2023年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »

2015年2月

2015年2月25日 (水)

2015年3月例会ご案内

2015年3月例会は次のように開催いたします

開催日 2015年3月18日(水)

発表  次のお二人からご発表いただきます

1.永冨明郎氏
永富氏がyab山口朝日放送にてロケし、1月に放映された「都内の松陰ゆかりの地」を映像と併せて解説いただきます。
事前に拝見しましたが、さすがに「武蔵野留魂記-吉田松陰を紀行する」「遥かなり三宅島−吉田松陰『留魂録』外伝」の著者であると納得する語りです。皆様、お楽しみに願います。
      

2.山本紀久雄から引き続いて天田愚庵研究を発表します。
愚庵の故郷、磐城平城の哀しい現況については前回報告いたしましたが、その後の探索で、磐城平藩は明治維新時に特別の配慮を新政府から受けていることがわかりました。
この厚遇ともいえる配慮と、磐城平城が民間に払い下げられ、城跡が消えている哀しい現況と関係があるでしょうか。
これらについて各視点から検討し、併せて、入手した安藤信正公直筆の「降伏文」を紹介いたします。
   
場所  東京文化会館・中会議室1
時間  18:30~20:00
会費  1500円  

Ⅲ.2015年4月例会は「隅田川・向島周辺の七福神をめぐる」です。
(徳川幕府・鉄舟・海舟の所縁の地を訪ねる)
 内容は以下の通りです。ご参加の方はFAXにて矢澤昌敏氏宛お送り願います。

 

「山岡鉄舟研究会」 4月例会ご案内

 

「隅田川・向島周辺の七福神をめぐる」

 

(徳川幕府・鉄舟・海舟の所縁の地を訪ねる)

 

1. 概  要      このたびは、《墨田区文化財調査員》の松島茂さん

にお願いいたし、地元:隅田川・向島周辺の七福神

を中心に、江戸幕府・鉄舟・海舟等の所縁の地を訪

ねる運びにしました。

「隅田川の七福神めぐり」は江戸後期、仙台出身

の骨董商:佐原鞠塢(キクウ)が開いた向島百花園に集う

文化人らによって始められた。

そもそもは、鞠塢が所持していた福禄寿の陶像か

ら話しが膨らみ、近隣の社寺から七福神を選定した

と云う。

このとき寿老人だけが揃わなかったため、白鬚大明

神を寿老人に見立てた。

寿老人が、七福神めぐりにおいては「寿老神」とな

っているのは、そのためである。

行程は、約一里半(約6km)で、墨堤の多くの

史跡も訪ねつつ辿る陽春の行楽として、今日も多く

の人に親しまれています。

兎に角、今回も見どころ多く、お楽しみになれます。

*隅田川七福神とは、

 毘沙門天(多聞寺) ・・・ インドの神様で、四天王の一人。 勇気や威厳を授ける。

 寿老神(白鬚神社) ・・・ 人の寿命を記した巻物のついた杖を持つ中国の神様。長寿や延命を授ける。

 福禄寿尊(向島百花園)・・・ 中国の神様で、道教で希求される幸福、金銭、長寿の三徳を備え、人徳や人望を授ける。

 弁財天(長命寺)  ・・・ インドの神様で、七福神唯一の女性神。財福、学問、芸術を授ける。

 布袋尊(弘福寺)  ・・・ 中国に実在した神様。無邪気で欲がないおおらかな性格で、度量を授ける。

 恵比寿神(三囲神社)・・・ 日本の神様。 釣竿で必要な分だけ魚を獲ることから、清廉を授ける。

 大国神(三囲神社) ・・・ インドの神様で、打出の小槌で財福や食物を授ける。

2. 開 催 日    平成27年4月19日(日)13:00~17:00予定

3. 集合場所 東武スカイツリーライン「鐘ヶ淵駅」西口改札口前  13:00時間厳守(東武浅草駅から各駅停車で4つ目の駅後方出口:約10分)

4. 会  費    2,000円(例会会費、入園料、休憩料を含む)

5. コ ― ス    【東武スカイツリーライン鐘ヶ淵駅集合】 コース案内説明 ⇒ ① 真言宗智山派「隅田山 吉祥院 多聞寺」(タモンジ)「毘沙門天」:墨田千軒宿、茅葺屋根の山門、狸塚のいわれ) ⇒ 銅造 榎本武揚像 ⇒ 天台宗「梅柳山 墨田院 木母寺」(モクボジ)(「梅若塚」、「三遊塚」:題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟、「天下の糸平の碑」) ⇒ ② 白鬚神社(シラヒゲ)「寿老神」:岩瀬忠震供養碑) ⇒ ③ 向島百花園「福禄寿尊」:江戸の町民文化が花開いた文化・文政期《1804年~1830年》に造られた庭園) ⇒ ④ 天台宗「宝寿山 遍照院 長命寺」「弁財天」:三代将軍:家光の腹痛を快癒させた井戸水《長命水》、代言人「岡本忠三君之碑」:題字は山岡鉄舟、松尾芭蕉の『いざさらば』雪見の句碑、成島柳北の記念碑)⇒ 休憩:言問団子OR長命寺「桜もち」 ⇒ ⑤ 黄檗宗(オウバクシュウ)「牛頭山 弘福寺」「布袋尊」:勝海舟が禅の修行を始めた寺、鳥取藩池田家・津和野藩亀井家縁の菩提寺、江戸末期の儒学者:池田冠山(カンザン)の墓、喉の病気に効くと云う咳の爺婆尊) ⇒ ⑥⑦ 「三囲(ミメグリ)神社」「恵比寿神・大国神」:三井家の守り神『三囲会』、ライオンの狛犬《三越池袋店》、三柱鳥居、三つ穴灯篭、松尾芭蕉の高弟:宝井其角の「雨乞い」の句碑) ⇒ 牛嶋神社(勝海舟が10代後半の頃、この境内で剣の稽古をしていた、三輪鳥居、撫牛《自分の体の悪い部分を撫で、牛の同じところを撫でると病気が治る》) ⇒ 隅田公園(水戸徳川家下屋敷跡と尊王攘夷論者:藤田東湖、園内には、約700本の桜があり、日本さくら名所100選に選定されている、明治天皇と《桜あんぱん》と山岡鉄舟) ⇒ 勝海舟の銅像(墨田区役所、鵜澤義行著「戦わなかった英雄 勝海舟」)

