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2014年12月

2014年12月28日 (日)

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・其の八

次郎長は二十三歳で無宿者となって清水を出奔、複雑で奇奇怪怪な裏の世界で、いくつもの危ない状況・場面を巧みに切り抜け、駆け抜け、十三年後の安政二年(1855)には、前号の「駿州無宿次郎長事長五郎風聞探索之趣申上候書付」で見たように伊豆韮山代官が要注意人物としてマークするまでの存在になっていた。

だが、次郎長が博徒渡世の世界で武闘派として鳴り響き、一家の力を確立させたタイミングは、韮山代官の探索書付から四年後の安政六年(1859)の保下田久六殺害と、その次の文久元年(1861)に子分・石松の怨みを晴らすために都田吉兵衛を殺害した三年間である。次郎長という人物の本質を探るためには、この三年間の動きは欠かせない検討項目である。

そこで、まずは、安政六年の保下田久六殺害事件から述べたい。

久六は博徒になる前は、尾張名古屋の相撲興行で八尾嶽惣七の四股名で相撲を取っていて、相撲世界での活躍は表(次郎長と幕末維新 高橋敏)に示すとおり、天保七年(1836)から嘉永年間にかけて名古屋中心の地方興行で番付を張っていた。

その惣七と次郎長との関係が始まったのは、次郎長が尾張知多の大野の賭場で大儲けし、茶店で食事していると、隣に居合わせた一人の相撲取りが妙にしょんぼりしている。相撲が好きな次郎長が声をかけ、聞いてみると、賭場で負けが込み、化粧まわしを質に入れ、土俵入りもできなくなってしまったという。これが惣七であった。

次郎長はこれに同情し、まわしの質入れ分の金をめぐみ、惣七の相撲を応援に行って親しくなり、次郎長と兄弟分の盃を交わしたのが、弘化三年(1846)次郎長二十七歳の時であった。

ここで博徒と相撲との関係について少しふれてみたい。博徒には相撲崩れが多い。安東の文吉兄弟、平井の亀吉(雲風)、御幸山の鎌太郎、寺津の治助(今天狗)、飯岡助五郎、笹川の繁蔵、勢力富五郎など。次郎長の子分にも大政と相撲常がいる。
講談や浪曲では大政が尾張の武士上がりとなっているが、実際は知多半島常滑の回船問屋の長男、本名は原田熊蔵、寺子屋で読み書きを習い、長じて町道場で剣術・槍術を習い、大男であったので、いつしか田舎相撲に入り、家業を捨てて巡業をしたりしている間に、自然に飲む、打つ、買うという道楽に手をだし、最後は博徒となって、次郎長の子分となり、後に養子として山本政五郎を名乗った。

この当時、相撲取りになることは、百姓町人の身分制度の枠を超えて立身できるわずかな道であって、子供たちの憧れと夢であった。
つまり、自らの実力で幅を利かせられる世界が相撲取りであり、江戸相撲の関取ともなれば、有力大名のお抱え力士となって、名字帯刀免許を射止めることも可能であった。今でいえば、プロ野球かプロサッカー選手になって、世界に羽ばたく夢が、江戸時代は相撲取りになることで、全国各地から力自慢の子供たちが相撲部屋に入門した。

しかし、相撲部屋には博打はつきもの。大政のように巡業を通じて、身を持ち崩し、相撲の世界から追放されれば、元の堅気の仕事に戻ることは難しく、結局、無宿・博徒に身を投じることが多かった。ということは、相撲界は、博徒世界へ人材を供給する機能を果たしてもいたともいえる。

また、その結果として、相撲巡業をするにあたって、その運営の裏方として博徒世界が関与していることは、ついこの間までの常識であり、昔から密接なつながりを持っていた。

さて、保下田久六との関係に戻るが、嘉永三年(1850)、次郎長三十一歳の時、久六が子分を十人ほど連れて、次郎長のところに転がり込んできた。尾張での喧嘩で人を殺して逃げる旅であった。

