文部科学省「私たちの道徳」
2月は山岡鉄舟にとって素晴らしい出来事が続いた。
最初は文部科学省。2月14日に新年度から全国の国公私立小中学校に無償配布する道徳用の新教材「私たちの道徳」を公表したが、その中学二年生教科書の中で山岡鉄舟が取り上げられたことである。
今回の道徳教科書の配布は、従来の「心のノート」を全面改訂し

(1ページ全部鉄舟掲載の下段部分)
たもので、国内外の偉人伝などの読み物を盛り込み、ページ数を約1.5倍に増やし、いじめ問題への対応などのほか、「日本人としての自覚」を深める記述も数多く盛り込ませ、日本人が昔から大切にしてきた「美しい心」とは何かを考えさせる内容となっている。鉄舟は「2.人と支え合って」項目の「(5)認め合い学び合う心を」の中で「この人に学ぶ・人物探訪」として登場している。
更にうれしいことは、鉄舟の業績は江戸無血開城と明治天皇の扶育であるが、上記のようにほぼ妥当に記していることである。
実は、世上、江戸無血開城は西郷隆盛と勝海舟の二人で決めたと、流布されているのが一般的である。
その一例が、某教科書出版社から発行されている中学一年の道徳教科書である。西郷を「はかりしれない人間の大きさ」の人物として紹介しているが、その中で次のように記している。
「勝は幕府を代表して、総攻撃の中止を求めるため西郷に会見を申し入れ、両雄は、江戸城明け渡しという難局で再開しました。当時の思い出を勝海舟は『氷川清話』の中で次のように述べています。
当日のおれは、羽織袴で馬に乗り、従者一人連れたばかりで、江戸にある薩摩屋敷に出かけた。(中略) さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれの言うことをいちいち信用してくれて、その間、一点の疑念もはさまなかった。
『いろいろ、むずかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします』
西郷のこの一言で、江戸百万の人々の生命と財産とを保つことができ、また徳川家も滅亡を免れたのだ」と。

JR田町駅近く、都営浅草線三田駅を上がったところ、第一京浜と日比谷通り交差点近くのビルの前に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地 西郷吉之助書」と書かれた石碑が立っている。その石碑の下前面、向かって左側に「西郷と勝の会見画銅板」、真ん中に「この敷地は、明治維新前夜慶応4年(1868)3月14日幕府の陸軍参謀勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた『勝・西郷会談』の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所である・・・。」と書かれ、向かって右側に高輪邉繒圖が描かれている。
実は、この銅板が問題なのである。画に西郷と勝しかいない。当日は鉄舟も同席していたのに、二人だけのシチュエーションとなっている。

さらに、神宮外苑の聖徳記念絵画館に掲示されている壁画「江戸開城談判」(結城素明画)の影響が大きい。聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳を永く後世に伝えるために造営されたもので、明治天皇のご生誕から崩御までの出来事を壁画として年代順に展示していて、その一つが左の壁画であるが、これによって二人の会見で江戸無血開城が行われたというイメージを醸成付加させた。
二つ目の素晴らしいことは、教科書出版社に出向き、以下のように説明したところ、修正印刷してくれることになったことである。
「貴社は、勝海舟『氷川清話』の『西郷と江戸開城談判』を引用され記述されていますが、これは明治28年8月15日の『国民新聞』の『氷川伯の談話(二)』に掲載されたもので、この時、海舟72歳。
海舟は、氷川神社のそばに寓居し77歳で亡くなりましたが、幕末維新のすべてを見聞き、かつ自由な隠居の身で好きなことを話せる男は海舟しかいなかったので、氷川の寓居に、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らがしょっちゅう訪れて、海舟の談話を聞き書きした。それを人よんで『氷川清話』といいます。
