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2015年2月25日 (水)

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・其の九

安政六年(1859)六月、次郎長は保下田久六を待ち伏せし、一対一で斬殺し復讐を果たした。
その結果は、東海地方の博徒間秩序を乱すことになり、博徒主流派を刺激し、次郎長は苦境に陥ったが、久六殺しは、次郎長が海道一の親分になれるかどうかの分け目で、ここで博徒主流派に押されたままでは、次郎長の未来に暗雲が漂う。

それを救ったのは、次郎長が持つ性格の二面性である。次郎長は一面臆病と言えるほどの細心さ、反面は大胆不敵・猪突猛進・凶暴性・くそ度胸を持つ。
その相反する性格特徴を発揮し、次郎長を狙う大物博徒の伊豆大場久八、これは久六の兄貴分にあたるが、その久八へ直接交渉するという緊褌一番の策に出た。
次郎長がとった策に入る前に、大場久八について少しふれる必要があるだろう。それは大場と異名をつけられた背景である。大場は台場に通じ、台場といえばペリー来航(嘉永六年六月・1853)であり、江川太郎左衛門英龍によって、嘉永六年八月、急遽築造に着手したお台場のこと。このお台場築造に久八が多大な貢献をしているのだ。

韮山代官であった江川は、以前から諸外国船の来航に備え、武器の鋳造をはじめに特に江戸湾防備の緊急性を進言しており、この予見が的中した江川を、幕府は代官という低い身分の幕吏であったが「内海御台場御普請幷(ならびに)大筒(おおづつ)鋳(い)立(たて)御用」と中枢に登用した。

江川は、洋式砲術家の高島四郎太夫(秋帆)を手代として迎え入れ、嘉永四年(1851)に漂流後のアメリカ生活を打ち切って帰国していた中浜万次郎(ジョン万次郎)を、幕臣に登用することを建議、自らの手付きに任命、ペリー対策の懐刀とした。

 この江川の当時における江戸っ子の評判は「何をさせてもきらいなく、よくやります」(「見立当世評判記」)であったが、結局、命を縮め一年半後の安政二年(1855)正月急逝する。
 とにかく、江戸城造営以来の未曾有の大土木工事で、総工費七十五万両余、幕府財政を揺るがしかねない巨額投資であり、来春、ペリーが再来航するまでに完成しなければ役立たないのであるから、金に糸目をつけない大突貫工事とならざるを得なかった。

 大突貫工事に必要な前提は資材調達と労働力である。土台となる石は江戸近くにない。伊豆石、三浦石を採掘・船で江戸に送る。廻船の調達も大変であったが、五千人といわれる土工、石工、人足をかき集め、工事日程に合わせ組織的に動かすには、江川の手代・腹心だけでは手が回らない。

 ここに博徒・久八の出番があった。久八は伊豆・田方郡間宮村の出身。若くして身持ちが悪く、無宿者となって、伊豆有数の博徒になって、博奕常習の罪で、中追放の処分になっていた。
 この久八と親しいのが甲州郡内境村名主の天野海蔵で、百姓身分でありながら、特産甲斐絹を抑え、江戸と沼津に店を持ち薪炭業・廻船業を扱う政商ともいえる人物。この天野が江川に協力することになり、結果として久八の出番につながった。

 その間の経緯は次のようであった。(「駿遠豆遊侠伝」戸羽山瀚・静岡新聞社)
 「ある日、天野は久八に協力を申し入れた。海中に石塁を築くための石材と土砂を運搬するための人足を集め、その上久八自身が人足の取り締まりとして品川の現場に出張ってほしいというのである。これは難題であった。うっかり首をたてに振ったが最後、命はないものと覚悟を決めてかからねばならない。しかし天野は兄弟分のよしみで是非とも承知してくれという。だが久八は断り続けた。しかしついには韮山役所の柏木総蔵の親書まで持参してきておみこしを上げさせようとするのだった。柏木は明治になってから足柄県令になったが、この人からの呼び出しとあっては承知しないわけにはいかなかった。