この時の次郎長は、江尻大熊の妹お蝶と結婚して三年目、子分は大野の鶴吉、大政、お相撲の常、森の石松の四人であった。

久六一家を食べさせるため、大政以下土方人足をし、お蝶は次郎長に内緒で、兄の大熊のところへ駆け込み金を借りるという一家の苦しいやりくりだったが、次郎長は久六一家に嫌な顔を見せない。やくざの世界は虚栄(みえ)で保たれている。とことんやせ我慢である。
そのような時、尾州藩から駿府代官に、久六一家を召捕するよう依頼が来たとの情報が入ったので、次郎長は上州舘林の親分江戸屋虎五郎のもとへ依頼状を書き逃がした。久六一家はこの虎五郎のところに四年あまり厄介になり、虎五郎とも兄弟分の盃を交わした。

その後、前号で東海遊侠伝を整理した次郎長一家の十事件、その「②安政二年(1855)の尾張保下田久六の支援」にあるように、子分十七人を引き連れて出張った。だが、名古屋についてみると喧嘩相手と手打ち式が既に終わっていて、しばらく久六のところに滞在し清水に戻った。

安政五年(1858)、次郎長は官憲から追われる不運に遭う。甲州博徒祐天と江尻大熊との出入りに助っ人で加わり、甲府町奉行の手先を殺害したことから、清水に帰れなくなり、進退窮まって尾張名古屋の赤貧の博徒長兵衛の世話になったが、ここで女房お蝶を喪う。労咳(肺結核)だったらしい。お蝶の墓は名古屋市千草区平和公園で発見されている。

久六は尾張名古屋が縄張りであるから、お蝶が病気で、次郎長一家が困窮状態であることを、十分に知ってはいたが、見舞いもなく、何の助けもしない。お蝶の葬式にも顔を出さない上に、何と、奉行所に駆け込み、まことしやかに訴えた。
「近頃、ご城下に強盗が出没するのは、かねてから手配されている清水の次郎長の仕業。旅先で労咳病みの女房を抱えているので、金目当ての押し込みです」と。

 お蝶の葬式が終わって、初七日も過ぎた時、突然「御用、御用」と捕吏の掛け声。次郎長一家は咄嗟に逃げて助かったが、お世話になっていた長兵衛が身代わりとなり、下獄牢死する。久六は任侠道の風上にも置けない裏切り者だ、断じて許せないと、次郎長は強く復讐を決意する。

 次郎長という男は、熟睡ができないらしい。ちょっとした物音でもすぐに目が覚める。神経質なのである。久六殺害を決意してからは、さらに、神経を細かくし、用意周到、深謀遠慮、緻密な計画をつくるべく、三河寺津の間之助親分のところに潜伏した。間之助の自宅裏から通じる開墾地の中に、次郎長一家専用の隠れ家が造られており、いざという時は子舟で寺津港へ逃げられるようになっていた。

まず、復讐するにあたって次郎長が考えたのは、次郎長一家の十事件「③安政六年(1859)の金毘羅参詣」であった。今すぐに久六を襲撃すれば、十分警戒しているだろうから、こちら側の犠牲も大きい。時を稼ぎ、ほとぼりを覚ますためにとった手段が金毘羅参りであり、子分十一人を連れ「何卒、久六を討たせたまえ」と祈願の参詣。

その金毘羅参詣に行く途中、久六の子分に偶然出会ったので、捕まえ監禁拷問し、久六の情報を入手、直ちに殴り込みすべきという子分たちを抑え、次の一手を考える。
それは、復讐対象を久六一人に絞ることであった。そのためには大勢の子分は必要ないので、清水へ八人帰すことにしたが、その道中で噂を流す作戦をとった。「次郎長は旅先で大病を患った。当分の間、動けない」と、道々の博徒に触れ歩いていくことだった。当然に、この噂は久六の耳に入る。

絞った子分三人、大政、石松、八五郎と久六の情報を探ると、知多半島の亀崎で相撲興行を打っていることが分かった。
現在の亀崎は半田市である。半田市は名古屋市の南、中部国際空港の東にあり、知多半島の中央部東側に位置し、昭和12年に誕生、古くから海運業、醸造業などで栄え、知多地域の政治・経済・文化の中心都市であると、半田市のホームページで紹介されている。