吉本襄が大正3年に新聞連載を編集し直し、日進堂から刊行した『氷川清話』が有名ですが、吉本襄があやしげな換骨奪胎をしているので、江藤淳と松浦玲が編集し直し、さらに相当の補充をして、講談社から決定版ともいうべき『勝海舟全集』全22巻が出版(昭和48年)されています。
しかし、『氷川清話』の『西郷と江戸開城談判』は、『江戸無血開城』に至るまでの史実経緯をかなり省いておりますので、その史実について以下ご説明させていただきたい」
と述べ、次のような説明を行った。
「鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、上野・寛永寺に謹慎し、和平の意を伝えるべく朝廷と縁故ある使者を何人も派遣したが、いずれも失敗。最後の手段として慶喜護衛役の旗本・山岡鉄舟に使者を命じた。
命を受け鉄舟は、軍事総裁の勝と初めて面談、慶喜の命令を伝え、直ちに新政府軍が充満している東海道筋に向かい、多くの危難を切り抜け、駿府(現・静岡市)で新政府軍参謀の西郷と会談を持った。
西郷からは和平5条件を示され、4条件は受け入れたが『慶喜公を備前藩(新政府軍)に引き渡す条件は絶対に受け入れられない。もし立場が逆であったとしたら、あなたは自分の主君を敵に引き渡せるか』と君臣の情からの鋭い論理と、決死の気合いによって反論、西郷を説得・約諾させ、ここに事実上の江戸無血開城が決まった。
江戸に戻った鉄舟は、直ちに慶喜と勝に報告、江戸市中に高札で和平成立を布告した。勝は日記で『山岡氏帰東。駿府にて西郷氏に面談。其識高く、敬服するに堪たり』と鉄舟を称賛した。鉄舟による駿府での西郷説得の前提があって『西郷と勝による江戸城無血開城会談』が成立したのである」
また、この歴史史実で使用した史料「海舟日記」と鉄舟直筆の「西郷隆盛氏と談判筆記」を示したことで、出版社はこの申し出を受け入れ、次回印刷文から修正するとの発言を得ることができた。
なお、「氷川清話」の取り扱いは慎重にすることが望ましいとも加えてお伝えしたところ、頷いてくれた。

ところで、上の石碑は静岡駅近くの「西郷・山岡会見之史蹟」である。刻字されている文言は「ここは慶応四年三月九日東征軍参謀西郷隆盛と、幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡で、これによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史蹟であります」と、高さ1.5メートル、横幅は1メートルの御影石で、向かって右に鉄舟、左が西郷の顔が銅板ではめ込まれている。
歴史が「あるつくられた」ストーリーで語られ、そのストーリーの編集内容が素晴らしいと、その方向へイメージが重なっていき、事実として巷間誤認されていく。
特に、教科書は子供にとって絶対的なものであるから、ここでの記述は慎重にしたい。その意味で、鉄舟の文部科学省記述と、某教科書出版社の修正に満足しているところである。
いずれにしても、「氷川清話」は史料としては二次的な部分が多いので、これを引用する場合は慎重にすることが望ましいと思う。
さて、次郎長に戻りたい。
文久元年(1861) 十月、次郎長は東海道・菊川での金平との手打ち式に、四百余人の博徒関係者を集められるほどに成り上がり「海道一の親分」への道筋をつけた。
その後の東海遊侠伝の記述は、黒駒勝蔵との対決に変わっていき、多くの博徒を巻き込んで血を血で洗う凄惨な闘いが幕末維新という混乱期の中で続いていく。
勝蔵との戦いは、結果的に決着はつかなかったが、幕末維新への対応が明暗となって次郎長に味方する。
幕末維新の激動に遭遇した博徒たちも、時代の流れに無縁ではいられない。佐幕として幕府の体制を支えていくか、それとも新時代を模索する官軍側につくか。あるいはどちらにもつかないか。その選択を迫られたのだ。
無宿のアウトローたちには、激流の時代の趨勢を的確に判断し、どちらが未来に勝利するか見通しする力は脆弱であったが、反面、武士階級の武力形骸化と無力化によって、佐幕側からも、勤皇側からも博徒たちへ期待は膨らんだ。
当然に武闘派として盛名を轟かせた次郎長へもアプローチがなされる。それを東海遊侠伝が次のように述べている。
