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2015年3月26日 (木)

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・其の十一

都田吉兵衛に石松を殺された次郎長、烈火のごとく怒り吉兵衛を追うが、山中に逃げ隠れたので、いったん清水に戻った。

亡くなったお蝶の兄の大熊は清水と目の鼻の江尻が地元で、吉兵衛とは兄弟分であったが、石松事件を聞き、吉兵衛に絶縁状を送った。

「お前は石松を無残な殺し方をした上、俺の兄弟分の次郎長をも狙っているということだが、何とも見下げ果てた野郎で、獣だ。今から兄弟分の縁を切る」

驚いた吉兵衛、いつまでも山中に隠れているわけにいかず、関東の博徒巳之助に頼んで、石塔料五十両で手を打ってほしいと持ちかけた。

石塔料とは、博徒ネットワーク間でよくとられた慣行で首代ということになるが、下総の賭場荒しで殺された子分の内済金が三十両であつたので(「清水次郎長――幕末維新と博徒の世界」高橋敏)、二十両色をつけたことになる。

しかし、次郎長は東海遊侠伝中五指に入る名台詞で啖呵を切った。
「我レヲ以テ子弟ノ命ヲ売ル者トナスカ。我レ次郎長ニシテ、眼球猶黒カラバ、仮令ヒ吉兵衛翼有テ空ニ翔(かけ)リ、術有テ地ニ入ルトモ、豈(あに)其首ヲ保タシメンヤ。我レ将ニ彼レヲ馘(かく)シ、以テ石松ノ冤恨(えんこん)ヲ慰セントス。金帛(きんぱく)ヲ以テ為ス勿レ」(俺を子分の命を金で売る親分にするつもりか。俺の目の黒いうちは、たとえ吉兵衛に翼があって空に飛んでいこうが、術を使って地下に隠れようが探し出し、首を取って石松の怨恨を慰めてやる)

巳之助は「舌ヲ巻キ去ル」と追い返された。

次郎長と石松の親分子分の絆関係は、博徒世界の金による賠償システムとは相容れない。ここが次郎長の任侠道として日本人の心情琴線に入ってくるところであって、この人情場面を強調編集し、新たなる石松ストーリーを創り上げたのが講談師三代目神田伯山と広沢虎造、特に虎造は江戸っ子風軽妙洒脱な虎造節で石松物語は全国的に広まった。
さて、次郎長一家挙げての吉兵衛追及が厳しくなっていく。とうとう困り果てた吉兵衛は、武闘派で赤鬼の異名をもつ金平、金平は大場の久八の一の子分、これに窮状を訴えた。

金平は下田在本郷村に生まれ、髪結いから無宿渡世、大場の久八の盃を貰って子分となり、下田から縄張りを広げ、久八を凌ぐ武闘派博徒になっていた。

万延元年(1860)九月十九日の夜、金平・吉兵衛連合は、沼津から駿河湾を渡り清水港の次郎長の本拠を襲った。

金平一味の甲冑をかぶった物々しさは人々を驚かせたが、肝心の次郎長は、この時瘧(おこり)を患い、実父宅で寝ていたので、本宅はもぬけのカラ。返って策略に引っかかるのではないかと金平は憶測、早々に引き揚げ、大山騒動して鼠一匹に終わった。

次郎長は金平に怨まれ襲撃される謂れはない、ただ石松を殺した吉兵衛と対決あるのみと書簡をもって反撃し、金平に貸しをつくった。

病を癒えた次郎長、吉兵衛を金平から切り離して、いよいよという決起の時に思わぬ不測の事態に見舞われた。

それは十月のある日のこと。大政、お相撲の常などが集まって雑談しているところに、梅陰寺の和尚が立ち寄り、そこに出入りの魚屋が顔を出し、今日はフグがあるという。和尚も次郎長もフグは好物なので、フグの羹(あつもの)を肴に一杯やることになった。

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(次郎長が営んだ船宿末廣)