*向島周辺のお休み処&お土産は、

 ① きびだんご  ・・・ 「吉備子屋」:東向島1‐2‐14

    TEL:03-3614-5371

 ② 志“満ん草餅 ・・・ 「向じま 志”満ん草餅」:堤通1-5-9 

TEL:03-3611-6831

 ③ 言問団子  ・・・ 「向島 言問団子」:向島5-5-22 

 TEL:03-3622-0081

 ④ 長命寺桜もち ・・・ 「向島 長命寺桜もち」:向島5-1-14 

 TEL:03-3622-3266

 ⑤ 小梅団子  ・・・ 「埼玉屋小梅」:向島1-5-5 

 TEL:03-3622-1214

*** 皆様、お疲れ様でした ***

   此処からは、希望者のみでの懇親会   

6. 懇 親 会     17:00~19:00予定

 アサヒビ-ル直営店ビアホール:

木の温もりと煉瓦の質感が何処か古き良き時代を感

じさせるレトロな店内で、店内醸造クラフトビール

を味わうことが出来る処です。

            「酒肆(シュシ) 吾妻橋」

TEL:03-5608-3832

墨田区吾妻橋1-23-36 アネックスビル2階

会費:4,500円

 

7. お申込み・お問合せ

         次頁の参加申込書にご記入の上、FAXにて送信し

てください。

担当:矢澤昌敏  携帯:090-6021-1519

TEL&FAX:0480-58-5732

E-mailm_yaza10@eos.ocn.ne.jp ないし

info@tessyuu.jp

 

                                                                                                      以 上

 

 

 

参加申込書      

 

「墨田川・向島周辺の七福神をめぐる」(平成27年4月19日開催)に

 

出席します

 

           
 

お  名  前

 
 

 

 
 

緊急のご連絡先(携帯電話など)

 
 

 

 
 

懇親会へのご参加

 
 

参加します    参加しません

 

 

申込締切:4月10日(金) FAX送信先:0480-58-5732(矢澤)

2015年2月18日(水)例会開催結果

2015年2月18日(水)例会開催結果
 

2月は跡見学園・山崎一穎(かずひで)理事長から「乃木殉死の影響――森鴎外を例として」を講演いただきました。(山崎氏は鴎外が専門で2002年『森鴎外・歴史文学研究』でやまなし文学賞受賞)

 講演は36ページにわたる資料に基づき、明治天皇崩御(1912年7月30日)と、乃木希典夫妻の自刃(1912年9月13日午後八時、大葬の日)の乃木遺書の解説から始められました。
Img_20150221_0002

Img_20150221_0004
 
 乃木の遺書は、9月16日午後4時、小笠原長生子爵によって公表されたが、当局が新聞記者に発表する際、上記の傍線部に紙が貼られ、目隠しされていた。
乃木の意志が、世襲とされていた爵位や家督など、当時の華族制度に対して否定的なものだったためであるが、その後国民新聞が号外で全文をスクープした。
 乃木の殉死に関わる鴎外日記、明治45年から大正元年(1913)には、次のように記述されている。

Img_20150221_0006
この日記の最終行に「十八日、午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る、興津弥五右衛門を艸(そう)して中央公論に寄す」と記されているように、鴎外は9月13日に乃木殉死を知り、18日に中央公論社に原稿を渡しているように、まさに「興津弥五右衛門の遺書」は怱々(そうそう)(あわただしい)の間に執筆されている。

また、乃木の殉死は鴎外が歴史小説を書く端緒となったと述べられ、大正元年10月1日発行の「中央公論・第廿七年第十號」に掲載された以下の「興津弥五右衛門の遺書」目次ページを掲示し解説されました。

Img_20150221_0005

 鴎外と乃木との交わりは、明治20年(1887)4月18日ベルリンで会ったときから始まっており、この時鴎外25歳、乃木38歳であった。
 乃木は、生涯四度も休職しており、軍人より詩人肌であり、鴎外は軍医とはいえ、文人であり、小倉へ転勤させられた経験もある両者は、一脈通ずるところがあったとも述べられました。

 乃木は「うつ志(し)世を神さりましゝ大君のみあと志(し)たひて我はゆくなり」の辞世歌を残しましたが、乃木の精神のあり方、それは死語になっていた「殉死」という形をもって処決したこと、それに鴎外は激しく揺さぶられ、鴎外はそこに古武士精神の輝きを見た、と山崎理事長は強調されました。

乃木の古武士精神=武士道精神は鉄舟も同様で、二人を明治天皇が理解し、受け入れ、ご対応された背景であり、鉄舟と乃木の共通点であると山崎理事長のお話から、改めて判断いたしました。