久六は、毎日、亀崎の相撲興行を終えると、半田の宿屋に引き上げるが、途中、乙川村の乙川畷(なわて)(田の中の細い一本道)を通ることが分かった。
畷で待ち構えている次郎長、道端の地蔵さんに「久六を必ず叩き斬ります」と手を合わせたが、この地蔵さんは、現在、道路拡張などで近所の光照寺に移設され「次郎長地蔵」として遺っている。

安政六年(1859)六月十九日の夕方、畷に久六が子分を連れてやってきた。地蔵さんの陰から次郎長が出る。久六、次郎長の姿をみてハッとする。
一本道の畷畦道、左右は水田、逃げ場がなく見通しがよい。真っ向から対面するしかない。
「これは久六、ひさしぶりだなぁ。変わりはないかい」
「や、これは清水の兄貴、ひょんな所で会いますなぁ。先ごろはとんだご災難で、さぞ力落としでしょう。こっちにも事情(わけ)がらがあって、とんとご無沙汰してしまった。で、今日はどちらへ」
「お前の首を貰いに来たのだ」
「じょ、冗談を兄貴」
「冗談や酔狂で脇差(どす)は抜かねえ」
「ま、待ってくれ。これは一つ常滑に兵太がいるので一席もたせましょう」
「詭弁を弄するな。兵太はお前の弟分ではないか。任侠に賭けた男同士、潔くしろ」
一気に修羅場に突入していく。

大政・石松・八五郎は、久六方の子分どもが手出しできないように抑え込んでいく。次郎長と久六は一対一の真剣勝負。相撲取り上がりの久六は腕力には優れていても、殺人剣においては次郎長の敵ではない。備州浪人吉良の武一に鍛えられ、出入り喧嘩の立ち回りで磨いた実践剣法が鋭く久六の右腕を斬って落とし、倒れた久六の体をズタズタにする。
このように死者に対して怨恨を雪ぐべく切り刻んだりする残酷な方法は、中国水滸伝の描写の影響とも考えられるが、博徒の世界の作法かもしれない。(清水次郎長 高橋敏)

久六の子分たちは、親分の惨殺を見届けるや、救援を求め四散する。
久六を討ち、復讐を成し遂げた次郎長たちだが、この地は久六が縄張りとする尾張藩であることを思い知らされることになる。間之助が縄張りとする寺津のような、沼津藩(水野氏六万石)支配飛び地の大浜陣屋支配(五千石)という行政支配が細切れ錯綜しているところとは大違いである。

徳川御三家・尾張徳川藩六十二万石が尾張一国を支配しているので、当然に警察力は寺津とは比較にならない強固である。
尾張徳川家は家康の第九子義直を家祖とする御三家筆頭である。所領は尾張一国に美濃、三河、近江、摂津などの一部を加えた六十一万九千五百石に及び、その石高こそ国持大名の前田、島津、伊達に譲るが、家格は全国三百諸侯中の第一等であった。
当主は従二位権大納言を以て極位極官とする。つまり、武家の目上には従一位太政大臣を極位極官とする徳川将軍家があるばかりで、同格も紀伊徳川家のほかにはない。その紀州家にしても家祖は弟にあたり、石高も下回るから、尾張家を差し置いて式順をたがえることはなかった。

この尾張家の地回り親分を預っているのが久六、つまり、十手取縄を預かる立場であるから、一応尾張藩の末端役人といえ、その役割を担う人間が殺されたのであり、いくら博徒といえども、尾張藩に関係があるから、末端役人が出張り、亀崎の若者も動員して次郎長たちを追いだした。