一人の武士が下僕を従え三州寺津の間之助を訪れ、滞在する次郎長と間之助に直接面会を求め、「各々与ルニ食禄二十石ヲ以テシ、子弟ヲ率ヰテ上京セシム」(各々に食禄二十石を与え家臣にするので子分を率い上京してほしい)と勧誘に来た。
無宿人の博徒が武士になれるというのである。間之助は小躍りしてただちに応じようとしたが、次郎長はこの誘いを「我ガ党無頼ノ徒、如何ゾ士籍ノ規範ニ堪ン」(我ら博徒は無頼の輩、いまさらどうしたところで堅苦しい侍の規範に耐えられようか)と迷わずきっぱり断った。
これが文久元年のことであるから、菊川での手打ち式を通じ、次郎長武闘派一家の隆盛が武士階級にも浸透していたことがわかる。しかし、さすがに鋭い感覚を持つ次郎長、うまい話には裏があり胡散臭く危うさがあると嗅ぎ取り、見事に危機を遠ざけた。
ところで、この寺津に来訪した一人の武士と下僕は誰か。それは後の文久三年(1863)、大和五条で挙兵して敗れた天誅組の乱の一味ではないかと推測されている。(「清水次郎長――幕末維新と博徒の世界」高橋敏)
この時点で武士になっていたら、天誅組と一緒に次郎長は倒れ、後年の神田伯山講談と広沢虎造浪曲の次郎長物語は生まれていない。
一方、黒駒勝蔵はどうしたか。勝蔵は官軍先鋒の赤報隊に参画し、徴兵七番隊で東北各地を転戦、第一遊軍隊編入後、脱退と見なされ、過去の罪科まで持ち出されて明治四年年(1871)、斬首処刑されるという運命をたどった。
だが、この勝蔵の行動は博徒として特異なものであったのか。実は、そうとも言い切れない。博徒に対する支配体制が大きく崩れたことにより、勝蔵と同じ運命をたどった博徒が多くいた。
幕末維新の頃の状況は、支配階級が根本から変わる事態に直面した。それまでは社会の裏面に隠れ、日頃は正常な仕事につかず、裏社会で動き回っている遊び人、ごろつき、博奕打ちといった連中が、村役人・代官所手代・関東取締出役などの権力機構の末端から、常に睨まれ、目の敵にされ、潜在的犯罪者として扱われてきた。
それが幕府崩壊によって在来の支配機構が突然消え、海道を大手を振って歩けるようになり、そこに官軍という勢力が表れ、幕府追討のためにこの裏社会連中を即戦力として利用しようとし、利用される側も、今までのうっぷんを晴らすがごとき乱暴狼藉を実社会で発揮し出した。
これらの裏社会連中は、結局、明治政府体制の正常化と共に処分されることになったが、次郎長だけは違った。
既にみたように江戸無血開城の年、明治元年(1868)から五年前の文久三年、武士へと誘いかけられたがきっぱりと断っている。盟友間之助は小躍りしたと東海遊侠伝にある。間之助の方が一般的な博徒の考え方でないだろうか。無宿者が支配階級になれるのである。喜ぶのが普通だろう。
だが、次郎長は別の判断力持っていた。では、それは何か。これを検討するためには、天保十三年(1842)の清水出奔時の次郎長心理を分析しなければならない。
博打のもつれからの喧嘩、障害沙汰が、清水出奔の要因であったことは間違いないが、この事件を次郎長は自らの生き方に利しようとしたのではないか。
当時の社会を東海遊侠伝が「幕府ノ末世ニ当リ、天下驕惰(きょうだ)ニ流レ、緩急節ヲ失シ、無頼ノ民、浮浪ノ士、少シク気骨アル者ハ、所在名ヲ掲げ、傲(ごう)然(ぜん)自ラ侠客ト号し」と語っている。
幕府の屋台骨がぐらつき始め、世情も乱れていたこの時代、無宿者でも気骨のある者たちは、出身地を冠につけ、侠客と名乗り、勢力を争ったわけで、次郎長もすべてを捨て、故郷清水を後にしたが、その心中には「侠客として身を立てる」という生き方目標があったと推察するのが自然であろう。
なお、ここからは次郎長という稀有の博徒が、明治に入ってその生き方を一変させた背景要因の検討に入るので、タイトルの東海遊侠伝から離れることを承知願いたい。
次郎長が、単なる侠客になるのであるならば、それなりの親分の子分になるのが手っ取り速い。しかし、次郎長はその道を選ばなかった。寺津の間之助にあれだけ世話になっても、兄弟分としてスポンサー的立場関係を維持し続けた。決して間之助一家の子分にはならなかった。
加えて、次郎長には博徒の収入源である賭場が少なく、財政上の脆弱さがあったが、それでも他の親分の子分になる道は選ばなかった。逆に、この財政上の逆境が武闘派へ進んだ背景でもあり、その道を進んだ結果が、菊川の手打ち式になり、今や東海道筋で一目置かれる「海道一の親分」というところに近づいたといえる。
