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2015年2月25日 (水)

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・其の十

 

博徒渡世の世界で、次郎長は新興勢力として目立ち始めていたが、子分の数は少なく、賭場の規模は小さいので経済力は弱く、貫録も不足していた。

その次郎長が、武闘派として鳴り響き、地位を確立したのは、次郎長よりも力の強い博徒親分として知られていた保下田久六を殺害した安政六年(1859)から、石松の仇をとった都田吉兵衛殺害の文久元年(1861)までの三年間であった。

前号に続いて石松についてお伝えしたい。
次郎長には律儀な一面もある。実父の船持ち船頭・雲不見(くもみず)三右衛門の血を受け継いだ次郎長は、航海安全の金毘羅信仰で、久六斬殺前にも四国金毘羅宮参りをしているが、今度は石松を代参させることにし、久六を斬った井上真改(しんかい)の刀を奉納することにした。

実は、この刀は寺津の治助から、生き形見としてもらったものである。真改は大坂新刀の刀工で、俗に「大坂正宗」などとも呼ばれ、現在重要文化財に指定されている刀と太刀があり、銘は壮年期まで国貞を用い、晩年真改と改めている。
なお、金毘羅宮の宝物館に次郎長奉納の刀が陳列されているというので、機会を見つけ訪ねてみたいと思っている。

石松は刀を風呂敷に包んで真田紐で背負い、清水を出発、無事奉納代参の役目を果たした帰途、近江草津の御幸山の鎌太郎のところに寄った。鎌太郎は江尻の大熊と兄弟分、博徒の旅はネットワークで泊りを重ねる。

帰りがけに鎌太郎から、名古屋で客死したお蝶への香典として二十五両を託され、日を重ねて三河から遠州に入り、中郡(浜松市)の常吉を訪ね、その夜は酒となり、自然に旅の話から鎌太郎におよび、ついでに香典を預かったことも問わず語りしてしまう。

常吉は兄が都田吉兵衛、弟が梅吉の三兄弟で、父親の都田源八はこの辺りの顔役だった。後を継いだ長兄の吉兵衛は、つい先ごろまで清水に来て次郎長のところで客分となっていたが、賭場の取り締まりで役人を斬る事件を起こし、中郡に逃げ込んできて、常吉・梅吉に旅に出る金の工面を無心するが、二人の手許には金がない。

そこで思いついたのが石松の持つ香典。吉兵衛は石松から借りようと「ほんの二三日でよいから貸してくれ」と執拗に頼み込み「俺も都田の吉兵衛だ。絶対に迷惑をかけない。頼む。この通りだ」と懇願する。

人の良い石松「確かに二三日で返してくれるな」「首をかけてもよい」「そこまで言うのなら、俺も男だ。貸しやしょう」と、とうとう胴巻きから香典袋を取り出してしまった。

ところが、二三日経っても何も吉兵衛と常吉は知らんぷり。石松が催促すると「今日は六月一日の子待講(ねまちこう)(甲子(きのえね)または子の日に、講中または個人で夜おそくまで起きていて精進供養をする行事)だから、村で盆ゴザが盛大に開かれる。そこへちょっと顔を出すだけで三四十両の金ができる。わけねえことだ」という。

石松は正直者で抜けたところがある。吉兵衛の誘いにちょうど遊びに来ていた石松の弟の久吉と連れ立って出かけた。

これより先、保下田久六の身内であつた布橋の兼吉が浜松に来ていた。吉兵衛は兼吉に連絡した。「石松が常吉のところにいる。久六親分の仇を討たないか。やるなら力を貸そう」とけしかけ、兼吉は早速、子分どもを十数人集め、申し合わせた道筋に待ち伏せした。
何も知らない石松、待ち伏せしている通りにかかると、兼吉一味が石松の前に立ちはだかり、丁寧に一礼した。石松は相手が誰かわからないまま、挨拶を返そうとした時、背後で抜身の刀が光った。