次郎長たちは尾張の地理に暗い。山に逃げるしかない。捕り方に追われ、八五郎は手傷を負う。捕り方はじりじりと詰めてきて、とうとう断崖絶壁の上まで追いつめられる。
負傷した八五郎は生気がなくなっていく。大政も石松も不安そうな顔を見せ始めた。これはカツを入れないといけないと次郎長、
「みんな、こんな半端役人に縛られるより、きっぱりと腹を切ろうではないか」
「親分がその気なら、俺らも異存ねえ」
気の早い石松が刀を逆手に持ち、大政も八五郎も石松に倣う。
よし、とうなずいた次郎長、心底見極めたと、
「待て、お前たちにその決意があるなら、俺に考えがある。運を天にまかせて、この崖から飛び降りるのだ。寿命があれば生きるだろう」
と励まし、捕り方に向かって大音声。
「やいやい、手前たちは俺を誰だと思っているのだ。駿州清水港の次郎長とは俺のことだ。俺の顔から後光がさしているのが見えねえか!! 俺たちはこれから桶狭間へ行って、御先祖の今川義元公のお墓の前で待っている。そこで勝負しよう」
言うや否か、次郎長が崖を蹴って跳躍する。大政、石松、八五郎も続いて飛び降りる。
崖下数丈、幸い大した怪我なし。捕り方は四散する。次郎長たちは、密集した山林の中に入り、東に向かう。本当に桶狭間に行くのかという大政の問いに、
「当たり前だ。次郎長と名乗り、桶狭間で待つと言ったのだ」
桶狭間に着くと、義元の墓に手を合わせ、傍らの池の水を飲み、松の根元で休み、捕り方を待つが来ない。

捕り方が来ないのは、次郎長の大音声を鳩首協議したが、桶狭間と言ったのは欺きだと断定し、反対の方角である刈谷へ向かったのである。
しばらく待ったが捕り方が来ない。よし、来ないなら尾張藩の領域から脱出しなければいけない。いつも逃げ場として助けてもらう寺津・間之助のところも手が回っているだろう。仕方なく三河米津(現西尾市)の間之助兄弟分の重五郎のところで飯を掻っ込み、浜松を経て天理川へ達し、舟を探して渡ろうとしたが、網を張っていた捕り方に見つかり、川に飛び込もうとしたが、大政が泳げないと言う。
「よし、それではみんな勝手に逃げろ。落ち合う場所は羽島の吉のところだ。大政はついてこい」
と浅瀬を探して渡り、羽島村(現浜松市)の吉左衛門のところに着くと石松が待っていた。しかし、八五郎がいない。引き返して探そうと、一里ばかり行くと、向こうから月の明かりを避けて百姓姿の男がいる。八五郎であった。

四人一緒で次に向かったところは本沢村(現浜松市)の為五郎のところ、だが、ここも危ないので「昼伏夜行」の逃避行を続けながら、清水に戻って大熊の家に行くと、
「次郎さん、今この時期に、のこのこと清水に来るとは驚いたぜ。役人ばかりでなく、久六の子分どもや、久六の兄弟分の焼津甲州屋長吉が、鵜の目鷹の目で探している。ここから一歩も出ちゃいけない」
二日経って、今度は大熊と兄弟分の甲州三日市(現塩山市)の政吉のところへ。ここでも黒駒の勝蔵が次郎長を狙っている。
次に向かったところは、窮地の次郎長をいつも匿ってくれる武州高萩の万次郎一家に草鞋を脱いだ。
高萩の万次郎は年齢が次郎長より十五歳上、江戸時代も明治でも、終生次郎長と親交を結び、庇護してくれた仲。

次郎長は久し振りに枕を高くして寝た。
だが、次郎長探索の動きは、この辺りまで延びてきて、万次郎の立場を考え、八五郎の傷を理由に立ち去ろうとした。
八五郎の傷養生には草津温泉がよいだろうと、万次郎は百両を渡してくれ、情けを押し頂いて草津に向かい、八五郎を湯治させたついでに、近くの博打場で得意の陰(いん)智機(ちき)博打によって三百四十両儲け、旅費がたっぷり出来たと草津を後にし、信濃、越後、北陸路に足を踏み入れた。

その途次、次郎長は痔を患い、大政が背負って歩き、近くの村で三日滞在、風呂に一日何回となく入り、痔の養生をすると、歩行に差支えないようになったので、四国にわたり、清水に戻ったのが半年後の十二月だった。
「無宿ノ者、其死其生、官司概ネ関知セズ」で、ほとぼりが冷めれば、当初は強固だった尾張藩の官憲の手は緩くなる。しかし、久六と関係した博徒ネットワークが黙っていない。
久六という博徒、次郎長が猫の額ほどの三保の縄張りしか持たず、旅から旅の渡世をしている間に、名古屋に落ち着き、御三家筆頭の尾張藩に取り入り、十手取縄まで預かるほどにのし上がったように、博徒世界では尋常の男ではなかった。