 役人ぎらいの久八も柏木には大恩があるので承諾せざるを得なかった。そこで早々に主だった子分を集めて相談をかけると誰ひとりとして反対するものはいない。そこで伊豆、駿河、相模の石工の棟梁たちに渡りをつけては配下の職人を動員してもらうことにした。次は 鳶職と土砂運びの人足である。鳶は幸い動員されたが、かんじんの人足は半分しか集まらなかった。
知恵をしぼった結果、海道筋でカゴをかついでいる未登録の雲助を動員すれば一挙両得の効果がある。カゴをかつぐのともっこをかつぐのでは勝手がちがうが、かつぐことでは同じではないか。いよいよ仕事にかかると彼らは奥の手を出して酒手をねだるのである。このみちはもっとも得意とするところだったが、そのような予算もないお役所仕事に天野はすっかりお手上げであった。ある時なぞは平気でサポタージュをやるのだった。

そこで久八は、窮すれば通ずる式の珍案を一つ提供したのである。つまり四斗ダルへにぎり拳がはいる程度の穴をあける。中へ一文銭を何百枚かをいれておく。人足たちが御殿山から一荷かついでくるたびにタルの中に手を突っ込ませる。中の銭は一度に何枚つかみ出してもよいという子供だましみたいな案であった。これが図に当たったのである。

それは大変な評判になって、ストライキなぞどこかへ吹っ飛んでしまった。さァこうなると妙なもので大衆心理というのであろうか。われもわれもというわけで江戸の裏長屋でごろごろしている愚連隊まで土かつぎにやってくる。この時代の人足などはみんな単純だったからそのものずばり式が人気を呼ぶのであった。結果は人足のはげみとなって工事はとんとん拍子に進んでいった」

久八の名が関八州に広く知られるようになったのは、お台場の工事が契機で、台場の親分として急速に出世し、新門辰五郎と親交を結び、小金井の小次郎とは兄弟分の盃を結んだ。
久八のアィデア、つかみ出せばもらい得という子供だましの仕掛けの背景には、御用普請には必ず催されたという御用博奕があると推測するが、天野と久八の台場工事については後日談がある。
 「安政元年(1854)の春になると、工事はほとんど完成に近く、数千人の人足の姿も次第に減少していった。その秋十月、ばく大な額にのぼる請け負い金が天野に支払われたのである。数十個の千両箱を十数頭の馬の背にして甲州の郡内へ急ぐ天野が道を左にとって間宮村の久八の家にわらじを脱いだ。久八に千両箱を一つ御礼のかわりにするというのである。久八は受けなかった。受ける必要もなかった。台場の親分としての手当金はすでにちょうだいしているのだから、それ以外の金をもらうほど根性は腐っていないという。例によっての強情張りである。天野との再三にわたる押し問答でもがんとして受け取らなかった。
 のちにこの一千両は、天野金と称して韮山代官所に寄託された。韮山役所管内で生活に困るものや生業資金を必要とする者に限って若干の金が貸し出される仕組みである。無利息で返済は無期限だ。返したければ返す、いやならそのままでよし、借りたものの自由勝手である。だから伊豆地方では借りっぱなしの金のことを天野金というのだ」(駿遠豆遊侠伝)