そうなってみると、清水を出奔した際に目標として「侠客になる」という姿はほぼ実現したが、この時点で次郎長の心中に何かが目覚め始めたと推測する。多分、明確には意識してはいないが、次の生き方を心の奥底で漠然と求める兆しが芽生え始めていたと思う。
そのようなタイミングで鉄舟と出会ったのである。次郎長の明治二十六年(1893)74歳大往生という人生を送れたのは、山岡鉄舟と邂逅したことに尽きる。鉄舟との出会いが、次郎長の後半生の運命を幸運にした。
ここで稀有の武闘派博徒が、明治に入ってどう変化したかについて、清水・梅陰禅寺の銅板に「精神満腹会世話人総代・平野光雄」が次のように刻字している。
「博徒の親分!さう云って片づけてしまふには彼は底光のする人格者だった」とまず述べ、「明治初年、未だ蒸気船などに乗る事を嫌ふ時代に盛んに之を説き回って開港場としての清水今日の端をひらいたのも彼である。明治三年江戸から英語教師を伴れて来て地方青年に教え弘めたのも彼である。富士の裾野を開墾したのも彼である」とある。
この内容、今まで述べてきた無宿博徒の武闘派次郎長の行動とはかけ離れている。このように行動したのは、次郎長自身が時代の流れを敏感につみ、自らの考えで変化したとは、とても思えない。振り返ってみれば、二十三歳で博打のもつれから喧嘩、障害沙汰となって、無宿者に落ち、清水を出奔した次郎長である。体に博徒の灰汁がつきすぎている。それをきれいさっぱり明治と共に消し去り、社会福祉事業家へと変身したのである。何故できたのか。勿論、鉄舟の影響であるが、それを探るには二人の邂逅場面の検討が大事である。
二人が邂逅には、いくつかの説があるが、筆者は慶応四年(1868)三月九日の駿府における西郷・鉄舟会見に向かう「由比」倉沢の薩埵峠であると考えている。
静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」の松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさん(平成24年逝去)からお聞きした、代々口承伝承されてきた内容、それは慶応四年三月七日深夜、藤屋・望嶽亭の玄関の大戸を密かに叩く武士がいた。
薩埵峠の切り立ち曲がりくねった細い崖路の峠越え、鉄舟はここで官軍に遭遇。それまでは江戸から同行してきた薩摩藩の益満休之助がいたので無事だった。だが、益満は箱根で体調を崩して同行していない。一人での官軍突破は難しい。鉄舟は山道を引き返し、薩埵峠の麓まで戻ると、そこは望嶽亭の前。
「たのむ!たのむ!」「たのむ!たのむ!」「・・・・・・」。官軍に悟れぬよう、押し殺した必死の声で大戸を叩く。ようやく望嶽亭の中で、大戸の近くに人が立つ気配がし、そっと戸を開けかかったその瞬間に、鉄舟がすべり込む。大戸を開けたのは望嶽亭二十代松永七郎平の女房「かく」であった。
「駿府の大総督府に行かねばならぬ大事な身である。官軍に捕まるわけにはいかない。匿ってもらいたい」と低く重い声で、一途に頼み込む鉄舟をみた七郎平は「これは深い訳のある人だ」と瞬時に判断、母屋と切り離された十五畳の蔵座敷に通し、厚く重い漆喰つくりの扉を閉めた。客間でもある蔵座敷で、改めて鉄舟から事の次第を聞いた七郎平は「それならば陸路は危ない。海路しかない」と、船の手配と共に次郎長に「この方は、公方様の特別なお使い。駿府の大総督府に届けてもらいたい」と手紙を書いた。
次郎長は悪童時代の十歳時、薩埵峠倉沢村の伯父兵吉の預り子になっていたので、望嶽亭の松永七郎平とは面識がある。
鉄舟は船で江尻湊(現清水港)から次郎長のところに入る。七郎平の手紙を大政に読ませた次郎長「公方様の大事なお使者とは。次郎長、命に懸けてお届けします」と子分に家の周りを警戒させ、鉄舟を座敷に上げる。
三月九日、鉄舟は次郎長と子分に守られ、清水から駿府の西郷が宿泊していた伝馬町・松崎屋源兵衛宅に向かったが、官軍参謀の西郷へ一人で直談判に入る鉄舟の姿を見つめる次郎長は何を感じたのか。鉄舟三十三歳の壮年、次郎長四十九歳という熟年。二人の間に何か共通するものがあったはず。それが次郎長の変身をもたらしたのだ。次回で解明する。
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