 さらに、山崎理事長は夏目漱石と鴎外の文学アプローチの違い、続いて、「興津弥五右衛門の遺書」の初稿と定稿の違い、最後に「阿部一族」について、その事件の実相、使用した資料「阿部茶事談」の性格、小説の構成、殉死の掟・様態、組織における人間関係と政治力学にも触れられました。

 まことに緻密な論理構成と、歴史認識に基づく講演でありまして、さすがと感じ入った次第ですが、この内容を皆さんにお伝えするのは至難の業であります。そこで、是非、山崎理事長の資料に基づきご理解されることをお薦めいたします。

 山崎理事長の資料をご希望の方は、事務局の矢澤昌敏氏宛にメールかFAXで、ご住所明記の上お申し込み願います。
メール m_yaza10@eos.ocn.ne.jp
FAX  0480-58-5732

最後に講演後の懇親会の状況を報告いたします。
定例になっている上野駅舎上の文化亭での懇親会、参加した当会の論客が様々な観点から山崎理事長へのお尋ねに対し、過去事実を上下左右正面場面ごとに論じ、かつ、時間軸前後、つまり歴史軸の時空間を立体的に構成された見事なる解説に、参加者一同魅了・圧倒され、楽しく有意義な時間を過ごせました。

山崎理事長に厚く御礼申し上げます。
なお、山崎理事長には、機会を改めて再度ご登場願いたいとお願いする次第でございます。

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・其の十

 

博徒渡世の世界で、次郎長は新興勢力として目立ち始めていたが、子分の数は少なく、賭場の規模は小さいので経済力は弱く、貫録も不足していた。

その次郎長が、武闘派として鳴り響き、地位を確立したのは、次郎長よりも力の強い博徒親分として知られていた保下田久六を殺害した安政六年(1859)から、石松の仇をとった都田吉兵衛殺害の文久元年(1861)までの三年間であった。

前号に続いて石松についてお伝えしたい。
次郎長には律儀な一面もある。実父の船持ち船頭・雲不見(くもみず)三右衛門の血を受け継いだ次郎長は、航海安全の金毘羅信仰で、久六斬殺前にも四国金毘羅宮参りをしているが、今度は石松を代参させることにし、久六を斬った井上真改(しんかい)の刀を奉納することにした。

実は、この刀は寺津の治助から、生き形見としてもらったものである。真改は大坂新刀の刀工で、俗に「大坂正宗」などとも呼ばれ、現在重要文化財に指定されている刀と太刀があり、銘は壮年期まで国貞を用い、晩年真改と改めている。
なお、金毘羅宮の宝物館に次郎長奉納の刀が陳列されているというので、機会を見つけ訪ねてみたいと思っている。

石松は刀を風呂敷に包んで真田紐で背負い、清水を出発、無事奉納代参の役目を果たした帰途、近江草津の御幸山の鎌太郎のところに寄った。鎌太郎は江尻の大熊と兄弟分、博徒の旅はネットワークで泊りを重ねる。

帰りがけに鎌太郎から、名古屋で客死したお蝶への香典として二十五両を託され、日を重ねて三河から遠州に入り、中郡(浜松市)の常吉を訪ね、その夜は酒となり、自然に旅の話から鎌太郎におよび、ついでに香典を預かったことも問わず語りしてしまう。

常吉は兄が都田吉兵衛、弟が梅吉の三兄弟で、父親の都田源八はこの辺りの顔役だった。後を継いだ長兄の吉兵衛は、つい先ごろまで清水に来て次郎長のところで客分となっていたが、賭場の取り締まりで役人を斬る事件を起こし、中郡に逃げ込んできて、常吉・梅吉に旅に出る金の工面を無心するが、二人の手許には金がない。

そこで思いついたのが石松の持つ香典。吉兵衛は石松から借りようと「ほんの二三日でよいから貸してくれ」と執拗に頼み込み「俺も都田の吉兵衛だ。絶対に迷惑をかけない。頼む。この通りだ」と懇願する。

人の良い石松「確かに二三日で返してくれるな」「首をかけてもよい」「そこまで言うのなら、俺も男だ。貸しやしょう」と、とうとう胴巻きから香典袋を取り出してしまった。

ところが、二三日経っても何も吉兵衛と常吉は知らんぷり。石松が催促すると「今日は六月一日の子待講(ねまちこう)(甲子(きのえね)または子の日に、講中または個人で夜おそくまで起きていて精進供養をする行事)だから、村で盆ゴザが盛大に開かれる。そこへちょっと顔を出すだけで三四十両の金ができる。わけねえことだ」という。

石松は正直者で抜けたところがある。吉兵衛の誘いにちょうど遊びに来ていた石松の弟の久吉と連れ立って出かけた。

これより先、保下田久六の身内であつた布橋の兼吉が浜松に来ていた。吉兵衛は兼吉に連絡した。「石松が常吉のところにいる。久六親分の仇を討たないか。やるなら力を貸そう」とけしかけ、兼吉は早速、子分どもを十数人集め、申し合わせた道筋に待ち伏せした。
何も知らない石松、待ち伏せしている通りにかかると、兼吉一味が石松の前に立ちはだかり、丁寧に一礼した。石松は相手が誰かわからないまま、挨拶を返そうとした時、背後で抜身の刀が光った。

