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2015年1月

2015年1月27日 (火)

2015年2月例会開催ご案内

2015年2月例会は以下の内容で開催します。

開催日 2015年2月18日(水)
場所  東京文化会館・中会議室1
発表  跡見学園・山崎一穎(かずひで)理事長・・・乃木殉死の影響――森鴎外を例として
     (山崎氏は鴎外が専門で2002年『森鴎外・歴史文学研究』でやまなし文学賞受賞)

1. 乃木殉死に対する文学者の反応・・・武者小路実篤・漱石・鴎外
2. 鴎外:歴史小説への始動
3. 「阿部一族」を読む
4. 「興津弥五右衛門の遺書」改稿をめぐって
5. 鴎外の歴史小説の行方

時間  18:30~20:00
会費  1500円  

(事務局からの補足)
山崎理事長の講演、素晴らしい内容で展開されると思います。そこで、事前に乃木将軍に関わる話題を提供したいと思います。
それは千葉県館山市布良を2013年に訪れたときの話です。地元の祭りを取り仕切っている方が次の発言をされました。
「日露戦争当時、兵隊に徴集された男衆、もう二度と館山布良には帰れない。残るのは女衆だけだ。そうなれば祭りでこの重い神輿も担げない。だったら神輿は要らなくなる。ということから海に捨てた。当時は今の800キロと、それより重い1トンを超える二つの神輿があって、重いほうを捨てた」と。
これは旅順の戦い、乃木将軍の指揮が、ただ前進、ただ攻撃のために戦闘を展開し続け「師団が数回の突撃も効を奏さず、今はただ、残兵を集めて唯一回の突撃を行わんのみ」という司令官から出る突撃命令に従うということだけが目的で、突撃の成否は殆ど顧みられない。
決死隊でなく、文字通り必死隊であり「旅順に向かう者は、士気消沈すること屠所の羊の如し」という状況で、これが国民の間に伝わり、軍を非難する声が高まっていたこと、それを証明するのが館山での神輿処分です。
つまり、旅順に行けば全員戦死となる。ならば、祭りの神輿は二つも要らない。担ぐ人がいなくなるのだから不要だということなのです。このように日露戦争は地方の一漁村の祭りにまでも影響を与えていたことが分かります。
だが、この乃木将軍、日露戦争勝利後は、東郷提督とともに二大英雄として、国民の畏敬の対象となりました。
乃木将軍は明治天皇大葬の日、妻・静子とともに殉死しました。訃報が報道されると、多くの日本国民は悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあり、欧米でも多数報道され、日本の著名な文学者達も様々な反応を示しました。
このところの経緯を山崎理事長が解説されます。楽しみに期待したいと思います。

2015年3月例会について

開催日 2015年3月18日(水)
発表  次のお二人からご発表いただきます
1.永冨明郎氏
永富氏がyab山口朝日放送にてロケし、1月に放映された「都内の松陰ゆかりの地」を、映像と併せて解説いただきます。
2.山本紀久雄から引き続いて天田愚庵研究を発表します。
   場所  東京文化会館・中会議室1
   時間  18:30~20:00
   会費  1500円  

2015年1月21日(水)例会開催結果

2015年1月21日は二人の方から発表いただきました。

1. 岸菜靖夫(鷺帥)氏の発表

関西吟詩文化協会・漢詩&詩吟研究会・谷中教室の岸菜靖夫(鷺帥)氏から、新春にふさわしく「61年の詩吟人生で思い出の漢詩」を解説と共に吟じていただきました。

① まず、「61年の詩吟人生」とは13歳の時から始め、今年で61年目という説明があり、
それぞれ節目に当たる記念の漢詩を、コンダクターを使い滔々と吟じられました。
さすがに鷺帥(ろすい)師範と、例会参加者一同納得し感心した次第です。

② 13歳で吟じたのは「金州城・乃木希典」。この詩をネット検索すると関西吟詩文化協会の「漢詩紹介」として以下が表示されます。さすが関西吟詩文化協会と感じます。
 Photo

   
③ 高校では体育祭で「偶成・朱熹」を吟じられ、これも関西吟詩文化協会検索で表示されます。

Photo_2


    
④ 大学では「題壁・村松文三」を吟じられ、これも関西吟詩文化協会検索で表示されるので、関心ある方はトライしてみてください。

⑤ 次に鉄舟の述懐を吟じられ、これは全生庵・千葉立造(道本)墓石の側面に彫られています。
   行險徼幸皆邪路  居易守仁途不窮
   更有乾坤無私句  不生不滅主人公

險を行い幸を徼(もと)むるは皆(みな)邪(じゃ)路(ろ) 

易(やす)きに居り仁を守れば途窮(みちきゅう)せず

更に乾坤(けんこん)無私(むし)の句有り     

生(しょう)ぜず滅(めっ)せざるは主人公

 注 守仁=仁愛の徳を守る
   乾坤=天地
   主人公=一身の主宰をなす心。天賦の本性を指す

(通釈)危険なことを行い、僥倖を求めるのは、すべてよこしまな路である。天命の命ずるままに易きに居り、仁徳を守れば、人生にゆきづまることはない。
その上、天地不偏の名文句がある。それを守るがよい。天地が開けて以来「生ずることなく、滅びることなきは、これこの天賦の本性である」という言葉である。
⑥ 最後は「富士山・石川丈山」を吟じられ、これも関西吟詩文化協会検索で表示されます。

さすがに幼少期から声が通ると、将来を嘱望された岸菜さん、その期待通りの人生を歩んでこられたと実感した次第です。久し振りに詩吟の魅力を満喫した例会でした。
岸菜さんに感謝申し上げます。
  

2.山本紀久雄の発表
   

天田愚庵について解説いたしました。
愚案は安政元年(1854)に磐城平藩・安藤対馬守藩中の甘田平太夫を父に生まれた。
いわき市では愚庵忌が毎年行われており、今年は111回忌、1月11日に松が丘公園にある愚庵の庵で法要が営まれ、山本が参加しました。
蘭秀寺のご住職による読経と参拝後、会員による卓話があり、その延長でいろいろ鉄舟について質問を受けましたが、さすがに愚庵会のメンバー、鉄舟についても詳しい。
愚庵忌の後は平藩城跡を、愚庵会幹部の方に案内いただきましたが、この辺りが城跡です、という説明に絶句しました。何とも声が出ない。城跡には一般民家が立ち並んでいて、それが城内の曲がりくねった道にそって建てられ、城跡とのイメージは全くない。
各地で城跡を訪ねているが、この平藩城跡ほど無造作に消えているところはないのではないかと思うほど。このような実態になっている背景には、様々な理由があるだろうが、誠に残念である。(今は下写真の石垣がわずかに遺っているだけ)

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したがって、徳川幕府の老中であった安藤対馬守の銅像も、自らの城郭があった城跡ではなく、少し離れた松ヶ丘公園の一角に立っている。(下の左写真)

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磐城平藩士の戊辰戦死者慰霊式は、落城した7月13日に毎年営まれており、行方不明であった愚案の父・甘田平太夫も戦死者扱いで、慰霊式を明治期から今日まで続けており、藩士16人の戊辰戦争実戦記も出版するなど行っています。
これは立派にことであり高く評価いたしたいと思います。(下写真は戦死者墓地)
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