の思想、潮流、趨勢というより、それらを体現して眼前に現れた人物、鉄舟と伏谷の影響で、特に、鉄舟が次郎長の羅針盤となり、人生の師匠として大きな影響を与え続けた結果である。
明治二十一年(1888)七月十九日鉄舟永眠。二十二日の葬儀に次郎長は子分二百名を引き連れ、折からの豪雨の中、ずぶ濡れになって泣きながら行列の先頭を歩いた。次郎長の装いは改心する前の博徒旅姿だったという。次郎長が鉄舟によって真の改心ができたという証を示したのだろう。
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