石松が後ろを振り返ると、そこには吉兵衛三兄弟が、そろって刀を抜いている。
「吉兄い。冗談はよしてくれ」
石松は笑いながら身を避けようとしたところへ、兼吉一味も刀を構えて石松を取り囲む。石松はようやく自分が騙されたことに気づく。斬りかかっってくる刃先に応戦したが、多勢に無勢、体中に傷を負いつつ、ようやく一方の血路を拓き、かわして小松村の七五郎の家まで走った。

弟の久吉は争闘の間、草むらに身を隠し、石松が七五郎の方へ行くので見え隠れについていき、塀の外から中をうかがうと、追ってきた吉兵衛兄弟が指図して石松を探している。七五郎を脅かして家中を探したが石松は見つけられない。とうとうあきらめて引きあげた。
七五郎の家の仏壇に隠れていた石松が、もう大丈夫だという七五郎の声と共に出てきた。
「七兄い、あいつらはきっと戻ってくる。ここにいたんじゃあ、迷惑をかける。夜が明けないうちに外へ出て一戦交える。もし俺に運があれば、うまく脱け出して再挙を図る」

石松は傷口をしっかり結び、七五郎が止めても聞かず、門を出て走り出した。雑木林のあたりで、果して吉兵衛等に出遭ってしまう。
「この犬畜生野郎。よくも騙しやがったな」
死にもの狂いで斬ってかかる石松の勢いに、吉兵衛等はたじたじとなったが、石松の背後から吉兵衛が石松の脛を払う。石松はその場にどっと倒れる。倒れた石松に群がってめった斬りにする。石松の奮戦で吉兵衛側の負傷者も多いが、とうとう石松は事切れた。
吉兵衛は兼吉に命じて石松の首を斬って、久六と義兄弟であった常滑の兵太郎のところへ持たせようとした。
しかし、提灯をつけて首を改めて見てみると、歯をかみしめ、眼をカッと見開いて無念の形相が物凄い。怖気づいた吉兵衛は髪の毛だけを切って、兵太郎のところへ持たせた。

石松が殺された時より少し前、宮島の年蔵が下役人を斬って、子分十四人を連れて次郎長を頼ってきたので、匿い、清水港から船で伊豆へ逃がしたことが、役人に伝わり、次郎長を捕えようとする動きがあった。
そこで次郎長は子分を連れて、遠州本座の為五郎のところを訪ねたのが六月三日、石松が殺された二日後で、ちょうど吉兵衛等もここに泊まっていたが、次郎長が来たというのでびっくり仰天。
「いったい誰が石松のことを報せたのか。それにしても来るのが早すぎる」
と、慌てて別の部屋に閉じこもった。
次郎長はまだ何も知らない。かえって、吉兵衛が清水から戻ってきたかと尋ねたほどだが、為五郎は吉兵衛はいないことにした方が無難だと思った。
「吉兄いは、昨夜ここに立ち寄って、すぐに吉田に向かった。ところで親分。一昨夜のことをご存じか」
「何かあったのか」
「喧嘩出入りがあって、石松が命を落としたということで」
次郎長は愕然として
「誰がやったのだ」
「俺は知らない。喧嘩の場所は小松らしい」
「それなら小松へ行って七五郎に聞く」
言うが早く、血相を変えた次郎長一行は為五郎のところを出た。

別の部屋で聞いていた吉兵衛は考えた。次郎長はまだ何も知らないが、小松に行ったらすべてわかってしまう。そうなるとこちらが災難だ。事情がわからないうちに、次郎長を殺してしまうのが一番だ。そこで、急いで子分を集合させ、子分の伊賀蔵に言い含めて次郎長一行を追わせた。
「吉兵衛親分が、たった今、吉田から戻りました。親分からどうかお戻りくださいということでお迎えにあがりました」
次郎長一行が引き返して門に入ると、庭には吉兵衛等が立っている。
「清水ではお世話になりました。ところで、石松が一昨夜国竜屋に謀られて、可哀想に小松で命を落しちまった。俺が聞いたところでは、国竜屋は家にいるようだ。すぐに行って仇をとったらどうだ。俺たちも及ばずながらお手伝いする。ぐずぐずしていると逃げてしまう。早くやった方がいい」
と、吉兵衛の語気は鋭く、目つきも尋常でない。ここで次郎長の鋭い勘が働く。
「長五(次郎長)其脚ヲ見レバ、布韈(ふべつ)草鞋(そうあい)、猶未ダ塵土(じんど)ニ染マズ、遠来ノ状見ル所ナシ」(はるばる旅して来たというには脚半草鞋に泥塵土がついていない)(東海遊侠伝)
いざという時の次郎長の感性は冴えわたる。吉兵衛の言動がくさいとにらむ。
国竜屋の亀吉とは、浜松の博徒で、吉兵衛とは仲が良くない。
「蚌鷸(ぼういつ)相闘ハシメ、己レ其後ニ乗ゼント欲スルナリ」(蚌鷸とは争っているハマグリとシギを一度に漁師がつかまえたという『戦国策』故事・漁夫の利)という魂胆である。
この魂胆までは推察できなかったが、吉兵衛を怪しいと感じる。
「気を配ってもらいかたじけねえ。だが、仇討は自力でやる。お前さんの手は借りない。それにしても事情が分からないから七五郎に聞いてみる」
次郎長が出ようとすると、吉兵衛がしつこく止める。
「七五郎も共謀して石松を殺したのだ。小松に行くのは危険だ。もう夕方だ。飯でも食って行ってくれ」と、為五郎にご馳走を仕度させた。食事中の不意を衝こうというのである。次郎長一行はそろって膳につかない。交代で箸をとる。隙がないので吉兵衛は入浴をすすめる。
次郎長は子分たちにどうもおかしいので、俺が風呂に入っているときも注意しろと、言い含め、風呂場入口、窓の外も子分が見張る。とうとう吉兵衛は手を下せない。
慎重な次郎長は小松に行くのを避け寺津に向かったが、子分を小松へ偵察に走らせた。
一方、石松の弟久吉は、小松から清水へ行き次郎長に知らせようとしたが、次郎長がいないので寺津に向かった。