 この大場久八が保下田久六の兄貴分であった。次郎長より六歳年上で身長六尺二寸(188cm)という大男、しかも一日五十里歩いても平気という健脚の久八が、自らの縄張りから子分を集め、次郎長に復讐しようと動いていた。
 その動きを読んだ次郎長は、大政と八五郎のわずか三人で久八のところに乗り込んで、久八と直接会うという思い切った行動に出た。しかし、久八は次郎長と面談するのを拒んだので、大政一人を派遣させ、久八に反論させるという作戦に出た。
 大政は度胸があり、腕が立ち、学があり、弁もたつ。「久六の理非曲直」を糾すために行ったのだという大政の熱弁に、
 「俺も久六の一件については、いろいろと考えた。斬るには斬るだけの理由があったのだろう。しかし、次郎長に会ったが最後、俺も渡世人だ。理屈は抜きにして弟分のために刀を抜き合さなければならない。だから、次郎長と直接会うのを避けたのだ。大政の言い分はよくわかった。帰ったら次郎長に伝えてくれ。今日は宿をこちらでとるから、ゆっくり休んでいくようにと」
 久八は大政を宿屋へ案内させる。大政から連絡を受けた次郎長と八五郎も宿屋に来る。ここで次郎長のもう一面の性格が出る。
 「久八の申し出は受けるとしても、ここは敵の中だ。今夜に殴り込みがあるかもしれない。用心するに越したことはねえ」
 といい、各自の布団の中に行李を入れて、人が眠っているように見せかけ、灯りを消して、三人は別室でまんじりともせず夜を明かし、翌朝、何事もなかったので、清水に帰った。
この細心さが次郎長を畳の上で大往生させた要因であろう。

次郎長が博徒渡世の世界で武闘派として鳴り響き、一家の力を確立させた切っ掛けは、この安政六年六月の保下田久六殺害から、その後の文久元年(1861)一月、子分・石松の怨みを晴らすために都田吉兵衛を殺害した、この三年間にあった。

石松事件は世上有名でよく知られている。特に浪曲師二代目広沢虎造の十八番「石松三十石舟」、その中の台詞「あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、寿司を食いねぇ」「馬鹿は死ななきゃ直らねぇ!」をもって石松は一世を風靡している。
石松は遠州森町(静岡県)生れとも、三州新城(愛知県新城市)生れともいわれている。
今回、その一説の静岡県周智郡森町を訪ねた。この町の大洞院の境内に森の石松の墓がある。静岡県掛川から天竜浜名湖鉄道を利用し25分で遠州森駅に着く。改札を通って待合室に入ると、懐かしい広沢虎造節が流れている。待合室にDVDが設置され、アニメーション化し一日中放映されているのだ。しばらく見聞きしていると、自分が石松になったような気分になる。

なお、この遠州森駅本屋は昭和10年に開設したもので、国の登録有形文化財に登録されている。また、武家屋敷の土蔵を模したトイレや電話ボックスがあり、いい雰囲気を醸し出している。石松はよいところに祭られたと思う。
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         (遠州森駅)    

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          (待合室の虎造DVD)

ところで、このところ多くの方から質問を受ける。それは「広沢虎造の語る内容は事実なのか」ということである。回答は「創作である」と述べるしかない。
特に遠州森の石松については、講談と浪曲によって華やかなフィクション化がなされているが、その経緯を「真説清水次郎長」(江崎惇・学習研究社)を参考にかいつまんでお伝えしたい。

まずは講談であるが、これは三代目神田伯山(はくざん)(明治5年1872 - 昭和7年1932年)である。伯山が次郎長ものを手掛けるようになったのは、旅講釈師の清竜から材料を仕入れたからで、清竜は旅から旅を回っては見聞きしたことをメモし集めていたが、中でも次郎長一家の喧嘩に多くついて歩き、それをネタに高座で次郎長ものとして語るがどうもパッとしなかった。

清竜の語る内容を聞き「これはいける」と膝を叩いたのが伯山。好条件を提示し、清竜からネタを譲ってもらい、そこに義理人情を盛り込み、海道一の親分として偶像化した次郎長像を創作し、独自の型として完成「名も高き富士の山本」という演題をつけ語り物講談とした。

結果は「八丁荒し」という異名を授かった。伯山の次郎長講談が始まると、周囲八丁の寄席がガラガラになるという意味で、これを聞いた人々は、いつしかそれが事実であると信じてしまい、物書きなどもいつしか伯山の内容を取り入れて、書いたり話したりしてしまう。それほど伯山の次郎長もの講談は、登場人物が息吹いていたのである。