和尚が冗談に
「フグは食べたし命は惜しし、というが今日は愚僧がいるから極楽へ行けるように引導
をわたして進ぜよう。さぁさぁ食べたり食べたり」
という。
陶然としてきたころ、一人二人と苦しみだし、とうとう居合わせた十一人全員が悶え出す。次郎長はそれでも意識があり、よろよろと立ち上がり柱を背にして屈伸運動すると、どうやら気分がよくなった。
あたりを見回すと、徳利、皿、茶わんなどが散乱し、うんうん唸る者、既に息が絶えている者もいる。
しばらくボォーとしていたが、そうだ、とつぶやくと立ち上がり、鍬を持ち出し、はあはあとしながらも穴を掘り、そこへ唸っている者を入れ、首だけ出しておいた。
隣の婆さんが変事を聞きつけ、駆け寄ってきた。
「フグにやられた。省庵先生を呼んできてくれ」
省庵は江尻の医師。省庵が駆けつけた。
「何をしている。人間を生き埋めにしてどうする。まだ、息があるではないか。土葬は早い」
「先生、フグに当たって死んだ者は、裸にして首だけ出せば生き返ると聞いたもんで」
「馬鹿馬鹿しい。早く手当しないと手遅れになる」
てきぱきと処置したが、とうとう二人が亡くなってしまった。

このフグ事件、たちまち四方八方に広まった。次郎長一家がフグに当たって壊滅状態だ。次郎長も再起不能だ。これが吉兵衛にも届いた。

チャンスとばかり吉兵衛は子分を引き連れ襲撃を計画し、文久元年(1861)一月十五日、清水まであと八、九丁ばかりの追分に入り、ここの駕籠屋という粋な小料理屋に上り、
「清水はすぐそこだ。まず酒だ。それから飯だ」
と奥座敷に入った。
酒が入るとつい声が大きくなる。
「親分、次郎長の野郎も今日でお陀仏だ」
と前祝気分となる。この日は小正月と三保神社の祭りで駕籠屋も客が多く、出入りの魚屋も追加の魚を届けに来て、吉兵衛一味の放言を聞いた。

この魚屋、次郎長にフグを売った魚屋、すぐさま注進に走った。
「ありがてえ。礼を言うぜ」
と次郎長。すぐに喧嘩仕度し、大政、小政、お相撲の常などと駕籠屋へまっしぐら。
「吉の野郎、いたな!」
叫ぶと同時に部屋へ突入した。
「待て、清水の、何かの間違いだ・・・」
「うるせぇ。覚悟しろ!」
座敷で入れ乱れての乱闘。吉兵衛が裏庭に逃げ、隣家との境の垣根まで来たとき、次郎長が右肩を槍でぐさりと突き刺す。どうと倒れた胸板を突き立てる。吉兵衛敢え無い最期。
吉兵衛の子分、三人は逃げ、三人は捕まり、殺すのも可哀想と、左手の中指他二本を切落し追い払った。親指と人差し指を残したのは、食事の際に必要だからである。

吉兵衛の両肘を斬って箱に入れ、そのまま旅立ち、三州新城(愛知県新城市富岡半原田) の洞雲寺、この自然石の墓の前に供え、石松の冥福を祈り、常に逃げ込む寺津の間之助の所に身を寄せた。

地元に、この吉兵衛殺しに関する古老に一文が遺っているという。清水市(現・静岡市清水区)追分の府川松堂凡牛翁で、江戸時代からの地主で、郷土史家としても著名とのこと。
「私の大伯父の直吉から聞いた『その日の駕籠屋』のことを書こう。文久元年正月十五日、私の大伯父直吉は、仲良しの巳之吉と連れだって、立茶屋駕籠屋へ行った。足の少し悪い女将のさなは、愛想よく『今日は少したてこんでいるから』と静かな東側の離れに案内してくれた。二人が陶然と酔った頃、突然、ただならぬ物音、叫声、足音に、何ごとならんと障子を開けると、一人の男が隣の境の小笹の生け垣を乗り越えようとしたところ、追いせまった一人が、ぐさっと槍で突き刺した。刺された男は、もんどりうって隣の方へ落ちた。直吉と巳之助は、あっと驚いて立ち上がろうとしたが障子の桟を握ったまま、腰がへたへたとなり、そのまま座ってしまった。直吉は日露戦争の頃までは生きていたが、度々このことを話して、人間なんて大きなことを言っても、咄嗟の際に腹が出来ていなければ駄目さ、と当時の状況を追懐しては語ったものである」
(「誰も書かなかった清水次郎長」江崎惇)