久吉と偵察から戻った子分から、一部始終を聞いた次郎長、烈火のごとく怒り、直ちに中郡へ出発した。
吉兵衛は次郎長の動きを伝え聞き、恐怖に震え山中に逃げ姿を隠した。次郎長は一端追うのをやめ、清水に戻った。

ところで、石松の墓は遠州森町(静岡県周智郡森町)の大洞院と、三州新城(愛知県新城市富岡半原田) の洞雲寺と、二か所ある。森町の墓については前号でお伝えしたので、今回は洞雲寺の石松墓についてふれたい。
石松の生まれは、三河の八名郡八名村字堀切(愛知県新城市)といわれているように、同市の戸籍簿には石松の弟が父の山本助治が亡くなった後、同家を相続したことが記載されているので、どうもこの新城市の方が正しいようで、今回、お会いした洞雲寺住職も強調する。
この洞雲寺での石松墓探しは結構苦労した。豊橋駅からレンタカーで新城市の洞雲寺まで約20キロメートル、信号があまりない道なので40分程度で着いた。
さて、お墓が並ぶ高台の平地に入り、ちょうどお墓参りに来ていた地元の人と思われる男性に尋ねてみた。
「石松の墓はどこでしょうか」
「あのあたりだったと思うが」
と、一緒に探してくれたがわからない。そこへ女性が車でお墓参りに来たのでお聞きすると、やはりこの辺りではと一緒に探してくれたがはっきりしない。弱ったなぁと思いつつ、もう一人男性が歩いてきたのでお聞きすると、この墓地の中であることは知っているが、どの墓だとは確認できないという。
ここまで来て石松の墓に対面できないとは残念なので、少し離れた洞雲寺まで歩き、庫裏の扉を開け問うてみるが誰も出てこない。
仕方ないので、寺の境内で竹を伐り整備している年配男性に尋ねてみた。
「お墓参りに来られた人に聞いても石松の墓がわからず、住職もいないので困っています。石松の墓がどこかご存知ですか」
「そうですか。では、私が連れて行ってあげましょう」
と同行して指さした写真の自然石が石松の墓であり、その一画が山本家一族の墓である。
Img_0052
   
(自然石の石松の墓)             

Img_0056
  (一画に並ぶ一族の墓・右奥が石松)

ようやく墓はわかったが、この石が石松の墓であるという表示は何もない。これでは普通の人にはわからないだろうし、竹伐りしていた年配男性を疑うわけではないが、本当にこの石なのか。その確認をしないといけないと思いつつ、再び、洞雲寺に戻り、本堂あたりを歩いていると、一人の年配男性が立っている。
直感的に、この男性が住職だろうと思いつつ、お聞きすると頷く。そこで、石松の墓の写真をお見せして、この石で間違いないか確認すると「そうだよ」と再び頷く。

Img_0059

ついでに洞雲寺について解説もしてくれる。この地は徳川譜代の定府大名・安部摂津守信盛が家康、秀忠、家光と三代将軍に仕えた功績により、この地の領主として四千石、後に七千石を拝領、家光将軍時代に建立され、総本山は仁和寺であると強調する。

その言葉通り、鄙びた本堂と薬師寺、寺の周りを杉の木立が囲み、全体的に落ち着いた雰囲気で、風格もある洞雲寺であるが、では、誰がこの寺に石松の墓を置いたのか。
話は石松が闇討ちにあった中郡に戻る。石松の弟久吉が隠れていた草むらから震えながら出てきて、石松の死骸にとりすがって、しばらくは大声で泣く。石松に加勢できなかったことが悔やまれるが、百姓の久吉には致し方ないこと。

久吉は思案した。これからどうしたらよいのか。死体を八名村の洞雲寺までかついではいけない。仕方なく、吉兵衛がしたように髪の毛だけを切って、懐に入れ、何よりも次郎長親分に知らせなければならぬと、石松の体に木の枝を伐ってかけ、夜道を急いで清水に向かった。

後に久吉が、この遺髪を洞雲寺へ埋め、自然石を置く。これが今に残る石松の墓である。
しかし、この洞雲寺の「石松の墓」と、森町・大洞院の「石松の墓」の違いは何だろう。森町・大洞院に行ったときは、ちょうど紅葉の美しい季節、大洞院の境内は観光客が大勢来ていて、石松の墓の前でしきりに写真を撮っていた。

一方、新城市の洞雲寺の「石松の墓」は、地元の人でもわからないという実態。当然に訪れる人は少ないだろう。ところが、本当の石松墓は、どうもこの洞雲寺の方が正しいように感じる。広沢虎造浪曲の影響は恐ろしい。脚色し創作された方が事実となってしまつているようだ。