石松が後ろを振り返ると、そこには吉兵衛三兄弟が、そろって刀を抜いている。
「吉兄い。冗談はよしてくれ」
石松は笑いながら身を避けようとしたところへ、兼吉一味も刀を構えて石松を取り囲む。石松はようやく自分が騙されたことに気づく。斬りかかっってくる刃先に応戦したが、多勢に無勢、体中に傷を負いつつ、ようやく一方の血路を拓き、かわして小松村の七五郎の家まで走った。

弟の久吉は争闘の間、草むらに身を隠し、石松が七五郎の方へ行くので見え隠れについていき、塀の外から中をうかがうと、追ってきた吉兵衛兄弟が指図して石松を探している。七五郎を脅かして家中を探したが石松は見つけられない。とうとうあきらめて引きあげた。
七五郎の家の仏壇に隠れていた石松が、もう大丈夫だという七五郎の声と共に出てきた。
「七兄い、あいつらはきっと戻ってくる。ここにいたんじゃあ、迷惑をかける。夜が明けないうちに外へ出て一戦交える。もし俺に運があれば、うまく脱け出して再挙を図る」

石松は傷口をしっかり結び、七五郎が止めても聞かず、門を出て走り出した。雑木林のあたりで、果して吉兵衛等に出遭ってしまう。
「この犬畜生野郎。よくも騙しやがったな」
死にもの狂いで斬ってかかる石松の勢いに、吉兵衛等はたじたじとなったが、石松の背後から吉兵衛が石松の脛を払う。石松はその場にどっと倒れる。倒れた石松に群がってめった斬りにする。石松の奮戦で吉兵衛側の負傷者も多いが、とうとう石松は事切れた。
吉兵衛は兼吉に命じて石松の首を斬って、久六と義兄弟であった常滑の兵太郎のところへ持たせようとした。
しかし、提灯をつけて首を改めて見てみると、歯をかみしめ、眼をカッと見開いて無念の形相が物凄い。怖気づいた吉兵衛は髪の毛だけを切って、兵太郎のところへ持たせた。

石松が殺された時より少し前、宮島の年蔵が下役人を斬って、子分十四人を連れて次郎長を頼ってきたので、匿い、清水港から船で伊豆へ逃がしたことが、役人に伝わり、次郎長を捕えようとする動きがあった。
そこで次郎長は子分を連れて、遠州本座の為五郎のところを訪ねたのが六月三日、石松が殺された二日後で、ちょうど吉兵衛等もここに泊まっていたが、次郎長が来たというのでびっくり仰天。
「いったい誰が石松のことを報せたのか。それにしても来るのが早すぎる」
と、慌てて別の部屋に閉じこもった。
次郎長はまだ何も知らない。かえって、吉兵衛が清水から戻ってきたかと尋ねたほどだが、為五郎は吉兵衛はいないことにした方が無難だと思った。
「吉兄いは、昨夜ここに立ち寄って、すぐに吉田に向かった。ところで親分。一昨夜のことをご存じか」
「何かあったのか」
「喧嘩出入りがあって、石松が命を落としたということで」
次郎長は愕然として
「誰がやったのだ」
「俺は知らない。喧嘩の場所は小松らしい」
「それなら小松へ行って七五郎に聞く」
言うが早く、血相を変えた次郎長一行は為五郎のところを出た。

