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2015年5月25日 (月)

2015年5月20日(水) 例会開催結果

2015年5月20日(水) 例会開催結果
1. 木下雄次郎氏による鉄舟「電光裏影斬春風」書の解説
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鉄舟が明治13年3月30日払暁「剣の極意を得た」妙理を書き述べたもので、春風館道場に掲示していたものではないかと推測します。鉄舟書の第一人者である学者さんも、この書を本物と鑑定されました。
押されている印は、今までの鉄舟書で使われているものと異なり、初めて見るもので、何か瑞々しく新鮮な印象を受けます。文字を読み解くと「霞が晴れて梅の香をふさぐものなし」と釈せられ、春三月を意味していると判定いたします。
木下氏には貴重な鉄舟書の本物をご持参いただき感謝申し上げます。

2. 次に「次郎長生家ピンチ? 生家が倒壊の危機」DVDを放映(静岡朝日テレビ 2015年3月9日放送)。
幕末から明治にかけての侠客で清水港の整備など、社会事業を通じて地域の発展にも尽くした、清水次郎長の生家が倒壊の危機にあり「港湾都市・清水の恩人の生家を守ろう」と地元の有志たちが立ち上がり、建物修復の募金活動を続けていることを紹介した。ご関心ある方は次にお問い合わせ願います。
☎ 054・352・0256。

3.山本紀久雄 
●茨城県の設置日の誤り指摘
福岡の金子直樹氏から、研究会HPに掲載している茨城県の設置日についての指摘がありました。
 「鉄舟県知事就任・其の四(2011年10月掲載)の中で『茨城県が設立された日は明治4年11月13日となっているが『法令全書』等によれば11月14日である』と。
  この問い合わせは、当会より先に茨城県に対して行われ、茨城県庁は11月13日の「県民の日」を茨城県が設置された日と認識していた誤りに気づいた。
  このような指摘、歴史事実の誤りであるから、当然に訂正する必要がある。そこで、参考までに気づくまでの経緯をご教示願いたいとお尋ねしたところ、以下のご連絡をいただいた。
  「茨城県民の日の由来に誤りがあることに気づいた最初のきっかけは、茨城県立高校入試問題をサイトで見て、その後、貴会のサイトやその他の文献で11月13日、11月14日の2つが記されていることを知り、さらに茨城県と埼玉県における県民の日が1日違っている一方で、その由来については県が設置された日としていることに疑問を感じ、最終的には『法令全書』から誤りを確認しました」と。
  このような事実関係の指摘は重要で大事な要件であり、ご連絡をいただいた金子氏に改めてお礼申し上げた次第です。

●天田愚庵研究を通じての疑問「何故に東北に鉄舟に匹敵する人材がいなかったのか」の検討を前月に引き続き行いました。
① 慶応4年(1868)3月23日、新政府軍の奥羽鎮撫総督府仙台入り後、東北越での戊辰戦争が勃発するのであるが、その経緯がなかなかスッキリしない。
② 戦争勃発のひとつの糸口となったのは、会津藩が「謝罪嘆願書」を仙台・米沢藩主を通じて総督九条道孝に提出したが、下参謀長州藩士世良修蔵の猛反対で拒否されたこと。
③ その世良を、慶応4年閏4月20日、仙台藩士が福島の旅館で斬殺したこと。
④ 世良暗殺で後へ引けなくなった仙台藩は、会津救済運動を軍事同盟にすり替えたこと。

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⑤ 東北での戦い発端は「白河城(小峰城)」の攻防で、新政府軍の管理下で二本松藩が管理していた白河城を、閏4月20日、会津藩が出兵し占拠したことから。
⑥ この際に城郭が焼失したが、誰が放火したのか。
⑦ 『会津戊辰戦史』では平藩兵が城内に火をつけたとあり、平藩側の史料『磐城平藩戊辰實戦記・藩士16人の覺書・平安会発行』によれば平藩兵は城内にいなかつたとある。
⑧ 『二本松藩政史』によると『総督府参謀世良修蔵城中に在りしが、十八日を以て出で去り、参謀付属野村十郎猶在り、命じて城を焼かしめ横町口より逃る』とあるように、白河城放火を命じたのは、世良下参謀付属の野村十郎となる。
⑨ しかし「『会津戊辰戦史』に『会津藩と二本松藩間で密約、形の上で抵抗し直ちに場外へ脱出するシナリオ』とある。
⑩ 「磐城三藩の戊辰戦争・上妻又四郎著」では、平藩が引きあげようと大砲一門を運ぼうとしていると、長州藩の野村十郎が来て、速やかに進撃するよう要求され、仕方なく進撃したと記述あり。
⑪ 平藩の引き上げには背景がある。閏4月19日に平藩、泉藩、相馬藩、棚倉藩、三春藩は会津謝罪状が総督府に提出されたので、白河出兵中の藩兵は戦闘になったなら参戦するのを控えたい旨の書を総督府へ提出していたから。
⑫ これらの状況をどのように考えるか。白河城における戦い現場では、敵味方の振り分けが明確になっていない。二本松藩は新政府軍の指示で白河城を守っていたが、会津藩とは密約があり、すぐに城を渡す手配になっていたし、平藩は新政府軍の言われるままに白河城近辺に出張ったが、参戦を避けようとしている。だが、長州参謀の指示があると攻撃する。
⑬ 戦争とは軍事力を用いて様々な政治目的を達成しようとする行為だが、白河城攻防は、主体的な戦争論理、誰がどのような理由で敵なのか、それとも味方なのかが曖昧のままであったことの事実を示している。

このように白河城攻防の経緯は複雑で、例会ご参加の方から「よくわからない」という発言を受けた。その通りで、戦争の「敵・味方」区別が場所、時間によって移ろうごとく変わっていくので、説明にも困難を伴う結果である。

いずれにしても、会津若松落城へつながったのが「白河口の戦い」であるので、現場を
視察することで整理し、6月例会にて再度報告いたします。

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