したがって、当時の博徒社会では相当の顔であり、博徒の主流体制派である。その男を中途半端な旅烏博徒の次郎長が斬ったのである。
久六の子分から知らせを受けた各地の親分たちが繰り込んできて、次郎長の行方を追い始めた。関東きっての大親分である大前田の英五郎までが動いている。
この博徒ネットワークの動きをどのようにして次郎長が防ぎ、久六側からの復讐をやめさせたのか。

次郎長は臆病と思える細心さと、反面、大胆不敵・猪突猛進・凶暴性・くそ度胸を持つ。その相反する性格を発揮して、次郎長をターゲットにする博徒ネットワークの中心人物に直接アタックすることで突破口を開こうとした。
隣国の女性大統領、日本に対する攻撃を、日本の首相に直接言わず、第三国に出かけ再々激しく述べるという卑怯・卑劣な性格で見苦しい。
これとは全く異なる正面突破作戦を次郎長は採る。次号で述べたい。

2014年12月25日 (木)

2015年1月例会

2015年1月例会 は以下のように開催いたします

開催日 2015年1月21日(水)

発表  次のお二人からご発表いただきます

1. 岸菜靖夫(鷺帥)氏
関西吟誌文化協会・漢詩&詩吟研究会・谷中教室の岸菜靖夫(鷺帥)氏から、新春にふさわしく「61年の詩吟人生で思い出の漢詩」を解説と共に吟じていただきます。

2.山本紀久雄からは引き続いて天田愚庵研究を発表します。

場所  東京文化会館・中会議室1

時間  18:30~20:00

会費  1500円 

2015年2月例会予定は以下です
開催日 2015年2月18日(水)
場所  東京文化会館・中会議室1
発表  跡見学園・山崎一穎(かずひで)理事長・・・乃木希典の殉死と鴎外(仮)
     (鴎外が専門で2002年『森鴎外・歴史文学研究』でやまなし文学賞受賞)
 

2014年12月17日(水)例会開催結果

2014年12月17日(水)例会開催結果
1. 最初に静岡市清水区在住の若杉昌敬氏が「山岡鉄舟 空白の二日間『望嶽亭・藤屋』と清水次郎長」(2000円)を出版されましたのでご紹介いたしました。
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若杉氏は鉄舟に関する博識家をもって知られる人物で、2004年(平成16年)3月に「明治維新の功労者山岡鉄舟の『危機を救った藤屋・望嶽亭』」小冊子を出版されましたが、今回はその後の研究成果をおり込み、鉄舟と西郷の駿府会談、及びその前後動静について詳細に分析し加筆されたもので、多くの方にご参考にしていただきたい鉄舟研究必読書です。
同書をご希望の方はFAXにて「静岡・山岡鉄舟会事務局 FAX 054-351-7189」までお申し込み願います。なお、詳細お問い合わせはTEL054-351-7188にご連絡願います。

 2.山崎礼子氏・・・いわき市高久第4応急仮設住宅でのコンサート結果
いつも思うのですが山崎さんのご発表には社会の実態があります。今回もそうでした。
福島第一原子力発電所から20km圏ラインのすぐ外に位置する双葉郡広野町、この町の方々が避難されている「いわき市高久第4応急仮設住宅・集会所」で山崎さんがコンサートを行いました。
広野町は2012年3月31日に避難指示が解除され、帰還を促していますが、戻ってきたのは町人口5,163人のうち1,796人(平成26年11月25日現在)、多くはいわき市の仮設住宅で暮らしています。この仮設住宅の集会所でのコンサートは、山崎さん、もう一人の歌手上原一途さん(もうすぐ80歳)、そしてピアニストの杉野さんトリオで実行。二人で14曲、会場の皆さんと一緒に7曲。山崎さんは地元の要望に応えてシャンソンに加え、美空ひばりの「川の流れのように」「愛燦燦」も歌いました。最後に全員で「花は咲く」を合唱して終了。
会場の方々の表情が変わり、92歳の女性からは「30年寿命がのびた」と感謝されたという。
「自分の命の力を使い切りたい」という生き方としての強い欲求をお持ちの山崎さんの活動は素晴らしいという一言です。これからも更なるご活躍をご期待いたします。