別の部屋で聞いていた吉兵衛は考えた。次郎長はまだ何も知らないが、小松に行ったらすべてわかってしまう。そうなるとこちらが災難だ。事情がわからないうちに、次郎長を殺してしまうのが一番だ。そこで、急いで子分を集合させ、子分の伊賀蔵に言い含めて次郎長一行を追わせた。
「吉兵衛親分が、たった今、吉田から戻りました。親分からどうかお戻りくださいということでお迎えにあがりました」
次郎長一行が引き返して門に入ると、庭には吉兵衛等が立っている。
「清水ではお世話になりました。ところで、石松が一昨夜国竜屋に謀られて、可哀想に小松で命を落しちまった。俺が聞いたところでは、国竜屋は家にいるようだ。すぐに行って仇をとったらどうだ。俺たちも及ばずながらお手伝いする。ぐずぐずしていると逃げてしまう。早くやった方がいい」
と、吉兵衛の語気は鋭く、目つきも尋常でない。ここで次郎長の鋭い勘が働く。
「長五(次郎長)其脚ヲ見レバ、布韈(ふべつ)草鞋(そうあい)、猶未ダ塵土(じんど)ニ染マズ、遠来ノ状見ル所ナシ」(はるばる旅して来たというには脚半草鞋に泥塵土がついていない)(東海遊侠伝)
いざという時の次郎長の感性は冴えわたる。吉兵衛の言動がくさいとにらむ。
国竜屋の亀吉とは、浜松の博徒で、吉兵衛とは仲が良くない。
「蚌鷸(ぼういつ)相闘ハシメ、己レ其後ニ乗ゼント欲スルナリ」(蚌鷸とは争っているハマグリとシギを一度に漁師がつかまえたという『戦国策』故事・漁夫の利)という魂胆である。
この魂胆までは推察できなかったが、吉兵衛を怪しいと感じる。
「気を配ってもらいかたじけねえ。だが、仇討は自力でやる。お前さんの手は借りない。それにしても事情が分からないから七五郎に聞いてみる」
次郎長が出ようとすると、吉兵衛がしつこく止める。
「七五郎も共謀して石松を殺したのだ。小松に行くのは危険だ。もう夕方だ。飯でも食って行ってくれ」と、為五郎にご馳走を仕度させた。食事中の不意を衝こうというのである。次郎長一行はそろって膳につかない。交代で箸をとる。隙がないので吉兵衛は入浴をすすめる。
次郎長は子分たちにどうもおかしいので、俺が風呂に入っているときも注意しろと、言い含め、風呂場入口、窓の外も子分が見張る。とうとう吉兵衛は手を下せない。
慎重な次郎長は小松に行くのを避け寺津に向かったが、子分を小松へ偵察に走らせた。
一方、石松の弟久吉は、小松から清水へ行き次郎長に知らせようとしたが、次郎長がいないので寺津に向かった。

久吉と偵察から戻った子分から、一部始終を聞いた次郎長、烈火のごとく怒り、直ちに中郡へ出発した。
吉兵衛は次郎長の動きを伝え聞き、恐怖に震え山中に逃げ姿を隠した。次郎長は一端追うのをやめ、清水に戻った。

ところで、石松の墓は遠州森町(静岡県周智郡森町)の大洞院と、三州新城(愛知県新城市富岡半原田) の洞雲寺と、二か所ある。森町の墓については前号でお伝えしたので、今回は洞雲寺の石松墓についてふれたい。
石松の生まれは、三河の八名郡八名村字堀切(愛知県新城市)といわれているように、同市の戸籍簿には石松の弟が父の山本助治が亡くなった後、同家を相続したことが記載されているので、どうもこの新城市の方が正しいようで、今回、お会いした洞雲寺住職も強調する。
この洞雲寺での石松墓探しは結構苦労した。豊橋駅からレンタカーで新城市の洞雲寺まで約20キロメートル、信号があまりない道なので40分程度で着いた。
さて、お墓が並ぶ高台の平地に入り、ちょうどお墓参りに来ていた地元の人と思われる男性に尋ねてみた。
「石松の墓はどこでしょうか」
「あのあたりだったと思うが」
と、一緒に探してくれたがわからない。そこへ女性が車でお墓参りに来たのでお聞きすると、やはりこの辺りではと一緒に探してくれたがはっきりしない。弱ったなぁと思いつつ、もう一人男性が歩いてきたのでお聞きすると、この墓地の中であることは知っているが、どの墓だとは確認できないという。
ここまで来て石松の墓に対面できないとは残念なので、少し離れた洞雲寺まで歩き、庫裏の扉を開け問うてみるが誰も出てこない。
仕方ないので、寺の境内で竹を伐り整備している年配男性に尋ねてみた。
「お墓参りに来られた人に聞いても石松の墓がわからず、住職もいないので困っています。石松の墓がどこかご存知ですか」
「そうですか。では、私が連れて行ってあげましょう」
と同行して指さした写真の自然石が石松の墓であり、その一画が山本家一族の墓である。
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(自然石の石松の墓)             