先日も「次郎長一家の二十八人衆の名前を全部覚えているが、あれは本当に実在したのか」という質問を受けた。

答えは「創作で、二十四人は実在人物だが、追分の三五郎などは作り話で、二十八人というのは一種の数合わせである」とお答えした。

どうも千手観音の眷属(けんぞく)(神の使者)で、行者を守護する二十八善神を二十八武衆というあたりから来ているのではないかと思われる。

いずれにしても二つの石松墓は違いが凄すぎる。小笠原長生の書によって「侠客石松の墓」と明示され、誇示するごとく立つ大洞院の石塔。これに対し洞雲寺は、浸食によるものか表面が少し害ねる自然石がぽつんとおかれ、石松を示唆するものは何もない。同じく「洞」という字を冠する寺だが、石松墓に対する取扱いは極端すぎる。

次号では次郎長が、東海遊侠伝中五指に入る名台詞での啖呵とともに、石松の仇討ちする場面をお伝えしたい。

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・其の九

安政六年(1859)六月、次郎長は保下田久六を待ち伏せし、一対一で斬殺し復讐を果たした。
その結果は、東海地方の博徒間秩序を乱すことになり、博徒主流派を刺激し、次郎長は苦境に陥ったが、久六殺しは、次郎長が海道一の親分になれるかどうかの分け目で、ここで博徒主流派に押されたままでは、次郎長の未来に暗雲が漂う。

それを救ったのは、次郎長が持つ性格の二面性である。次郎長は一面臆病と言えるほどの細心さ、反面は大胆不敵・猪突猛進・凶暴性・くそ度胸を持つ。
その相反する性格特徴を発揮し、次郎長を狙う大物博徒の伊豆大場久八、これは久六の兄貴分にあたるが、その久八へ直接交渉するという緊褌一番の策に出た。
次郎長がとった策に入る前に、大場久八について少しふれる必要があるだろう。それは大場と異名をつけられた背景である。大場は台場に通じ、台場といえばペリー来航(嘉永六年六月・1853)であり、江川太郎左衛門英龍によって、嘉永六年八月、急遽築造に着手したお台場のこと。このお台場築造に久八が多大な貢献をしているのだ。

韮山代官であった江川は、以前から諸外国船の来航に備え、武器の鋳造をはじめに特に江戸湾防備の緊急性を進言しており、この予見が的中した江川を、幕府は代官という低い身分の幕吏であったが「内海御台場御普請幷(ならびに)大筒(おおづつ)鋳(い)立(たて)御用」と中枢に登用した。

江川は、洋式砲術家の高島四郎太夫(秋帆)を手代として迎え入れ、嘉永四年(1851)に漂流後のアメリカ生活を打ち切って帰国していた中浜万次郎(ジョン万次郎)を、幕臣に登用することを建議、自らの手付きに任命、ペリー対策の懐刀とした。

 この江川の当時における江戸っ子の評判は「何をさせてもきらいなく、よくやります」(「見立当世評判記」)であったが、結局、命を縮め一年半後の安政二年(1855)正月急逝する。
 とにかく、江戸城造営以来の未曾有の大土木工事で、総工費七十五万両余、幕府財政を揺るがしかねない巨額投資であり、来春、ペリーが再来航するまでに完成しなければ役立たないのであるから、金に糸目をつけない大突貫工事とならざるを得なかった。

 大突貫工事に必要な前提は資材調達と労働力である。土台となる石は江戸近くにない。伊豆石、三浦石を採掘・船で江戸に送る。廻船の調達も大変であったが、五千人といわれる土工、石工、人足をかき集め、工事日程に合わせ組織的に動かすには、江川の手代・腹心だけでは手が回らない。

 ここに博徒・久八の出番があった。久八は伊豆・田方郡間宮村の出身。若くして身持ちが悪く、無宿者となって、伊豆有数の博徒になって、博奕常習の罪で、中追放の処分になっていた。
 この久八と親しいのが甲州郡内境村名主の天野海蔵で、百姓身分でありながら、特産甲斐絹を抑え、江戸と沼津に店を持ち薪炭業・廻船業を扱う政商ともいえる人物。この天野が江川に協力することになり、結果として久八の出番につながった。

 その間の経緯は次のようであった。(「駿遠豆遊侠伝」戸羽山瀚・静岡新聞社)
 「ある日、天野は久八に協力を申し入れた。海中に石塁を築くための石材と土砂を運搬するための人足を集め、その上久八自身が人足の取り締まりとして品川の現場に出張ってほしいというのである。これは難題であった。うっかり首をたてに振ったが最後、命はないものと覚悟を決めてかからねばならない。しかし天野は兄弟分のよしみで是非とも承知してくれという。だが久八は断り続けた。しかしついには韮山役所の柏木総蔵の親書まで持参してきておみこしを上げさせようとするのだった。柏木は明治になってから足柄県令になったが、この人からの呼び出しとあっては承知しないわけにはいかなかった。

 役人ぎらいの久八も柏木には大恩があるので承諾せざるを得なかった。そこで早々に主だった子分を集めて相談をかけると誰ひとりとして反対するものはいない。そこで伊豆、駿河、相模の石工の棟梁たちに渡りをつけては配下の職人を動員してもらうことにした。次は 鳶職と土砂運びの人足である。鳶は幸い動員されたが、かんじんの人足は半分しか集まらなかった。
知恵をしぼった結果、海道筋でカゴをかついでいる未登録の雲助を動員すれば一挙両得の効果がある。カゴをかつぐのともっこをかつぐのでは勝手がちがうが、かつぐことでは同じではないか。いよいよ仕事にかかると彼らは奥の手を出して酒手をねだるのである。このみちはもっとも得意とするところだったが、そのような予算もないお役所仕事に天野はすっかりお手上げであった。ある時なぞは平気でサポタージュをやるのだった。