2. 篠塚 淳氏・・・春風館高弟・篠塚捨五郎子孫の淳氏から天井画について

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鉄舟門下の柳多元治郎を綴った「史談無刀流」(浅野サタ子著)に「明治19年7月、春風館において柳多元治郎が挑戦した終日立切二百面試合の相手は篠塚捨五郎他10名」とあるように、篠塚淳氏は春風館高弟・篠塚捨五郎の子孫であります。   
篠塚氏は鉄舟門下であった捨五郎について、その実像を究明したく、当会に関われました。いずれその研究結果をご発表いただくタイミングが到来すると思いますが、今回は、車関係のデザイナーから始まり、今は寺社関係のデザイナー部門を担当されている状況についてご披露され、例会には杉板にレーザー彫刻した天井画を持参されました。
杉板の板目を損なうというより、より一層活かしたレーザー彫刻の見事さに、参加者から様々なアイディアや提案が活発になされ、例会は「マーケティング検討会」という雰囲気となりました。篠塚氏のレーザー彫刻天井画が具現化することを期待いたします。

3.山本紀久雄の発表
現在、鉄舟から特に感化を受けた人物を検討し、その人物から鉄舟をみつめ直すことを進めていて、福島県いわき市出身の天田愚庵をとりあげています。
その愚庵が没したのは京都市伏見区です。伏見区は多くの歴史舞台として登場しますが、とりわけ脚光を浴びたのは幕末です。
なかでも広く知られているのが文久二年(1862)4月23日の伏見寺田屋騒動。薩摩藩尊皇派が薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって鎮撫された事件。
それと寺田屋といえばもうひとつ。坂本龍馬襲撃事件も有名です。慶応2年(1866)1月23日京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に薩摩人として寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行所が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。その後、傷を治すため龍馬がおりょうと九州に向かったのが、日本で新婚旅行の始まりと言われています。
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伏見ではほかにも幕末維新上の大事件が伏見で発生しています。言わずと知れた「鳥羽伏見の戦い」です。(上地図で囲ったあたり) このように史跡の宝庫である伏見に、愚庵の終焉址があります。場所は地図右側に矢印したところです。
愚庵終焉址へ行こうと、JR桃山駅前から5分ほど歩くと、宮内庁の掲示板が立っていました。
「みだりに 域内に立ち入らぬこと」と書かれたこの場所は「光明天皇・大光明寺陵、崇高天皇・
大光明寺陵、後伏見天皇皇玄孫・治仁王墓」である。ということは、ここは何と北朝天皇御
陵です。南朝の宮内庁のホームページには北朝歴代天皇の御陵は掲載されていませんが、現実は
宮内庁所管です。(下写真)

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御陵から少し歩いた先、愚庵の庵址には数件の家が建ち住んでいます。中柴光泰著「アルバム愚庵とその周辺」(はましん企画)には「桃山の愚庵址には、庵の元の所有者木村喜一郎によって『愚庵終焉の地』(上写真)の石標が建てられた。書は超人的な千日回峰行を達成した『大行満』の葉上照澄。師は歌人としても知られる」とあります。
愚庵が京都に居着き、林丘寺で参禅修行を始めるまでは、戊辰戦争で生き別れとなった父母妹を探すことが目標でした。
禅僧として厳しい修行を続けた結果、世に認められるようになったが、仮に、そうでなかったならば、一生涯、父母妹を探すという情念を貫き通していたはず。
ならば、禅僧としてひとつの区切りをつけた段階において、原点回帰、父母妹と住んだいわきに庵を設けるという選択肢もあり、最期はいわきの地で示寂(じじゃく)(注・僧が死ぬこと)するという道もあったのではないか。その方が全国を遍歴した愚庵の最期としてはふさわしいのではないか。
伏見桃山を訪ねて、このような疑問に至りましたが、これについては愚庵という人物検討をさらに進めていくことで推論を重ねたいと思います。

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