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  (一画に並ぶ一族の墓・右奥が石松)

ようやく墓はわかったが、この石が石松の墓であるという表示は何もない。これでは普通の人にはわからないだろうし、竹伐りしていた年配男性を疑うわけではないが、本当にこの石なのか。その確認をしないといけないと思いつつ、再び、洞雲寺に戻り、本堂あたりを歩いていると、一人の年配男性が立っている。
直感的に、この男性が住職だろうと思いつつ、お聞きすると頷く。そこで、石松の墓の写真をお見せして、この石で間違いないか確認すると「そうだよ」と再び頷く。

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ついでに洞雲寺について解説もしてくれる。この地は徳川譜代の定府大名・安部摂津守信盛が家康、秀忠、家光と三代将軍に仕えた功績により、この地の領主として四千石、後に七千石を拝領、家光将軍時代に建立され、総本山は仁和寺であると強調する。

その言葉通り、鄙びた本堂と薬師寺、寺の周りを杉の木立が囲み、全体的に落ち着いた雰囲気で、風格もある洞雲寺であるが、では、誰がこの寺に石松の墓を置いたのか。
話は石松が闇討ちにあった中郡に戻る。石松の弟久吉が隠れていた草むらから震えながら出てきて、石松の死骸にとりすがって、しばらくは大声で泣く。石松に加勢できなかったことが悔やまれるが、百姓の久吉には致し方ないこと。

久吉は思案した。これからどうしたらよいのか。死体を八名村の洞雲寺までかついではいけない。仕方なく、吉兵衛がしたように髪の毛だけを切って、懐に入れ、何よりも次郎長親分に知らせなければならぬと、石松の体に木の枝を伐ってかけ、夜道を急いで清水に向かった。

後に久吉が、この遺髪を洞雲寺へ埋め、自然石を置く。これが今に残る石松の墓である。
しかし、この洞雲寺の「石松の墓」と、森町・大洞院の「石松の墓」の違いは何だろう。森町・大洞院に行ったときは、ちょうど紅葉の美しい季節、大洞院の境内は観光客が大勢来ていて、石松の墓の前でしきりに写真を撮っていた。

一方、新城市の洞雲寺の「石松の墓」は、地元の人でもわからないという実態。当然に訪れる人は少ないだろう。ところが、本当の石松墓は、どうもこの洞雲寺の方が正しいように感じる。広沢虎造浪曲の影響は恐ろしい。脚色し創作された方が事実となってしまつているようだ。

先日も「次郎長一家の二十八人衆の名前を全部覚えているが、あれは本当に実在したのか」という質問を受けた。

答えは「創作で、二十四人は実在人物だが、追分の三五郎などは作り話で、二十八人というのは一種の数合わせである」とお答えした。

どうも千手観音の眷属(けんぞく)(神の使者)で、行者を守護する二十八善神を二十八武衆というあたりから来ているのではないかと思われる。

いずれにしても二つの石松墓は違いが凄すぎる。小笠原長生の書によって「侠客石松の墓」と明示され、誇示するごとく立つ大洞院の石塔。これに対し洞雲寺は、浸食によるものか表面が少し害ねる自然石がぽつんとおかれ、石松を示唆するものは何もない。同じく「洞」という字を冠する寺だが、石松墓に対する取扱いは極端すぎる。

次号では次郎長が、東海遊侠伝中五指に入る名台詞での啖呵とともに、石松の仇討ちする場面をお伝えしたい。

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