そこで久八は、窮すれば通ずる式の珍案を一つ提供したのである。つまり四斗ダルへにぎり拳がはいる程度の穴をあける。中へ一文銭を何百枚かをいれておく。人足たちが御殿山から一荷かついでくるたびにタルの中に手を突っ込ませる。中の銭は一度に何枚つかみ出してもよいという子供だましみたいな案であった。これが図に当たったのである。

それは大変な評判になって、ストライキなぞどこかへ吹っ飛んでしまった。さァこうなると妙なもので大衆心理というのであろうか。われもわれもというわけで江戸の裏長屋でごろごろしている愚連隊まで土かつぎにやってくる。この時代の人足などはみんな単純だったからそのものずばり式が人気を呼ぶのであった。結果は人足のはげみとなって工事はとんとん拍子に進んでいった」

久八の名が関八州に広く知られるようになったのは、お台場の工事が契機で、台場の親分として急速に出世し、新門辰五郎と親交を結び、小金井の小次郎とは兄弟分の盃を結んだ。
久八のアィデア、つかみ出せばもらい得という子供だましの仕掛けの背景には、御用普請には必ず催されたという御用博奕があると推測するが、天野と久八の台場工事については後日談がある。
 「安政元年(1854)の春になると、工事はほとんど完成に近く、数千人の人足の姿も次第に減少していった。その秋十月、ばく大な額にのぼる請け負い金が天野に支払われたのである。数十個の千両箱を十数頭の馬の背にして甲州の郡内へ急ぐ天野が道を左にとって間宮村の久八の家にわらじを脱いだ。久八に千両箱を一つ御礼のかわりにするというのである。久八は受けなかった。受ける必要もなかった。台場の親分としての手当金はすでにちょうだいしているのだから、それ以外の金をもらうほど根性は腐っていないという。例によっての強情張りである。天野との再三にわたる押し問答でもがんとして受け取らなかった。
 のちにこの一千両は、天野金と称して韮山代官所に寄託された。韮山役所管内で生活に困るものや生業資金を必要とする者に限って若干の金が貸し出される仕組みである。無利息で返済は無期限だ。返したければ返す、いやならそのままでよし、借りたものの自由勝手である。だから伊豆地方では借りっぱなしの金のことを天野金というのだ」(駿遠豆遊侠伝)

 この大場久八が保下田久六の兄貴分であった。次郎長より六歳年上で身長六尺二寸(188cm)という大男、しかも一日五十里歩いても平気という健脚の久八が、自らの縄張りから子分を集め、次郎長に復讐しようと動いていた。
 その動きを読んだ次郎長は、大政と八五郎のわずか三人で久八のところに乗り込んで、久八と直接会うという思い切った行動に出た。しかし、久八は次郎長と面談するのを拒んだので、大政一人を派遣させ、久八に反論させるという作戦に出た。
 大政は度胸があり、腕が立ち、学があり、弁もたつ。「久六の理非曲直」を糾すために行ったのだという大政の熱弁に、
 「俺も久六の一件については、いろいろと考えた。斬るには斬るだけの理由があったのだろう。しかし、次郎長に会ったが最後、俺も渡世人だ。理屈は抜きにして弟分のために刀を抜き合さなければならない。だから、次郎長と直接会うのを避けたのだ。大政の言い分はよくわかった。帰ったら次郎長に伝えてくれ。今日は宿をこちらでとるから、ゆっくり休んでいくようにと」
 久八は大政を宿屋へ案内させる。大政から連絡を受けた次郎長と八五郎も宿屋に来る。ここで次郎長のもう一面の性格が出る。
 「久八の申し出は受けるとしても、ここは敵の中だ。今夜に殴り込みがあるかもしれない。用心するに越したことはねえ」
 といい、各自の布団の中に行李を入れて、人が眠っているように見せかけ、灯りを消して、三人は別室でまんじりともせず夜を明かし、翌朝、何事もなかったので、清水に帰った。
この細心さが次郎長を畳の上で大往生させた要因であろう。

次郎長が博徒渡世の世界で武闘派として鳴り響き、一家の力を確立させた切っ掛けは、この安政六年六月の保下田久六殺害から、その後の文久元年(1861)一月、子分・石松の怨みを晴らすために都田吉兵衛を殺害した、この三年間にあった。

石松事件は世上有名でよく知られている。特に浪曲師二代目広沢虎造の十八番「石松三十石舟」、その中の台詞「あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、寿司を食いねぇ」「馬鹿は死ななきゃ直らねぇ!」をもって石松は一世を風靡している。
石松は遠州森町(静岡県)生れとも、三州新城(愛知県新城市)生れともいわれている。
今回、その一説の静岡県周智郡森町を訪ねた。この町の大洞院の境内に森の石松の墓がある。静岡県掛川から天竜浜名湖鉄道を利用し25分で遠州森駅に着く。改札を通って待合室に入ると、懐かしい広沢虎造節が流れている。待合室にDVDが設置され、アニメーション化し一日中放映されているのだ。しばらく見聞きしていると、自分が石松になったような気分になる。

なお、この遠州森駅本屋は昭和10年に開設したもので、国の登録有形文化財に登録されている。また、武家屋敷の土蔵を模したトイレや電話ボックスがあり、いい雰囲気を醸し出している。石松はよいところに祭られたと思う。
Img_8403_2
   
         (遠州森駅)    