 寺津に滞留していた次郎長一行は、間之助が同行し金毘羅参りに出かけた。旅費は間之助が持つので次郎長は久し振りの大名旅行である。参拝を済ませた後は伊勢路に入った。

 次郎長にはある策略があった。伊勢古市には丹波屋伝兵衛という博徒がいてなかなかの勢力を張っている。この伝兵衛のもとへ乗り込み先手を打つ作戦である。

 ところで、この伝兵衛、吉良の仁吉が死んだ慶応二年(1866)四月の荒神山の喧嘩、その後始末をつけようと、次郎長が各地から応援を加え四百人あまりで同年五月に伊勢に向かった攻撃対象が丹波屋伝兵衛であった。

 三重県の県史編さん班資料では、丹波屋伝兵衛について次のように解説されている。
「古市の丹波屋伝兵衛という人物は、慶応二年(一八六六)に起こった『荒神山の喧嘩』に関係しています。
 当時の高(荒)神山(現鈴鹿市高塚町)付近では、毎年四月上旬に寺や神社の祭礼が続き、大いににぎわい、博打場を開帳すると非常な利益があがる場所でしたが、この付近は藩領や天領が入り交じり、取締りができにくい場所でもありました。そこで、この高神山の縄張りをめぐって、博徒の親分であった神戸の長吉と桑名の穴太徳とが乱闘を起こしました。乱闘は、慶応二年四月八日正午に始まり穴太徳側の敗走で終わりました。ところが、約一ケ月後、次郎長は乱闘で死んだ仁吉らの弔い合戦として博徒らを集め、船で伊勢の神社港に入港し、穴太徳の後援者であった古市の丹波屋伝兵衛に決戦を挑みました。伝兵衛側は、戦意がなく和議を申し込み、次郎長・伝兵衛・穴太徳の三者が古市で和解式を行ったというものです。お尋ねの丹波屋伝兵衛の名は、この高神山の乱闘後の段階で登場してきています。

 野村可通氏の「丹波屋伝兵衛」(『伊勢郷土史草』第六号)によりますと、丹波屋伝兵衛は、文化十四年(一八一七)に伊豆の韮山の多田で生まれ、二十歳を過ぎて伊豆を出ました。各地を転々としたのちに古市へ来て、妓楼半田屋を始めたということです。明治五年(一八七二)に古市・中之町の繁栄策について、古市の有力者が連名で度会県に提出した陳情書には、半田屋こと多田竹之助と署名があることから、丹波屋伝兵衛は多田竹之助にほぼ間違いないと考えられています。そして、八年以降、伊勢の古市を捨て関東の八王子に身を寄せたと思われ、二十三年に行年七十三歳で死んだというように書かれています。 表向きの妓楼経営では半田屋または多田竹之助という名を使い、別には丹波屋伝兵衛を名乗っていた人物ということになります」
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    (荒神山参道入り口)              

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(荒神山観音堂)
 

金毘羅参りの後、伊勢古市に丹波屋伝兵衛を訪ねたのは、文久元年であるから荒神山の喧嘩より五年前のこと。伝兵衛は金平と関係があることを知っての仁義切りである。
 「金平のことだが、先ごろ、吉兵衛に加担して俺を襲撃した。吉兵衛は子分の石松を殺した上、俺の首まで狙った男だ。聞くところによると金平は手先を集めて俺を襲おうとたくらんでいるようだ。ほっとくわけにいかないから、清水に帰り次第金平と一戦交えるつもりだから、お前さんにあえて伝えておく」
 「金平の意中は分からないが、何か行き違いがあるかもしれない。ここは俺に預けてくれないか」
 伝兵衛は仲裁に長けている。それを知っての情報通である次郎長の作戦で、この辺りで久六・石松・吉兵衛と連鎖した怨恨の闘争を、ひとまず休戦に持ち込こもうとしたもの。

 文久元年九月、伝兵衛は甥の増川仙右衛門を次郎長への使者とした。
 この増川仙右衛門、後に次郎長の盃をもらい子分となって、次郎長の家の近くに住み、大政亡き後は次郎長一家の束ねをし、重鎮として次郎長を助ける立場となるが、この時は使者として始めて次郎長と面談している。

 翌十月、東海道日坂宿・金谷宿の間の宿菊川で四百余人の関係者が一堂に会した。菊川には東海道五十三次に指定されていない間の宿で、そこの脇本陣文吉方が手打ち式の会場。

 幕府の権威や諸藩の勢力がいかに衰運に向かっているとはいえ、博徒の手打ち式が脇本陣で行われるというのは、時代の流れだ。

 会(きも)幹(いり)は丹波屋伝兵衛、会場での両者間の突発的トラブルを防止するため太刀等を預かる刀監は相州橋本政吉、調停人大和田友蔵、日坂栄次郎を中央に左右に次郎長方八名と、金平方七名が並んで席に着く。

 盟(み)賓(まい)と称して各地から関係する博徒が応援に駆けつけた。次郎長の隣は盟友江尻の大熊、大政、小政もいる。末席は寺津の間之助の代理である。 一方、金平の隣は黒駒勝蔵、兄吉兵衛を殺された常吉・梅吉の兄弟が続く。

東海道筋博徒ネットワークをほぼ網羅した手打ち式は、盛大に厳粛のうちに終わって、四百人もの博徒は帯刀する刀剣を返してもらい解散した。

この後寺津に立ち寄った次郎長のもとに、丹波屋伝兵衛が訪れ祝意を述べたが、菊川の大仰な手打ちは、新たな血を血で洗う凄惨な闘争を始めるための小休止に過ぎなかった。
勢いに乗る次郎長、それに対応する黒駒勝蔵の登場が、幕末維新の博徒間の次なる展開となっていくが、この辺りで次郎長の闘いぶりを語ることをやめたい。

前にも述べたが、子分の数は少なく、賭場の規模は小さいので経済力は弱く、貫録も不足していた次郎長が、武闘派として鳴り響き、地位を確立したのは、次郎長よりも力の強い博徒親分として知られていた保下田久六を殺害した安政六年(1859)から、石松の仇をとった都田吉兵衛殺害の文久元年までの三年間であった。

その結果、次郎長の手打ち式に四百人もの博徒が集めるほどの親分に成り上り「海道一の親分」への道筋をつけたのであるが、その背景には武闘派としての力量が優っていたことが第一の要因としてあげたい。

次郎長一家には、いわゆる武士上がりの用心棒という存在がいない。用心棒といえば平手造酒が有名である。江戸の神田お玉ヶ池の千葉道場の俊英であったが破門され,田舎回りの剣術指南で歩く浪々の身となり、下総の笹川で博徒の親分繁蔵と知り合い,その客分となり,大利根河原の決闘で斬り結ぶうち全身に傷を負い死んだ平手造酒、このような存在が次郎長一家にはいない。

用心棒なぞに頼らず、次郎長自身が久六と一対一で葬り、吉兵衛も自らの槍で斃したように、一家の先頭に立って闘ってきた。その強いリーダーシップが子分をも奮い立たせたことで、武闘派一家として名高くなっていったことは容易に推測がつく。

第二の要因は、次郎長の子分思いである。
ひとつは久六殺害時に負傷した八五郎、薬湯上州草津温泉に入湯させたりする気配り配慮。最大の見せ場は吉兵衛が石塔料五十両で手を打ってほしいと持ちかけた石松事件である。「石松の我レヲ以テ子弟ノ命ヲ売ル者トナスカ」(俺を子分の命を金で売る親分にするつもりか)という啖呵に子分たちは「この親分にためなら」と一家の絆をより深め強め、この連帯感が武闘派集団としての強みであった。

だがしかし、次郎長は明治になって大変身する。これほどの武闘派集団がそろって社会福祉活動に邁進するのである。

では、その大変化の背景は何か。それは、鉄舟しかいない。次号で述べたい。

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