この伯山に若いころ付人をしていたのが広沢虎造(明治32年1899-昭和39年1964年)で、その際に伯山の次郎長伝を全部暗記してしまい、それを江戸っ子風の軽妙洒脱な独特の虎造節に創り直し、一世を風靡し「広沢虎造の語る内容は事実なのか」という質問につながっているのである。

ところで、虎造節に森町を「石松の墓」として特定・登場させるためには、ある人物が絡んでいた。昭和8年から9年頃、森町のお茶産業は不振であった。打開策を考えていたお茶問屋の島房太郎氏、虎造の浪曲に目をつけ「石松と森町のお茶を結びつけたい」と創作し、虎造に売り込んだのが「石松代参」のまくらフレーズ。

秋葉路や花たちばなも茶の香り
流れも清き太田川 若鮎躍る頃になり
松のみどりの色もさえ
遠州森町良い茶の出どこ 娘やりたやお茶つみに
ここも名代の火伏の神 秋葉神社の参道に
生声(うぶごえ)あげし快男児 昭和の御代まで其の名を残す
遠州森の石松義侠伝・・・

 この枕での初公演が昭和9年4月の森町、大入り札止め。この人気沸騰で「石松代参」ストーリーが事実化されはじめ、他の次郎長浪曲ストーリーも含め、多くの人々に史実であるがごとき認識が一般化され、現在にまで至っているのである。

 さて、森町・大洞院の「石松の墓」には奇異な変遷がある。石松が金毘羅代参の帰途、都田吉兵衛一家に殺された後、誰が建てたか小さな自然石が、大洞院に上る五丁目「御影の井戸」の近くに置かれた。
石松が有名になるにつれ、あれでは可哀想だと、題字は次郎長と縁のある子爵小笠原長生海軍中将が揮毫し、昭和10年に天竜川の自然石、高さ1.5mの墓石を建て、昭和18年に大洞院境内の現在地に移転した。その後観光ブームが起き始めた昭和28年頃から、石松の墓石が削られ始めた。墓石のカケラを持っていると、ギャンブルのツキ、受験にも合格間違いないと、少しずつ削り取ら

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(現在の石松墓、隣は次郎長碑)

れ、とうとう昭和40年頃になると墓石が丸く変形してきてしまった。
 そこで、昭和47年に、愛知県鳳来町にあった石松の石塔を移転したが、これも変形著しくなったので、昭和52年に神奈川県根府川自然石、高さ1.8mを建立したが、これが昭和54年1月に盗難にあう。
 今度は堅い石ということで、昭和54年3月に南アフリカ産の黒御影石、高さ1.8mを建立し、次郎長碑も隣に建て現在に至っている。
以上が森町に石松の墓が生まれたストーリーであるが、もう一つの墓は愛知県新城市の洞雲寺にある。
では、石松の生まれはどこか。三河の八名郡八名村字堀切(愛知県新城市)と言われている。
石松の父は同地での百姓・山本助治といい、母は郷士の娘であつた。父の助治は運が悪く、三度も自宅から家事を出し、村や一族の手前もあって、五歳になった石松の手を引いて、女房と石松の弟・久吉を残して山に入って炭焼きや樵をしていた。
 7歳の時、石松がふらふらと天宮神社の祭礼の日に山から下ってきて、土地の旅籠屋に拾われ、そこに森の五郎の身内の宇吉が飲みに来て、先日亡くした孫の面影に似ていると「この子を俺に預からしてくれ」と頼み込み、引き取り、17歳まで育てられた。
 しかし、宇吉が病気になって次郎長へ石松を子分にしてくれと依頼したのが、嘉永三年(1850)次郎長が31歳の時。
 この時点で、次郎長の子分は大政、大野の鶴吉、お相撲の常と石松の四人になった。
 その石松が都田吉兵衛一家に騙され殺され、次郎長が石松の仇を討つ。次郎長が海道一の親分へ向かう次の節目事件である。次号で述べたい。

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