Img_8400_2

          (待合室の虎造DVD)

ところで、このところ多くの方から質問を受ける。それは「広沢虎造の語る内容は事実なのか」ということである。回答は「創作である」と述べるしかない。
特に遠州森の石松については、講談と浪曲によって華やかなフィクション化がなされているが、その経緯を「真説清水次郎長」(江崎惇・学習研究社)を参考にかいつまんでお伝えしたい。

まずは講談であるが、これは三代目神田伯山(はくざん)(明治5年1872 - 昭和7年1932年)である。伯山が次郎長ものを手掛けるようになったのは、旅講釈師の清竜から材料を仕入れたからで、清竜は旅から旅を回っては見聞きしたことをメモし集めていたが、中でも次郎長一家の喧嘩に多くついて歩き、それをネタに高座で次郎長ものとして語るがどうもパッとしなかった。

清竜の語る内容を聞き「これはいける」と膝を叩いたのが伯山。好条件を提示し、清竜からネタを譲ってもらい、そこに義理人情を盛り込み、海道一の親分として偶像化した次郎長像を創作し、独自の型として完成「名も高き富士の山本」という演題をつけ語り物講談とした。

結果は「八丁荒し」という異名を授かった。伯山の次郎長講談が始まると、周囲八丁の寄席がガラガラになるという意味で、これを聞いた人々は、いつしかそれが事実であると信じてしまい、物書きなどもいつしか伯山の内容を取り入れて、書いたり話したりしてしまう。それほど伯山の次郎長もの講談は、登場人物が息吹いていたのである。

この伯山に若いころ付人をしていたのが広沢虎造(明治32年1899-昭和39年1964年)で、その際に伯山の次郎長伝を全部暗記してしまい、それを江戸っ子風の軽妙洒脱な独特の虎造節に創り直し、一世を風靡し「広沢虎造の語る内容は事実なのか」という質問につながっているのである。

ところで、虎造節に森町を「石松の墓」として特定・登場させるためには、ある人物が絡んでいた。昭和8年から9年頃、森町のお茶産業は不振であった。打開策を考えていたお茶問屋の島房太郎氏、虎造の浪曲に目をつけ「石松と森町のお茶を結びつけたい」と創作し、虎造に売り込んだのが「石松代参」のまくらフレーズ。

秋葉路や花たちばなも茶の香り
流れも清き太田川 若鮎躍る頃になり
松のみどりの色もさえ
遠州森町良い茶の出どこ 娘やりたやお茶つみに
ここも名代の火伏の神 秋葉神社の参道に
生声(うぶごえ)あげし快男児 昭和の御代まで其の名を残す
遠州森の石松義侠伝・・・

 この枕での初公演が昭和9年4月の森町、大入り札止め。この人気沸騰で「石松代参」ストーリーが事実化されはじめ、他の次郎長浪曲ストーリーも含め、多くの人々に史実であるがごとき認識が一般化され、現在にまで至っているのである。

 さて、森町・大洞院の「石松の墓」には奇異な変遷がある。石松が金毘羅代参の帰途、都田吉兵衛一家に殺された後、誰が建てたか小さな自然石が、大洞院に上る五丁目「御影の井戸」の近くに置かれた。
石松が有名になるにつれ、あれでは可哀想だと、題字は次郎長と縁のある子爵小笠原長生海軍中将が揮毫し、昭和10年に天竜川の自然石、高さ1.5mの墓石を建て、昭和18年に大洞院境内の現在地に移転した。その後観光ブームが起き始めた昭和28年頃から、石松の墓石が削られ始めた。墓石のカケラを持っていると、ギャンブルのツキ、受験にも合格間違いないと、少しずつ削り取ら

Img_8391_2
(現在の石松墓、隣は次郎長碑)

れ、とうとう昭和40年頃になると墓石が丸く変形してきてしまった。
 そこで、昭和47年に、愛知県鳳来町にあった石松の石塔を移転したが、これも変形著しくなったので、昭和52年に神奈川県根府川自然石、高さ1.8mを建立したが、これが昭和54年1月に盗難にあう。
 今度は堅い石ということで、昭和54年3月に南アフリカ産の黒御影石、高さ1.8mを建立し、次郎長碑も隣に建て現在に至っている。
以上が森町に石松の墓が生まれたストーリーであるが、もう一つの墓は愛知県新城市の洞雲寺にある。
では、石松の生まれはどこか。三河の八名郡八名村字堀切(愛知県新城市)と言われている。
石松の父は同地での百姓・山本助治といい、母は郷士の娘であつた。父の助治は運が悪く、三度も自宅から家事を出し、村や一族の手前もあって、五歳になった石松の手を引いて、女房と石松の弟・久吉を残して山に入って炭焼きや樵をしていた。
 7歳の時、石松がふらふらと天宮神社の祭礼の日に山から下ってきて、土地の旅籠屋に拾われ、そこに森の五郎の身内の宇吉が飲みに来て、先日亡くした孫の面影に似ていると「この子を俺に預からしてくれ」と頼み込み、引き取り、17歳まで育てられた。
 しかし、宇吉が病気になって次郎長へ石松を子分にしてくれと依頼したのが、嘉永三年(1850)次郎長が31歳の時。
 この時点で、次郎長の子分は大政、大野の鶴吉、お相撲の常と石松の四人になった。
 その石松が都田吉兵衛一家に騙され殺され、次郎長が石松の仇を討つ。次郎長が海道一の親分へ向かう次の節目事件である。次号で述べたい。

« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »